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    雨音@ししさめ

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    雨音@ししさめ

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    2023.4.3。VD軸。お題⇨「🦁さんが記憶喪失になる話」

    ##VD軸

    恋が不在の デイ・バイ・デイPiece1Piece2Piece3Piece4Picec5Piece6Piece4+3PieceFULLPiece1
     雛は、卵から孵って最初に見た存在を、親と認識すると言う。
     所謂、『刷り込み』と言われる現象だ。
     で、あれば。
     今の状態はまさしくそうなのであろう、と。
     何も知らない碧玉の目に見詰められる度に、心の何処かを引っ掛かれるような痛みが生まれることを、村雨礼二はどうしようもなく自覚していた。
     
    「礼二さん、おはようございます」
     朝起きてリビングに顔を出した村雨を、爽やかな声が出迎えた。
     焼き上がった目玉焼きを皿に移す、金髪の青年。
     窓から差し込む朝陽に照らされ、ふんわりと透ける金糸の髪。
     碧い目が起き抜けの村雨を映し、柔らかく笑む。
     窓の外からの朝陽と、その微笑に、村雨は目を細める。ああ、と溜息に似た吐息が落ちる。
     無言のまま青年に近付き、彼の持った皿からウインナーを1本取り上げ、口に入れた。
     フライパンで焼かれたらしきそれは、パリッとした皮の歯応えの後、肉汁の旨みを口内に伝えてきた。満足して噛み締めていれば、手にしていたお皿をキッチンカウンターに置きながら、青年が笑う。
    「あ。礼二さん、お腹空いてるんですか?」
     仕方ないですね、と。コロコロとおかしそうに。『つまみ食いするんじゃねぇアホ!』と叱りつけてきた声は、今ここにはない。
     分かっていた筈のことを改めて実感しながら、青年を眺める。夏の穂の金の髪。夏空色の瞳。鍛えられた筋肉を宿す、逞しい身体。村雨の記憶の中と数分も違わない姿。
     
     そう、獅子神敬一その人だ。
     彼は、今。記憶を失っていた。
     
     ***
     
     数日前のこと。
     銀行賭博で意識を失った獅子神を、恋人である村雨が迎えに行く。
     それ自体は、珍しいことでは無かった。
     人気ギャンブラー同士の交際は既に銀行にも知れているので、かようなこと(逆の立場も稀に)は往々にしてある。
     ただ。
     意識のない獅子神を車に乗せ、自宅に送り届け……使用人2人と見守っている中目を覚ました獅子神の第一声は「あなたは誰?」だった。
     その、碧い目の見つめる先には。恋人である、村雨礼二しか存在していなかった。
     
     
     ***
     
    「礼二さん、今日はお仕事ですか?」
     獅子神が準備を終えて、2人向き合って食事を摂る時間。程よい半熟の目玉焼きの白身を切り分け、黄身に絡めて口に運ぶ。じっくり噛んで味わって飲み込んでから、村雨は頷く。
    「ああ……帰宅は深夜になる」
     あなたは先に寝ていて構わない。
     そう告げれば、笑顔で「わかりました」と素直に答える。
     たが、実際に帰宅してみれば、彼は眠らず、温かな食事を用意して待ってることを、村雨は知っていた。
     
     
     ****
     
    「あなたは誰?」
     そう問われた村雨は、動揺した。それは、ほんのコンマ数秒のこと。周りに居た誰1人気が付かない、そんな数瞬の間。
     すぐに気を落ち着け、獅子神の様子を確認する。
     呼吸が浅く速いのは、怯えや緊張によるもの。鼓動も早い。目は明らかに戸惑いのみを湛えており……その何処にも、嘘やからかいは見受けられない。
     それを判断し。大きく……深く、息を吐く。できるだけ穏やかに、相手にこちらの心境をカケラでも読み取らせないように、いつも以上に注意を払う。
    「私は、村雨礼二。医者だ。そして、あなたの……」
     次の言葉を発するまでに。数秒、どうしても躊躇い、覚悟を決める時間が必要だった。
    「友人だ」
     
     ***
     
    「では、いってくる」
    「いってらっしゃい、礼二さん。気をつけてくださいね」
     玄関先の笑顔に頷き、外に出た村雨はドアを閉めた。
     ガレージに停めてある車に近付き、乗り込む。車の窓からちら、と目をやれば、家の窓の向こうから、こちらを見る視線と目が合った。
     見られていることに気がついたのか、笑顔で手を振る。
     それに応えることはせず、村雨は車を動かした。通い慣れた通勤路を走らせる。
    「……」
     ふと。先ほどの、玄関先での笑顔が脳裏に浮かぶ。村雨を信頼し、心から気遣って、送り出す笑顔。それは穏やかで、ただただ優しかった。
     
     ***
     
     数日前。
     村雨のことを忘れていた獅子神は、結局、それ以外の記憶も失っていることが判明した。その場にいた使用人2人のことや、そもそもそこが自分の自宅である、ということ。銀行賭博のことは勿論……恐らく、成人して以降頃からと思われる全て。
     そして、最初に見た存在を親と認識する雛鳥のように、村雨だけに心を許したようについてまわり、他の者が接近すると怯えていた。
     その態度からも、今の獅子神を自宅に置いておくのは難しいと使用人二人と話し合い……結果、村雨の自宅に連れてきた。
     知らない場所に最初こそ緊張はしていたようだったが、村雨の家だからか徐々に笑顔を見せ始めた。
     記憶が無いことそのものに対する不安は、あったかもしれない。
     それでも日々寝て起きて、それだけは忘れずに覚えていた料理を作り、村雨と摂る。
     休みの日には、記憶を取り戻すきっかけになれば……と目的はあったが、連れ立って出掛ける。
     そうして過ごす一週間あまりは、何も波風が立たず。村雨のことを名前で呼びたがる獅子神は緩やかに笑い。何かに怯えたり、生命を危険に晒すことも勿論ない。
     ただ、平和な。そう……いっそ残酷な。狂おしいほどに、平穏な日々だった。
     
     ***
     
     獅子神の記憶喪失の理由は、不明だった。
     銀行の担当者を問い詰めてみたが、要領の得ない回答を繰り返すばかり。
     今は一旦、何か脳に障害が発生しているのか…或いは極度の精神的ショックを受けたのか。
     村雨なりに診察し、真経津や叶、天堂にも相談した。また、脳や精神の専門医にも意見を聞いた(直接診せるのは何故か躊躇われた)。
     現状、これと言って成果はなく……獅子神にも、何かを思い出した様子は無い。
     ただ、同じ家で寝て起きる、春の陽だまりにも似たおだやかな日々だけが、積み重なっていた。
    Piece2
     春には桜。
     夏には海。
     秋にはハロウィン。
     日の出を見ながら、あなたと約束した色々なこと。
     共に包まった毛布の手触りと、東の空から真っ直ぐに降り注ぐ陽の光の柔らかさ。
     それと、触れた背中で数えた確かな鼓動と、体温の高いあなたらしい心地の良い暖かさ。
     あの瞬間。それだけあれば、他に何も要らなかった。
     
     ***
     
    「あ、礼二さん。見てください」
     声をかけられ、村雨は視線を上げた。
     今日は、村雨の休日。二人で家を出て、目的地は決めず街中を歩いていた。
     村雨としては勿論、何か獅子神の記憶引っ掛かるものがあれば……と、いう思惑はある。
     三月の日差しは温かで、花の匂いを伴っていた。
    「どうした?」
    「これ、ほら」
     獅子神が指差す方を見る。そこにあるのは、街路に植えられた桜の木。
    「もうすぐ咲きそうです」
     その言葉の通り、桜はだいぶ蕾が綻んでいるようだった。
     そういえば今年は開花が早いと、テレビか何かで観た記憶があった。
    「……そうだな」
     頷いて歩き出せば、その背を獅子神が追いかけてくる。
     足の長さが違うので、当然のようにすぐ追い付かれる。横目でちらっと見やれば、こちらを見て嬉しそうに笑った。
    「礼二さん礼二さん」
    「……?」
    「桜、早く咲くといいですね」
     楽しみです。そう続けて、無邪気に笑う。
    「オレ、礼二さんと桜が見たいです」
     その言葉に。村雨の足が止まった。勢いをつけて振り返り、釣られて足を止めた獅子神の顔を覗き込む。
     夏空のような碧い目は、ただ不思議そうに瞬かれるばかりで……そこに、村雨の探す『何か』はなかった。
     諦めて、息を吐く。
     驚かせてすまないと謝罪すれば、いいんです、と何でもないように笑う。
     
    『私は……あなたと、ずっと、桜を見て歩きたい』
     
     桜を見たい。叶うなら、あなたとずっと見たい。そんな風にかつて獅子神に告げたのは、村雨自身だった。
     わかったよ、と。ずっとだな、と。念押し確認してくるその声に、ひどく心が満たされた。
     けれど、今。もうすぐ桜が咲こうという季節に、あなたは……
    「村雨くん」
     不意に声をかけられ、視線をやる。そこに居たのは、ネクタイのないスーツ姿の、髭を生やした男だった。
    「……渋谷」
     そこに居たのは、カラス銀行の行員だった。そういえば、ここは銀行から近い。恐らく休憩かサボりか、外に出てきた所を見かけて声をかけてきたらしい。
    「散歩?」
    「……」
     銀行の外だからか、敬語を使う様子のない行員に、頷く。
     隣の獅子神の様子を伺えば、目立った変化は無く、ただ知らない人に会ったということに対する警戒心だけを覗かせていた。
    「おや、獅子神様。あの時以来ですね」
     自然と口調を変えて、獅子神に視線をやる。あの時、というのは恐らくタッグマッチのことだろう。
     話しかけられた獅子神は、一瞬ビクッと震え……一歩下がり、村雨の後ろに回る。その大きい身体を縮こめ、少しでも隠れるようにして。
     そう。幼い子供が、母親の後ろに隠れるように。
    「……うん? ああ、なるほど……記憶を失った、というのは本当なんだ」
    「梅野から聞いていないのか」
    「聞いてるけどさ。見るまで、嘘がどうかわかんないでしょ」
    「私が獅子神の嘘を見抜けないはずがない」
     断言すれば、細い目を更に細めてこちらを見やる。
     その笑顔ともとれなくはない表情に苛立ちを感じ、村雨は獅子神に「行くぞ」と声をかけた。
     歩き出せば、特に引き留められることもなく。ただすれ違い様「明日は頼みますよ」とだけ囁かれた。
     私たちに勝利を。
     その言葉には、敢えて何も返さなかった。
     
     ***
     
    「礼二さん」
     渋谷と別れしばらく経った頃。歩きながら、獅子神が声をかけてきた。
     足を止めず、どうした? とだけ応じる。
    「あの、先ほどの人はお知り合いですか?」
    「ああ……」
     頷き。
     少しの間を開け、続ける。
    「『あなた』の知り合いでもある」
     振り返れば、獅子神は「オレの??」と不思議そうに首を傾げていた。
     そして自然と「そうですか」と呟いてくる。特に、興味はありません、とでも言うように。
     その態度に、村雨は違和感を覚えた。無くした記憶の関係者と出会ったなら、もう少し興味を持ったり、何か得ようと質問なりしてくるものではないか。
     そう。記憶が戻って欲しい、のであれば。
     だから。
     疑問をそのままに、村雨は足を止めた。
     大きな川の流れる堤防の上の道は、今は人通りは少なかった。
    「礼二さん?」
    「あなたは……記憶を、取り戻したい」と思っているのか?」
     問い掛ければ。獅子神は少し驚いたような顔をした後……戸惑ったように笑った。
    「わかりません」
    「……なに?」
     その答えは。如何に村雨としても、予想の外にあるものだった。
    「確かにオレは、急に大人なってて……礼二さんに出会った家のことも、そこにいた人たちや、さっきの人のことも、わかりません。でも……」
    「………」
    「オレ、今、不満無くて。そりゃ、時々、あれ何だっけ? てなることはあるし、忘れてる自覚はあるけど。でも、今に不満が無いんです。礼二さんと朝ごはん食べて、仕事に行くのを送り出して迎えて……そんな毎日が、いいな、て」
     弱冠の早口になりながら、続けられる言葉を聴く。ふと、村雨は自分が息を止めていたことに気がついた。内心の動揺を気取られないように、ゆっくりと吐く。
    「オレの記憶……たぶん、大切なんだろうな? て、思います。特に礼二さんを見てたら、わかるんです。でも……」
    「……でも?」
     問い返す自分の声が。何故か他人のもののように、どこか遠くから聞こえてくるように感じる。
    「オレは、その『中身』を、覚えてないんです。まるで……」
     何度か、目を瞬く。碧の目を縁どる金の睫毛が、春の日差しを受けてきらめく。
    「まるで、中身の知らない宝箱を渡されて『大切だろ』て、言われているみたいだ」
     その半ば独り言のようなソレに。答える言葉を、村雨は持っていなかった。

    Piece3
    「村雨、好きだ」
     初めてその言葉を聴いたのは、『愛を告白する日』とされる日の夜だった。
     真摯なその声は、蕩けるような温度を伴って、胸の中に滑り落ちた。
     少しずつ少しずつ。共に過ごす日の中で確かに降り積もったその想いは……今も。あなたのことを想う度、胸の中でこんなにも熱い。
     
     ***
     
     渋谷と街中で会った次の日は、村雨の銀行でのゲームの日だった。
     いつもと変わらずルールの中と外を見て、診断を下す。己の正しさに則り状況を運び、相手を追い詰め、勝利する。
     多少のペナルティは負ったが、自力で自宅に帰ることに何の支障も無い程度。
     相手とその担当行員にして見れば、何の曇りもない賭場の死神でしか無かっただろう。
     ただその場に居合わせた村雨の担当行員だけが、「らしくないね」等と分かったような口を聞いていたことだけが気に障った。
    「村雨様」
     ホテルの廊下を出口に向かって歩く村雨の背を、誰かの声が呼び止めた。
     振り返れば、そこに居たのは眼鏡の男。以前ゲームの司会をしていた、行員たちの上司である主任だった。
    「今日も勝利おめでとうございます」
    「…….何か用か」
     安い祝いの言葉を聞き流し、訊ねる。
     そうすれば宇佐美は「獅子神様の件で」と口にした。
    「獅子神様は、今村雨様とご一緒だとか」
    「答える必要があるのか」
    「いえ。ただ、次のゲームのお話を、と。獅子神様にメッセージを送っているものの、読んでらっしゃる様子が無いそうで」
    「次のゲーム?」
     思わぬ単語に眉を顰める。
     上司であるはずが、部下から何も聞いていないのだろうか?
    「獅子神様の記憶の件は存じています」
     なら、何故?
    「彼は今、ゲームをできる状態ではない」
    「そうですか。では、獅子神様のギャンブラーとしての扱いは如何致しますしょうか? 現状のままだと、口座に資金はありますし、我々としてもゲームを組ませて頂くのが仕事で」
     立板に水のごとく続く言葉に、辟易する。ただなんとか「また連絡する」とだけ告げれば、笑顔で「お待ちしております」と返された。
     
     ***
     
     自宅への道を歩きながら、村雨は考えを巡らせていた。
     担当からの送りの申し出は、断った。充分歩ける状態なことに加え、今は一人になって考えていたかった。
     ギャンブラー獅子神敬一について。
     この一週間と少し、全く考えなかったわけではない。けれど記憶がいつ戻るか分からない現状、ついつい銀行への対応は後回しになっていた。
     記憶が戻るまでは、保留。それが、本来ならば妥当であろう。ただ、それはいつになる……?
     そもそも。そして、そもそも。
    「………『彼』は……」
     唇から、ため息に混ざり言葉が落ちる。
     今まで敢えて考えないように、向き合わないようにしてきたこと。
     当然のように、いつか記憶を取り戻す。それが、前提だと思っていたけれど。
    「記憶を……取り戻したいのか?」
     思い出すのは、戸惑うように笑っていた昨日の顔だ。『中身のわからない宝箱』と表現していた。
     獅子神にとって、記憶がその程度の価値しか無いのであれば。今が、幸せなのであれば。
     眼鏡の主任の言葉が脳裏に繰り返し響く。或いはもしこのまま獅子神の記憶が戻らなければ?
     このまま忘れままでいれば、獅子神敬一は、ギャンブラーで無くなることもできる。
     今の彼は、ゲームとは無縁だ。銀行の存在さえ知らない。
     ならば、このまま、何らかの形で口座の資金を使わせてしまえば?
     記憶が無い以上、投資家として引き続き生計を立てるのは難しいかもしれないが、働き口など、村雨のコネでいくらでも探しようがある。
     今はまだ村雨以外の人間に酷く怯えているが、漏れ聞いた幼少期を思えば、恐らくそれは仕方がない(村雨が異例と言うべきであろう)。けれどこのまま穏やかな日々が続けば、それもやがて慣れる。
     ならば。
     命を賭けることもなく、消えない傷を増やすこともなく……過去の痛みさえ忘れたまま。
     太陽の下が似合う青年らしく。健やかに、生きていくことさえ可能なのだ。
    「……私は」
     溢れ落ちた独白は、そこで途切れる。
     私は……村雨礼二は、医者だ。
     今まで医者として『正しい』診断を行ってきた。
     それなのに。今、その『正しさ』が、分からない。
     恋人は……獅子神は、いつも村雨のことを考えていた。恋人だから当然だろ? と当たり前のように。そうやって恋を重ねる日々の中、己のソレとまた違うカタチの『愛』を知ってしまった。
     愛する者の『幸せ』を願う想いと共に。
    「……礼二さん?」
     不意に声。
     顔を上げれば、いつの間にかそこは家の前だった。ドアを開け、隙間から獅子神が顔を出している。
    「どうしたんですか? どこか、悪いんですか?」
    「……いや」
     首を振る。
     多少の負傷はあれど、表に出すほどのダメージは無かった。
     そう。村雨は、今日も勝利した。恋人の記憶が無いその現状すら、村雨の勝利には影響を与えなかった。
     当然だ。村雨は、獅子神と出会う前から村雨礼二だったのだから。
    「礼二さん」
    「……ん?」
     呼びかけに、気怠さを抑えながら顔を上げる。そうすれば獅子神は、しばしの躊躇いの後で目を伏せたまま口を開いた。
    「何があったら言ってください。オレ……礼二さんのこと、好きなので」
     
    『村雨……好きだ』
     
     すき。
     
     同じ声で。
     同じ音で。
     同じ口から、向けられた言葉なのに。
     二文字。
     その、たったの二文字が。何故だろう。虚しいくらい、響かなかった。
    Piece4
     いつだったか、獅子神が言っていたことがある。何度目だったか寝台で身体を重ねた後、くてんとした村雨を抱きしめていた時のことだ。
     このままオメーのことを閉じ込められていたらいいのに、と。
     賭博なんかで生命を賭けないで、ただオレの傍で健康に生きていてくれたらいいのに、と。
     情事の後のふわふわした頭の中で、答えた覚えがある。「言えばいい」と。あなたには権利がある、と。
     そうすれば獅子神は困った顔で笑い、「やっぱ言えねーかな」と、言ったのだ。
     何故?? と。問い返せば、何度も口を開いては閉じを繰り返した後……視線を逸らし、恥ずかしげに答えたのだ。
    「xxxxxxxだよ」
     
     その答えを。村雨は今、何度考えても思い出せなかった。
     
     ***
     
    「ヒデェな、礼二くん」
     叶黎明は村雨様の顔を見るなり、「隈が五割増し」と言って笑った。
    「こんにちは、村雨さん」
    「お邪魔する、村雨君」
     後ろからひょこっと顔を覗かせる真経津と天堂に無言で応じ、扉を開ける。
     そのまま言葉少なにリビングへと三人を通せば、そこには獅子神が居た。
     目だけで会釈し、さっとリビングを出ていく。そこには知らない人間に対する、明らかな怯えがあった。
    「あれ……獅子神さん、行っちゃった」
    「まだ思い出してねーんだな」
    「……あぁ」
     頷き、ソファに深く腰かける。
     獅子神が記憶を失ってから、一〇日程度。二人で暮らす日々は穏やかで……穏やかでしかなくて。
     それに反するように、村雨の眠れぬ時間ばかりか長く深く積まれていった。
    「で。敬一くんの記憶は戻りそーなのか?」
    「……いや」
     叶の問いかけに首を振る。
     指を組み合わせるようにして、軽く目を閉じる。
    「そういえば、村雨さん。聞いた?」
    「何がだ」
    「獅子神さんの記憶喪失の原因。やっぱり、銀行が絡んでるみたいだよ」
    「そうなのか? 晨くん」
    「うん。御手洗君に聞いた」
     そう言う真経津の話によれば。
     獅子神が挑んだゲームのペナルティは、脳に何らかのダメージを受けるものだった。
     結果は、獅子神の勝ち。早くに勝利を納めた為、損傷も後に引かない程度……の筈だった。
    「知り合いだったみたいだって」
    「……?」
    「対戦相手と獅子神さん。『なんだ、お前かよ』とか言ってたみたいだよ」
     真経津の言葉に、目を開く。担当行員からの又聞きで話を持ってきた真経津の顔には、特に表情らしきものは浮かんでいなかった。
    「知り合いなー。でもそれで、今の敬一くんが手加減したとは思えないな」
     手加減した、とは村雨にも思えなかった。ただ、彼の過去が、心に何かしらの隙を作ったか。
     ほんの一瞬の隙が命取りになるのが、あの場所なのだ。
    「彼は……」
    「ま、でもさ」
     口を開けば、それに叶の声が被さった。
    「でも、これはこれで、ある意味では礼二君の望み通りだろ?」
    「は?」
    「そうだよね」
     思わぬ言葉に眉を上げれば、真経津も同意する。
    「……何がだ」
    「何、て。敬一君さ。今の敬一君は、礼二君だけを頼って。礼二君だけを見て。銀行には行かないし、命を賭けたりしない」
     流れるように、観測する者の言葉は続く。
    「本当は、怖かったんだろ? 礼二君」
     赤いコンタクトに覆われた目が、村雨を見据える。
    「いつか、敬一君が『居なくなる』ことが」
    「………ッ」
     息を飲む。
     唐突に、気が付く。痺れる頭の奥で、理解する。
     何故。相手を閉じ込めたいと……傷付くことなく健やかであって欲しいと願うのが、獅子神だけだと思っていたのか。何故当然のように、自分は違うと、無意識に除外していたのか。
     そんな筈が無かったのに。
     獅子神敬いつか居なくなるかもしれないと誰よりも恐れていたのは、村雨自身でしかなかったではないか。
    「………私は」
     口を開く。聞き慣れた自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。
    「私は、医者だ」
    「うん」
    「私は……私自身に何があっても、獅子神の元に帰ると約束した」
     村雨の中で、何かがカタチを作り始める。
     声色にほんの少し、凛とした力強さが戻る。
    「そして、獅子神に何があっても、私が助けると誓った。それが……」
     そう。それこそが。
    「それが、私の愛だ」
     息を吐く。
     確かに、恐れていた。そう、今更誤魔化しようが無い。
     いつか医者である自分の手の届かない所で、恋人が命を落とすかもしれない。
     それならば、銀行に行かなければ。ずっと村雨の近くで笑っていれば。
     願ったことがない、と言えば嘘になる。けれど同時に、理解していた。
     そんな『穏やか』だけの日々が……こんなにも。如何に、味気が無いのかということが。
     ただ健やかで、真っ直ぐに村雨を慕う、闘うことも進むことも知らない『獅子神』が……
    「ところで、村雨くん」
    「……なんだ?」
    「君と同様、彼も眠れていないのでは?」
    「……は?」
     天堂の言葉に目を瞬く。そうすれば真経津と叶もそれに同意した。
    「そうだね、なんか顔色が悪かったね」
    「ちらっとしか見てないけど、礼二君ほどじゃないが隈があったな」
     言われ、ここ数日の獅子神の様子を思い出す。
     いつもの通り朝早く料理を作り、共に食べる。仕事に行く村雨を送り出す。
     穏やかに過ぎる日々の中……けれど。毎日顔を合わせている筈の、『彼』の様子が思い出せない。
    「そういえば、僕はこれも気になるんだけど。村雨さん」
    「……?」
    「村雨さん、今の獅子神さんのこと、一度も名前で呼んでないよね」
     真経津からの問いかけは。余所余所しい温度を伴って、村雨の中に静かに落ちた。
    Picec5
    「あなた」
     真経津たちが帰った後。リビングに戻ってきた獅子神に、村雨は声をかけた。
    「はい、礼二さん」
    「あなた……何日眠っていない?」
     問いかけると、分かりやすく動揺が走る。
     改めてじっくりと見てみれば……なるほど。何故これに気が付かなかったのかと自分を疑う程に、目の下には明らかに隈ができていた。
    「……礼二さんこそ」
    「今はあなたの話だ」
     気遣ってくる声を、即座に切り捨てる。
     そうすれば目をパチパチ瞬いた後……「三日くらい」と囁いた。
    「何故、私に相談しない?」
    「礼二さん、も……寝れてないみたいだから」
    「……何か、心当たりは」
     問いかければ、困ったような顔で視線を彷徨わせる。
     明らかに躊躇い……それでも、村雨が引くつもりが無いとわかったのか、口を開いた。
    「夢を……見るんです」
    「夢??」
    「はい。色んな、痛い思いをする夢。手を刺されたり、電流を浴びたり……」
    「!!」
     無意識に、村雨の目が見開かれる。
    「オレは、礼二さんのこと『村雨』って呼んでて。言葉遣いも乱暴で。『ケーキと一緒に焼くぞ!』とか言っていたり。なんだかその夢が……怖くて」
     続く言葉に、村雨の心臓が震えた。
     それは。その夢は。
     いや、村雨にとっては夢ではなく……確かに、存在しているもの。存在していたもの。
     それは。獅子神敬一と、村雨礼二の日々だ。
    「礼二さん?」
     呼びかけてくる声が、遠い。
     ただ、唐突に村雨は理解する。心の奥、閉ざされていた蓋が開く。
     いや。
     本当は、とっくにわかっていた。
    「……獅子神」
     こぼれ落ちる、恋人の名前。
     真経津の言う通り。彼が記憶を失ってから、一度だって呼んだことが無かった。
    「獅子神」
     私を「村雨」と呼ぶ声がしない。
     私のつまみ食いを、咎める声がない。
     私の要求に呆れたように笑い、けれど必ず叶えてきた笑顔が無い。
     私の一挙手一投足から学ぼうとする、貪欲なまでの真摯な視線が無い。
     私を真っ直ぐに見て「愛してる」と囁いた、あの声がしない。
     笑ってムキになって戸惑って叱って照れて怒って愛して微笑んで……そんなあなたがいない。
     ただ、それだけのこと。
     ただそれだけのことが……どうしようもないくらい、寂しい。
    「……ッ」
     そう。ずっと、寂しかった。
     悲しかった。
     恋しくて恋しくて、仕方がなかった。
    「獅子神」
     頬に触れる。
     あなたは、ここに居る。
     私を慕い、真っ直ぐに見つめ、親愛を込めて私を呼ぶ、そんなあなたがここに居る。
     平穏に暮らし、生命が危ぶまれることもなく、「幸せ」だと微笑む『あなた』が居る。
     けれど。
     今のこれが、或いは『正しい』日々なのだとしても。
     夢で見ているというかつての日々が、今のあなたにとっては、苦しいものだとしても。
    「……獅子神」
     呼びかける。
     無垢なその碧い瞳に『あなた』を探す。
    「あなたが、恋しい」
    「……礼二さん?」
    「一つ……あなたに言っていなかったことがある」
     不思議そうな顔をするのに、小さく笑う。
    「私は、あなたの『友人』ではない」
     あの時。記憶を無くしていることに気が付き、混乱させてはと思い敢えて『友人』と名乗った。
     いや。私を知らない『あなた』に告げる勇気が無かった。
    「私は……あなたの、『恋人』だ」
    Piece6
    「礼二さん」
     深夜。
     獅子神は、静かに呼びかけた。
     村雨の私室。今まで一度も入ったことのないそこに、ひっそりと佇んでいた。
     視線の先には、寝台に倒れ込むようにして眠る村雨の姿がある。
     あの後……「あなたの恋人」と告げられた直後、村雨はいつも白い顔を更に白くして、何かを堪えるように笑った。
     そして、ただ小さく「すまない、疲れた」とだけ言い残し、背を向けて自室へと消えていった。
     その背を見送り……気が付けば数時間。
     どうしても、村雨の様子が気になりこっそり部屋に入ってみれば、服を着替えず眼鏡もそのままに、寝台に倒れ伏す姿があった。
     顔を覗き込めば隈は濃く、顔色も悪い。
     ただ眠りは深いようで、胸は規則的に上下し、耳を澄ませば微かな寝起きが聞こえていた。
    「礼二さん」
     もう一度、呼びかける。どうか目を覚さないで欲しいと、言動とは裏腹な想いを抱えたままで。
     傍に膝をつき、顔を近付ける。そのまま、うっすら開いた薄い唇に口付けようとして……身体が、電流を浴びたように止まった。
    「……礼二さん」
     ほろっ、と。涙が一粒だけ、溢れて落ちた。
     彼は、優しかった。少なくとも、獅子神にとっては。記憶が無く、誰のこともわからず……全てから見放されたような世界で、村雨のことだけは怖くなかった。
     怯える自分を家に連れてきて、何かと気にかけてくれた。外に連れ出し、記憶が戻るように尽力だってしてくれた。
     それは獅子神にとって、唯一の拠り所だった。
     だから、今のままでも幸せだった。覚えていない記憶よりも、村雨礼二との日々が、大切だった。
     けれど……今日、知ってしまった。
    「この人は……オレのものじゃない」
     いや。『恋人』なら、獅子神のものだ。けれど、その獅子神敬一は、オレじゃなかった。
     この人を手に入れることができるのは……今の獅子神の知らない数年を、闘い、勝ち取り、己の両の足で立ち、生き抜いてきた「オレ」だけだ。
    「礼二さん……」
     眠り続ける恩人に、手を伸ばす。黒い髪に触れる直前、腕は力をなくしてぽとりと落ちた。
    「……ありがとう」
     だから代わりに囁いて。寝台に頭を預けて、獅子神は眠りに落ちた。
     
     **×
     
    「お前、けーいちだろ??」
     その下卑た声は、唐突に村雨の鼓膜を打った。
     視線をやれば、そこにあったのは、テーブルを挟むように置かれた、硬そうな二脚の椅子。
     それぞれに座る、知らない男と……
    「!」
     男の向かいに座るのは、獅子神だった。賭博に来る時の、白いシャツに黒いベスト。落ち着いた表情が、男の言葉にピクリと揺れる。
    「……あ?」
    「俺だよ。小学校の時のクラスメート! 覚えてねーの?」
    「……小学校」
    「まー、お前、いっつも隅っこ居たもんな! きったねぇ格好して、臭くて」
     ゆらり、と。確かに獅子神の目に、暗い炎のような揺らぎが見えた。
    「お前も、一/二ライフ? なんだ、このランクも大したことねーな」
     その、獅子神の目に見たものと同じものを、村雨は胸の内に感じていた。
     現実の、その場に居合わせなかったのは幸運(或いは不運)だろう。居合わせたなら、間違いなくメスが飛んでいた。
     内容も口調も、格下の安い挑発だ。聞き流していればいいはずで……獅子神も、そうしようと努力していた。端で見ていても、それはわかった。
     唇を噛み締めるようにしながら、テーブルの上の何かを操作する。それが、決定打となったようで。司会が、獅子神の勝利を宣言する声がする。
     ただ。どうやら、これは偶にある勝者もペナルティを負う類のものだったようだ。宣言の直前、何らかの衝撃が、獅子神の頭に巻かれたベルトから伝わったのがわかった。
    「……あ」
     小さく、漏れた声。
     その瞳は、見えていないはずの、現実には居なかった筈の村雨を捉えていた。
     夏の海の色の瞳が、瞬く。
     ほんの、一瞬。対戦相手の男が、下卑た笑いと共に何かを囁いた、ほんの一瞬の隙。村雨には、確かに獅子神の心の声が聞こえていた。


     イツマデモ、オイカケテクルナ。
     
     ソレナラ、コノママ、ワスレテシマエバ……
     
     ***
     
     
     闇の中、獅子神は、自身と向き合っていた。
     ここ数日、何度か夢で見た、自分の知らない自分自身。
     言葉遣いが荒く、目は何かに怯えているのに、表情には強気さすら見える。
     夢が記憶そのものなのなら、何回も何回も痛い目に遭い、それでも闘うことをやめない……村雨礼二に愛された『自分』自身。
     手を伸ばし、その身体へと触れる。さぁ、と声を掛ける。
     起きろよ、オレ。
     あの人が……アイツが、待ってる。
     
     ***
     
     ふと。気配を感じ、村雨は振り向いた。
     いつの間にか、そこに獅子神がいた。
     こちらを見えているのかいないのか。何も表情に見せず、静かに佇んでいる。
     その様に、これは『どちら』の獅子神だろうか? と考えて。
    「……獅子神」
     呼びかけた声は、暗闇に溶けて流れて消える。
    「あなたは……そうやって、忘れたのだな」
     問いの形をした、独り言。
     答えは、最初から期待していない。
     ただ、先ほどの光景を思い出す。心に生まれた、ほんの一瞬の隙。或いは、魔が差したとも言える、コンマ数秒。
     ただあの場所では、その一瞬が命取りだったと言うだけで。
     或いは、悪いタイミングが重なった。そういう類のことで。
    「私は……あなたを、責めるつもりはない。増してや、『逃げた』などと言うつもりもない」
     語りかける。
     表情のない顔からは何も読み取れず、それでも余すことなく伝われと願いながら、心の中を言葉に変える。
    「あなたは……今のままの全て忘れていれば、今以上傷つかない。危険な目にも遭うこともない。ただ平穏に平和に、健やかに生きていくことができる」
     言葉を止める。息を吐く。
     けれど躊躇うことはなく、真摯に続ける。
    「けれど、私は……あなたに、思い出してほしい。今までの辛さも、痛みも、孤独も、苦しみも、後悔も、記憶も……全て。私は……」
     あなたが恋しい。寂しくて堪らない。それは全部、ほんの些細な一部でしかない。
    「私は……あなたに、『獅子神敬一』で、在ってほしい」
     王冠を脱ぎ捨てた、臆病でも闘うことを知る人。
     あなたが存在しているのなら。この狂った『世界』はほんの少し、美しいものだと思うのだ。
     傷付き怯えながらも、全て背負って一歩ずつ強くなる覚悟を決めたその姿こそ。在り続けろと、心から願うものだ。
    「……ただ。そうして尚……あなたが、私と、共に生きることを望むのなら。私は……」
     私も、もう一度『覚悟』を決めよう。
     私もあなたを望むから。
     あなたを生かし続ける覚悟。あなたと並んで生きる覚悟。あなたを手離さない覚悟。
     あなたに、私に何があろうと、さいごまで共に在り続ける覚悟。
    「だから」
     だから。
     少しだけ踵を上げて。獅子神の額に、額を押し付ける。
    「起きろ、獅子神」

    Piece4+3
    「オメーが……格好いいからだよ」
    「………は?」
    「て、なんて顔してんだよ……自覚無ぇのか?」
    「あると思うのか」
     当然のように言葉を返せば、わざとらしく大きな溜息を吐く。
     私は何かおかしなことを言っただろうか?
     目に不満を湛えて睨みつければ、あのな、とまた溜息。
    「いいか、オメーは……村雨礼二は格好いいんだよ」
    「……」
     繰り返された言葉にどう反応していいのか、咄嗟に判断が効かなかった。
    「このあいだのタッグマッチで確信した。冷静な判断力も、容赦なく……いやちょっと容赦無さ過ぎて怖えけど……相手を追い込む精神力も。ゲームの裏も表も見てる観察力も。それ全部ひっくるめて、試合中のオマエが!」
     勢いよく続けられるのに、軽く混乱する。
     そもそもついさっきまで散々に……「もう無理」という要求すら無視して抱いては、耳元で「可愛い」と繰り返していた相手に、何を言うのか。
     そんな想いで見つめてみれば、察したのか獅子神が少々勢いをなくす。
     それでも言葉は止めずに……目を逸らし、続ける。
    「……オメーが、格好いいんだよ。だから、「やめろ」て言えるわけ無ぇの!!」
     
     
     ああ、そうか。
     目覚めに向けて意識が覚醒する、夢と現の狭間で、村雨は思い出した
     あなたは……確かに。あの時、そう言っていた。
     
     ***
     
     目を覚ませば、視界いっぱいに獅子神の顔があった。
     瞬き、状況を把握する。
     昨日、風呂も着替えも何もせず、寝台に倒れ込んだところまでは記憶にある。それくらい……心身ともに限界だった。
     そのまま眠りに落ちた後、おそらく様子を見に獅子神が部屋に訪れて……後の状況は不明だが、寝台に頭を置くようにして眠りに落ちた。ということか。
    「……」
     至近距離の、はちみつ色の髪を見つめる。朝の光を受けて、絹糸のように金糸が煌めく。
     獅子神を起こさないように立ち上がり、村雨は窓辺に歩み寄った。窓を開ければ、春の爽やかな風が部屋に舞い込む。
     ふと。遠く、薄桃の花が見えた。今年最初に見た、桜の花。
     その花の色を見つめながら、考える。何か、夢を見ていた気がする。
     けれどそれは遠い日の蜃気楼のようで。考えれば考えるほど、手からすり抜けるがごとく曖昧になり……やがて、思い出すことを諦めた。
    「……ん」
     ふと。小さく呻く声が聞こえ、振り返る。
     目を覚ましたらしき獅子神が、目を擦りながらあくびをしていた。
     碧い瞳が数度瞬き、窓辺に立つ村雨を捉える。
    「……あ」
    「……村雨?」
     呼びかけに。
     全身が震えた。
    「なんで、村雨……? つーか、あれ? ここ、お前ん家だよな……?」
     不思議そうに、キョロキョロと辺りを見渡す。
     その様を、言葉を発することなく村雨は眺めていた。
     いや。何も声にできなかった、と言う方が正しい。
     不思議そうにしていた獅子神は、やがて枕元の万年カレンダーに気が付いた。今日が何日かを知り、一瞬、顔に動揺が走る。けれど彼なりに何かを理解したのか……こちらを見て、決まり悪気に笑ってみせた。
    「なんか……オメーに、世話かけたみてーだな?」
    「……」
     いや、とも。ああ、ともつかぬ声が喉から漏れる。
     何度も目を瞬き、獅子神を見つめる。
     その様子に、不思議そうな顔で首を傾げ……その口端が、緩やかに上がった。
    「村雨」
    「!!」
    「来いよ」
     軽く、広げられた両の腕。それに、自動的に足が動いた。
     灯りに誘われる虫のように。夢に浮かされたように。ふらふらと近付き……その胸板に身体を預けるように。半ば倒れ込むように、ぽふっと収まった。
     体を抱きしめてくる、逞しい腕の感触。
    「村雨」
    「……なんだ」
    「村雨」
    「だから、なんだ? と……」
    「好きだ」
     頬を伝った感触は、予想の外のものだった。心を一瞬で満たした何かは、そのまま水分となって目から溢れ出たようだ。
     一度。こぼれ落ちたものは、止まらなかった。後から後から落ちて、獅子神のTシャツにシミを作る。
     獅子神は、何も言わなかった。ただぽんぽんと、宥めるように背中を叩く。
    「…………獅子神」
    「うん」
    「獅子神」
    「うん」
     繰り返し繰り返し。背中を叩く、手の温度を思う。顔を押し付けた胸から、規則正しい音が響く。それは村雨自身の鼓動と混ざり、一つに溶け合う。
    「……ありがとな。村雨」
    「当然だ……」
     目を閉じる。
     頬を伝う感触をそのままに、口角を上げる。
    「あなたは……私のものなのだから」
     
    PieceFULL
    「……ふあ」
    「なんだ、寝不足か」
    「ああ、まー」
     隣に座る村雨に問いかけられ、獅子神は欠伸をしながら頷いた。
     桜の咲き誇る大きな木の、その根元。
     獅子神手製の桜餅を食す村雨を眺めながら、溜息を吐く。
    「あれだよ……筋トレ」
    「あなたが自身の身体をいじめ抜く特殊性癖の持ち主なことは理解しているが……睡眠を惜しんでまでする程のものだったか?」
    「人を変態趣味人間みたいに言うんじゃねー! 半月くらい、サボってたみてーなモンだからな。取り戻すのが……」
    「ああ……私の家には筋力を鍛えるような特殊性癖器具は無いからな」
    「特殊性癖言うなっつってんだろ! まーもしあっても、していたとは思えねーけどな……」
     村雨と共に暮らしていたらしき二週間あまり。その間のことを、今の獅子神は何も覚えていなかった。でもそれを、改めて聞こうとは思わない。
     彼が特に話したがらないから、というのが大きな理由だが……この男の、あの日初めて獅子神に見せた涙に、全ては詰まっていたように思うのだ。
     そう思いを馳せつつ見詰めれば……五つ目の桜餅を腹に納めた村雨は、当然のように追加を要求してきた。
    「獅子神」
    「もう無ぇよ! 一人でいくつ食ってんだテメェは!!」
     不満顔に溜息を吐き、パックのオレンジジュースを手渡す。
     大人しくストローを咥える様を見て呆れながら視線を前方へと戻せば、こちらを見た真経津と叶が大きく手を振ってきた。
     それに振り返しながら、また漏れそうになる欠伸を噛み締める。
    「……眠ぃ」
    「あなたは、本業は投資家だろう? そもそも、それほど鍛えておく意味はあるのか?」
    「まぁ、趣味みてーなもんだよ。やり甲斐あんの。それに、ある程度は筋力を維持しとかねーと困るんだよ……」
    「困る、とは?」
    「ん? あー……」
     問いかけに、頬を掻く。そのままひょいっと立ち上がり……不思議そうに見上げてくる、細い身体を抱き上げた。
    「!? 獅子神!?」
    「お、センセイ一人くらいなら、今のままでもヨユーだな」
    「こんな場所で、いきなり抱き上げるやつがあるか!」
     場所を選べ! 時間を選べ! と続けられるのに、ケラケラと笑う。
     時間、て何だ。時間、て。
    「あー! 村雨さん、いいなー!」
    「敬一くん、オレも抱っこ!」
    「じゃぁ僕おんぶ!!」
    「無茶言うなオメーら!」
    「バカもの、これは私専用だマヌケ!!」
     どさくさに何を言っているのか。けれど「専用」と言う言葉を否定するわけにもいかず、声を出して笑う。
    「えー! じゃぁ天堂さん! 抱っこ!」
    「ユミピコ! おんぶ!!」
    「一人ずつ並んだら考えよう」
     すげぇな、一人ずつならOKなのか。
     呆れ半分感心半分で神を見れば、面白がるように見えてる方の目を閉じてきた。
     それに笑い返せば、腕の中の村雨が不満気に耳を引っ張ってくる。
    「痛ぇ。耳を引っ張るな、耳を」
    「あなたは、いつまで私を抱いている気だ」
     不満気な、けれど誰にも渡さんという強い意志の感じられる言葉に、また笑う。
     そのまま、そうだな……? と嘯いて。
     そして、誰も見てないタイミングで……ちゅっと、唇を合わせてキスをした。
    「!!」
    「ずっと?」
     珍しく目をまん丸にする恋人の顔と、おんぶだ抱っこだと言い合いハシャぐ、友人たちの声。
     薄桃の桜に囲まれたその場所は……この瞬間。獅子神にとっては、この世の何処よりも、満たされた場所だった。

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