四歩、三歩。二人。 麗らかな陽気の割に冷えた風が、一瞬、首筋を撫でて吹き過ぎた。
「……つめて」
思わず声に出し、獅子神は身を竦める。
隣ではライトグレーのスプリングコートを羽織った村雨が、澄ました顔でこちらを見ていた。
「まだ、たまに冷たい風吹くな」
「そうだな」
頷きながら、歩を進める。
まだ、昼と言うには早い時間。不揃いの足音が、静かにアスファルトを叩く。
「お、見ろよ村雨」
ふと、獅子神は足を止めて隣に声をかけた。倣うように足を止めた村雨が、声に従い視線を上げる。
「ほら、あそこ。桜」
「……」
「結構散ったと思ったけど、まだ残ってんな」
「……ああ」
頷く村雨の唇は、獅子神にしか分からない程度に微かに笑みを刻んでいた。
その表情に満足しながら、歩みを再開する。
「まーでも、そろそろ今年の桜も終わりだな」
「花見は堪能しただろう」
「あー……まぁな」
いつものメンバーで二回。村雨と二人で一回。今までの人生ではとても考えられない程、花を見て騒ぎ、或いはゆっくりとくつろいだ。
「オレ、一生分の弁当を作ったな」
「何を言っている?」
色々と思い出し溜息を吐けば、心外だ、という村雨の声。
視線をやれば、心底理解できない、という顔がこちらを見ていた。
いや、なんだよその表情。
「あなたの一生の長さはウミユスリカ並か?」
「……ウミ?」
「ヨーロッパを主な生息地とするユスリカの一種だ。成虫となってからの寿命は約一時間」
「……いちじかん」
「不満ならラボードカメレオンだ。先程のウミユスリカは玉子から成虫になるのに三週間超。ラボードカメレオン卵から孵化してからの寿命が四ヶ月半~半年ほどだ。随分伸びた……」
「待て待て待て」
人様の寿命を虫だの爬虫類だの言ってんじゃねーよ。
そう不満を湛えて見るも、当然、この恋人にそよ風程度の影響も与えられるはずもなく。
変わらず涼し気な「何か問題が?」の顔をしている。
「あー……」
ため息。
「オレが間違えてました。一生分があの程度な筈なかっデス! これでいいかチクショー」
「上出来だ」
「褒められても嬉しくねぇ……と、ゆーか、絶対に褒められてねー……」
げんなり、と呻くも、村雨の顔にも足取りにも、一ミリの変化も見受けられない。
けれど悔しく思うだけ無駄なので、切り替える。
「ま……これからも花見は続くしな。一〇〇分の一にも満ちてねーわな……」
来年も。
そう言えば、村雨の口角は少し満足したように上がる。
「あの三人の分もあるが……私の分だけでも二〇〇分の一が良いところだろう」
「どんだけ食う気だアホ!」
「恋人が長生きするなら嬉しいだろう?」
「何年生きるつもりだよ…….妖怪か何かか……」
妖怪ムラサメ。
実に困ったことに、この恋人はそんな呼称が似合いそうだからまた困る。
実は怪談や魑魅魍魎の類でしたと言われても……いや多少は驚くが『多少』で済む気かするから本当に困る。
「ま、何年かは知んねーけど。まだまだ先だろーぜ……『ずっと』だしな」
「ああ。『ずっと』だ」
ずっと共に桜を見て歩きたい。
いつだったか、村雨礼二が口にしていた願いごと。
ずっと、と繰り返して微かに笑う恋人の顔を、愛しいと想う。
生憎と今は外なので、軽くポンと黒髪の頭を叩くのに止めておいた。
「来年は、もう少し肉の量を増やしてほしい」
「いや、あれ以上増やしたら入んねーんだけど……?」
「それならもっと大きな弁当箱を買えばいい」
「重箱よりデカいって、もはや弁当箱の域超えてねぇ? オレの恋人はドラム缶でもご所望ですか?」
「ドラム缶は良くない。底の方の肉が潰れてしまう」
「しごくマジメな回答ありがとよ!!」
とりあえず、段を増やすことを検討するしか無さそうだ。
どうせ、肉だけではなく桜餅も増やせと言うに決まっている。
「粒あんとこし餡。長明寺と道明寺、それぞれの組み合わせで各一〇個だ」
「………人の考えを読むな。流石にその量はオメー一人分じゃねーよな……?」
横目で見ながら問い詰めれば、おかしそうに口角を上げる。
あ、これ全部食う気か……いやさすがの村雨でも四〇個は………
「試してみるか?」
「試そうとすんじゃねぇよ!」
頼むから、まだ人間の範囲に居てくれ。
げんなりしつつ歩く横、また桜の木が目に入る。
だいぶ葉の緑が目立ってはいるが、それでもなお咲き誇る桜色。
「……なぁ」
ふと。その色に、あることを思い出し。隣に声を掛ける。
「なんだ?」
「車でちょっと時間かかるだけどよ……山の方に、八重桜が綺麗な場所があるらしいんだよ」
「ほう?」
「近くに美味い湯豆腐屋の店と苺と抹茶のパフェを出す店があるみてーなんだ」
「……」
「八重桜なら、まだしばらく見頃が続くだろーし、今度……」
「肉は」
「……店探しとくよ。だから、次のオメーの休み、行こうぜ」
「ああ……いいな」
機嫌良さげな回答に嬉しくなる。
心の中で密かに浮かれていれば、村雨が「それもいいが……」と声に出した。
「ん?」
「私の故郷も、綺麗に桜が咲く。今年はもう終わったが……桜祭りというものが開催されるほど、見事なものだ」
「へー?」
「……行くか、来年」
あなたの故郷に行ったように。
そう続けられた言葉を、胸の中で反芻する。雪の降る中、握り合った手の温度と力強さを思い出す。
「……いいな。オレも、行きたい」
お前と。
満足そうに微笑んだ恋人は、更に口角を上げて笑ってみせた。
「ならば、あなたのことも紹介しなくてはな」
「……は?」
しょうかい。
紹介??
「えーと。ドナタに、でしょう?」
「私の実家の家族だが」
当然、と続けられた言葉に。足が止まる。
それに気が付かないのか、気がついていないふりをしたのか……数歩先へと進んだ村雨の足が遅れて止まる。
その、背に。
ああ、この背中だ、と。脈略のないことを思い出した。
細い、けれどすっと伸びた背筋。凛とした、という言葉が何より似合う、立ち姿。
最初に、この恋人を……村雨礼二を「好き」だと想ったのは、この背中だった。
追いつきたい。並びたい。そう願って追いかけて、走り続けてきた背中だ。
「……獅子神?」
ひょい、と。顔がこちらを向く。
それにハッと我に返り……村雨へ追いつく。隣に並ぶ。
「悪ぃ。考えごとしてた」
「私の家族に会うからと言って、緊張することは無いと思うが」
一瞬胸に去来した『想い』に恐らく気が付きながら、気付かぬフリをしてくれたようで。
続く『家族』の話題に、それはそれで頭を抱えたい心境になる。
「いや、でも、オメーの家族だろ?」
「そうだが」
「何つってオレ紹介するんだよ……」
「決まっているだろう?」
伴侶 だ。
「……はんりょ?」
「ああ。他に何と呼ぶ?」
「え? あー……他……」
「彼氏。恋人。或いは友人。いくつでも、呼び方はあるだろう。だが、どれも、足りない」
「足りない?」
スっと。
静かな暗赤色の目が、眼鏡の奥から真っ直ぐに獅子神を射抜いた。
感情を読ませない……けれど何の嘘偽りもない、揺らぐことのない瞳。
「生涯を、共に在るんだろう? 我々は」
「!!」
それを、伴侶と呼ばずにどう呼ぶのが。
「……あ」
呆れた声に。胸が一瞬で何かに満たされる。満たされて溢れては目からこばれ落ちそうになるのを、寸前でなんとか耐えた。
代わりに、早足で村雨の横を通り過ぎ……先に立って歩きながら、後ろへと声をかける。
「なぁ……お前の実家のご家族? スイーツとか、何が好みだ?」
「……?」
「もう、会うなら姑息だろーがなんだろーが、胃袋から掴みに行ってやる!」
オメーの舌が育った環境なら、どうにかなるだろ。
足を止めたままの恋人を振り向き、そう宣言すれば。
さすが私の伴侶だ。と、そう呟いて笑った村雨の顔は……
誰が見てもわかるほどの。幸せに、溢れていた。