花咲く季節に もう桜も終わるし、最後に二人だけで花見しないか?
そう言い出したのは、どちらだったか。
村雨の休日に合わせて予定を立て、獅子神は弁当を作る。
いなり寿司と、甘い玉子焼き。それとカットステーキ。他にも諸々。
前日から準備して……準備に夢中になって、天気予報をチェックしていなかつたのは迂闊だった。
前日の深夜、仕事を終えた村雨が、疲れた表情で現れて……弁当を摘みたがるのを牽制しながら、夕飯の鶏と卵の雑炊(今夜は軽めがいい、という村雨のリクエスト)を食べさせる。
それでもまだ物欲しそうだったので、卵焼きを摘んで口に放り込んでやれば、満足そうに眉を下げていた。
そうやって。風呂に入って(寝落ちしそうな村雨を抱えての入浴も、慣れたものだった)明日に備えて寝ようぜ、と並んでベッドに横になった。
同じ布団に包まって、向かい合わせで。
速攻で寝息をたて始める恋人に「の◯太かよ」なんて一人で笑って。見慣れた筈の寝顔を見つめながら、けれど意外と長い睫毛がツヤツヤしてて綺麗だな…なんて、考えてる間に寝落ちしていた。
そして、朝。
先に目が覚めた獅子神が水音にふと外を見れば、そこは大雨だった。と、いうわけだ。
「………」
呆然と。カーテンを握りしめ、獅子神は外を見る。
視線を上げれば、いかにも水分をたっぷり含んで重そうな灰色の雲が立ち込めていた。
バケツをひっくり返したような。いやいっそ、バケツの底が抜けたような、最初から底なんてありませんが? とでも言いたげに思える、容赦のない雨。
地面を叩き、樹の葉を散らし、降り注ぐ。
「……ん」
後ろからの声に、振り向く。
目を覚ました村雨が、眠そうに目を擦りながら半身を起こしていた。
パチリ、と目を瞬き、すん、と鼻を鳴らす。そして小さく「雨か」と呟いた。
「そうみてーだな」
頷き、視線を窓の外へと戻す。
「そーいや天気予報、見てなかったんだよな」
「ああ……私もだ」
ここ数日、ほぼ寝に帰るだけの生活だったと言っていた村雨に、そんな余裕は確かに無かっただろう。
そして、獅子神も。準備に夢中になっていたことは、確かだが……何故だろう。なんの根拠もなく、恋人と二人で桜を見られると思っていたのだ。
ギャンブラーとしてあるまじきことに、だが。
そう。たぶん……少し。いや、かなり。浮かれていた。
「さすがに、これは花見は無理だな……」
外を見つつ呟けば、「ああ」と頷く声が聞こえる。
しばし、躊躇った後。獅子神は未練を断ち切るように思い切りよくカーテンを閉めた。
「まーでも、弁当は食ってくだろ?」
「そうだな……いただく」
答えながら、村雨はサイドボードに置いてあった眼鏡へと腕を伸ばす。
手に取りグラスコードを後ろに回して装着すれば、いつも通りの見慣れた村雨礼二がそこに居た。
表情の変化が多くない、イマイチ感情が読み取ることの難しい恋人が。
「いなり寿司、作ったんだよ。ふつーの寿司メシのやつと、高菜入れたやつ」
「……そうか」
「あと、卵焼き。オメーの好きな甘いやつ」
「いいな」
口許を微かに綻ばせるのを見つめながら、ベッドに戻り隣に座る。
斜め下、眼鏡の奥の暗赤色の瞳を横目で覗く。
「桜、この雨なら散るだろうな……」
「そうだな……」
触れ合った肩から、お互いの体温が伝わる。ただ静かに、雨の音を聴く。
「じゃぁ……今日は、このまま家でゆっくりするか?」
「ああ……」
眠そうに、村雨が目元を擦る。昨日よりはマシにはなっていたが、それでも目の下の隈は平素より濃い。
ほんとに疲れてんなーと笑い、艶やかな黒髪の頭をポンポンと軽く叩く。
んーと頷いたのか唸ったのか。獅子神の肩に、ぽすんと頭が乗った。そのままグリグリと、押し付けられる。
「もう少し寝るか? 疲れてんだろ」
「んー……」
ぐりぐりぐり。
こうやって村雨が甘えてくることは滅多にない……と、いうほどではないが、珍しい。
ゆったりとしてややオーバーサイズのパジャマから、白い首筋と鎖骨が覗く。
このまま押し倒して……と想像して。でも、いやいやと首を振る。腕を持ち上げて頬に触れる。意外とすべすべとした、肌の感触を指先で楽しむ。
今は先に、せめてもう少し寝て欲しい。そうして体力も回復した方が、声も反応も可愛い……いやいやそうじゃない。
あと、そうだ。この細い身体に、少しでも美味い物を詰め込みたいし。
「……獅子神」
「村雨……」
「?」
「……よっと」
頬に触れていた腕を肩に回し、一緒にベッドに倒れ込む。抗議の視線を送ってくるのに笑い、抱きしめる。
「とりあえず、昼まで寝よーぜ」
切れ長の目を覗き込み、笑う。
「…‥ふむ?」
「オメー、隈濃すぎ。むしろ寝ろ」
目の下を、すっと指で辿ってみせれば、眠そうな目が何度も瞬く。
グラスコードごと眼鏡を外し、再びサイドボードへ。
「で……起きたら、一緒に弁当食ってさ。いなりずしと、卵焼きと……」
「肉は?」
「あるよ。当たりめーだろ」
「……そうか」
頷きながら綻ぶ唇に、柔らかく咲く花を見る。
「花見はまぁ……残念だけどよ」
「ああ……そうだな」
私もそう思う。
続けられた言葉を、嬉しいと思った。
残念と言える。言っても構わない。言い合える。今まで、そんな相手など居なかった。
残念だと、口にしても許される。きっととても何気なくて……けれど、泣きそうな程に、当たり前なんかではなかったソレ。
腕の中の身体を、改めて柔く抱きしめる。両の腕で、すっぽり包み込むように。
「なー村雨」
「なんだ」
「来年も、桜。見ような」
耳元に囁けば。フフ……と小さく、笑う声。
眠そうにトロンとした紅い目を細めて、夢見る声が密やかに。
「……八重桜」
「ん?」
「ネモフィラ、藤、紫陽花……」
「……?」
これは……桜以外にも花はある、と言っているのか。
「向日葵、曼珠、沙華……」
眠さ故か途切れがちになる声に耳を傾ける。目を瞬けば、瞼の裏で色が煌めく。
「秋、桜……ステーキ……ロースト、ビーフ……?」
「……ん?」
何か混ざり始めた。
「てり、やき……チキン……ビーフすとが……」
言えてない。
「……テンダーロイン……ししがみ」
そこにオレ入れるなよ、オレのステーキみたいになるだろ。
「……私の」
言葉が途切れ。すーっと、細い寝息に変わる。シーツを引き上げて二人で包まり、ひんやりとした頬に頬を寄せる。
「村雨」
目を閉じれば、眠気はすぐに迫ってきた。逆らうこともなく身を任せながら、瞼の裏に咲く花を見る。
恋人の細やかな寝息と鼓動。それと、外の雨音だけを、聴いていた。