明日も、あなたが 扉を開く音に、獅子神は料理の手を止めて顔を上げた。
使い捨ての薄い手袋を脱ぎ捨て、念の為に手を洗う。ドアを開けた主が廊下を歩く細やかな足音に耳を澄ませながら、キッチンを出る。
「よ、お疲れ」
そこに居たのは、予想通りのお医者様。実に一〇日ぶりの逢瀬となる恋人、村雨礼二その人である。
「……ああ」
低く応える村雨の、眼鏡の奥の目には精彩が無く。隈は、いつもより五割ほど濃い。
ここまで『疲れた』を表に出す村雨を……また、割とよくオーバーワークに陥っていることも、獅子神は彼と恋人になるまでは知らなかった。
だから、今の村雨の様子はほんの少しだけ嬉しくて。でもその何倍も心配で、ふらふら歩くのに歩み寄る。
足を止めた頭にポン、と手を乗せて。艶やかな黒髪の感触を楽しみながら、眼鏡の奥の瞳を覗き込む。
「ほんと、疲れてんな」
「……ああ」
「腹減ってるか? 飯、食うだろ」
「うん」
こくり、と頷く。
こんな素直な村雨礼二を、いったい何人の人間が目にしたことあるだろうか。
恋人である、という事実と合わせて。密かな優越感を感じる瞬間だ。
「今日はハンバーグな。まだソースは作ってねぇけど……」
「……」
「おろし、照り焼き、バーベキュー、ケチャップ、デミグラス……」
「でみぐらす」
「オッケ。目玉焼きは?」
「のせる」
「了解」
もう一度、黒髪をポン、と叩く。そうすれば、恋人の口角が、僅かに上がったことが分かる。
笑顔、というにはあまりに些細な。けれど、獅子神に感情が伝わるには、充分過ぎるソレ。
この恋人は……最近、笑うことが増えた。そんな事実を、噛み締める。
「じゃ、オメーはリビングででも休んでな」
ハンバーグを焼いてソースを作るか……とキッチンを向いた腕が、掴まれた。
「と!?」
態勢を崩しそうになりながら、振り返る。
今、この場に居るのは獅子神自身と村雨だけで。だからやはり、腕を掴んでいたのは村雨だった。
「ん? なんだ……よ」
抗議しかけた言葉は、途中で止まる。
恋人の顔は、先ほどまでの疲れに屈した表情ではなかった。
むしろ、切れ長の瞳に宿る眼光は鋭く。賭場で見慣れたギャンブラー村雨礼二。或いは、外科医(生憎、こちらは想像でしかないが)村雨医師の顔だった。
「……おい、村雨」
「あなた」
「……なんだよ?」
「私に気が付かれないつもりか?」
目に見えそうなほどの切れ味を持った言葉が、突き刺さる。それに視線をあちこち彷徨わせ、あー等意味のない言葉を数度。
けれど、この恋人から隠し通すことなど、サイコロの面を一〇個揃えるより困難に違いない。
いや、ソレくらい容易いが? の顔するんじゃねーよ思考を読むな。
「来い」
「いや、あの、ハンバーグ……」
「私は『来い』と言っている」
「……はい」
白旗でも振りたくなるような心境での、降参ポーズ。腕を掴まれたまま、リビングへ移動する。
ソファに座らされ、その前で腕を組んだ村雨に「脱げ」と命令される。
恋人である以上、“そういう”関係ではあるのだが……どう希望的に見積もっても、そんな甘ったるさはカケラも無かった。
ため息を吐き、部屋着を上だけ脱ぐ。村雨の視線が、左肩に痛いほど突き刺さる。
いやほんと、視線で人が殺せるならコイツは間違いなく、とっくに一級殺人鬼だ。賭博の死神などでは済まない。
その視線を辿るように己の肩を見れば……そこにあるのは、真っ白な包帯。
今日のゲームで負った傷だった。
血は滲んでいない。一応、銀行の医療機関で縫合はされている。
「……どういうつもりだ」
「いや、どう、って……」
「私以外の医者に触らせたと?」
「いや、オメー、全然連絡とれなかっただろ……忙しいのはわかってたしよ……」
「それでも、だ」
囁くような声音が、耳元で響く。
細い指先が、包帯に触れる。
かと思えば次の瞬間には、あっさりと解かれていた。
「あ、おい」
「ふん……それなりには丁寧な処置だな」
傷を見た……いや、睨みつけた村雨が独りごちる。言外に「私には及ばないが」と大音量で含まれている。
「あーだろ」
「また開くのはさずに面倒だ」
溜息。
何処からともなく包帯を取り出し、巻き直す。
「当たりめぇだ! 開くな!」
村雨のひんやりとした指先が、肩に触れる。包帯を巻く手つきは、意外と言うべきか当然と言うべきか、この上無いほどに丁寧だ。
伏せらた、艶やかな睫毛に縁取られた目を……その、或いは慈しむような視線に。刹那、鼓動が跳ねた。
「よし」
巻き終わり。
満足した様子で、村雨はソファに倒れ込む。
こちらの膝に頭を乗せて、ご満悦という表情だ。
先ほどまでの医者がギャンブラーかという鋭さは霧散し、疲れを顔中に乗せた表情が戻る。
「……」
部屋着を着直した獅子神は、服の上から肩に触れた。包帯なんて、誰が巻いても同じ。大差などあるはずがない……と、思っていたけれど。
「村雨」
「なんだ?」
「サンキューな」
唇の端を上げて、笑う。
「なんか、オメーが巻いてくれた方が、早く治る気がするわ」
そんなわけあるかマヌケ。きっと、即座にそう返されるだろうと、思ったけれど。
村雨からの返答は何もなく。不思議に思って見つめれば……この男にしては珍しく、何か、言葉を探している様子が見てとれた。
「村雨?」
「……あなた、は」
腕が伸ばされ、頬に触れる。平熱の低い指先を、心地よいと思う。
「よく……笑うようになった」
「へ??」
言われた意味がわからずに。数回、目を瞬く。それはつい先ほど、自分が村雨に対して思ったことで。
「そっか??」
「……ああ」
頬を撫でる村雨の唇が柔らかく上がる。ああ、ほら。よく笑うようになった。のは、やっぱりオメーの方じゃないか。
そう、言おうか悩んだけれど。冷やかすみたいになるのも詰まらないので、やめておく。
「たぶん、お医者様の処方の賜物だよ」
「……笑え、という処方をした覚えはないが」
「そこは素直に受け取れ」
目を細めて、髪を撫でる。硬い黒髪は、けれどツヤツヤしていて、指の間を落ちる感触が好きだった。
頬を撫でるのをやめた村雨が、ふわ……と欠伸する。どこまでも気の抜けた姿を、愛しいと思う。
「オメー、明日は休みか?」
「銀行だ」
「……ああ、そっか」
明日はオメーか。
意味もなく呟いて。隈が濃すぎる顔を、覗き込む。
そんな状態で大丈夫か? とは、尋ねない。そんなこと、何倍も強い恋人はきっとよく理解している。
けれど……ほんの少しのコンディションの差。或いは、運の差、と言うべきもの。そういったものが、容易く運命を分つことがあるのも、またあの場所なのだ。
自分たちが生き残ってきた現実を、『運』で片付けるつもりもないけれど。ほんの些細なその差で、全てひっくり返ることも、無いとは決して言い切れない。
だから。
「……明日、送ってく」
「もとよりそのつもりだが」
「そーかよ。……で、車で、待ってるよ」
「真経津のように、三時間待たせるかもしれんぞ」
「いーよ」
黒髪を、くしゃくしゃと掻き回す。
迷惑そうに目を細めるその表情にすら、抱きしめてしまいたい程の愛しさが募る。
「三時間でも、五時間でも……まる一日でも、十日でも」
髪を掻き回す手を止めて。金縁のラウンド眼鏡をグラスコードごと外す。丁寧にサイドボードに置いて……その額に、キスを落とす。
ハンバーグを焼くのは後にしよう、と頭の片隅で考えて。
「オメーが帰ってくるなら。ずっと、待ってるよ」
「……そうか」
「そー」
賭博をやめられない自分たちは、いつまでも変わらず居られるか、保証なんて何処にも無いけれど。
それでも。明日、自分と恋人が……二人が、変わらずに笑えますように。