月夜より「悪ぃ……センセイ。今日、ステーキ焼きに行けねー」
電話の向こうでそう告げてくる声は、ひどく、色の無いものだった。
敢えて、すぐには答えず。村雨は、受話器から漏れてくる情報を拾う。
感情のない……いや。読み取らせまいと敢えて消し去ったような声は、不自然なまでに静謐で。
今日、電話の向こうの友人……獅子神は、1/2ライフの二戦目だった筈だ。
昨夜、と言うよりは今朝。繋げていた電話を、思い出す。
朝になり村雨が目覚めた時も、そのままで。先に起きたらしい獅子神が「起きたか? おはよ」と、声をかけてきて。「ありがとな、行ってくるよ」と、続けられた言葉に「ああ」とだけ、頷いた。
或いは。本当は、他にも何か、かけるべき言葉はあったかもしれない。勝ってこい、でも。頑張れ、でも。けれどそのどれも、自分の口から出る音を想像すると、どうしようもないくらい空虚でしかなかった。
だから獅子神が通話を切るのを待って。いつもの通り仕事に行って、1日を過ごした。
そして、帰り道。
不意の着信に応じれば、最初の一言がソレだった。
「獅子神。あなた……」
「勝ったよ。結構ヨユー」
「……そうか」
気掛かりの一つがまず無くなり、刹那ホッとする。けれど獅子神の声は酷く空虚な……或いは言葉にならない言葉だけが、透けたままで。
「悪ぃ。これは多分、オレの問題なんだよ」
約束守れなくて悪い。
そう繰り返す声を追う。
言葉通りなら……いや、恐らく心から、獅子神は今村雨に会うことを望んでいない。ひとりになりたい、という時は誰でもあり、また、お互いに良い歳をした大人だ。
で、あれば。今の最適解は「また次回」と、電話を切ること。
恐らくソレが一般論で。村雨も、平素なら……或いは相手が獅子神で無ければ、迷わず電話を切っていただろう。
ただ。今、同時に思う。何故、獅子神は電話をかけてきた? 何故、今、無理に感情を消した声で……村雨がそれに気が付か無い筈ないと、恐らく理解しているのに……こうして話している?
要件だけなら、メールで構わないはずだ。さすがの村雨も、文字からなら読み取れる情報は、多少は減る。
もしかしたら、それは獅子神敬一という人間の持つ、誠実さ故かもしれない。約束を反故にするならせめて電話、と、そう考えた社会性かもしれない。
それでも。もし……相手が、村雨だから、なら。
「今度……あー……うん、今度。ちゃんと行くから。今日は……」
「あなた、今どこにいる?」
要領の得ない繰言を切り捨てるように。凛とした、声音が響く。
「……は?」
「どこにいる? と訊いて……いや」
電話の向こう。
微かな音を、優秀な聴力が拾う。
「わかった」
「は?」
「いいな。動くな」
「は!?」
「私は、『そこに居ろ』と、言っている」
告げて。反論を待つことなく、通話を切りスマートフォンをポケットに突っ込む。
ぐるり、と辺りを見渡すが、タクシーの姿は無かった。
大通りからやや離れた場所だ。そんなに通る道ではない。配車を手配するにも、週末の夜、そうそう都合よく空きがあるとは思えない。
「……っち」
小さく舌打を漏らし……村雨は、踵を返して駆け出した。
***
カサ、と。草を踏む音に、獅子神は顔を上げた。けれど、敢えて振り向かず、遠くぼんやり浮かぶ月を見る。
昨日、あんなに綺麗だと思った、下弦の月だ。
草の上に座り背を向けたままいれば、カサカサと地面を踏む音が近づいてくる。
ハァハァと、明らかに荒く切れ切れになった呼吸音も。
そうして足音の主は、すぐ近くで立ち止まった。
「獅子神」
静かな声。
今、誰より聴きたくて……誰よりも、会いたく無かった人間の声。
「………あー」
呼びかけられるのに、意味のない声を捻り出す。苦笑しつつ視線を少しずらせば、そこにあるのは黒いサイドゴアブーツ。
「なんで、わかんの?」
「……音、だ」
「音」
ハァハァゼイゼイと。切れる呼吸を隠しもせずに。村雨は、言葉を繋ぐ。
「飛行機、の、音……角度。こちらとの、秒、差……音、速、は…………340.29……」
「あー……わかった」
ちっともわからない。が、相変わらず化け物みたいなこの男は、とんでもないということはよく分かった。
「オメーの耳、どうなってんだ」
「耳……だけでは、ない」
「ん?」
ヒューヒューと。しばらく喘鳴のような音が続いた後。呼吸を整えた様子が続き、しばらくの間。
「月だ」
「月?」
「月が見える場所に居るとは、わかっていた」
綺麗だと、言っていただろう。
そう続けられるのに、月を見ながら目を瞬く。
「なるほどな」
頷き。
「それで……そうやって村雨センセが走ってまで、オレに何の用で?」
敢えて、皮肉げに聞こえる声を吐き出す。いっそ、この男が機嫌を損ねて立ち去ってくれたら楽なのに。と、そんなことさえ考える。
けれど……きっと、全て見透かされている。
「オレが今、会いたくねー。て、オメーなら、わかっただろ」
それは、間違いなく本心で。本心でしかなくて。会いたくなくて……会うべきではなくて。
けれど。
「会いたかった、からだ」
「は?」
「私が……あなたに、会いたかった」
あまりに誠実なその声は、夜風に溶けて獅子神の頬を撫でた。
何も、含みなど感じられない。ただの、真っ直ぐなだけの心のカケラ。
「…………肉は、焼かねーぞ」
「マヌケが」
せめてもの強がりで言い返せば、即切り返される。
会いたかった。
それだけが間違いなく、この友人の本心だ。
「………」
「…………」
それでも黙っていれば、聞こえるのは小さな溜息。
やっと呆れてくれた。立ち去ってくれるかもしれないと、そんな期待と恐れが同時に胸に湧き上がる。
どちらも、本当で。どちらも、確かに存在する気持ち。
けれど、村雨の行動は予想と違っていた。視界の端で、サイドゴアブーツが動き……踵を返し。その直後。
どさ、と。音。同時、背中に触れる、体温と感触。首筋に刺さるような、硬い髪。
「……は?」
「私は、今、歩けない」
「はぁ?」
「だから、こうして休んでいるに過ぎない」
どんな言い訳だよ、と心中で呆れる。あの村雨礼二が背中合わせを陣取っておいて、理由が「歩けない」。
いや、体力が無いのは知っている。けれど、他にもっと、誤魔化し方もあるだろうに。
「………歩けねーの?」
「ああ」
戯れに問い掛ければ、即答される。それに、心の何処かが、大きく安堵する。
「なら、仕方ねーか」
「そうだ」
さらり、と。冷えた風が額を撫でる。背中から伝わる体温を辿る。
「村雨」
「なんだ?」
「オレ、ちゃんと勝ったぞ」
「そうか」
淡々と、言葉だけを重ねる。
「1/2ランクはやっぱスゲェ、て、思ったけど。よく見えたよ」
「ああ」
「オメーのお陰だよな……」
「……」
「でも、ちょっと、見え過ぎたかもなー……」
今日の試合のことだ。
相手はあの刑事たちより格下だったのか……感情を隠す術を持たなかったのか。
あまりに“見えた”ソレに、戸惑った。そして、有体に言えば、アテられた。多分、そーゆーことで。
「ま、慣れるしかねぇーんだろうな」
「……」
村雨は……獅子神を引っ張り上げ、開眼させた当の本人は答えない。
「オメーにとっちゃ、この視界が当たり前なんだよな……」
すげぇな、と。言葉を落とす。
そうすれば、返ってくるのは肯定かいつものあの単語かと、予想する。
けれど……聴こえたのは、そのどれとも違っていた。
「あなたも」
……は? と。目を瞬く。
今、この男はなんと言ったのか。
聴き間違いか? と考えて。そんなはずないと心の中で否定する。
あなたも。
……オレ、も?
「私が……」
「ん?」
「私が、走って誰かに会いに来たことが……今まで、あると思うのか」
それは。
さすがに、不意打ちが過ぎるのではないか。
今、自分がどんな顔をしているのかを考えて。背中合わせで良かったと心の底から安堵する。
さすがに村雨とて、後ろに目が付いているわけではないだろう。
「見なくてもわかるが? マヌケ」
「思考を読むな!」
つい、いつもの調子で返す。そうすれば、軽く笑うのが背中越しに伝わる。
悩んだり葛藤したり……そんな弱みを見せたくなかったのは本当で。誰より、コイツには見られたくなくて。
けれど同時に、会いたくて堪らなかったのも、真実だった。
だから。
「村雨」
「……?」
「サンキュ」
「……ああ」
構わない。
そう続いた声は、今まで知る村雨礼二の中で、たぶん一番優しいものだった。
「村雨」
「ん?」
「空、見てみろよ」
「……」
顔を上げ声をかける。村雨が同じように顔を上げたのが、気配で伝わる。
「月」
「……」
「キレーだな」
「……そうだな」
囁くように、同意する声。
「……月が、綺麗だ」
噛み締めるように、繰り返された言葉に込められた意味を……この時、獅子神はまだ知らない。