綿の恋 ごろさめはお腹に綿の詰まった村雨礼二です。同じ村雨礼二だというのに、ごろさめは人間の村雨礼二のことがあまり好きではありませんでした。
クーラーの風が冷たく、ごろさめは手近にあったぬくもりへ潜り込みました。あたたかで若干の窮屈のあるそこは、圧迫による熱伝導が丁度よく、ごろさめの内側の綿までほかほかと温かくなるのです。
「おい、そんなとこ入んなって」
「ごろ!」
ごろさめは初めて見たときからこの男が大好きになりました。優しくて少し弱くて大きくてあたたかい男の名前は獅子神敬一と言います。
ごろさめは獅子神のこの場所が大のお気に入りでした。獅子神の胸元は幸いにもよく開いておりましたので、入り込むのも容易です。毛糸で編まれた衣服と、しっとりと湿る獅子神のふたつの強靭な胸筋は安定感があり、早めの心音を聞いていればそれだけで眠くなってしまいます。
「メロ……」
うとうととごろさめが獅子神の谷間で眠りにつこうとしたとき、その侵略者はやって来たのです。
突如として襲う浮遊感に、ごろさめは悲鳴を上げました。えっ、さっきまでのあたたかなやすらぎのスペースは!
「愛児!!」
「そこは私の永久指定席なので予約のないものは入らないように」
「ごろ!?」
ごろさめを空中へ投げ飛ばしたのは、村雨礼二でした。いい歳をした大人のくせをして、村雨は愛らしさの頂点にいるごろさめに嫉妬をしているのです。獅子神の恋人という地位をほしいままにしているこの男を、ごろさめは敵視していました。
「あなたにはこのように長い手がないので、獅子神とくんずほぐれつまぐわいつつなどできはしないのだ」
「誤差!」
地面へ叩きつけられるかに思われたごろさめでしたが、間一髪、獅子神が両手で受け止めてくれます。その獅子神の後ろから、胸元に手を回し、梅雨の部屋干しのようにじっとりした目で村雨が睨みつけてきます。
そのような体型の違いなど、ごろさめにとっては大した問題ではありません。だって村雨礼二にはお腹に詰まった柔らかな綿も、キュートな瞳も、たった四文字ですべてを伝えられる語彙力もないのですから!
「おい、大人げないぞ、ごろさめに張り合うなよ」
「私は例え私であっても私のものを私以外にとられるのは我慢ならない」
「私って今何回言った?」
村雨礼二はいつもそうです。小難しい言い方をしては獅子神を混乱させて、おいしいところをかっぱらってしまうのです。村雨のセリフを言いたいのはごろさめの方でした。その証拠に、先程までごろさめのいたあたたかな谷間に、村雨の手のひらが収まっているのをごろさめは見逃しません。
「冷めろ!」
煙に巻かれてはいけないとごろさめは獅子神に警告を発しますが、なにしろ村雨は獅子神の恋人ですので、すぐに甘い空気が流れてしまいます。ごろさめの首が回らない視界の外で、パチュリパチュリという口吸いにしては粘っこい音が聞こえてきます。
「ごごごごご」
ごろさめは無い歯を歯ぎしりして、大人げない村雨に密かな対抗意識を今日も燃やすのでした。
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「あれは何をやってんだ?」
「あれはそのへんのぬいぐるみ相手に王様ぶってるごろししの姿だ。あなたにも覚えがあるだろう」
「な、なななな、ないけど?」
そう言ったっきり獅子神は無言になって顔を背けました。まるっきり、身に覚えがあるとしか言っていないようなもので、村雨はその虚勢すらいっそ好ましいと思っていたのでした。
にんげんがいない部屋は、ごろししの天下でした。最近獅子神の家にやってきたばかりのごろししは、今やこの家を欲しいままにしていたのです。
ドアの隙間から、縦に並んだ男の顔がふたつ。獅子神と村雨でした。覗いた部屋の中ではごろししの一人遊びが繰り広げられていたのです。
「ごろごろしろ」
ひとりでは寂しかろうと獅子神の買い与えたぬいぐるみに、無意識の虚栄が残っていたとは夢にも思っていませんでした。どれも座り姿勢の、トラ、うさぎ、ライオン、鹿、犬……床に並べたそんなぬいぐるみを、机の上に乗ったごろししがどこか得意げな顔で見下ろしているのです。
「ししし……」
笑うその姿はまるでかつての自分と瓜二つ、共感性羞恥で獅子神は今にも飛び出しそうでした。
この獅子神にとっての恥の極みとも言える一人遊びが、村雨以外の人間に見られてはとんでもない事態になるのは目に見えています。このまま獅子神が乱入して場を荒らすのは簡単ですが、プライドを打ち砕かれたごろししの心情は痛いほど想像できます。
なんとかして止めさせる方法はないものか……自分に照らし合わせるのならば、そう、ごろししが自ら這い上がりたくなるような、そんな獅子を谷に落とす状況を生まなければならないのです。
「ほかでもないあなたのためだ。私が一肌脱いでやろう」
「村雨……!?」
声を潜め言う村雨は、いつだって獅子神にとって頼りになるものでした。しゃがんだ姿勢に足腰が震えとっくに限界の情けない姿であっても、村雨の頼もしさに変わりはないのです。
「でもどんな方法があるっていうんだ?」
「綿の私をぶつける」
村雨の提示した方法は、ごろさめとごろししをぶつけると言うものでした。
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ごろさめは大層怒っていました。
ごろさめの大好きな獅子神を、村雨が虐めているのを見てしまったからです。
昨晩ごろさめは、料理を持参してくれた獅子神の膝に乗ったり胸に乗ったり太股に挟まれたり尻に潰されたりと、それはそれは甘い夜を過ごしていたのですが、またしても二本足の村雨に邪魔をされてしまいました。日付が変わる頃になって帰宅した村雨は、瞬く間に料理を平らげ、獅子神を寝室へ連れ込んでしまったのです。
勿論、ごろさめを部屋から追い出すのは忘れずに。
そのあとドアの向こうで獅子神のうめき声やら鳴き声が聞こえていたところを見るに、凄惨な行為が繰り広げられていたのは間違いありません。文字通り綿だけに、はらわたが煮えくり返る想いを抱え、ごろさめは今日も村雨に体当たりを繰り返していました。
翌朝の獅子神は少しだけ気だるげでした。それでも朝からランニングをし、ストレッチをし、シャワーを浴びた獅子神はごろさめにとって朝日にも等しい存在でした。
朝ご飯を作る獅子神の姿を眺めるのがごろさめは好きです。自分は食べることはできませんが、リズミカルな音とおいしい匂いに包まれる瞬間を、ごろさめは愛おしく思っているのです。
しかしそんなごろさめの、日常の穏やかさを破るのはいつだってこの男に決まっています。悪鬼襲来!
「ごごごごごご」
むず、と無遠慮に掴む村雨に、ごろさめは威嚇の声を上げました。そんなことは気にもとめぬ村雨は、デリカシーの欠片もない男です。突然鞄へ詰め込まれたかと思えば、ごろさめはどこかへ運ばれていました。
村雨がごろさめを同行させるのはとても珍しいことです。がたがた振動のあと、たどり着いたのはごろさめにとって初めての場所でした。
村雨の家に負けず劣らぬ大きな家。未知の場所ながら、この場所は落ち着く香りがしました。そう、ごろさめが大好きな獅子神の香りが満ちていたのです。
ごろさめは綿の詰まった村雨ですが、本人同様にとても良い嗅覚を持っていますので、匂いには敏感でした。それでいて向上心と懐疑心も忘れぬぬいとしては圧倒的な意識の高さを兼ね備えてもいます。ですから、今朝になって獅子神と村雨の香りが混ざり合っていたのも何かの間違いに違いないのです。
アレとはなんのことでしょうか。おそらくここは匂いから察するに獅子神の家なのでしょう。獅子神の家にごろさめが訪れるのは初めてでした。
ですから、獅子神の家に彼以外の存在がいることもごろさめはまだ知らないのです。
「アレはどこにいる?」
「たぶんこの時間なら奥の部屋で威張ってる」
そう言いながら獅子神が足音を潜め、屋敷の奥へと向かいます。微かに開いたドアの向こうからは、自分と同じような気配がしました。
上から順に獅子神、村雨、そのさらに遙か下へごろさめと頭が並びます。中を窺ったごろさめが見たのは、にわかには理解し難い光景でした。
「ごろごろしろ」
「ごろごろしろ」
そう言いながら、床へ並んだ動物のぬいぐるみの上を飛び跳ねる綿の姿。勝ち気な見た目と心なしかがっちりとした綿とつまり具合は、ごろさめの大好きな獅子神によく似ています。
ビビーン!!!
ごろさめの綿に稲妻が走り抜けました。そう、ごろさめはひと目見た瞬間に決めてしまったのです。何をやってもどこか綿が欠けたような欠乏感を埋められるのはこのぬいしかいません。ぬい生の伴侶にふさわしい運命の恋ぬいはここに居たのです。
「さめしししろー!」
ごろさめはドアの隙間から飛び込んでいきました。
「ししごろし!」
部屋の中のごろししは、突然の乱入ぬいに悲鳴を上げました。ごつ、とぬいにあるまじき驚異の跳躍力でごろししのもとへたどり着いたごろさめは、激突とも言える勢いでごろししの唇を奪っていました。床へ落ちたごろさめは、仰向けで手足をごろごろと動かします。
「獅子、死後覚めし頃、子四肢、指し示し……《しし、しごさめしごろ、ししし、さししめし……》」
何しろごろさめは大層な博識ですから、ごろししの見栄をも一瞬のうちに見抜いてしまったのです。そう、ごろさめは持ち得る最大限で求愛のポーズを示していました。このようなアグレッシブ行動はごろししにとって初めてのことでした。
ごろししのいる世界はあくまで作り出された平和な虚構であり、ぬい山の王様を気取っていたに過ぎません。この激突によってこれまでのごろししは一度死に、新しい世界が始まるのだとごろさめは伝えたかったのです。そしてそこで待つのは両手両足を広げ、ここ空いてますよと訴えんばかりのごろさめであるということを。
「……ごろ…!!」
ごろししは感動したように綿の体を震わせ、ごろさめの胸へ飛び込みました。
「よかったな……ごろしし……」
感極まった獅子神は、目頭を押さえながら静かに扉を閉めました。見ているのもいたたまれないくらいだったごろししもまた、殻を破ることができたのです。こんなに喜ばしいことがあるでしょうか。おそらくこれ以上、この二ぬいを見守っているのは野暮というものでした。
「なんとか落ち着いたみたいだし、珈琲でも飲むか?」
自らの策が功を奏した村雨もまた、胸を撫で下ろしました。非常に分かりにくいことですが、村雨なりにライバルの恋心を多少案じてはいたのです。とはいえ、これで邪魔をされることはありません。
「珈琲は後でいただこう。それより」
リビングへ向かおうとする獅子神を、村雨が引き止めました。獅子神の家は大きくふたつに分かれます。仕事場兼リビング兼キッチン兼ダイニングである大きな部屋を公とするのならば、今いるこちら側は寝室やゲストルームにバスルームなど、私に分類される空間です。
「あそこで一対のつがいが成立したということで、」
村雨が言外に秘めた意図は、獅子神ですら容易に読み取れるものでした。
だって手の甲をなぞる村雨の誘いを察しないのもまた、野暮というものですから。