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    Haruto9000

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    Haruto9000

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    「クー・フーリンが女性だったら」妄想。
    ※FGO第1部のみの情報で書いていたので、設定ズレなどはご容赦ください。

    【あらすじ】
    影の国での修行を終え、アルスター国に戻ってきたクー・フーリン。
    ところが、国の内情は穏やかではなかった。上王が殺され、アイルランド中が混乱しているという。
    さらに、エメル姫が、タラ王と結婚する話が持ち上がったというのだ。

    #女体化
    feminization
    #クー・フーリン
    kooHooLin

    ミラーリング #11(英雄の結婚編)再会ネフタンの息子たち血の婚姻門出再会
    「上王が死んだ……?」
     クー・フーリンは、呆然と幼なじみの言葉を繰り返した。ロイグはうなずく。
    「外遊中、ブリテンの賊に襲われたんだ。噂じゃ、身内の仕業って話もあるが……いずれにせよ、上王も側近たちも殺された」
    「そんな……」
    「次期上王は息子が継ぐことで落ち着くみたいだけど、いかんせんまだ子どもだからな」
     ロイグは大きなため息をついた。
    「おかげで、今アイルランドは大混乱さ。このアルスター国も、コノート国も、マンスター国もレンスター国も。どの王も、次期上王に忠信を捧げるって言ってるけど、みんな腹の底では何を思っているやら」
    「まさか、内乱……」
    「いや、そこまではまだ」
     ロイグは首を振ったが、その表情は曇っていた。クー・フーリンはおずおずと尋ねる。
    「伯父上は……いや、我が王は?」
    「コンホヴォル王は真っ先に忠誠を誓ったさ。コナルが負傷したっていうのもあるし……」
    「コナルが!?」
     クー・フーリンは大声で叫んだ。ロイグはしまったという顔をする。
    「コナルが負傷したってどういうことだよ!」
     勢いよく肩を掴み、クー・フーリンはロイグをぶんぶんと揺すった。彼女にとって、コナルは同じ乳で育った、大事な乳兄妹なのだ。
    「おい、やめろって! 安心しろ、コナルはちゃんと無事だよ。今はこの赤枝の館で養生してるんだ。なにせ、腕を失いかけて──」
     最後まで聞かず、クー・フーリンは館の中へ飛び込んでいった。
     ロイグは言いかけた言葉を舌に残し、ため息をつくと、すぐに幼なじみの後を追った。
    「コナル! コナル!」
     大声で叫びながら、クー・フーリンはバタバタと部屋の中に飛び込んだ。
    「クー!?」
     寝床で休んでいたコナルは驚いたように身を起こしかけ、すぐに顔をしかめてうめいた。そばにいた召使いが慌ててその体を支える。
     部屋には、叔父のフェルグスや、騎士団の一員であるロイガレもいた。
    「クー・フーリン!? クー・フーリンか!?」
    「叔父貴!」
     久しく会っていなかった姪の姿に、フェルグスは目を丸くした。
     ちょうど部屋に入ってきたロイグの顔を見やれば、御者の青年は苦笑を浮かべて肩をすくめる。
     フェルグスは再びクー・フーリンに視線を移し、どかどかとやってきた。
    「まさかおまえが戻ってきたとはな。まったく、驚かせおって!」
     豪快に笑いながら、フェルグスはぐしゃぐしゃとクー・フーリンの髪をかき回した。
    「うわ、叔父貴、やめろって!」
     抵抗しながらも、クー・フーリンは破顔する。
    「おまえってやつは、急に出ていくから。俺に一言あってもよかったろうに!」
    「うん、ごめん、叔父貴」
    「うむ」
     フェルグスは、姪の肩をばんと叩き、慈愛のこもった目で見つめた。
    「立派になったな」
    「……うん」
     クー・フーリンは、ぐっと何かをこらえるように養父を見上げた。 
    「オレ、さっきロイグから上王のこと聞いて。それで、コナルが怪我したって……」
    「おお、そうか」
     フェルグスはその岩のような巨体をどかし、道を開けた。
     クー・フーリンが寝床に駆け寄れば、コナルがロイガレに支えられて起き上がっていた。
    「久しぶりだな、クー」
    「おう。ロイガレも」
     コナルに微笑みかけ、ロイガレにも声をかける。いつも気むずかしげな顔をしている騎士も、わずかに表情を緩めた。
    「元気そうで何よりだ」
     クー・フーリンはうなずき、乳兄妹に向き直った。利き腕には包帯が何重にも巻かれ、痛々しく血が滲んでいる。
     コナルは妹の視線に気づき、自嘲するような笑みを浮かべた。 
    「無様に生き残ったよ」
     クー・フーリンは苦しげに眉根を寄せた。
    「なんでおまえが」
     コナルはため息をつき、傷ついた腕をさする。
    「コンホヴォル王の命でタラに派遣されて、しばらく上王に仕えてたんだ。親衛隊にも加わった。それで、あの襲撃に遭遇したんだ。上王は死に、俺は──」
     コナルは遠くを見つめ、苦しげに吐き捨てた。
    「裏切りってやつは、いつだって醜いもんだ」
    「…………」
     クー・フーリンは、うなだれたコナルを声もなく見つめた。部屋に重い沈黙が落ちる。
     ロイガレは沈鬱な面持ちで目を伏せ、扉のそばに控えていたロイグも、固く口を引き結んでいた。
    「おお、そうだ」
     不意に朗々とした声が響く。フェルグスだ。
     全員の視線を集めた偉丈夫は、重々しい空気を吹き飛ばすかのように、陽気な声を張り上げる。
    「クー・フーリンよ、影の国での修行は無事に終わったのだろう?」
    「あ、ああ」
     戸惑いながら、クー・フーリンがうなずく。そうかそうか、と叔父はうなずき、再び口を開いた。
    「王にはその旨を報告したのか?」
    「いや、まだ……さっき帰ってきたばっかりだし……」
    「それなら、さっそく報告しに行かねばな! 王もおまえの帰りを首を長くしてお待ちしていたぞ!」
    「え、で、でも」
    「さあさあ、今宵はクー・フーリンの帰還を祝して宴会だぞ! ロイグよ、準備するように皆に伝えよ」
    「はい、フェルグス様」
    「では、いざ。コナルよ、しっかり養生することだ。先ほども言ったが、くれぐれも生き残ったことを恥と考えるな。次の戦に向けて、しっかりと己の剣を磨き直しておけ」
    「……はい」
    「うむ。ではゆこう、クー・フーリンよ!」
    「うわ、ちょ、ちょっと、叔父貴!」
     がっしりとクー・フーリンの肩を掴み、フェルグスはがっはっはと笑い声をあげながら部屋を出ていった。それに続いて、ロイグも、コナルとロイガレに礼をして出ていく。
     あとに残された二人の騎士は顔を見合わせ、肩をすくめて笑った。

    「失礼いたします、王よ!」
     足音も高々に、フェルグスは王の間へ入っていった。
     王はドルイド僧たちと話しているところだったが、その声と足音のやかましさに、ため息をつきながら振り向く。
    「なんだ、フェルグス。ずいぶんと騒々しいではない、か……」
     フェルグスの陰に隠れるように縮こまっている娘の姿を見つけて、コンホヴォルは目を見開いた。
     王と目が合ったクー・フーリンは、叱られた子どものようにおどおどとうつむいたが、フェルグスにぐいと背中を押され、観念したように前に進み出た。
     居心地が悪そうな顔で槍を額に当て、最敬礼をする。王はゆっくりと目を細め、端正な顔から表情を消した。
    「これは、これは」
     コンホヴォルの低い声が静かに響き渡る。クー・フーリンは唇を噛み締めながら、王の足元を見つめた。
    「いつの間にかいなくなっていた番犬が舞い戻ったか。野良犬になって、もう戻ってこないものと思っていたぞ」
    「……黙って出ていったことは謝罪します、我が王」
     クー・フーリンは、コンホヴォルの言葉に負けじと足を踏ん張った。
     久方ぶりに見た王の冷たく整った顔は相変わらずだったが、その髪は伸び、目元には幾分かの疲れが見えた。
    「オレは影の国で修行を積み、戦士としての力をつけました」
    「それは有意義なことだ。便り一つ寄こさんで。てっきり武者修行の途中で、居心地のよい場所を見つけて腰を据えたのかと思ったわ」
    「いえ、たとえ何があっても、オレはアルスターに戻ったでしょうし、現にオレは戻ってきました」
    「ほう。あの生意気な小娘だったおまえが、殊勝なことだ。おまえなら、どこへでも行けただろうに」
    「オレは必ず戻ります。だってオレは」
     クー・フーリンは、コンホヴォルの昏い瞳をしっかりと見据える。
    「オレは、アルスターの盾ですから」
     王は黙ったまま両手を組んだ。睨みつけるように姪を見ていたが、やがて目を閉じ、ひとつ息を吐いた。
    「……そうか」
     やがて、コンホヴォルは椅子から立ち上がった。クー・フーリンのそばに歩み寄り、戸惑ったように見上げてくる姪を見つめる。
     王はためらうように唇を舐め、姪の引き締まった肩に手を乗せた。
    「よく戻った」
     クー・フーリンの頰にぱっと朱が差す。コンホヴォルは小さくうなずき、腕を組んだ。
    「まずは湯浴みでもして休め。正直、今の情勢では何が起こるかわからん。おまえの修行の成果とやら、早々に見せてもらうことになるかもしれん」
    「は、はい、伯父上!」
     コンホヴォルがぐっと眉をひそめる。クー・フーリンは慌てて「我が王」と言い直した。王は、少しだけ目元をやわらげた。
    「今宵は馳走を用意させよう。召使いたちに命じなければ」
    「それならば、もう手配してありますぞ、王!」
     フェルグスが威勢よく答える。コンホヴォルは呆気に取られた顔でフェルグスを見たが、やがて「手際の良いことだ」とつぶやいた。
    「私はまだやることがある。もう下がれ」
    「はい!」
     部屋に入ってきたときはしおれたようだったクー・フーリンは、すっかり元気を取り戻していた。
     再び王に最敬礼し、フェルグスと連れ立って王の間を出る。
    「よかったな」
     フェルグスがにこやかに言った。
    「王は、おまえのことを随分心配していたんだぞ」
    「王が?」
     クー・フーリンは驚いて叔父を見た。フェルグスが「もちろん」とうなずく。
    「そっか。……へえ」
     足が軽くなり、全身がほっと温かくなった気がして、クー・フーリンは思わず笑みをこぼした。

    ネフタンの息子たち
     クー・フーリンがアルスターに帰還して、数日経ったある日のこと。
     彼女が馬場でロイグと話しているところに、フェルグスがやってきた。
    「おーい、クー・フーリンはいるか?」
    「叔父貴」
     もたれかかっていた柵から体を起こし、クー・フーリンは振り返った。
    「どうしたんだ?」
    「おまえに頼みたいことがあってな」
    「頼み?」
     フェルグスはうなずいた。
    「最近、国境付近の治安が悪くなっていることは、おまえも知ってるな」
    「ああ」
    「コナルが国境の警備から離れてから、どうにも賊どもが目に余るようになってきてな、王も頭を悩ませているところだ。そこで思いついたんだが、ここでひとつ、おまえが出向いていって、奴らを懲らしめてやるのはどうかと思ってな」
     クー・フーリンの目がきらっと光った。その好戦的な表情に、フェルグスもにやりと笑う。
    「場所はコノートとの国境線だ。どうだ、できるか」
    「おいおい、誰に言ってるんだ、叔父貴」
     クー・フーリンは白い歯を見せ、胸を叩いた。
    「修行の成果を見せるいい機会さね。このオレに任せな、叔父貴!」

     ロイグは心配そうな顔をしていたが、クー・フーリンに急かされて戦車の用意をした。繋がれたマハとセングレンが、ブルルと鼻を鳴らす。
    「おい、本当に大丈夫か?」
    「大丈夫だって」
     クー・フーリンは愛馬の首を軽く叩いた。
     マハとセングレンは、嬉しそうに主人に鼻面を擦り付ける。この二頭も、再び主人に会えたことを喜んでいるようだった。
     フェルグスと共に見送りに来たコナルは、戦車に飛び乗ったクー・フーリンに声をかけた。
    「くれぐれもネフタンの息子どもには気をつけろよ。親父以上に野蛮な奴らだ」
    「ネフタンの息子?」
    「ああ。今のこの国の人口以上のアルスター人を殺したって吹聴してる、どうしようもない奴らだ」
     コナルは顔をしかめた。
    「あの兄弟は魔術が使えるからな。俺も散々戦ったが、結局一人も仕留められなかった」
    「魔術ね……」
     クー・フーリンは、何かを考えるように空を見つめた。
    「いきなりおまえをあんな場所に向かわせるのは、正直心苦しいが……」
     兄の言葉に、クー・フーリンはにっこり笑った。
    「オレは平気だって。それより、早くその腕くっつけとけよ。治ったら手合わせ頼むぜ、コナル!」
     浮かない顔をしていたコナルの表情が、少しだけ明るくなった。
    「ああ、もちろんだ」
    「よし、じゃあいっちょ頼むぜ、ロイグ!」
    「応!」
     クー・フーリンの高らかな声に、ロイグは手綱を取った。マハとセングレンが勢いよく走り出す。
    「しっかりな!」
     フェルグスが叫ぶ。若者二人を乗せた戦車は砂ぼこりを巻き上げながら、すぐに見えなくなった。

     戦車は、ハヤブサのように地を駆けた。
     ロイグはまた腕を上げたらしい、とクー・フーリンは思う。やっぱり、彼を自分の御者に選んで正解だった。
     体を伸ばして、顔に当たる風を感じる。景色が飛ぶように流れていく。
    「ちゃんと捕まってろ!」
     御者台からロイグが叫ぶ。クー・フーリンは片眉を上げた。
    「誰にものを言ってんだよ。それよりもっと飛ばせ! けちけちすんな!」
    「はっ、言ったな!」
     顔に受ける風がグンと強くなる。クー・フーリンは楽しそうな笑い声をあげた。

     見晴らしのよい高台に出たところで、クー・フーリンはロイグに戦車を止めさせた。
     目の前には、息を飲むほど美しい光景が広がっていた。
     頭上に広がる真っ青な空には雲ひとつなく、鳥が弧を描いて舞っている。
     雄々しい丘が優美な曲線を描いてそびえ立ち、湿地帯の中には、川が流れているのが見える。
     広大な平原の向こうには、緑や紅の色彩が混じり合う森が広がり、眼下の湖には、太陽の光が反射して、きらきらと光っていた。
    「いいところだな」
     ロイグがつぶやく。クー・フーリンはうなずきながら、ぼんやりと考えていた。
     ああ、この風景を、あの暗い館に閉じ込められている彼女に見せてあげられたら──。
    「おい、クー。あれを見ろ」
     ロイグの声に、クー・フーリンは我に返った。
     指差された方向を見れば、川が流れるそばに、城砦らしきものが見えた。
    「あれがネフタン兄弟の館だ」
     その言葉に、クー・フーリンはぐっと顔を引き締めた。
     コノートとの国境間際にある館は、今にもアルスターに襲いかかるべく、身を伏せた獣のように見える。
    「あそこへ行ってくれ」
     主人の命に、ロイグはためらうようにクー・フーリンを見上げた。
    「なあ、クー。本気で──」
     幼なじみの言葉をさえぎり、クー・フーリンは再び言った。
    「いいから。行ってくれ、ロイグ」
     ロイグはそれ以上何も言わずにうなずくと、再び手綱を握った。

     やがて二人を乗せた戦車は、川の近くまで降りてきた。ネフタン兄弟の館は、この川のさらに下流にある。
     クー・フーリンは、川のそばに奇妙な大きい立石を見つけた。石には縄が巻かれ、オガム文字で何か書いてある。
     クー・フーリンは戦車から飛び降り、目を細めて文字を呼んだ。それは、ネフタン兄弟による警告文だった。
    「ちょうどいいや。一休みしようぜ、ロイグ」
     ロイグは怪訝な顔つきをした。クー・フーリンは思案するように立石をさすっていたが、何を思ったか石から縄を取り外し、川に投げ込んだ。
     縄は浮きつ沈みつしながら、下流へ向かって流れていく。
    「おい、何してるんだ?」
    「んー、闇討ちはよくないかなって」
     クー・フーリンはにやにやしながらあごをさすった。
     ロイグは頰がひくつくのを感じた。彼女がこういう顔をしたときは、決まってトラブルの前兆なのだ。
     二人が立石のそばに座って雑談をしていると、やがてガチャガチャとうるさい鎧の音が近づいてきた。
     視線を上げれば、荒々しい顔つきをした男が三人、やってくるところだった。
    「ネフタン兄弟だ」
     ロイグがそっと耳打ちする。
    「あの一番図体がでかいのが、長男のフォイル。魔術で体を強化してる。痩せてるのが次男のファイル。こいつはとにかくすばやいんだ。背が小さいのがトゥアヘル。矢避けの加護があって、飛び道具は効かないらしい」
    「了解」
     こそこそ話しているうちに兄弟は目の前にやってきて、じろりと二人を見下ろした。
    「なんだ、ガキじゃないか」
     トゥアヘルがつまらそうな声をあげた。フォイルがしかめ面で腕を組む。
    「なんなんだ、おまえたちは。ここが誰の土地だか知らんのか」
    「いや、ちょっと」
     クー・フーリンは立ち上がり、尻のほこりを払い落としながら、にやにやと言った。
    「我が国アルスターを害する奴らを懲らしめにね」
     三人の男たちはぽかんと顔を見合わせると、一斉に爆笑した。
    「おいおい、お嬢ちゃん!」
     ファイルが笑いすぎて浮かんだ涙をぬぐいながら、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
    「勇ましいのは結構だがね。あんたの母親は、『命知らず』って言葉を教えてくれなかったのかい?」
    「そうさ。どんなに可愛い顔をしてても、そんなんじゃ命がいくつあっても足りないぜ」
    「さっさとお家へ帰って刺繍でもしてな、お嬢ちゃん!」
     ぴくぴくとクー・フーリンのこめかみが痙攣するのに気づき、ロイグは内心ハラハラした。
     この幼なじみは、怒ると手が付けられないのだ。今にも──。
    「ほんと、ちょうどよかったぜ」
     怒りのあまり低くなった声で、クー・フーリンは吐き捨てた。彼女の周りに光る文字が踊り始めたことに、ロイグは気づいた。
    「このお嬢ちゃん様は、今ものすごくムシャクシャしてるんだ。今すぐ誰かをブチ殺してやりたいくらいにな!」
     言うやいなや、クー・フーリンは目にも留まらぬ速さで槍をフォイルの右目に突き刺した。男の口から絶叫がほとばしる。
     クー・フーリンはそのまま腰の剣を抜き、雄叫びとともに男の首を断ち落とした。
     フォイルはうめき声をあげる間もなく、鮮血を吹き出しながら絶命する。
    「なっ!」
     ファイルとトゥアヘルが叫んだ。クー・フーリンは勢いのまま、次男に斬りかかる。
     しかし、彼女が振り下ろした剣は空を裂いた。ぱっと振り返れば、ファイルはいつの間にか川の浅瀬に飛び退いている。
     クー・フーリンは槍を死体から引き抜き、足に強化のルーンをかけて、勢いよく大地を蹴った。
     迫る姿にファイルは目を見開いた。自分のように速く動ける人間がいるだなんて!
     クー・フーリンが繰り出した槍を、あわやファイルは剣で受けた。ギィン、ギィンとすさまじい音を立てて刃がぶつかり合う。
     クー・フーリンは、口元に笑みが浮かぶの止められなかった。確かに、こいつらは強いらしい。だが。

     師匠より弱い!

     クー・フーリンの槍がファイルの胸を貫いた。「ぎゃあ!」と断末魔をあげ、男は派手な水しぶきとともに川に沈んだ。
    「クー、あいつが逃げるぞ!」
     ロイグの叫びにはっと顔をあげれば、三男のトゥアヘルが走り出すところだった。敵わないと思ったのか、剣を持ったまま慌てたように遠ざかっていく。
    「敵に背中を見せるなんてな」
     クー・フーリンは白い歯をむき出しにして笑い、勢いよく手の槍を投擲した。
     だが、投げられた槍はトゥアヘルの体を避けるようにずれ、離れた前方の地面に突き刺さる。
     トゥアヘルは振り返り、笑ったようだった。
    「あいつに飛び道具は効かないって言っただろ!」
     ロイグが叫んだ。だが、クー・フーリンは余裕の表情を崩さない。
    「まあ、見てろって」
     トゥアヘルが槍のそばを走り抜けようとした瞬間、カッと光が放たれ、槍が爆発した。
    「!?」
     男は爆発に巻き込まれ、大地に倒れた。
     トゥアヘルはわけがわからないという顔をして、両足が吹き飛んだ自分の下半身を見る。
     ジャリ、と音がして顔をあげれば、ゆっくりと歩み寄ってくる娘の姿が目に入った。
     トゥアヘルは喉を震わせ、引きつったような叫び声をあげた。
    「や、やめてくれ、頼む!」
    クー・フーリンは足を止めた。男は必死で言いつのる。
    「も、もうアルスターの人間は殺さないと誓う。だから頼む、命だけは」
     ごとり、とトゥアヘルの首が地面に転がった。
    「ふう」
    クー・フーリンは、自分の肩を汚れた剣でトントンと叩き、目を細めた。
    「悔やむなら、オレの前に立つんじゃなかったな」
     しゅうしゅうと地面を焼く音に、クー・フーリンは振り返った。足元には、ルーン文字が刻まれた槍がバラバラになって散らばっている。
    「まあ、こういうのもアリさね」
     クー・フーリンは戦利品である敵の首を拾い上げると、呆気に取られた顔をしているロイグに向かって、にこやかに手を振った。

     その後、二人は手分けしてネフタン兄弟の武器や鎧を集め、戦車に積み込んだ。
     三つの首は、クー・フーリンがその長い髪を縛って戦車にくくりつけた。血が滴って、戦車に赤い染みをつけた。
    「じゃ、帰るか」
     物騒な戦車がその場を去ったあとは、まるで何事も起こらなかったかのように静かになった。
     川岸に、皮一枚だけをまとった首のない死体が三つ転がっているのを除けば、だが。

     二人を乗せた戦車は、やがて拓けた場所に出た。
     小さな池があり、水鳥たちが羽を休めている。
     クー・フーリンたちは休憩することに決め、戦車を止めた。
     ロイグが馬に水を飲ませている間、クー・フーリンは手持ち無沙汰になった。襲撃が成功したのは嬉しいけれど、どうにも戦い足りず、熱が体の中でくすぶっている。
     地面を蹴りながら、いらいらと空を見上げると、白鳥の群れが現れた。
     白鳥たちは次々と池に降り立ち、水浴びをしたり、泳いだりし始めた。優雅な光景だ。
     遠くへ視線をめぐらせれば、野生の鹿の姿も見える。何頭か見えるから、群れだろうか。
    「うーん……」
    「どうした?」
     水辺から戻ってきたロイグは、何かを考えているクー・フーリンに声をかけた。
    「もしさぁ」
    「ああ」
    「狩りの達人だったら、ああいう白鳥をどうすると思う?」
    「変なこと聞くなおまえ」
     この幼なじみが突拍子もないことを言い出すのは慣れていたから、ロイグは適当に答えた。
    「さあな。綺麗なまま捕まえるんなら、生け捕りにするんじゃないのか」
    「んー、じゃあ、あっちの鹿は?」
    「そりゃあ、特に立派な雄を捕まえて見せびらかすな。死んだやつは珍しくもないけど、もし生きたまま捕まえられたら、その価値も倍ってもんさ」
    「へえ……」
     クー・フーリンはロイグに背を向けると、無造作に戦車の中をあさり始めた。積み込まれた武器の中から、投石具と石を取り出してくる。
    「クー?」
     ロイグが不審な目で声をかけると、クー・フーリンは投石具の紐の具合を確かめ始める。
    「よし、大丈夫そうだな」
     一人で納得しているクー・フーリンを見て、ロイグは嫌な予感がした。
    「おい、まさかおまえ」
     振り向いた彼女は、にやりと笑った。

    「王! 王!」
     王妃ムギンとの語らいを楽しんでいたコンホヴォルの元に、蒼白な顔をした騎士が飛び込んできた。
     憩いのひと時を邪魔された王は、不機嫌な顔になる。
    「なんだ、騒がしい」
    「た、大変です。化け物です。化け物がこちらへ向かってやってきます!」
     騎士は一息にまくしたてた。コンホヴォルの表情がますます険しくなる。この者は気でも触れてしまったのだろうか。
    「落ち着け。私の目を見ろ。……いいか、もう一度、ゆっくり何を見たのか話せ」
    「は、はい」
     ぜえぜえと肩で息をしながら、騎士はつばを飲み込んだ。
    「戦車が一台やってくるのが見えたのですが、その様相が異常なのです。生首をいくつもぶら下げ、頭上には白鳥が何羽も羽ばたき、馬と巨大な雄鹿が戦車を引いています。乗っている者の形相は化け物のようで、お、恐ろしくて恐ろしくて……これは早くお知らせしなければと……」
    「まあ!」
     ムギンが口に手を当てて叫んだ。
     コンホヴォルはすぐに立ち上がり、「我が槍を持て!」と槍持ちに命じた。王妃を部屋に残し、ばたばたと外に飛び出す。
     城壁に登って目をこらせば、確かに戦車が一台、こちらへ向かって走ってきている。
     うすうす予感はしていたが、あまりにも見覚えのある戦車だった。そして、そこに乗っているのは。
    「あの馬鹿娘が!」
     コンホヴォルはいまいましげに吐き捨てた。
     案の定、騎士が「化け物」と呼んだ者の正体は、クー・フーリンだった。
     初めての襲撃を終えた彼女は、いまだ収まらぬ闘争心と興奮の炎に飲み込まれていた。あまりに高ぶりが過ぎ、ほとぼりの冷まし方を知らないのだ。
     この時のクー・フーリンの状態は、とてもまともな状態ではなかった。
     後々、彼女の姿を見た者たちは「髪の毛が逆立ち、体が倍以上に膨れ上がっていた」だの「あごは肥大化し、右目は飛び出し、左目は内側に埋もれた」だの「光線を発し、赤黒い血に包まれていた」だのと恐ろしげに語った。
     いずれにせよ、愛らしさを讃えられていた娘は、いまや凄まじい狂戦士と化していた。
     コンホヴォルは考えた。おそらく、赤枝の騎士たちに彼女を止めるよう命令しても、彼らでは今のクー・フーリンには敵うまい。
     真正面から挑んだところで、加減ができない彼女に、蟻のように踏み潰されるのが落ちだ。
     コンホヴォルは舌打ちをし、すばやく思考を巡らせた。 
     男が駄目なら、女である。
     コンホヴォルは周りの騎士たちに大声で指示を飛ばし、自分は王の間へ駆け戻った。

     白鳥たちが頭上でギャアギャアと鳴き叫ぶ中、ロイグは戦車を抑えようと奮闘していた。
     だが、クー・フーリンの闘気にあてられたらしい二頭の馬と二頭の鹿はひどく興奮し、言うことを聞かない。
     この俺が御せないとは!
     ロイグは歯噛みし、幼なじみを降り仰いで叫んだ。
    「おい、クー! ちょっと落ち着け! このままだと城門に突っ込むぞ!」
    「構わねえ、突っ込め!」
     完全に興奮状態にあるクー・フーリンは、むちゃくちゃなことを言った。
    「さあ、怖じ惑え怖じ惑え! オレは最強だぞ、止められるもんなら止めてみやがれ!」
     狂ったように笑い、大声で叫ぶ。
    「どうだ、それでも誰かオレに挑戦してみるか!? 勇気ある戦士はいないのか!?」
     完全に暴走状態である。ロイグは手綱を必死で抑えながら、絶望の叫びを上げそうになった。
     目の前にぐんぐん城門が迫ってくる。
     ぶつかる!
    「うわっ!」
     勢いよく城門が開き、戦車は衝突することなく中に踊り込んだ。
     ロイグは驚いたが、さらに自分の目に飛び込んできた光景に、今度こそ心臓が止まりそうになった。
     渾身の力で手綱を引っ張る。馬と鹿は鋭い鳴き声を上げ、なんとか戦車は止まった。クー・フーリンは、いきり立って御者の背を叩いた。
    「おい! 何すんだ、よ……」
     そこでようやく、クー・フーリンはロイグが見たものに気づき、ぽかんと口を開けた。
     狂った戦車の前には、ムギン王妃はじめ、騎士の妻や娘、侍女といった女性たちが衣服を取り去って立ち並んでいた。
     彼女たちは、その美しい裸体を惜しげもなくさらし、クー・フーリンたちの前に立ちはだかった。
    「クランの猛犬どの」
     ムギン王妃がずいと進み出て、勇ましく背筋を伸ばす。その豊かな胸が揺れ、ロイグは慌てて目をそらした。
    「わたくしたちがあなたに挑戦いたしますわ。さあ、かかっていらっしゃいな」
     クー・フーリンは真っ赤になった。
     先ほどまでの威勢の良さはどこへやら、子犬のようにおろおろとしている。「あわわ……」と慌てふためき、思わず両手で顔を覆った。
     コンホヴォルが叫ぶ。
    「今だ!」
     バシャァン!
     いつの間にやら戦車の両脇に迫っていた騎士たちが、クー・フーリンたちに向かって冷たい水をぶっかけた。
    「うわ、わっ」
     驚く間もなく、クー・フーリンとロイグは男たちによって戦車から引きずり下ろされ、そのまま水を張った大桶に放り投げられた。
    「わあっ!」
     激しい水音とともに、豪快な水しぶきが派手に飛び散った。
    「…………」
     あたりがしいんと静まり返った。クー・フーリンとあわれな御者は、大桶の中で呆然と座り込み、髪からぽたぽたと水滴を垂らしていた。
     目の前にフッと影が落ちる。クー・フーリンがおそるおそる顔を上げると、腕を組んだコンホヴォルが、鬼の形相で見下ろしていた。
    「頭は冷えたか」
    「……ハイ」
    「何か言うことは」
    「……ゴメンナサイ」
     王は、はあっと息を吐いた。
    「まあまあ、あなた」
     ムギンが豊かな髪を揺らしながら、にこやかにやって来た。薔薇色に染まった頰が美しい。
     コンホヴォルは黙って自分の紺碧色のマントを脱ぎ、王妃の体を包んでやる。
    「アルスターの盾の力は伊達ではないということがわかって、頼もしいことじゃございませんの」
    「そうは言うがな」
     渋い顔の夫をなだめるようにムギンは口づけ、落ち込んだ様子のクー・フーリンに微笑みかけた。
    「さ、あなたも早く立ってお着替えなさい。疲れたでしょう。夕餉の席では、さっそく吟唱詩人にあなたの活躍を歌わせましょうね」
    「ム、ムギン様ぁ……」
     ぐしゃ、と表情を崩した娘の頭をよしよしとなで、偉大なる王妃はコンホヴォルとともに館に戻っていった。
     クー・フーリンは、尊敬のまなざしで王妃の後ろ姿を見つめた。その隣では、ロイグが思いきり不機嫌な顔をして、前髪から落ちる水滴をうるさそうに払っていた。
    「……俺、とばっちりだよな?」
     ぶすくれた顔の青年に、クー・フーリンは「まあまあ」と悪びれなく笑った。
    「お咎めがこれくらいで済んでよかったよな! お互いに」
    「いやいやいや、俺は散々止めただろ! そもそも、おまえが」
    「クー・フーリン……!」
     地を這うような声に、クー・フーリンとロイグはギクリと肩をはねさせた。
     間違いない、この面倒くさい声は。
     二人がそろって振り向けば、めらめらと激怒の炎を燃やしている我らが兄貴分のコナルと、その横で爆笑しているフェルグスがいた。
     コナルは傷に響くのも構わずずんずんと歩いてきて、桶の前で仁王立ちした。怒りのあまり、唇がぴくぴくと動いている。
    「ずいぶんとご立派な凱旋をしてくれたじゃないか、ええ? 誰がそこまでやってくれと頼んだ?」
     ギャア、と遠くで白鳥が一鳴きした。
    「えーっとぉ……」
     クー・フーリンは言葉を探すようにゆらゆらと視線を揺らし、やがてにっこりと言った。
    「ごきげん麗しゅう、コナル」
     ロイグががくりと肩を落とす。コナルは絶叫した。
    「この、たわけがぁー!!」

    血の婚姻
     ロイグは不思議だった。帰ってきたクー・フーリンは、すぐにもエメル姫に会いにいくものと思っていたのだ。
     それなのに、彼女はいつまで経っても姫に会いに行こうとしなかった。
    「なあ、クー」
    「んー?」
     石垣にもたれかかっていた幼なじみにロイグは声をかけた。
    「エメル姫のところに行かないのか?」
    「…………」
     クー・フーリンは、黙ったまま短剣で生肉を引きちぎっていた。
     ロイグはますます不審げな顔になる。クー・フーリンは顔をあげ、空に向かって声を張り上げた。
    「フェゼルマ!」
     バサリ、と音がした。見事な翼のハヤブサが空から舞い降り、クー・フーリンの腕に止まる。
     主人から肉の破片が差し出されれば、フェゼルマと呼ばれたハヤブサは、生き生きとそれをついばんだ。
    「おい、クー」
     ロイグは焦れたように声を出す。それでも、クー・フーリンはハヤブサを優しい手つきでなでるだけで、答えない。
    「おまえ、どうしちまったんだ? 前はあんなにも姫さん、姫さんって言ってたのに」
    「どうもしてないけど」
     嘘だ、と思ったが、こちらを見ようとしない幼なじみに、ロイグは言葉を飲み込んだ。
     やがて、クー・フーリンは、わずかに目を伏せた。
    「そのうち会いに行くよ。でも今は、まだ」
    「……そうか。まあ、行きたくなったら言えよ。すぐ戦車は出すから」
    「おう。ありがとな」
     影の国で何かあったな、と思う。だが、彼女が答えない以上、こちらも無理やり聞き出すわけにはいかない。
     ロイグは息を吐き、馬の世話をするために、その場から離れた。

    「ちょっと、クー・フーリン! クー・フーリンはいる!?」
     ばたばたと訓練場に駆け込んできた女たちの姿を見て、男たちは目を丸くした。
     クー・フーリンも槍を構えたまま、驚いたように突っ立っている。
     入ってきたのは、ロイガレの妻であるフェデルムと、コナルの恋人であるレンダウィルだ。
     とは言っても、小柄なレンダウィルはおろおろしており、目をつり上げたフェデルムに無理やり引っ張られてきたようではあったが。
     フェデルムは鋭い目つきで鍛錬場を見回し、クー・フーリンを目ざとく見つけると、レンダウィルを引きずってずんずんと歩いてきた。
     その凄まじい剣幕に、クー・フーリンは思わず後ずさりしたが、フェデルムの荒々しい歩調は止まらない。
     ずい! と身を乗り出し、フェデルムはクー・フーリンにビシリと指を突き立てた。
    「あなた、どういうつもりなの?」
    「おい、いったいどうした」
     見かねたロイガレが妻を止めようとしたが、フェデルムはぎらぎらした目で夫を黙らせ、再びクー・フーリンに向き直った。
    「な、なんなんだよ、フェデルマ」
    「ルスカ領のお姫様のことよ。あなた、まさか彼女を忘れたなんて言わないでしょうね? あんなに仲が良かったのに!」
    「……エメルがどうしたっていうんだよ」
     フェデルムは心底呆れた、という風に胸をふくらませた。
    「あなた、まさか知らないの?」
    「何をだよ」
    「あのお姫様が、タラの王と結婚することをよ!」
     時が止まった。ように感じた。
     クー・フーリンは、体がざあっと冷えていくような気がした。そばで、コナルが驚いた声をあげる。
    「エメル姫が結婚する? 本当なのか?」
    「呆れた、男たちって何も知らないのね! あなたもよ、クー・フーリン。ずっと狩りだの試合だのにうつつを抜かして、肝心の友人の境遇なんかまったく気にしないんだから!」
    「ど、どうして」
     思わず、クー・フーリンの唇が震えた。フェデルムが再び声を荒げそうになるのを、隣にいたレンダウィルが必死でなだめた。
    「ねえフェデルマ、落ち着いて! ……あのね、クー。フォルガルが仕組んだのよ。タラ王の権力は絶大でしょ。そこに娘が嫁げば、自分の権力もいっそう強まると考えたんだと思うの」
    「あの恐ろしい父親! エメル姫が哀れだわ。結局、娘のことなんか自分の都合のいいように使う道具にしか思ってないのよ」
     コナルは、妹分の体が小さく震えているのに気づいた。そばにやってきたフェルグスも、思案するように腕を組む。
    「それで、婚礼はいつなんだ?」
    「まだわかりませんわ、フェルグス様。でもあの『抜け目のないフォルガル』のことですもの。ここまで噂が広がっているんだし、そう遠い話じゃないはずですわ」
     そこでフェデルマは、クー・フーリンの顔が真っ青になっているのに気づいた。少し激情が収まり、気づかわしげな口調になる。
    「ねえ、クー。あなたにとって、エメル姫は大事なお友達でしょ。せめて、最後に顔だけでも見せに行ってあげたほうがいいわよ、ね?」
    「オレ……」
     クー・フーリンは混乱していた。エメルが結婚? タラの国王と?
    「──!」
     思わず、クー・フーリンは訓練場を飛び出した。背後でフェルグスたちが呼ぶ声がしたが、気にしていられなかった。
     何かが爆発するような衝動に、クー・フーリンはひたすらに走った。絶え間なく体の中で何かが暴れ回って、胸が苦しくなる。
    「やだ……」
     思わず、小さなうめきが漏れた。エメルが結婚する。自分の知らない男と。
    「やだ……いやだ……」
     二人で出かけたときの彼女を思い出す。
     花畑を見て「こんなに綺麗なものを初めて見た」と言った姫の笑顔を。
     「自分は父の所有物だ」と言った姫の諦めた表情を。
     彼女の笑った顔がすごく綺麗だと思って。もっと笑ってほしくて。
     だから自分が強くなって。そうすれば、綺麗なものをいっぱい見せてあげられると思って。
    「二人で旅に出よう」って、オレが、オレが言ったのに!
    「エメル……」
     彼女が結婚してしまう。彼女が、自分の手の届かないところに行ってしまう。そんなの、そんなの。
     ──絶対に嫌だ!!

    「ロイグ!」
     大声に、ロイグはびっくりして立ち上がった。
     御者仲間たちと談笑しながら午後の日差しを楽しんでいたところに、クー・フーリンが稲妻のように飛び込んできたのだ。
     クー・フーリンは驚く青年の腕の中に飛び込み、その体にしがみつく。
     切羽詰まった友の姿に驚きつつも、ロイグはなるべく優しい声で言った。
    「どうした、クー?」
    「エメルが……」
     ロイグの服を弱々しく掴み、クー・フーリンはうめいた。
    「エメルが、結婚するって」
     けっこん、という言葉に、幼なじみは喉を引きつらせた。
    「姫が結婚だと? 誰と」
    「タラ王だって……さっき、フェデルムとレンダウィルが」
     青年は、腕の中で震える小さな体を見つめた。いつになく動揺し、混乱している姿がもどかしい。
    「そうか。それで、おまえはどうする?」
    「オレ……?」
     クー・フーリンは顔を上げた。ロイグはうなずく。
    「姫に会いに行くか?」
    「……………」
     クー・フーリンはうつむいてしまう。
     ロイグは幼なじみの体を離し、目線を合わせるために少し身をかがめた。
    「なあ、クー。俺は、おまえが影の国にいる間に何があったかは知らない。だけど、おまえにとって、エメル姫が大事な人だっていうことは知ってる。俺はおまえに後悔してほしくないんだよ」
    「オレは……」
    「姫がタラ王に嫁いだら、もう前みたいには会えなくなるぞ。それでもいいのか?」
     クー・フーリンはぶんぶんと首を振った。
     ロイグは微笑み、勇気づけるようにその肩に手を置いた。
    「姫に会いに行こう、クー」
     少しばかり逡巡するように、クー・フーリンは視線をさまよわせた。
     それでも、やがてロイグの顔を見つめると、小さくうなずいた。

     「馬をつないでくるから、おまえは一番いい服に着替えておけ」とロイグに言われ、クー・フーリンは館へ戻った。
     自分の部屋に入り、悩んだ末、結局いつもの正装に身を包んだ。武装ではあったが、彼女にとって一番いい服は結局これなのだ。
     さすがに鎧はつけなかったが、革のベルトにスカサハからもらった美しい剣を吊り下げ、飾り紐のついた投石具を結びつける。
     耳飾りに合うような首飾りと腕輪も身につけた。
     久しぶりにエメルに会うのだから、やはり、身綺麗な格好はしておきたかった。
     外に出て御者を待つ。だいぶかかるなと思い始めた頃、ロイグが戦車を御してやってきた。
    「おい、遅いぞ」
    「悪い、悪い。いろいろ準備があったから」
     見れば、マハとセングレンのたてがみは綺麗に編み込まれ、立派な馬具がつけられている上に、戦車もぴかぴかに磨かれている。
    「ちょっと大げさじゃないか?」
     戦車に乗り込みながらクー・フーリンが言うと、ロイグは笑って片目を閉じた。
    「何言ってるんだ。最強と謳われし戦士が出向くんだぞ。これくらいしないとな」
     積まれた武器のそばに座り込み、戦車の枠に頰をついて、クー・フーリンは少しだけ笑った。
    「ほんっと、おまえはいい御者だよ」
    「ご主人のお褒めにあずかり光栄」
     うやうやしく頭を下げ、ロイグは馬を走らせ始めた。

     フォルガルの館に着いたとき、空には夕闇が迫り始めていた。
     細い月がうっすらと浮かび、そのそばに寄り添うように、銀色の星が光っている。
     クー・フーリンは、ためらうように館を見上げた。
     暗く重い雰囲気は、記憶のままだった。門は何者をも拒むかのように、どっしりと閉じている。
     見張り台には松明の炎がぱちぱちと弾けている。
     ロイグが振り返り、小さくうなずく。クー・フーリンもうなずき返すと、戦車の上に立ち上がり、声を張り上げた。
    「アルスター国のクー・フーリンだ。エメル姫にお目通し願いたい!」
     城門の向こうで、足音や話し声が聞こえた。
     やがて、衛兵らしき男がのっそりと見張り台に姿を現す。
    「どこの何者だって?」
    「アルスター国のクー・フーリンだ。エメル姫はいらっしゃるか?」
    「貴様のような小娘が、姫様に何の御用だ」
    「修行の旅から帰還した。姫にご挨拶を申し上げたい」
     衛兵は馬鹿にしたように鼻を鳴らし、見張り台から頭を引っ込めた。
     そのまま、二人は待たされた。
     じりじりとした思いで、クー・フーリンは目の前の城門をにらみつける。
     その間にも、各見張り台には何人もの男たちが顔を出し、こちらを覗いていた。
     全員、フォルガルに使える騎士たちだろう。下卑た笑みを浮かべ、にやにやとクー・フーリンを見下ろしている。
     不意に、城門の向こう側がバタバタと騒がしくなった。何やら叫び声も聞こえる。
     静かになったと思ったとき、見張り台に一人の男が姿を現した。
     黒衣に身を包み、その目はぎらぎらと光っている。──間違いない、フォルガルだ。
    「クー・フーリン殿」
     フォルガルは歯をむき出して笑った。口調は丁寧だが、つり上がった目には、憎悪が滾っている。
    「影の国にいらっしゃるものとばかり思っておりましたぞ」
    「影の国での修行を終え、戻ってきたのです」
     クー・フーリンはフォルガルを睨みつけながら言った。この男の卑しい顔を見るだけで吐き気がしたが、我慢した。
    「なんと、あの国からご無事で戻られたとは、さすがでございますな。そんなお方が、我が娘に何の御用ですかな?」
    「帰ったことを、姫様にご報告しに」
    「ほう、それはわざわざ恐縮です」
     フォルガルは目を細めた。
    「あいにくですが、我が娘は婚礼の準備で手が離せませんのです。誠に申し訳ないですが、お引き取り願えませんかな」
     クー・フーリンは歯を食いしばった。こぶしをぎゅっと握りしめる。
    「結婚のことは聞き及んでおります。ご挨拶もかね、一言、お祝いを──」
    「お心遣い、痛み入りますな」
     にやりと笑みを浮かべ、フォルガルは言った。
    「ありがたきお言葉、エメルには私から伝えましょうぞ。さあ、実に恐縮ですが、私も忙しい身でしてな。どうかお引き取りを──」
     不意にドタン、バタンと大きな音がした。「いけません!」「止めろ!」という男たちの野太い叫び声が聞こえる。
     バタバタという音はだんだんと大きくなり、フォルガルが驚いたように後ろを振り返る。
    「クー!」
     クー・フーリンは目を見開いた。
     重苦しい空気を引き裂き、ぱっと光が飛び込んできたかのようだった。見張り台から身を乗り出した姿に、思わずクー・フーリンは叫んだ。
    「エメル!」
    「クー! クー!」
     見間違えようもない。髪を振り乱し、真っ赤な顔をしたエメルが、こちらへ手を伸ばして叫んでいる。
    「何をしておる! 下がらせんか!」
     フォルガルが怒鳴った。屈強な騎士たちがエメルを押さえつけ、見張り台から引きずり出そうとする。
     エメルは必死に抵抗し、叫び声をあげた。
    「いや! 離して!」
    「エメル!」
     エメルは暴れ、父親の部下たちから逃れようとした。
     反抗する娘の姿についに業を煮やしたフォルガルが、勢いよくエメルの頰を殴りつけた。
    「きゃあ!」
     エメルは悲鳴をあげて倒れ込んだ。見張り台の向こうに姿が消える。
    「──!!」
     クー・フーリンは声にならない叫び声を上げた。
    「おい!」
     はっと振り向けば、ロイグが睨みつけるような目でクー・フーリンを見上げていた。
    「何してる! 行け!」
     クー・フーリンは唇を引き結び、うなずいた。
     急いで戦車に積まれた槍と盾を拾い上げると、高くそびえる見張り台をにらみつける。
     戦車の上に身をかがめ、両足に力を集中させる。
    「はっ!」
     叫びと共に、クー・フーリンは高く高く跳躍した。
     力強い鮭のように、細身の体が宙に舞う。
     一瞬、驚いた顔でこちらを見上げるエメルと目が合った。
     クー・フーリンは城壁の上に着地した。目を見開いているフォルガルを、真正面から睨みつける。
    「やれ、やれ!」
     ドルイドが狂ったように叫んだ。見張り台に登っていた兵たちが、次々に槍を投げてきた。
     クー・フーリンは身をかがめて飛んでくる槍をかいくぐり、疾風の勢いで見張り台に迫った。
     そのときだ。
     ズン、と足元が揺れ、クー・フーリンははっと立ち止まった。
     見上げれば、太い槌矛を持った巨大な体躯の戦士が目の前に立っている。
     巨人のような男は槌矛を振り上げ、勢いよくクー・フーリンに殴りかかった。
     ぱっと飛び上がって避ければ、男が振り下ろした槌矛が、クー・フーリンが一瞬前まで立っていた場所を粉々に砕いた。
    「ウ、オ、オ、オオ!」
     間髪入れず、男は再び槌矛で打ちかかってきた。
     クー・フーリンはどんどん後ろに飛び退いた。
     槌矛が振り下ろされるたびに、城壁の足場が破壊されていく。
     鈍重な攻撃は避けるのは容易だったが、このままではフォルガルたちに近づけない。
     クー・フーリンは槍をぎゅっと握りしめ、男の攻撃をさっと身を伏せてかわすと、胸元からルーン文字を刻んだ石を取り出して男の顔に投げつけた。
     カッと光がほとばしり、男の顔のそばで石が爆発する。
    「があ!?」
     目を焼かれた男が顔を押さえて怯んだ。今だ!
    「うぉおおおおお!!」
     クー・フーリンは吠え、勢いよく槍で男の胸を突いた。血が激しく噴き出し、クー・フーリンの顔を汚す。
     男は顔を苦悶に歪ませて絶叫した。自制を失ったかのように槌矛をめちゃくちゃに振り回す。
     自暴自棄になった人間の攻撃は厄介だ。太く重い槌矛は、城壁の足場や壁までも破壊していく。
     音を立てて襲ってきた槌矛をクー・フーリンは間一髪で避けたが、自分が着地した足場に激しい亀裂が走ったことに気づいた。
    「しまっ……」
     足場が崩壊し、クー・フーリンは宙に投げ出された。
    「くっ!」
     クー・フーリンはひらりと身を翻し、中庭に着地した。
     待ち構えていたフォルガルの騎士たちが襲いかかってくる。
     いくつもの翻る刃をクー・フーリンは槍で受けた。踊るように受け流し、薙ぎ払い、鋭く突き通す。
     槍のひと払いで何人もの騎士を打ち倒すが、すぐにまた何人もの敵が飛びかかってくる。
     クー・フーリンは舌打ちをした。これではキリがない。
     襲ってくる敵の向こうで、フォルガルがエメルの髪を掴んで引きずりながら、城壁の上を走っていくのが見えた。
    「待て!」
     敵の白刃をはね退け、クー・フーリンは叫んだ。不意に横から太い槍が勢いよく突き出され、慌ててそれをかわす。
     くそ、このままでは追いつけない。どうしたら──。
    「なんだぁ!?」
     遠くで衛兵が叫ぶ声が聞こえた。城門の外で、わあわあと騒がしい音が大きくなってくる。
     ドォン、ドォンと何かが激しくぶつかるような音。そして──。
     ワッと門が破られ、いくつもの戦車がなだれ込んできた。
    「!?」
     クー・フーリンを囲っていた騎士たちが驚いてそちらを見る。
     一台の戦車が、勢いよく走ってきた。轟音を立てて襲いくる戦車に、敵兵たちは悲鳴をあげた。
     クー・フーリンが身を伏せれば、戦車からは次々と投げ槍が繰り出される。槍は、彼女の周りの敵兵たちを串刺しにした。
    「無事か? クー!」
     驚いて顔をあげれば、涼やかな目元の青年が自分を覗き込んでいた。
    「ノイシュ……? アーダンに、アンリも!」
     彼らは、クー・フーリンの従兄弟であり、赤枝の戦士でもある三人兄弟だった。
     長男のノイシュと次男のアーダンが戦車に乗り、三男のアンリが手綱を握っている。
     立ち上がったクー・フーリンを見て、ノイシュはほっとした顔をした。
    「よかった! 間に合ったな」
    「ノイシュ、なんでおまえたちが……?」
    「俺たちだけじゃないさ」
     ノイシュに示された方向を見たクー・フーリンは、ひときわ大きな戦車から飛び降り、近づいてくる男の姿を見て、呆然とつぶやいた。
    「叔父貴……?」
    「随分と面白いことになってるじゃないか? 我が姪よ!」
     フェルグスは豪放磊落に笑いながら、太い剣で向かってくる敵を豪快に斬り飛ばす。
    「な、なんで叔父貴が」
     ヒュン、と何かが空を切り、クー・フーリンの背後で「ギャア」という叫びが聞こえた。
     驚いて振り返れば、首に矢が深々と突き刺さった敵兵が地面に転がっていた。
    「弓矢ってやつは、敵を斬り倒す実感が無くていまいちだな」
     ゆっくりと弓を下ろした青年は、戦車の上でフンと鼻を鳴らした。
    「コナル……」
     クー・フーリンが立ち尽くしている間にも、コナルはすばやく矢を弓につがえ、走ってくる敵兵たちを次々と射倒していく。
    「負傷している腕でそこまで射抜けるなら、大したものだ」 
     コナルのそばで、こっそり死角から近づいていた敵を殴り倒したのは。
    「ロイガレ!」
     叫んだクー・フーリンを見て、ちらりと手に持った戦斧を上げてみせると、ロイガレは再び無言で敵を蹴散らし始めた。
    「俺は槍の方が好みだ」
    「そうか」
     皮肉屋なコナルと無愛想なロイガレは、一見相反するようだが、驚くほど息が合っていた。
     合図を出しているわけでもないのに、互いの考えがわかっているかのように、次々と敵を倒していく。
    「なんで……」
     つぶやくクー・フーリンの肩を、フェルグスが大きな手で叩いた。
    「ロイグから話を聞いてな」
    「ロイグから?」
     フェルグスは大きくうなずいた。
    「さあ、話はあとだ。おまえはエメル姫を追え」
    「ここは俺たちに任せとけ」
     ノイシュが握りこぶしで胸を叩く。
     クー・フーリンは仲間たちの顔を見回し、力強くうなずいた。
     地面に転がっていた槍を拾い上げ、城壁の上に飛び上がると、フォルガルとエメルが消えた方向へ向かって勢いよく走り出した。

     フォルガルは息を乱しながら裏門を目指して急いでいた。
     くそ、何でこんなことに! ようやくここまでこぎつけたのに!
    「離して、離して、お父様!」
     抵抗する娘を、フォルガルは苛立ちとともに地面に叩きつけた。
     エメルは「うっ」とうめき声をあげて倒れ臥す。
     この娘もこの娘だ。ここまで育ててやった恩を忘れおって!
     脳裏に死んだ女の姿が思い出される。どこまでも自分に歯向かった、いまいましい女!
     やっぱりこのエメルも、あの女の娘だということか!
    「フォルガル!」
     天地をも裂くような声に、フォルガルははっと振り返った。
     双眸に激しい怒りの炎を燃やし、固く槍を握りしめた女が立っている。
     その姿は、まるで戦女神のようだった。
    「クー……」
     傷だらけになったエメルが必死に体を起こし、その名を呼んだ。
     ドルイドはぐいと娘の髪を引っ張り、盾にするようにエメルを抱え込んだ。
    「それ以上近づくな、小娘が!」
     フォルガルは腰の短剣を抜き、エメルの白い首にぴたりと当てた。クー・フーリンの目つきが殺気を帯びる。
    「その汚い手を姫から離せ」
     クー・フーリンは押し殺した声でうなった。怒りのあまり、体が張り裂けそうだった。
    「言ったはずだぞ、フォルガル。今後、エメル姫にかすり傷ひとつでもつければ、このアルスターの番犬が黙っていないってなぁ!」
    「何が番犬じゃ、この卑しい雌犬めが!」
     フォルガルがつばを飛ばしながら叫んだ。
    「貴様のような卑しい女が、高位のドルイドであるこの私に物申すなど無礼にも程があるわ!」
    「なんだと……?」
     ぴき、とクー・フーリンのこめかみに青筋が立つ。
    「誰が雌犬だって?」
    「私は知っておるのだぞ、アルスターの小娘よ」
     息を荒げながら、フォルガルは口元を歪めた。燃える松明の火が、めらめらと憎しみに包まれた男を照らし出す。
    「貴様がどこの馬の骨とも知れぬ男どもとまぐわい、あろうことか、子まで孕んだことをなぁ!」
    「──!!」
     エメルが目を見開いた。
     クー・フーリンは体中の血がざあっと冷たくなった気がした。
     なぜだ? どうしてこの男が、そのことを?
    「フン、その様子だと間違いではなかったようだな」
     明らかに動揺した様子のクー・フーリンに、フォルガルは鼻を鳴らし、蔑んだ声で言った。
    「慎みもなく誰にでも股を開くような浅ましい女が、我が高貴な娘に近づこうなど片腹痛いわ」
    「な……んで……」
    「私の部下は優秀でなぁ」
     ドルイドはにたりと笑った。笑みが浮かぶのを止められなかった。
     ついに、この鼻持ちならない女の弱みを突いたのだ! 
    「貴様のような女を懐に入れておくコンホヴォル王の気が知れぬわ。あの若造め、優秀な王だと聞いていたが、犬の躾ひとつ満足にできないとはな」
     クー・フーリンは目の前が真っ赤になった。
    「我が王を侮辱するな!」
     カッとなり、大声で怒鳴る。
    「王に落ち度は何もない。それを、それを──」
    「主人には忠実か。それでも、自分のことについては否定しないのだな」
     クー・フーリンの顔がさっと青ざめる。
     コンラのことは誰も知らないはずだ。なのに、この男に知られてしまった。
     よりによって、この男に! それに──。
     クー・フーリンは、フォルガルに捕らわれている娘の顔を見た。
     その瞳は潤み、信じられないという目でこちらを見ている。足元から絶望が這い上がってくるような気がした。
     違う、違う。オレは雌犬じゃない。オレはそんなんじゃない。オレは。
    「とっとと去れ! この汚らわしい雌犬が!!」
     フォルガルが怒鳴った。
    「エメルは貴様のような下劣な女とは違うのだ、この売女め! 雌犬は雌犬らしく尻尾を振って、足元にひれ伏せておればよい!」
    「あ……」
     クー・フーリンの体がぐらりとよろめいた。足に力が入らない。
     体中ががたがたと震え出し、目の前がぼやけ始める。否定したいのに、喉が塞がれたように声が出ない。
     違う、オレは、オレは──。
     不意に、エメルが身をよじった。完全に油断していたフォルガルの腕を振りほどく。「なっ!?」とフォルガルが驚きの声をあげる。
     エメルはそのまま身を翻すと、勢いよく父親の身体を突き飛ばした。
     クー・フーリンの目には、まるで全てがスローモーションのように見えた。
     フォルガルは、悲鳴をあげながら城壁の向こうへ落ちていった。振り回す腕が松明にぶつかり、共に落ちていく。
     すぐに、ザシュ、と地面にぶつかった音がした。

     全ての音が消えたようだった。

     だが、それも一瞬のことで、すぐにまた遠くの喧騒や剣戟の音が戻ってくる。
     クー・フーリンは声が出せなかった。
     エメルはその乱れた髪を風に激しくなびかせ、城壁の下を見つめたまま、微動だにしなかった。
     やがて、パチパチという音が聞こえ始めた。気のせいか、大地が明るくなっていくようだ。
     クー・フーリンが、ようやくこわばった身体を動かして城壁の下を覗き込むと、そこには地面に横たわるドルイドの姿があった。
     一緒に落ちた松明の火がドルイドの衣服に舌を伸ばし、静かに燃え広がっていく。
     チロチロと男を舐めているだけだった火は、徐々に大きくなっていく。
     やがて火は男を飲み込み、柵に燃え移り、草木に燃え移り、轟々とうなり声を上げ始めた。それはまるで、産声のように。
     クー・フーリンは、オレンジ色の光に照らされたエメルの横顔を見つめた。長い髪が、烈風に激しく踊っている。
    「なんてことを……」
     かすれた声でつぶやく。魂が戻ったかのように、エメルはゆっくりと振り向いた。
     姫の瞳には、強い光があった。紅く紅く燃え盛る炎の瞳だ。
     そのあまりの力強さに、クー・フーリンはたじろいだ。
    「あなたを侮辱されたから」
     エメルは瞬きもせずに言った。フォルガルに打たれた頰が赤く腫れている。
     華奢な腕や足は泥で汚れ、あちこちにあざや引っかき傷ができていた。
    「で、でも、あいつはおまえの父親で──」
    「あんな人、父親なんかじゃないわ」
     少女は、抑揚のない声で言った。その言葉に、クー・フーリンは何も言えなくなる。
     ときおり、足元から火花が飛んでくる。熱を帯びた風が、二人の髪を翻弄する。
    「……本当なの?」
    「え?」
    「さっき言ってたこと」
     クー・フーリンの胸は鉤爪で掴まれたようにぎゅっと傷んだ。
     エメルは、目を逸らしてくれない。
     足元にぽっかり開いた暗い穴に、魂まで落ちていきそうな心地だった。
    「……ああ」
     力なくうなだれ、首肯する。
    「子どもも、できた。でも、でも、それはオレが望んだことじゃなくて」
     彼女に軽蔑されたくない。嫌われたくない。その思いが突き上げて、必死になって言葉を紡ぐ。
    「男たちが、無理やり」
     ぐっと喉が塞がれたように苦しくなった。忘れていた苦痛と吐き気が戻ってきて、目が熱くなる。
     クー・フーリンは急いで片手で口を押さえ、姫から顔を背けた。
    「ごめんなさい、私──」
     気づかうようなエメルの声に、目をつぶってかぶりを振る。荒れ狂う気持ちを落ち着けようと、大きく息を吸って、吐いた。
    「……いろいろ、取り返しのつかないことになっちまった。オレのせいだ」
     うつむいたまま、クー・フーリンは言った。
    「結婚のお祝いを言いに来るだけのつもりだったんだ。本当に。でも」
    「本当にそう思ってるの?」
     姫の声が、悲しげな色を帯びた。
    「私はタラ王と結婚なんてしたくなかった」
     クー・フーリンは驚いて顔を上げた。エメルは怒ったような、泣き出しそうな顔をしていた。
    「どうして……」
    「結婚すれば、二度とあなたに会えないと思った。それは、絶対に嫌だったから」
    「……なんで」
    「あなたが言ったんでしょう。一緒に旅をしようって」
     青ざめた顔のエメルは、それでも色褪せた唇を、わずかに笑みの形にしてみせた。
    「私、楽しみにしていたの。本当に」
     自分の中で確かに喜びが飛び跳ねたのを、クー・フーリンは認めた。
     だが、同時に、心の奥の冷静な部分が警鐘を鳴らす。
     だめだ。彼女のためにも、ここはきっぱりと拒絶しなければ。
    「あんなのは、世の中のことなんか何も知らない子どもの戯言だ」
     エメルは表情をこわばらせた。クー・フーリンは硬い声で続ける。
    「いいかエメル、よく考えろ。おまえはどんな炉ばただって行けるんだ。おまえにふさわしい男はいっぱいいる。贅沢できて、子どももできて、おまえは幸せに暮らせるんだ」
    「それが私の幸せだって、なんであなたに言えるのよ」
     エメルは唇を震わせた。潤んだ双眸に、怒りの火が灯る。
    「現に、タラ王のところに嫁ぐことは、私にとって不幸だったわ」
    「それは……そうかもしれないけど。でも、タラ王は駄目でも、他にもいい奴はいるだろ。一緒にいておまえが幸せになれる人が……」
    「それは、あなたではいけないの?」
     クー・フーリンは息を飲んだ。エメルに透き通るような強い眼差しを向けられ、胸の奥がざわざわと苦しくなる。
     自分がなんとか目を背けようとしてきたことを、この少女は突きつけてくる。
     エメルは、一歩前に踏み出した。
    「あなたといたいわ」
    「駄目だ」
     クー・フーリンは一歩後ろに下がる。姫は構わず、さらに一歩踏み出す。
    「どうして?」
    「駄目だからだ」
    「なによ。それなら、あなたはどうなの」
    「オレ?」
     エメルは手を握りしめ、喧嘩腰でクー・フーリンをキッと見上げた。二人の間は、もう三歩ほどの距離だった。
    「私は、あなたと一緒にいる時間が一番幸せだったの。あなたは?」
    「オレ、は……」
     クー・フーリンは口ごもり、思わず目線をそらす。
     エメルはそんな友の姿をじっと見つめていたが、やがて力なく顔を伏せた。
    「……ごめんなさい」
    「え?」
    「私、自分のことばっかりね。あなたの気持ち、全然考えてなかった。ごめんなさい」
     エメルは何かを堪えるように唇を震わせたが、やがて顔をあげ、微笑んだ。
     それは、見た者の胸が締め付けられるような、寂しそうな笑みだった。
    「あなたにも、きっと大切な人がいるってことを忘れてたわ。どうか許してね」
    「エメル……?」
    「あなたに会えて、幸せだったわ。ありがとう、クー」
     娘の頰に、深い微笑の影が通り過ぎる。次の瞬間、その体がふわりと傾いだ。
     誰もが褒め称えた美しい髪が、緩やかに宙に広がった。

    「エメル!!」

     絶叫し、前に飛び出す。
     思いきり手を伸ばし、すんでのところで落ちていく腕を掴む。
     体が壁に叩きつけられ、うめき声が漏れた。歯を食いしばり、重みに耐える。
     掴んでいる、大丈夫だ、掴んでいる!
    「離して!」
     エメルが悲痛な声で叫んだ。眼下では、燃え広がった業火が口を開けている。クー・フーリンは、ぐうっと彼女の腕を掴む手に力を込める。
    「離すか、馬鹿!」
     必死で足を踏ん張り、ぶらさがった姫の体を城壁の上まで引っ張り上げる。
     やがて、ドサッという音と共に、二人して尻もちをついた。
     耳元でドクドクと激しく鼓動が打つ。心臓が口から飛び出しそうだ。
     うつむいたエメルが、それでも炎に惹かれるように視線をそちらに向けるのを見て、がむしゃらに抱きしめた。
     細い華奢な体を腕の中に閉じ込め、どこにも行かせないというように。
     こぼれそうになる嗚咽を必死でこらえる。
    「どうして……」
     ぼろぼろのエメルがつぶやく。
    「こっちの台詞だよ!」
     クー・フーリンはしゃくりあげそうになりながら、エメルの焦げた髪に顔をうずめた。
     どうしようもない恐怖と心細さに飲み込まれ、戦士でもなんでもない、ただの幼い少女に戻ってしまったかのようだった。
     エメルはぼんやりと顔をあげ、クー・フーリンの髪に触れた。
     はっと身を起こした友の目にいっぱい涙がたまっているのを見て、姫はかすかに笑う。
    「私は父を殺した重罪人。もうどこにも行くところがない。なら、仕方ないでしょう」
    「そんなの!」
     クー・フーリンはカッとなって怒鳴った。
    「あんたはずっとあいつに苦しめられてきた。これは当然の報いなんだよ。だから、おまえは罪人なんかじゃねえ!」
     こちらを茫洋とした目で見つめてくるエメルを見ながら、クー・フーリンは言いつのった。
    「そうだ、フォルガルもオレが殺したことにしよう。おまえは何もしてない。ただ見ていただけだ。全部悪いのはオレで」
    「やめて!」
     不意に、エメルの顔がぐしゃりと歪んだ。
    「私がお父様を突き落としたの。お母様を死なせて、実の娘だって道具のように扱って! しまいにはあなたをも傷つけて! 許せなかった。憎かったわ。だから私がやったのよ!」
     姫は悲鳴のような声でわめき立てた。初めて見るその激しさに、クー・フーリンは言葉を失う。
     だが、すぐにエメルは驚くべき自制心を見せた。
     大きく息を吸い、弱々しい笑みを浮かべた。すべてを諦めてしまったような、虚ろな笑みだった。
    「……ごめんなさい。きっと幻滅したわね。でも、これが私なの。見た目は褒められても、その中身はただの、弱くて醜い人間なのよ。本当なら、私のほうこそ、あなたと一緒にいる資格なんてないんだわ」
     エメルはクー・フーリンの胸を軽く押し、腕を解くようにうながした。
     クー・フーリンは渋ったが、再び優しく胸を押され、腕の力を緩める。
     エメルはためらいなくクー・フーリンの腕から逃れ、立ち上がった。
    「……これから、どうするんだ」
     自分を見つめる友の言葉に、エメルは小さく微笑む。
    「……わからないわ。でも、罪を償いながら死ぬまで生きる。もう私には、それしかできないから」
     姫は、クー・フーリンの肩にそっと手を置いた。
    「クー、私のことはどうか忘れて。あなたは、あなたの大切な人の元へ戻りなさい。それが何より大事なことよ」
    「できるわけねえだろ、そんなこと!」
     思わずエメルの手を掴んで立ち上がり、クー・フーリンは叫んだ。
    「オレには、おまえ以上に大切な奴なんか……!」
     そこで、クー・フーリンははっと言葉を飲み込んだ。エメルは目を見開いている。
     しまった。ずっと胸の底に沈めておくつもりだったのに。
    「クー……?」
    「あ、いや、その……」
     クー・フーリンは蒼白になって、口を覆った。エメルは友だった少女に向き直ると、じっと彼女の顔を見つめた。
    「ねえ、クー」
    「な、なんだ?」
    「聞かせてくれない? あなたの望みを」
    「オレの望み……?」
     クー・フーリンは目を丸くしたが、意味を察すると、すぐに激しくかぶりを振った。
    「だ、駄目だ。オレは望んじゃいけない。それは駄目だ」
    「どうして?」
    「だって、これは駄目なことだ。間違ってる」
    「何が間違ってるっていうの?」
     エメルは悲しそうに眉根を下げた。
    「私があなたといたいと思う気持ちも、間違ってるの?」
    「それは……」
     クー・フーリンは口ごもったが、すぐに強い口調で言った。
    「とにかく、駄目だ。正しくないんだよ。オレはあんたを不幸にする」
    「これ以上、不幸になることなんてないわ」
     クー・フーリンはだんだん苛々してきた。
     この姫さんはこんなに強情な分からず屋だったのか? オレがこんなに言ってるのに!
    「いいかエメル。オレはもう前のオレとは違う。おまえのそばにはいられないんだよ」
    「どうして?」
    「フォルガルだって言ってただろ。オレは汚れてるって!」
     叫んだ瞬間、喉が詰まった。なんて馬鹿な! 自分で自分が言ったことに傷つくなんて!
     クー・フーリンは打ち砕かれた気持ちになりながら、それをかき消すように叫んだ。
    「自分の意思じゃなくたって、事実は事実なんだよ! 何人もに強姦されて、ああそうさ、そいつらの子どもだって産んださ! いいか、もうオレの身は汚れてるんだ! 本当なら、おまえのつま先にだって触る資格は──」
     唇に手が触れ、言葉を切る。
     腕を伸ばしたエメルが、哀しそうな目でこちらを見上げていた。
    「汚れてるなんて言わないで」
     エメルはクー・フーリンの頰に触れた。
    「あなたは綺麗だわ。いつだって、誰よりも」
    「ッ……!」
     クー・フーリンは、身体中の力が抜けていくような気がした。
     炎が大地を舐める音が聞こえる。あんなに騒々しかった戦いの音は、いまや彼方に遠ざかってしまった。
    「どうしてだよ」
     つぶやくような声が、クー・フーリンの口から漏れる。
    「どうしておまえは、そこまで……」
    「ねえ、言って、クー」
     美しい二つの瞳が、じっと自分を見つめる。
    「あなたの気持ちを聞かせて。お願い」
     やわらかい翼が、頑なに閉じた心をそっとなでていくようだった。
     クー・フーリンは観念したように身体の力を抜いた。
     許されないと思う。それでも、もういいのだろうか。
     目の前に立つ姫を見つめる。
     どんなに傷だらけでも、どんなに罪深くても、エメルは美しかった。
     しきたりだとか、立場だとか、いろいろなものが次から次へと胸に浮かんで、気持ちに蓋をしようとする。
     それでももう、我慢するのに疲れきっていた。
     あふれるものを抑える力は、もうなかった。
    「オレは、おまえと一緒にいたい」
     目頭が熱くなる。涙がぼろぼろとこぼれていく。
     ああいやだ、こんな情けない姿、彼女にだけは絶対に見せたくなかったのに。
    「おまえと、ずっと一緒にいたい」
     エメルの目が細められた。
     ほっそりとした腕が、静かにクー・フーリンに向かって差し伸べられる。
     クー・フーリンは涙をぬぐうのも忘れ、言葉もなく目の前の白い手を見た。
    「手を取って」
     エメルは言った。
    「手を取って、クー」
     それでも、クー・フーリンは身動きせずに、差し出された手を見つめるばかりだ。
     オレンジ色の火の粉が、いくつも空に舞い上がっていく。轟々とうなる炎の音が大きくなっていく。
     エメルはゆっくりと息を吸うと、力強い口調で叫んだ。
    「私の手を取りなさい! クー・フーリン!」
     びくり、とクー・フーリンの身体が揺れた。腕が伸ばされ、ふしくれだった手がエメルの手を掴む。
     その瞬間、エメルは身を踊らせ、クー・フーリンの胸の中に飛び込んだ。驚く間もなく、細い腕が首に周り、しっかりと自分を抱きしめてくる。
     温かな体温に包まれたとき、クー・フーリンの胸にあった不安や恐怖が、溶けるように消えていった。

     バリバリという音がして、二人ははっとそちらを向いた。
     見れば、燃え広がった火はついに館にまで手を伸ばしていた。女たちの住まいは火に包まれ、柱や梁が轟音とともに焼け落ちていく。
    「お姉様! ばあや!」
     エメルが叫んだ。館の入口に、二人の女が立ちすくんでいる。一人は若い娘。もう一人は、クー・フーリンも顔を見知った侍女だ。
     姉だという娘は気丈に侍女を支えていたが、二人の周りはすでに火に囲まれており、焼け死ぬのは時間の問題だった。
     エメルは取り乱し、焦ってクー・フーリンを見上げた。
    「クー、お願い! 二人を助けて!」
     自分たちがいる城壁から住まいまでの距離を目測し、クー・フーリンは歯噛みした。
     ここからでは、いくら大跳躍を使っても、あそこまで届かない。エメルはここに置いていくとしても、二人の人間を抱えて逃げられるだろうか?
     エメルが悲鳴をあげた。姉と侍女の頭上にまで火が回ったのだ。
     二人に襲いかかるように炎の塊が落ちていく。
     まずい、間に合わない──!
     
     ガシャァァン!

     凄まじい音を立てて、裏門がぶち破られた。ものすごいスピードで、巨大な戦車が飛び込んでくる。
    「ロイグ!」
     クー・フーリンが叫んだ。
     ロイグは一瞬、自分の主人のほうを見上げたが、すぐに炎の中に取り残された二人の女に気づいた。
     すばやい手綱さばきで戦車を回転させると、迷うことなく燃えあがる館へ走っていく。
     二頭の勇敢な馬たちは炎をものともせず、すさまじい速さで突き進んでいく。
    「そうだ!」
     クー・フーリンは腰から投石具を外し、急いで砕けた城壁のかけらを拾い上げると、そこにルーン文字を刻む。
     館に到達したロイグは、エメルの姉と侍女を戦車に乗せようと手を伸ばした。
    「あぶない!」
     エメルが叫んだ。めりめりと裂けるような音とともに、燃えさかる柱が倒れてきたのだ。
     ロイグははっと頭上を見上げ、二人の女をかばうように身を伏せた。
     そのときだ。凄まじい爆発音がして、柱が弾け飛んだ。
     驚いたロイグが顔をあげれば、城壁の上で、投石具を構えている幼なじみの姿が見えた。
     ロイグはすぐに女たちを抱えて戦車に飛び乗ると、手綱を叩きつけた。
     馬たちは高らかにいななき、走り出す。その背後で、轟音とともに館が焼け落ちていった。
    「よかった……」
     遠ざかっていく戦車を見ながら、ほっとしたようにその場に座り込んだエメルの肩を、クー・フーリンは支えた。
     姫が見上げれば、クー・フーリンはうなずきかけた。
    「オレたちも行こう」
    「でも、私にはもう行くところなんて……」
    「大丈夫」
     クー・フーリンは腕を回し、華奢なエメルの体を抱き上げた。驚いたように声をあげる姫を見て、クー・フーリンは微笑んだ。
    「今度こそ、オレたちはどこにでも行ける」
    「……!」
     エメルは唇を震わせたが、ぐっと何かを飲み込んで、小さくうなずいた。
    「つかまって」
     細い腕が首に回されるのを確かめると、クー・フーリンは勢いよく城壁を蹴って宙に飛んだ。
     ひゅうひゅうという風の音が耳元でうなる。軽やかに炎を飛び越えていく。
     エメルの腕に力がこもるのを感じ、クー・フーリンも彼女を抱く手に力をこめた。

     庭では、戦いはすでに終結していた。
     仲間たちは己の戦車のそばに立ち、クー・フーリンを待っていた。
    「終わったな」
     エメル姫を抱いて現れたクー・フーリンの姿を見て、フェルグスが声をかけた。クー・フーリンもうなずく。
    「長居は無用だ。帰るぞ」
     コナルがぶっきらぼうに言う。ロイガレもノイシュたちも傷だらけだったが、皆が笑みを浮かべていた。
     クー・フーリンはエメルを地面に下ろし、彼女に向き直った。
    「なあ、エメル。アルスターに行こう」
     エメルは息を飲む。その瞳を真っ直ぐにとらえながら、クー・フーリンは続けた。
    「あそこには綺麗な風景も、うまい酒も、みんなある。それに何より、自由がある。オレといっしょに行こう」
     エメルはクー・フーリンを見つめていたが、やがて、力強くうなずいた。
     ワッと歓声があがった。見れば、フェルグスたちのそばには、エメルに忠実だった女の召使いたちも数多くいた。
     ギシ、と戦車を引く音がして、ロイグがやってくる。クー・フーリンは親友の顔を見上げ、笑みをこぼした。
    「おまえ、やってくれたな。何が準備だ」
     ロイグも白い歯を見せた。
    「念には念を、な」

     男たちは、自分たちの戦車にエメルに付き従う者たちを乗せた。
     ロイグが引くクー・フーリンの戦車には、もちろんエメルだ。姫の脇に飛び乗り、クー・フーリンは叫ぶ。
    「行こう、アルスターへ!」
     威勢のいい声が次々に応える。戦車たちは、いまだ黒い煙をあげ続けているフォルガルの館から、次々と走り去っていく。
    「〈聖祭の焚き火飛び〉」
     馬を走らせながら、ロイグが言った。
    「え?」
     クー・フーリンが聞き返すと、ロイグがちらりと振り向いて続ける。
    「いや、ちょっと思い出してさ。火祭りの夜に、恋人同士で一緒に焚き火を飛び越えるだろ? 無事に炎を飛び越えられた二人は幸せになれるってやつ」
     ロイグはにやりと笑った。
    「俺の主人たちは、すごく大きな炎を飛び越えた、と思ってね」
     クー・フーリンとエメルは顔を見合わせた。二人の顔が赤くなる。
    「呑気なこと言ってんじゃねえ。大変だったんだぞ」
    「あはは、悪い、悪い」
     ロイグは軽やかに笑った。友の屈託のない笑い声は、さざ波立っていたクー・フーリンの心をなだめた。
    「そういえば、フォルガルはどうしたんだ?」
     幼なじみの何気ない問いに、クー・フーリンは隣のエメルが体をこわばらせるのに気づいた。
     その肩をそっと抱き、落ち着いた声で答える。
    「敵わないと思ったんだろうな。オレの目の前で、城壁から飛び降りちまった」
     エメルははっとクー・フーリンの顔を見上げたが、肩に置かれた手に力がこもるのを感じ、何も言わずにうつむいた。
     ロイグはじっと主人の顔を見つめたが、すぐに顔を前に戻し、「そうか」とだけ言った。
     クー・フーリンとエメルは無言のまま見つめ合った。どちらからともなく互いの手を探り、握りあう。
     こうして少女たちは共犯になった。
     誰にも知られない、ひとつの罪を共有したのだ。

    門出
    「なんだと!?」
     コンホヴォルは椅子から転げ落ちんばかりに驚いた。
     まじまじと姪の顔を見つめ、次にその隣に佇む娘の顔を見、再び姪に目線を戻す。
     広間には、王妃や王子、ドルイドたちや側近の騎士たちが控えていたが、皆が息を詰めて成り行きを見守っていた。
    「ですから、オレは彼女と結婚します」
     謙虚な口調で、しかし、その目にはどこか挑むような光をきらめかせ、クー・フーリンはくり返した。
     コンホヴォルは呆気にとられ、一瞬言葉を失ったが、すぐにわなわなと体を震わせた。
    「おまえは……どこまで……!」
     王はドサリと背もたれにもたれかかった。隣では、ムギン王妃が心配そうな表情を浮かべている。
     コンホヴォルは自分の顔をなで、苛立たしげに吐き捨てた。
    「女同士で結婚だと? 何を考えているんだ、おまえは!」
    「騎士団にだって男同士で好き合ってる奴らがいるじゃないですか。なら、女だっていいでしょう!」
    「それと結婚はまた話が別だ!」
     噛みつく子犬に王は一喝した。クー・フーリンは唇を噛み締め、うつむいた。
     王である伯父とは、どうしたってうまくいかない。自分が幼い頃は、伯父はとても優しかったのに。
     いつからだろう、伯父との間がぎくしゃくし始めたのは。
     手を握られて、クー・フーリンははっとした。
     隣を見れば、勇気づけるようにエメルが微笑んだ。美しい少女は、そのまま王に向き直る。
    「偉大なるコンホヴォル王。恐れながら、私めからもよろしいでしょうか」
    「エメル姫」
     コンホヴォルが眉を寄せる。王からすれば、あふれるばかりの才能と美しさに恵まれた姫がどうして、という気持ちを抑えられなかった。
    「クー・フーリン様は、その偉大なる勇気と正義で私をお救いくださったのでございます。貴方様の姪御様は、何ら恥ずべきところのない、誉れ高き戦士でございます。私は、そんな方に選んでいただいたことを、心から誇りに思います」
    「エメル……」
     クー・フーリンは、頰をぽっと林檎のように赤く染めた。
     エメルは彼女ににこりと笑いかけ、己の胸に手を当てた。
    「寛大なる王様。姪御様と共にあることを、どうかお許しください」
     真摯な姫の声音に、コンホヴォルの目に迷いが浮かんだ。
     さまよった視線が、クー・フーリンと交わる。一瞬、王の眼差しが厳しくなった。
     クー・フーリンは、姫とつないだ手に力をこめた。
    「お願いします、我が王」
     二人の娘は、深々とこうべを垂れた。
     王はしばらく二人を睨みつけていたが、やがて額を押さえ、大きなため息をついた。
    「デヒテラが知ったら、なんと言うか……」
     母の名前を持ち出され、クー・フーリンは胸はちくちくと刺されたように痛んだ。
     だが、燃えるような目で床を睨みつけながら、それに耐える。
    「通常なら、王に連なる者の結婚式は、他国の高貴な者たちも招いて盛大に行うものだ。だが、おまえたちの式は同じようなわけにはいかないぞ」
     クー・フーリンとエメルは、ぱっと顔をあげた。王は、苦々しげな顔で二人を見下ろしていた。
    「我が王、それじゃあ……!」
    「おまえも、所帯を持つならもうこの館にはいられん。自分の館を建て、そちらに移り住め」
     二人の娘は、顔を見合わせた。
     クー・フーリンは大きな歓声をあげ、エメルに抱きついた。
    「やったー! エメル! やった!!」
     王の御前にも関わらず、喜びを爆発させる姿にエメルはびっくりしたが、自分も顔がほころぶのを止められなかった。
     子どものように飛び跳ねるクー・フーリンを、しっかりと受け止める。
     王の間の張り詰めていた空気も、いくぶんか緩んだようだった。
    「ところでだ」
     黙ったまましばらく姪たちを眺めていた王が、唐突に口を開く。
    「〈初夜権〉はどうする?」
     ぴたりとクー・フーリンの動きが止まった。人形のようにぎこちなくエメルから体を離し、王を見上げる。
    「しょやけん、ですか?」
    「そうだ。おまえでもそれくらいは知っていような」
     コンホヴォルは意地悪そうに目を細めた。
    「王が新婦と共寝する権利。王に忠義を捧げ、民が一つにまとまるための掟。まあ、今回は相手はエメル姫ということになるわけだが……おまえはそれでいいのだろうな?」 
     クー・フーリンは石のように硬直した。動揺し、唇を戦慄かせている。
     その目は如実に「いやだ」と物語っていた。
     だが、エメルはなだめるようにクー・フーリンの手をさすった。
    「掟だもの。私は大丈夫よ、そういうものだってわかっているから」
    「でも!」
     エメルの白い手を痛いほど強く握りしめる。姫さんが、伯父上と……?
     想像しただけで、クー・フーリンの目の前は真っ赤になった。怒りで頭が沸騰し、今にも火を噴いて狂戦士と化しそうだった。
    「あー、わかった、わかった!」
     コンホヴォルの声に、二人は振り向いた。王は、ぎらぎらと睨みつけてくる姪に顔をしかめながら、手を振った。
    「おまえのようなやつの花嫁に手を出したとあれば、私が殺されそうだ。まったく、この不敬者めが」
    「え、それでは……」
    「掟は掟だ。形だけでもならわねばならん」
     王はフンと鼻を鳴らした。
    「寝所を共にはするが、手は出さぬ。それでいいだろう」
    「ダメです!」
     クワッとクー・フーリンが吠えた。エメルを守るように自分の背後にかばっている。その姿は、さながら威嚇する犬のようだ。
    「何があるかわかったもんじゃない。そうだ、見張り! 見張りを置いてください!」
     あまりの物言いに、王はぐらりとめまいがした。
    「おま、おまえは、私を何だと……!」 
    「それくらいいいでしょう! かわいい姪の頼みだと思って。お願いします!」
    「何がかわいい姪だ。おまえが我が妹の娘で、〈アルスターの盾〉でなければとっくに死刑だぞ!」
     ついにコンホヴォルは椅子から立ち上がり、クー・フーリンと怒鳴りあった。
     エメルは目を丸くして、その様子をはらはらと眺めた。王様とこんな風に言い争うなんて!
     だが、広間の人たちは、まるで慣れているかのように落ち着いていた。フェルグスのように、微笑ましげに眺めている者すらいる。
     コンホヴォルとクー・フーリンの言葉の応酬は激しかったが、それはまるで、気の置けない友人同士の口喧嘩のようでもあった。
     やがて、ムギン王妃がくすくすと笑い始めた。そこでようやく、コンホヴォルは我に返ったらしい。
     はっと口をつぐみ、罰が悪そうな顔をする。咳払いをして、王はなるべく威厳を保って椅子に座り直す。
    「……わかった。それでは見張りとして、息子のコルマクとクースクリズをつけよう。それでどうだ?」
    「じい様、いや、カトバド様もお願いします。ドルイドの言葉なら信じられるし」
    「私か?」
     王のそばに立っていた老ドルイドは、驚いたように声を漏らした。
     だが、すぐにおどけた表情になり、笑いながら髭をなでる。
    「かわいい孫娘の頼みなら、仕方ないのう」
    「ええ……」
     コンホヴォルはひどい頭痛でもするように顔をしかめたが、もうどうにでもなれと思ったのか、しぶしぶうなずいた。
    「ふむ! それであれば、この俺も──」
    「あ、叔父貴はいいです」
    「なぜだ!?」
     フェルグスの声に、広間中がどっと笑いに包まれた。そっぽを向いた王ですら、こっそりと笑いを噛み殺しているようだった。
     クー・フーリンは晴れ晴れとした笑顔を浮かべている。その横顔を見ながら、エメルは小さく肩をすくめた。
    「あなたって、本当にとんでもない人ね」
    「褒め言葉か?」
    「まあね」


     クー・フーリンとエメルの結婚式は、王の親族とは思われないほど、ささやかに行われた。
     やはり王は、女同士の婚姻をよく思ってはいなかったのだ。
     各国の王族や貴族が呼ばれることもなかったし、コンホヴォル自身も出席はしないと告げてきた。
     それでも、仲間たちは心を尽くし、二人のために宴を準備した。

     森の中に張られた天幕の中で、にぎやかな声が飛び交う。
    「このドレス、とっても素敵! そう思わない?」
     レンダウィルがぴょこりと顔をのぞかせて叫んだ。「そうねえ」とフェデルマが鋭い目つきで品定めをする。
    「髪飾りはこっちのほうが合うんじゃないかしら。首飾りは銀よね。で、そこをブローチで留めて……」
    「あの……」
     着せ替え人形と化していたエメルが遠慮がちに口を開いた。二人の女は、不思議そうに顔をあげる。
    「どうしたの? 気に入らなかった?」
    「いえ、ドレスはとっても素敵ですわ。だけど……」
     エメルは困ったように言いよどんだ。
    「私、お金をそんなに持ってないんです。財産はほとんど焼けてしまったし、持参金もないから……」
     フェデルマとレンダウィルは顔を見合わせた。同時に吹き出し、ケラケラと笑い転げる。
    「いやねえ! いらないわよ! これは私たちからのプレゼント!」
     この中で一番年上のフェデルマは涙をぬぐいながら言った。レンダウィルも宝石を抱えながら、にっこり笑う。
    「クーは大好きな友達だし、あの子にとって大事な人なら、私たちにとっても大事なお友達よ! だから気にしないで」
    「フェデルマさん、レンダウィルさん……」
    「あら、いやだ。さん付けなんてやめてよ。そのままで呼んでちょうだい」
    「あ、はい、フェデルマさ……いえ、フェデルマ、レンダウィル」
     よし、という風に、二人の女は微笑んだ。
    「さあ、鏡で見てみて。これでどうかしら」
     エメルは、ひだの多いやわらかなドレスを着ていた。
     ちりばめられた琥珀のビーズが、満天の星のように輝いている。
     ゆったりしたマントを銀と蒼玉のブローチが飾り、山羊の乳のように白い肌には、銀色の装飾品がまばゆい光を放っている。
     美しい髪には細工も見事な宝石の髪飾りをつけ、鮮やかな花々をさしていた。
    「本当に、素敵」
     エメルの言葉に、二人は満足そうにうなずく。 
    「さてと、あっちの具合はどうかしら。クー・フーリン! 着替え終わった?」
     フェデルマが大声で呼びかければ、犬がうめくような声がした。
     やがて、厚ぼったい垂れ布の向こうから、クー・フーリンがおずおずと顔をのぞかせた。
    「あらまあ!」
    「素敵! いいじゃない!」
     フェデルマとレンダウィルが黄色い歓声をあげる。
     ドレスに最後まで抵抗したクー・フーリンは男性的な装いだったが、どこかたおやかさを感じさせる衣装に身を包んでいた。
     繊細な刺繍が施されたマントを紅玉のブローチで留め、美しい模様の胴着を革のベルトで締めて、宝剣を吊るしている。
     円環の首飾りが首元を飾り、耳飾りに合わせた腕輪やアンクレットが四肢にきらめく。
     髪は綺麗に編み込まれ、色とりどりの飾り紐と宝石で作られた髪留めが輝く。
     額には、黄金色の環が光を放っていた。
     クー・フーリンとエメルは、言葉もなくお互いを見つめた。
     やがて、ほうっと息をつき、クー・フーリンが感嘆の声をあげる。
    「姫さん、すげえ綺麗だ!」
    「あなたもよ、クー! とても……美しいわ」
     二人は手を取り合い、華麗に装った互いの姿を惚れ惚れと眺めた。
     このまま放っておけば、いつまでも見つめ合っていそうだ。
     フェデルマが咳払いをすれば、夢から覚めたように二人は手を離す。喜色満面のレンダウィルが、天幕の布に手をかける。
    「準備万端ね。さあ、みんながお待ちかねよ!」
     クー・フーリンとエメルが手をつないで天幕から出た瞬間、大喝采が二人を包んだ。
     ロイグ、コナル、ロイガレ、ノイシュら兄弟、フェルグス、フェルグスの息子たち、赤枝の騎士団の仲間たち、エメルの姉フィアル、エメルの侍女たち。
     こっそり城を抜け出してきたらしいコルマク王子や、クースクリズ王子もいた。
     仲間たちは惜しみない拍手を二人に浴びせ、頭上に花びらを振りまいた。
     大きな焚き火がたかれ、皆で火を囲う。
     竪琴が得意なノイシュが、陽気な音楽を高らかに奏でた。皆が大声で歌い、火の周りを踊り回る。
     酒と肉が饗されれば、歌声はいっそう高まり、踊りはますます激しくなった。
     クー・フーリンはエメルの腰を支えた。女の身だが、その力は並外れている。
     クー・フーリンは、ほっそりしたエメルの身体を軽々と抱き上げると、天に掲げてくるくると回った。
     エメルのきらめくような笑顔が弾けた。楽しそうな二人の笑い声が星空に響き渡る。
     月も踊る群青の天蓋の下では、誰もが皆幸福だった。
     その中でも一番幸福だったのは、間違いなく、クー・フーリンとエメルの二人だった。

     とっぷりとした闇夜が世界を覆ったときには、クー・フーリンとエメルは部屋の寝台で手を握り合っていた。
     すでにゆったりとしたガウンに身を包んだ二人は息を詰め、その時を待つ。
     やがて、トン、トンと規則正しい音がして、扉が開いた。侍女が入ってきて、深々と頭を下げる。
    「エメル様。こちらへおいでください」
     エメルがうなずいて立ち上がると、クンと袖を引かれた。
     見れば、クー・フーリンが置いていかれた子犬のような目をして、こちらを見上げている。
     エメルは微笑み、母が幼子をなだめるようにクー・フーリンの額に口づけをした。
     そのまま手を離し、侍女の後について部屋を出ていく。
     クー・フーリンは、迷子のような、心細い顔でその背を見送る。

     エメルが寝台に座って待っていれば、やがていくつもの足音がして、コンホヴォルたちがやってきた。
     約束どおり、長男のコルマクや次男のクースクリズ、カトバドも入ってくる。
     王はため息をつきながら、エメルの隣に腰かけた。
    「まったく、我ながら甘いことだ」
     髪をかき上げながら、王は眉を寄せた。エメルは微笑む。
    「本来なら、祝福されるはずのない私どもにここまでしていただいて、感謝のしようもございませんわ」
     コンホヴォルはじろりと姫を見た。
    「そなたこそな。まったく、そなたならいくらでも良き炉ばたを選べたろうに……」
    「同じことを、姪御様にも言われましたわ」
     コンホヴォルは顔をしかめた。プイと顔をそらし、寝台に横たわる。
    「約束は約束だ。そなたには指一本触れぬ。さっさと眠るがよい」
    「はい。慈悲深き王に、神々の祝福を」
     エメルも身を横たえれば、王子たちも次々と寝台に上がった。カトバドだけは、「私は見張り番だから」と一人だけ椅子に座った。
     寝台には、二人の王子、王、エメルが並んで寝ることになった。
     どう考えても狭い。寝返りひとつ打てば、すぐ隣の人間にぶつかりそうだ。
     これで眠れるかしら、とエメルはそっとため息をついた。それでも、なんとか眠ろうと目をつぶる。

     ドォン!!

     叩きつける轟音に、エメルたちは飛び上がった。
     一瞬音が消える。だがすぐにまたドン! ドン! と激しく壁を叩く音が聞こえる。隣の部屋からだ。まさか。
    「エメルー!」
     壁越しでも、聞き間違えるはずがない。
    「クー!?」
    「エメル! 無事か!? 何もされてないか!?」
     ドンドン!
     激しい音と、壁を通してもよく聞こえる叫びに、いよいよコンホヴォルは目を吊り上げた。
    「あの馬鹿娘はどこまで愚かなのだ!」
     怒りを爆発させた父親を、「まあまあ」と王子たちがなだめている。
    「エメル! エメルー!」
     クー・フーリンの叫びと壁を叩く音は止まらない。エメルは急いで壁に向かって呼びかけた。
    「クー、大丈夫よ。王様はとても誠実に約束を守ってくださってるわ!」
    「本当か!?」
    「ええ、大丈夫よ! だから、どうかあなたも安心して休んで」
    「本当にか!? 無理やり言わされたりしてないか!?」
    「もう我慢ならん!」
     コンホヴォルが雷鳴のような声で叫んだ。
    「姪だからといって、少々甘やかしすぎたようだ。あの子犬め! 今度という今度はただではおかんぞ!」
    「しーっ! 父上! 落ち着いてください!」
     コルマクが慌てたように言った。
    「そんなに怒鳴り散らしたら、ちびクーのやつが何か起こったと思うじゃないですか!」
     王子たちが必死で父親を黙らせている横で、エメルはなんとかクー・フーリンをなだめようとしていた。
    「クー、本当に大丈夫だから。ね?」
    「……わかった」
     壁を叩く音は止み、クー・フーリンの声も聞こえなくなった。
     静かになった部屋で、エメルや王たちは顔を見合わせる。
     思わず立ち上がっていたカトバドはやれやれと椅子に座り直し、王子たちもほっと肩の力を抜いた。
     これで、やっと静かになった。

     ……ドタドタドタドタ。

     静かになった。
     はずだった。

     バターン!!

     ものすごい勢いで扉が開き、クー・フーリンが飛び込んできた。王は寝台に立ち上がり、枕を姪に向かって投げつけた。姪はサッとそれをかわし、伯父とエメルの間に割り込んだ。
    「やっぱりやだ!」
     うわーん、とわめくクー・フーリンにコンホヴォルは掴みかかったが、コルマクとクースクリズがなんとか父を引き戻した。
    「ここまでコケにされたことはないわ!」
     激昂する王を、カトバドがどうどうとなだめる。
    「なんともまあ、独占欲の強い孫じゃて。この強情さは伯父似ではないか?」
     エメルにひしと抱きつきながらうーうーとうなるクー・フーリンを見ながら、ホッホッとカドバドは笑った。王はドルイドを睨みつけた。
    「まあまあ、今宵は家族水入らずということで、いかがでしょう、父上?」
     心優しいコルマクが言う。「そうですよ」とクースクリズも追撃をかけた。
    「私たちも、こうして父上に近しくお話できるのは久方ぶりですから」
     息子たちになだめられ、コンホヴォルもなんとか自分の怒りの炎を抑えた。馬鹿馬鹿しくなったのもある。
    「勝手にするがいい」
     王はクー・フーリンたちにさっさと背を向け、寝転がってしまった。
     王子たちはクー・フーリンにこっそり手を振り、父親の隣に横になった。
     カトバドも孫に片目をつぶってみせると、すぐに暗がりの椅子に収まってしまう。
     子犬のようにうなっていたクー・フーリンは、そこでようやく警戒を解き、エメルを見た。
    「もう」
     エメルはぺちりとクー・フーリンの頭を叩き、頰を両手で包み込む。
    「あなたって人は」
    「仕方ねえだろ。おまえのことだ」
     唇を尖らし、クー・フーリンは額をエメルのそれにコツンとぶつけた。
    「やっと一緒になれたんだ」
     クー・フーリンは姫の体を抱き込んで、そのままごろんと寝台に横になった。クー・フーリンはエメルを宝物のように強く抱きしめ、「ふふ」と笑う。
    「せまい」
    「そりゃあ、四人でも狭かったのに、五人になったんですもの」
     エメルはため息をついた。
    「今夜はもう眠れないかも」
    「じゃあ、ずーっとこうしてようぜ」
     夢見るような声でクー・フーリンは笑った。エメルは小言を言おうと顔をあげたが、目に飛び込んできたクー・フーリンの表情があまりにも──幸せそうだったから──結局、彼女の背に腕を回すにとどめた。
    「あなたって、本当にしょうがない人」
     温かい胸に顔をうずめながら、小さくつぶやく。
    「それって褒め言葉。だろ?」
     楽しそうな声に、エメルも表情をほころばせた。
    「そうね」

     翌朝、結局一睡もできず、亡霊のような顔で現れたコンホヴォルやクー・フーリンたちを見て、ムギン王妃やフェルグスはひとしきり笑い転げた。
     姪たちを部屋に追いやり、むくんだ顔で不機嫌そうにしているコンホヴォルに、フェルグスは快活に話しかけた。
    「また面白いことになっていたようですな、王よ」
     コンホヴォルはフェルグスをちらりと見上げ、ムスッとした表情を浮かべた。
    「やつは私を王とは思っていないようだ。まったく、この先が思いやられる」
    「だが、あいつといるときの王は、とても生き生きしておられる」
    「はあ?」
     従僕から差し出された茶を口に運びかけたコンホヴォルは、呆気にとられた顔でフェルグスを見た。フェルグスはからりと笑って続ける。
    「不安定な情勢ですからな。王も疲れておられたご様子ですから、心配しておりました。だが、クー・フーリンが帰ってきてからはいくらかお元気そうですし、それに、あれだけ楽しそうな王は久しぶりに見ましたぞ」
    「楽しそうだと? 私がか?」
     コンホヴォルは顔をしかめた。
    「おまえ、目が悪いのではないのか?」
    「心配ご無用。視力はどちらも良好です!」
     がはは、と笑うフェルグスに、コンホヴォルは少し肩の力を抜いた。茶を飲み干し、空になった杯をじっと見つめる。
    「フェルグス……叔父上」
     長らく呼ばれたことのなかった名に、フェルグスは目を見開いた。
     どこか陰が落ちた男の姿に、その目は細められていく。
    「……なんだ?」
     今までの豪放さとは打って変わった穏やかな声で、うつむく男に向き直る。
    「私は、王としてうまくやれているのか?」
     フェルグスはじっとコンホヴォルを見つめた。言ってしまってから、王は後悔したように頭を振った。
    「いや、なんでもない。つまらぬことを口走った。忘れてくれ」
     陰鬱な影は一瞬で消え、コンホヴォルはいつもどおりの口調に戻った。
    「湯浴みをしてくる。今日の訓練も任せたぞ」
     そう言って立ち上がった王に、フェルグスは穏やかに声をかけた。
    「呪いのことをまだ気にしているのか」
     ぴたりとコンホヴォルは足を止めた。
    「……過ぎたことを気にしても仕方ない。それに、今は戦の気配はない」
    「まあ、そうだが」
     フェルグスはあごをさすり、まるで実の息子に語りかけるように優しく言った。
    「少なくとも、民はおまえの治世を喜んでいるぞ、コンホヴォル」
     王は返事をしなかった。ただ、かすかにうなずくと、従僕たちを連れて部屋を出ていった。
     フェルグスは腕を組み、王が消えた扉をじっと見つめていた。

     クー・フーリンはエメルの肩を抱き、窓から陽の光が世界を照らしていくのを見ていた。
     薄紅色の衣を脱いだ空に、澄みきった青色が広がっていく。
     露に濡れた草木は伸びをし、小鳥たちは再び夜が明けたことを祝って歌っている。
     全てが新しい朝だった。
     エメルはほうっと息をつき、クー・フーリンの顔を見上げた。
    「これで、私はあなたのものね」
     曇りのない瞳がこちらを見つめている。宝石を溶かしたような、美しい瞳だ。
    「いや、違うな」
     ほっそりした手を取り、その甲に優しく口づけて、クー・フーリンは言った。
    「オレがおまえのものなんだ」
    「まあ」
     エメルは笑おうとして、失敗したような顔をした。
    「私の一生を捧げても足りないくらいだわ、光の御子様」
    「それやめろ。おまえの前じゃ、ただの一人の人間だよ」
     言葉を切り、見つめあう。まるでこの世に二人きりになったような気がした。
     どちらともなく顔を近づけ、唇を重ね合わせる。お互いの熱が混ざりあっていく。
     交わした口づけの温かさに、クー・フーリンは少しだけ泣きそうになった。

     クー・フーリンは、コノール国との国境に近い丘に自分の城砦を建てた。美しい自然が目の前に広がる、あの丘だ。
     驚いたことに、王からの援助も多く賜った。
     あとでフェルグスがこっそり教えてくれたところによれば、王曰く「国境近くにやわな城など築かせられん」ということだった。
     それを聞いたとき、クー・フーリンは頰が緩むのを抑えられなかった。
     広間に作られた大きな炉ばたを見たとき、クー・フーリンとエメルは互いの顔を見合わせ、にっこり笑った。

     また、クー・フーリンは王に頼み込んで、女だけの騎士団を作った。オイフェの話を覚えていたのだ。
     コンホヴォルは、戦いたがる女などいないのではないかと思ったが、驚いたことに、志願者は何人もやってきた。
     始めはエメルや自分の侍女たちだけだったが、やがて話を聞きつけた騎士の妻や娘、貴族の娘や侍女たちまでが、武芸を習いたいと集まってきた。
     クー・フーリンは自らが師範役となり、実戦で戦える戦士を育てるべく、女たちの指導に当たった。
     エメルも参加したいと名乗りをあげたとき、周りは目をむいたが、クー・フーリンは喜んで彼女に槍を教えた。
     いつの間にか、騎士見習いの女たちは五十人以上にのぼっていた。
     ロイグも彼女たちに馬の乗り方や戦車の走らせ方を教えたし、コナルやロイガレも、仕事の合間に指導を手伝ってくれるようになった。
    「頼もしいことですな」
     訓練風景を見下ろしながら、フェルグスが言った。
     コンホヴォルは、少女たちに声をかけている姪の姿をじっと見つめた。
     槍の構え方について教えているらしい。まだあどけない少女たちは、食い入るようにクー・フーリンの所作を見つめ、それを真似て槍を振るう。
     クー・フーリンが何か冗談でも言ったのか、楽しげな笑い声も聞こえる。
     姪は、驚くほどいきいきとしていた。ときおり見せる弾けるような笑顔は、夏の陽光のように眩しく見えた。
    「……使い物になればよいがな」
     王のつぶやきに、フェルグスは何も言わずに微笑んだ。

    「こんな日々が来るなんて、思ってもみなかったわ」
     林檎の木の下で、エメルはつぶやいた。目の前では、自分たちの館が、午後の日差しに照らされている。
     訓練を終えたあと、二人はよく木陰に座って語らった。爽やかな風が木の葉を揺らし、さらさらと音を立てる。
    「本当に、夢みたい」
    「いろんなものを見せてやるって言ったろ。まだまだこれからだ」
     細い腰に腕を回し、後ろから姫を抱き寄せながら、クー・フーリンがささやく。
    「私、今、とっても幸せ」
     エメルの言葉に、クー・フーリンも目を細める。
     蜂蜜色の木漏れ日がとろりと二人に光を落とす。うららかな午後がゆっくりと過ぎていく。
    「ねえ、クー」
    「ん?」
    「あなたの、お子さんのことだけれど」
     ビクリ、とクー・フーリンの体がかすかに揺れた。エメルを抱く手に力がこもる。
     クー・フーリンの動揺を感じつつ、エメルは尋ねた。
    「今はどうしているの?」
     クー・フーリンは、一瞬答えるのをためらった。唇を舐め、口を開く。
    「……こっちまで連れてくるには小さすぎたからな。師匠たちの元に預けてある」
    「まあ……」
     エメルは何と続けようか迷っているようだった。
    「男の子? 女の子?」
    「男」
    「ええと、名前は?」
     クー・フーリンは少し表情を固くして、エメルを見た。
    「コンラだ。……どうしたんだよ、急に」
     エメルは迷うそぶりを見せたが、思いきったようにクー・フーリンを見上げた。
    「気になったの。お子さんと離れ離れになってるのって、どうなのかなって」
     クー・フーリンは、何ともいえない表情を浮かべた。エメルはおずおずと続ける。
    「暮らせるなら、一緒に暮らしたほうがいいんじゃないかと思って」
    「けど……」
    「ねえ、クー。あなた、息子さんのことは好き?」
     クー・フーリンの脳裏に、幼子の姿がよみがえった。
     全身を震わせ、懸命に泣く姿。これ以上ないほどの平和にくるまれた、安らかな寝顔。
     初めて自分を「母」と呼んだときの無邪気な笑顔。
     思わず、クー・フーリンの顔がほころぶ。そのやわらかな表情は、どんな言葉よりも雄弁だった。
     エメルは、ほっと笑顔になる。手を伸ばし、クー・フーリンの手を自分の胸に抱く。
    「あなたの子どもなら、私の子どもも同然よ。そうじゃなくて?」
     クー・フーリンは目を丸くした。
    「姫さん……」
    「愛しているなら、一緒にいるべきだと思うの。私は血は繋がってないけど、きっと家族になれると思うわ」
     エメルは一生懸命に言いつのる。クー・フーリンはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
    「実は、息子がある程度大きくなったらアルスターに来させるように、師匠たちに頼んであるんだ」
    「まあ!」
     エメルはぱっと顔を輝かせた。
    「それなら、いつか一緒に暮らせるわね」
    「ああ。……そうだな」
     うきうきとエメルは立ち上がり、林檎の木陰から抜け出した。
    「日当たりのいい部屋を息子さんの部屋にしましょう。南の角部屋がいいかしら。あなたの息子さんなら、きっとあなたに似て勇敢だし、武芸も優れてるでしょうね。壁には槍や毛皮なんかを飾って……」
     青空を仰ぎながら楽しそうに話す姫を、クー・フーリンはじっと見ていた。
    「なあ、姫さん」
    「なあに?」
     エメルは生き生きとした顔で振り返る。太陽に照らされた髪が、光を紡いだようにきらめく。
     クー・フーリンは、そっと目を細めた。
    「オレ、おまえと結婚して本当によかった」


     うやうやしく頭を下げた男を見下ろしながら、コンホヴォルは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
    「話はわかった」
     王が重い口を開く。
    「他の貴族たちにも伝え、後ほどまとめて返事をしよう。それでよかろうな?」
    「もちろんでございます」
    「申し出に感謝する。──ブリクリウ」
     男は体をゆっくりと起こし、薄い唇に笑みを浮かべた。
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