猫になれたら────────────────────
「にゃあん」
ぱち、ぱち。小さな目を瞬いた。
今日は夕方から雨が降りだしそうだ。だからセカイでの練習にしようと冬弥に連絡を取ったのが、昼間のこと。
間もなく放課後という所で急遽助っ人を頼まれたサッカー部の試合を一つこなした後、まだやっていけとしつこい友人をどうにか躱して、急いで校舎裏に向かう。約束の時間まであと少し。思っていたよりも遅くなっちまった。家まで帰る時間は無さそうだ。
適当な木陰に落ち着き、辺りに人気が無い事を確認してから、セカイに向かうため端末を起動する。Ready Steadyをかければ程なくして眩い光に意識を包まれて、次に瞳を開けばいつものセカイ────に、来た。…筈だった。
「………にゃぁ」
もう一度、口を開く。聞こえてきたのは猫の鳴き声だった。
確かにここは、もう随分と見慣れてしまったセカイの景色によく似ているように思う。けれど、何か様子がおかしい。
異様に近く感じるアスファルトは現実世界と違い煙草の吸殻なんて落ちていないのが救いだ。時折吹き抜けるそよ風は心地好く頬を撫でていく。カラフルなペイントが成された周囲の景色が、建物が、やけに大きく見えた。そしてどこか白んだ光に包まれる青空は、果てしなく遠い。
(…なんだ、ここ)
セカイのバグか…?周りのものが大きくなる、セカイとか。はたまた、オレの体が小さくなっているのかも。何故このようなセカイに辿り着いたのかは分からない。けれどいつものセカイと似通った街の景色のお陰で、幾らか冷静だった。
(…ここで立ち止まってても仕方ねえな。メイコさんの店はあるのか?だとしたら、冬弥が待ってるかも)
近くに人の気配を感じない以上、まずは情報収集だ。もしかしたら同じような状況に陥っている相棒に会えるかもしれない。
そうと決まれば。彰人は普段よりも軽い体で駆け出した。重要な事を見落としたまま。
*
彰人の不安など全く関係ないといった佇まいで、crase cafeはあった。鼻を擽るのは香ばしい珈琲の香り。そして、カウンターに見えるのは、涼し気なツートーンカラーの髪を持つ彼。
「にゃぉん!」
冬弥!と、声を発した筈だった。けれど不思議とそれが叶わない。代わりに聞こえたのは、再び猫の鳴き声。駆け寄ろうとしたオレの方に、冬弥の視線が向く。
「ん?」
目が合ったかと思えば、少し驚いたように両目が見張られた。オレは声を発せないことにやや焦りながらも、駆け寄った相棒の足元からぐいっと上を見上げる。
良かった、無事だったんだな!ってことはオレの体が縮んじまったのか?セカイに着いたらもうこの状態で、わけわかんねえ。
「にゃぁ、にゃお、にゃぁあ〜〜〜ん」
「なんだ、何故お前がここにいるんだ?まさかセカイに迷い込んでしまったのか」
驚いた様子だった冬弥の瞳が少しして和らぐと、両手がオレの方に伸ばされた。ふわりと体が浮き上がり、冬弥の膝の上に落ち着く。
はあ?何言ってんだ冬弥、オレがセカイにいるのはお前と待ち合わせたから……
「にゃあ?」
「ふふ、困った子だな」
冬弥の片手が顎の下に伸ばされる。くりくり、と擽るように指先が動いた。なんだかそれが堪らなく気持ち良くて体が蕩けていく心地好さに包まれる。全身から力が抜けて、瞳を細めて、喉をごろごろと。ごろごろ、ごろごろ。……ごろごろ…?
ふと、カウンター上のサイフォンに自分の姿が映った。
クリーム色の毛色と、そこに溶け込むオレンジ色。まるでオレの前髪のように、顔の上で斜めに毛色が分かれていた。ふさふさふわふわと揺れる毛が少しだけ冬弥のブレザーに散っている。そう、これは、猫…猫だ。…ねこ?………オレが…ねこ…???
(な…っ、な、)
「にゃにーーーー⁉」
大きな猫の鳴き声が、見慣れたカフェに響いた。
*
どういうことなんだ。オレが、猫?確かに言われてみればやけに身軽な体であったし、そもそも四足歩行だ。二足じゃない。こんな事にも気付けずにいたなんて、全然冷静ではなかったらしい。
「こら。いくら俺達しかお客さんがいないとはいえ、大きな声を出したら駄目だぞ」
混乱でぐるぐると目を回しているオレの近くで、やけに優しい声音が響いた。どうにか現実から逃げ出したくなる思考を引き戻し、見上げると、冬弥がこちらを見ていた。どうやらオレに話しかけているようだ。
「にゃあ」
冬弥、と声を掛けようとするもののやはり言葉にはならない。当然だ、猫の声帯で人の言葉は話せない。
そしてそれを返事だと受け取ったのか、喉に触れていた冬弥の掌が頭を撫でていく。
「よし、よし。いいこ。……まさかこんな所まで着いてきてしまうとはな…」
オレを慣れた手付きで撫でながら、冬弥が呟く。まるでオレを知っているかのような口振りに首を傾げたが、すぐに思い当たることがあった。
最近、ビビッドストリートに住み着いている猫。特に今は謙さんの店に入り浸っているようで、中でも冬弥は随分と気に入られていた様子だった。
先日も、冬弥と遠野と打ち合わせをしていれば、いつの間にか冬弥の膝の上に居座りごろごろと擦り付いていた。成る程、思い返してみれば、今のオレの姿はあの猫に酷似しているように思う。そしてどうやら冬弥も、オレをあの猫だと思っているらしい。
「どうしたものか。でも彰人が来るまでここを離れるわけには…」
ぶつぶつと、悩んでいる様子の冬弥の声。
(………案外、悪くねえな…)
俺はと言えば、諦め半分に今の状況を受け入れ始めていた。
俺をどうやって帰そうかと唸っている冬弥。けれど余程猫の扱いに慣れているのか、ほぼ無意識の様子で掌は動き続ける。頭をニ度、三度と撫で付けられては続けて背中の毛並みを整えるようになでなでと。優しい掌に促されて、体が勝手に弛緩し、思考が曖昧になっていく。
どのみち、〝オレ〟ということを伝えるのは困難な状況だし、セカイを出ればまた元に戻れるんじゃないか。これも猫になったが故なのか、楽観的な思考に呑まれていきつつ、オレは無意識のうちに冬弥の腹に頭を押し付けていた。
「ん?…ふふ。今日はまた一段と甘えん坊だ」
それに気付いた冬弥が微笑んでくる。とくん、と胸の奥が鳴った気がした。こいつ、いつも猫にはこんな表情を向けていたのか。
とくとくと胸が温かくなると同時に、ぐるぐると、もやもやと。言葉で表せない感情が巡っていく。………もっと…もっと、今ぐらいは、この時間を堪能しても許されるんじゃないだろうか。
押し付けたオレの頭に釣られて、コーヒーカップにかけられていた指先を離し冬弥は本格的に、両手でオレのことを撫で回し始めた。わしゃわしゃとくせ毛を掻き回せば、皴一つ無い制服に貼り付いてしまう、もこもこの長毛。それすら気にしない様子で、頭、頬、喉と巧みに撫でられていく。なんて気持ちが良いんだろう。
「にゃぁあ………」
「ふふ、……愛らしいな」
オレの口から今までで一番猫らしい鳴き声が溢れた。冬弥も案外、乗り気に見える。ふみ、と両手で冬弥の太腿を押してみた。ふみふみ。
「……あ。そうだ」
何かを思いついた様子の片手が、もう一度ゆっくりと背中を撫で下ろしていった。それに脱力した所でとん、と指先が一点を叩く。
「ふにゃ、ぁ」
とん、とん、とん。一定のリズムで何度も、尻尾の付け根を叩き始めた。頭を撫でられるのと、そう変わらない力加減なのに。なんだかそこに与えられる刺激は一際痺れるような、蕩けていくような、熱くなるような。そんな快感が生まれていき、オレをふにゃふにゃにしていった。
「にゃぁ、あ、ぅ、…う……うぅ〜〜〜」
甘ったるい、文字通りの猫撫で声がこぼれてしまう。目の奥が熱くなる。体の芯がくたくたに煮詰められていく。ふやけていく。だめになっていく。
ぴんと尻尾を立ち上がらせながら与えられる刺激に酔い痴れては、体を冬弥に預けていった。全身を火照らせながら冬弥を見詰めれば、どこか愛しげな表情がこちらを見ている。
ずるい。その顔は、オレに向けて欲しい。猫じゃなくて、他の誰でもなくて、目の前のオレだけに─────
ちゅ、と。気付けば鼻先を触れ合わせていた。少しだけ驚いた表情の冬弥だったけれど、すぐにまた優しげな表情に変わる。オレの耳元に、彼の薄い唇が当たる。
「───かわいい」
びくん、と大きく体が揺れ、ぞわぞわと腰から這い上がるものに背を仰け反らせた。全身の毛が逆立つ。駆け抜ける衝撃に幾度も腰が跳ね上がる。
そして瞬く間に、いつか見たのと同じ眩い光に包まれて、俺の意識は暗転した。
*
「…………あ…?」
ぱち、ぱち。大きな目を瞬いた。
気付けばそこは校舎裏で、オレは人気の無い木陰でぺたりと座り込んでいた。間もなく訪れる最終下校時間を告げる放送が、校内へと響く。グラウンドからは、慌てて後片付けを進める運動部の声が遠く聞こえた。
「ゆ…め………?いや、でもやけにリアルで…」
まだ回らない頭で今の状況を確認しようとしたところで、膝の上に乗せていた端末が滑り落ちた。そこには確かに、セカイへの曲を再生した形跡。それと同時に視界の端に飛び込んできたのは、オレの、元気になった、〝ソコ〟で。
「〜〜〜〜〜っ‼」
違う、現実だ。確かにオレは、猫になって、冬弥に会って、それから、それから…………オレは、何を…⁉
その思考を読んだかのようなタイミングで、スマートフォンが震えた。冬弥だ。いつまでもセカイに来ない相棒を心配して、連絡してきたに違いない。慌てて端末を手に取り通話ボタンを押す。
「彰人?良かった、いまどこに───」
「…っ…悪ぃ、サッカー部抜け出せなくなっちまった!この埋め合わせは絶対するから!本当に悪い‼」
冬弥の次の返答を待つ前に早々に電話を切った。とてもじゃないが、いま彼の声を聞いていられない。
『───かわいい』
「ひっ、」
思い出しただけでまた背筋を駆け上がりそうになるものを寸前のところで耐える。こんな、こんな………相棒の声で気持ち良くなる変態なんて事実、認めてたまるか!
一度だけ深呼吸をして自身を落ち着けた後、シャツの裾を少しだけ引き伸ばした。立ち上がり鞄を前に抱えると、人目に付く前に駆け出す。もつれて転びそうになる足を何度も叱咤し、風が頬を切る勢いで駆けていった。
雨雲はどこへやら。気付けば空は夜とのはざまでゆらゆらと揺れていて、最後に残った細い西陽が、彰人の頬を赤く染めていた。
「彰人………?」
彼が練習に来ないなんて、あまりにも珍しい。何かあったのではないかと心配になり連絡したが、電話口の彼は何か焦った様子でこそあれど、元気は有り余っているように聞こえた。それこそ、夕暮れ時まで校庭を駆け回っていたのかも知れない。
俺は俺で、珍しい客人と戯れていたので退屈はしなかったのだが。鼻でキスをしてくれた直後、あの子が包まれたのは恐らく現実世界に戻る時の光だ。無事に、帰れただろうか。今度またWEEKEND GARAGEに行った際、様子を見てみよう。
すっかり冷めてしまったコーヒーの最後の一口を啜ったところで、少し奥から笑い声が聞こえる。今日は彰人との練習があると話せば、聴いてみたいと、共にここで待ち人を待ってくれていたミクだ。カウンターに頬杖をついて、食えない笑みを浮かべている。どこか楽し気に口を開く。
「…春だね」
「春?…ああ、確かに。段々と暖かくなってきたな。もう2月も下旬だ」
「うん。きっと冬弥にとっても良い春になるよ、楽しんで」
「…?……ああ、ありがとう。それじゃあ、また」
「うん、またね」
ごちそうさまです、と律儀な挨拶を残した冬弥は立ち上がり、このセカイを後にした。
コポコポといつまでも鳴るサイフォンの音。薄れることなく漂う香ばしい香り。このセカイに時間の概念はない。けれど、彼等と出会い共に歌うようになってから、向こうの世界の日付は壁掛けのカレンダーに示すようにしていた。
今日は二月二十二日。春立つ季節。
春は、すぐそこに。
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