シャンプーボトルスマートフォンの電子音がピピピ…ピピピ…と鳴り響くのが遠くから聞こえる。
朝日に導かれるように柳楽の意識が覚醒していく。時間は朝6時。いつも通りの目覚めだ。
柳楽は大きく伸びをしてスマホをつかみアラームを止めた。
もう少し…と思わなくもないが、その布団でまどろむ5分が後々の遅刻を招くのだ。柳楽は立ち上がり顔を洗おうと洗面所に向かった。寝起きが良いのは数少ない長所の一つだ。
顔を洗い、髪をかきあげ、耳の後ろのところでハーフアップにひとつにくくる。本当は短く切り揃えたいが、猿に変化する度に美容院に行っては破産してしまう。最適解を模索しとりあえず今はこの髪型に落ち着いている。それにまぁ、橘さんかっこいいって言ってくれるし。
愛しい彼女は彼氏の顔面が好きすぎるようで、髪型を変えたり服装を少し変えただけで目ざとく解ってくれる。自分はそういうの疎いから申し訳なさすら感じる。だって、どんな髪型しても、何着てもかわいいし…。
そういうことを言うと母辺りに女の子の努力に褒めという対価を渡さないのは彼氏の怠慢だと叱られそうだが。
メッセージアプリの最新がふわふわとした猫のアイコンのユーザー、知里佳になっている。そういえば寝落ちる前に通話をしていた。どんなやりとりしてたかな…。
付き合いたて、今がいちばん楽しい時期、と言われるやつ。正直に言うとシンプルに楽しいより面倒くさいとか、考えることの方が多いかもしれない。それでも、距離が確実に縮んでいっていると感じるのが柳楽にはとても嬉しかった。猿もここしばらくはとても大人しく柳楽の中で言うがままになっている。
トーク画面を開くと、柳楽の頭は真っ白になった。
「…なんで、俺は下着姿の写真を橘さんに送り付けてんだよ???」
半裸で、ボクサーパンツを履いて、逸物は見えないまでも、下着越しに形がくっきりわかるほど隆起させ、そこにシャンプーボトルを乗せて。風呂場の鏡に自分を映して写真を撮り、それを橘さんに送っている。その顔は、表情はニヤニヤとした自分とは似つかないもので、しかし身体はどう見ても自分のもので。
知里佳からは【ありがとうございます!!】とか【尊い…!】とか【最高!!】とか喜びを示すスタンプが山のように送られてきていた。
「最高じゃねぇよ馬鹿か!!!!」
柳楽は思わず叫ぶと慌てて知里佳にメッセージを連発した。
【ちょっと】
【なんで】
【消して】
【ごめん、セクハラだよね】
【ていうかなんで?】
【保存しないで】
【こたえて】
時間は朝6時過ぎだ、早朝バイトかまだ就寝中なのか。既読はつかないし返事も来ない。
柳楽は頭をボリボリとかくと知里佳に電話をかけた。
数回の呼出音の後、知里佳は着信に出た。
「…おはようございます。…えへへ、モーニングコール嬉しい。」
寝起きの声がぽけぽけとして可愛らしい。いやそれどころでは無い。
「消して」
「…何をですか?」
「しらばっくれないで。俺は君にセクハラじみた写真を送った。それはすごく申し訳ないと思ってる。」
「そんな、申し訳なくなんてないです。女の子だって、好きな人の裸は見られたら嬉しいものです。」
好きな人、その言葉にグッときつつ柳楽は追求をやめない。
「そっか。それは良かった。消して。」
「いやです。」
珍しい知里佳の断言口調。
「てか、俺なんで撮ったの?こういうの撮るわけないじゃん俺。経緯全然わかんないんだけど、教えてくれる?昨日は寝る前ちょっと勉強しながら通話してて…」
「…柳楽さんおやすみって言ったんですけど、通話ボタン切り忘れてるみたいだったから、『獲猿さん、起きてますか?』って言ったら出てくれて…。」
「やっぱり、あいつの仕業か。」
柳楽は頭を抱える。今後は二度と通話ボタンの切り忘れはないように、と誓う。三回確認しよう。
「獲猿さんと楽しくお喋りして…なんか、そういう話題になって、写真お願いしたら撮ってくれて…っていうわけです。」
「ていうわけ、で片付けていい文脈じゃないだろ。経緯はわかった。説明してくれてありがとう。」
「分かってくれてありがとうございます。それじゃあ、予備校頑張ってくださいね。」
「まてまてまてまて切ろうとするなよ。俺は、消してって言ってるんだ。それに対して誠意ある回答してくれよ。」
知里佳は明らかに不満そうな声を上げる。
「いやです!だって柳楽さんの写真とか、しかも半裸の写真とか、シャンプー乗ってる写真とか!絶対見ることできないじゃないですか!獲猿さんの悪戯でも私は嬉しいし、彼女なんですから!」
「肖像権は俺にあるんだよ!」
「柳楽さんだって私が送った自撮り保存してるでしょ?」
柳楽はぐうと喉を鳴らす。知里佳は付き合い始めてからよく写真を送ってくれるようになった。それはとても嬉しい。何度も見返してニヤニヤしていたりする。だが、それとこれとは別である。
「肌の露出が多めなやつは保存してない。削除してるよ」
「保存してくださいよ!?」
「保存しないよ!?データ残しとくとか怖いじゃん!誰かに見られたらとか、万が一流出とかそういうの怖いじゃん!!」
「保存してくださいよー!彼氏が私の身体に興味無いの!悲しい!!」
「興味無いわけないじゃん!ありすぎるんだよ!!今俺が暴発しないで7年待つためには君の露出の多い写真は目に毒すぎるんだよ!」
「私は7年待つために柳楽さんのセクシーでセンシティブな写真が必要なんです!!!」
ぎゃあぎゃあと電話越しに2人は言葉を投げ合う。話し合いは平行線。
結局知里佳が「じゃあもっと保存しても良いくらいの自撮りください!セクシーなやつ!!」と言ったところで折り合いがついたのだが。
柳楽はしぶしぶぱしゃりと上半身を脱いだ状態で自撮りをし、知里佳に送る。
「あっっ…セクシー…すごい筋肉…。」
「これで満足して貰えた?」
「いやです。よく見たらブレてるし、目線どこいってるかわかんないし、柳楽さんもっとかっこいいのに自撮り下手すぎる。」
「仕方ないだろ普段自撮りなんてすることないんだから。」
柳楽はムスッとした顔で不満の声をあげる。
「これは保存しますけど、別のをください。」
「保存した上でより良いものを強請るとか、君我儘すぎない?」
知里佳はくすりと笑う。
「我儘になっちゃったんですよ。遠慮しないで話し合おうって言ったのは、柳楽さんですよ。」
「そういえばそうだった。」
時計は7時を指そうとしていた。さすがにこれ以上遅くなると遅刻の危機だ。
「もう時間ない、じゃあもう次送るやつで最後、出来が良くても悪くてもね。あの写真は消してくれ。」
「…分かりました。じゃあ、ちょっとトーク画面見てください。」
「?分かった」
柳楽はトーク画面に目をやる。そこに映る知里佳から送られてきた写真は、目を瞑り、柔らかそうな唇をちゅんと突き出した、いわゆる「キス待ち」の顔で。
大きめのTシャツから少し谷間が覗いている。いつもより化粧けのない顔は素朴で可愛らしい。長いまつ毛が広がっている。ふわふわとした色素の薄い髪の毛には寝癖が着いている。
「…喜んでもらえました?」
「…反則でしょ、これは。」
「ねぇ、今の顔送ってください。そしたら消してあげますから。」
「…ずるいなぁ、君は。」
柳楽はカメラを起動し、同じように目を瞑った写真を撮る。さすがに唇はつき出せない。己の自意識と羞恥心の問題で。
「…送ったよ。」
「…あはっ、獲猿さんになってるじゃないですか。」
写真に写っているのは、黒い肌、4本の角、白い毛がふわふわとした大猿の姿で。
「…そういうことなんだよ!察しろよ!」
「柳楽さん、かわいい。」
「うるさい。消してくれよ。」
「仕方ないなぁ。許してあげます。」
「後でエントランスで会える?目の前で消してくれないと安心できない。」
「私そんなに信用ないんですか?」
「俺のアホ猿を利用していやらしい写真を撮らせた子を信用できると思う?」
「…ふぁい。」
「ついでだから、一緒に朝ご飯食べよう。モーニング出来るお店、駅の近くにあったよね。」
「はいっ!じゃあまた後で!」
「また後で」
2人はそう約束すると通話を切った。柳楽は通話が切れているか三回確認したあと、スマホをことりと机の上に置いた。いつもより時間が押している。急がなければ。
柳楽は冷蔵庫を開けるとパックから直接ぐびぐびと牛乳を流し込んだ。