スコーンくらい、いくらでも焼いてやる 最近、クラージィと共通の話題が増えた。そのきっかけはとある子熊の物語だ。更に掘り下げると、彼の人間の友人二人とのお泊りが事の発端である。
先日、彼は友人の家で“お泊り会”なるものをするのだとご機嫌に出かけて行った。そして、更にご機嫌になって帰ってきた。他所の猫の匂いがするということで我が家のレディから手痛い猫パンチをくらっていたが、彼女の気が済むまで遊びに付き合うことで事無きを得ていた。
何が一体彼をそれほど上機嫌にさせているのか、と遠くから一人と一匹のやりとりを見ていると、猫から解放された彼がこちらに寄ってきた。
「ただいま。彼女は余所者の匂いに敏感だな」
「おかえり。今に始まったことじゃないだろう。お前は先日も同じことをしていたのだから、今度からは土産くらい用意してやったらどうだ」
「それもそうだな。次からはそうしよう」
そんな軽い会話を交わしながら、外気で冷え切った彼のために紅茶を淹れてやる。湯を沸かしている間に彼は“お泊り会”について楽しそうに報告してくれた。彼があのポンチだらけの街に出入りしているのは業腹だが、彼の人間の友人は比較的まともな性質らしい。不届き者ではないなら、と現状は目を瞑ってやっている。何より、彼の表情が明るくなってきているのは明らかなのだ。それを邪魔するほど狭量な親ではないつもりだ。
「それで、仕事にも社会にも疲れたから、何か心が安らぐような話はないか、ということで映画を観ることにしたんだが、それがとても良かったんだ。君とも一緒に観たかった」
「ほう、随分な気に入りようだな」
「そうなんだ。元々は児童文学と言っていたが、染み入る話だった」
熱っぽい、という語り口ではないが、今でも物語の余韻に浸っているように感じられた。その話というのは、たった一頭で南米から英国まで密航してきた子熊がとある家族やその周辺の人物とドタバタ劇を繰り広げるというものらしい。実写映画とのことだが、それを男三人で観たのか、どういう感情だったんだ。突っ込みどころが多いが、紅茶を放置するわけにはいかないので、手を動かしながら黙って彼の話に耳を傾ける。
どうやら彼は、異国の地で懸命に生きる子熊と自分が重なったようだ。
「全体的に楽しい雰囲気なのに、どこか孤独も感じられて、不思議な話だった。あぁ、ありがとう。私ばっかり喋ってしまってすまないな」
淹れ立ての紅茶を差し出すと、律儀に礼が返ってきた。こんな彼は本当に珍しい。しかし、更に珍しいことが起きた。ティーカップを持ちながら、あーだのうーだの唸っていたと思うと、次の瞬間彼の口から、
「それで、その、お願いがあるんだ」
という言葉が飛び出したのだ。欲の少ない彼から“お願い”なんて言葉を聞くとは思わなかった。「必要最低限」の基準が著しく低いため、こちらから与えなければ物を得ようとしない彼なのに、青天の霹靂とはこのことか。内心かなり動揺したが、そんなことを悟られてはたまらない。視線だけで続きの発言を促した。
「それで、今回観たのは映画なんだが、元になっている小説も読んでみたいと思って…だからその、本を購入したいのだが…」
なんということだ。清貧を貴び、娯楽とは縁遠い生活を送ってきた彼からこんなに可愛い“おねだり”をされるとは。現在の彼は現代社会で生きるための訓練期間を過ごしているようなもので、まだ自力で稼ぐ手段を持っていない。そのため、何かを欲すれば親である自分に請うしかないのだが、先述の通り、欲のない彼からそのような申し出を受けたことはほとんどなかった。彼の性格とこれまでの生活を考慮すれば仕方ないと自分を納得させてはいたが、我慢していることがあるのではないか?自分は親として不甲斐ないのか?と不安に駆られていたのも事実だ。そんなところに“おねだり”なんてされて、叶えないでいられるだろうか。
「いいだろう。題名を教えなさい」
なんて澄まし顔で返したものの、次の瞬間にはスマホで検索をかけていたし、全シリーズをハードカバーで揃えようとして値段に驚いたクラージィから全力で止められた。結局、ペーパーバック版でシリーズを揃えるというところで妥協した。
注文から数日後、ペーパーバック版ではあるもの、コンプリートボックスが届いた。段ボールを恐る恐る開け、本を手に取って眺める彼の表情といったら。「読んでもいいだろうか?」と尋ねてくる声はまるで嬉しさを隠せていなかった。「好きなだけ読みなさい」と暖炉の前の椅子を進めると、いそいそと移動したので、すぐに読み始めるかと思いきや、表紙を眺めたりなぞったりと本自体を堪能していた。「これは時間がかかるな」と思いながら自分用の本を持って、隣の椅子に腰を下ろした。結局、物語を楽しみ、くるくると変わる彼の表情を眺めるだけで、一ページも進まなかったのだが。
長い時間をかけて一冊読み終えた彼はとても満足そうだった。そんなに喜んでもらえたのなら親冥利に尽きる、そう思っていたのだが、彼が本を机に置いたのを見て驚いた。あんなに丁寧に扱われていたのに、ページが元のように閉じることがなかったのだ。羊皮紙など分厚い紙ならまだしも、現代においてそんなことがあるのか?と唖然としてしまった。そして、彼は本を見つめる親を見て何か勘違いしたらしく、
「ノースディンも興味を持ったのか?もし良ければ読んでみてほしい」
と控えめな笑顔で勧めてきた。そうされては断り切れず、結局、クラージィとともに子熊の物語を追うことになった。
元から読書は嫌いではない。しかし、それは新しい知識を得るためであり、物語を楽しむといったことには縁がなかった。付け焼刃の知識ではボロが出兼ねないため、小説でも専門書でも最初から最後まで目を通すようにしているのだが、それはあくまで情報収集である。必要な時に正しく引き出せるように、頭の中で整理しながら読むということが習慣になっていた。低俗なものであれば、斜め読みか速読で終わらせることも珍しくはなかった。
しかし、今回、彼と過ごす読書の時間は異なっていた。まず、読んでいて気になる部分が多い。この熊はこれで無事に生きていけるのか、それはどう考えても駄目な行動だろう、お前はこの前のトラブルから何を学んだんだ、そんなことばかりが頭に浮かぶ。そして、なんだかんだ最後には丸く収まってしまうので、熊もお前らもそれでいいのかと呆れたような気持ちになる。しかしそれでも不思議なもので、嫌な気持ちにはならず、結局次のページを捲ってしまうのだ。また、彼がこの前微笑みながら読んでいたのはどの話だろうか、少し悲しそうな表情になっていたのはこの部分だろうか、など物語とは関係のないことも頭によぎるようになった。彼と物語の感想を話し合う時間も充実していた。
また、彼にとって馴染みのないものを補足説明することも多く、実体験できそうなものは用意してやることもあった。良い例がママレード・サンドだ。夜食に何気なく出してみたところ、いつもの寝ぼけ眼はどこへやら、目をきらきらさせていた。食パンにジャムを挟んだ、たったそれだけなのに、今までに用意したどの年代物のワインより、滅多に取り寄せられない菓子よりも、彼の喜びが伝わってきた。自分でも浮かれたことをしている自覚はあったが、我が子が喜んでくれるとなれば、より上を目指したくなるもの。しかし流石にテディベアをプレゼントしたら子ども扱いし過ぎだろうか、なんて考えを巡らせていると、妙案を思いついた。
今日も今日とて、暖炉の前で読書をする。一冊読み終えた彼は余韻に浸っている。名残惜しそうに本をボックスに戻したところで、用意しておいたものを差し出した。彼は唐突に現れた手提げ袋に困惑していたが、「いいから開けてみろ」と押し付けた。困惑したまま彼は袋をガサガサと音を立てて開け、今度はあんぐりと口を開けてこちらに視線を寄こした。
「ノース、これは一体…」
「まずは着てみたらどうだ?」
我が子の手に渡ったのは、はっきりとした青色のダッフルコートだった。そう、あの熊とお揃いである。困惑しながらも素直に袖を通した彼を見て、「やっぱり似合うな」と自分の見立てに感心してしまった。着ているコートとボックスのイラストを交互に見やっている彼の耳が少し赤くなっている。照れているのだろうか。
「似合っている。こっちに来て、もっとよく見せておくれ」
「あの、とてもありがたいのだが、これは一体?」
「可愛い我が子にプレゼントだよ。赤い帽子とウェリントンブーツも必要だったか?」
「それは勘弁してくれ…」
彼の両腕を取ってこちらに引き寄せる。照れと嬉しさが混ざった表情なんてそうそう見られるものではないのだ。一通り堪能してから彼を椅子に戻した。
「ありがとう。大切にする」
まだ赤みの残る顔で言われれば、それだけで満足できるというものだ。しかしそれだけでは終わらなかった。彼から、
「流石ノースだな。本当は“どっきり”というものをしてみたかったのだが、先にされてしまった」
という発言が飛び出してきた。一体どういうことだ?その発言が既に“どっきり”になっているのだが。それでも、不測の事態があまり得意ではない親を差し置いて彼はこう続けた。
「実は、今度、ドラルクとジョン君と一緒にママレードジャムを作る約束をしているんだ。君が用意してくれたジャムには程遠いだろうが、本のお礼に何かしたくて…それと、君が作ってくれたジャムサンドはとても美味しいのだが、あのジャムにもっと合うものがあると思っていて…」
やや早口で言ってから、今度はあーだのうーだの唸っている。暖炉の薪が爆ぜる音と混ざって、時間の流れが少し遅くなったように感じられた。それからしばし沈黙があり、思い切ったようにこう告げられた。
「それで、その、私がジャムを作るので、君にはスコーンを焼いてもらいたいんだ」
なんだ、そんなことか。そんなこと、苦労でもなんでもない。望めばいくらでもやってやるのに。それなのに、お前にとっては一世一代の覚悟並みの“おねだり”なのか。笑い飛ばしてやりたいが、我が子の可愛い“おねだり”だ。余裕を見せて受け取ってやりたい。そう思っているのに、自分の口からはぶっきらぼうな言葉が出てしまう。
なんてことだ。あの熊のやり方の方がスマートかもしれない。瞬時にそんな後悔がよぎったが、目の前の彼は安堵したように微笑んでいるので、これで良しとしよう。
完