泥中の蓮華 しん、と凍てつく夜に染まった部屋にひっそりと在る火鉢の炭が燻っては、僕の悴んだ手をゆっくりと解いてゆく。賑やかな虫の音も途絶えた静かな夜は、どの季節よりも厭った。嘲うようにゆっくりと頭を擡げる寂寥に呑み込まれて、呼吸さえも満足に出来なくなってしまうから――。深淵へと手招く寂寞から目を逸らすように瞑った。
深く深く凍てつく夜気を肺に入れ、かさついた薄い唇を開いてゆっくりと息を吐くのを数回繰り返す。嗅ぎ慣れたインクの匂いに紛れて幽かに漂う、柔らかく甘い蠟梅の香りが凝った心を解していった。
――先生は、私を信じてくれますか?
呂色の絹糸が柔らかな風に弄ばれるままに縋るでもなく淡々と、月もない夜凪のような眼で真っ直ぐに僕を見詰める女性が眼裏にゆらり、と浮かぶ。ここには居ない薄月を求めて、想いを募らせる。右手からころり、と落ちた空の注射器は、人目を厭うように火鉢の影へと転がっていった。
きゅっ、きゅっ、と廊下が軋む幽かな声が静寂を破る。段々と近づく鶯の音と聞き慣れた足音が心と耳を擽った。ゆっくりと瞼を持ち上げれば、月明かりに照らされた障子に逢いたかった人の影が揺らぐ。
「先生、朝謡出版の河原女です。失礼しても?」
「……どうぞ」
彼女と僕を隔てていた障子が遠慮がちに引かれ、俯きがちの彼女の顔は濡れ烏色の前髪で覆い被せられ伺えない。小さく会釈を済ませ、音を立てないように戸を立てた後もその場に留まる彼女に痺れを切らして声を掛ける。
「そちらは寒いでしょう? こちらへ……来なさい」
膝を立て立ち上がると、怖ず怖ずと僕の方へと近づいてくれる彼女の姿に仄暗い優越感を抱いた。いつもは僕から近付かなければ、手の届くことのない聖女であったから、尚更。
「夜分遅くにお呼び立てして申し訳ありません。今手掛けている物語の続きが思うように描けなくて……貴女の感想をお聞かせ頂けませんか?」
文机の方へと体を向け、机上に散らばる原稿用紙を整え始める。ぽっ、と月光以外に柔らかな光源が灯った。視線だけを向けると、行燈に火を灯す彼女の整った横顔が柔らかな橙色に照らされて一時、思考を奪われる。
「あぁ、すみません……。こちらを」
「……頂戴します」
角が折れていたり、皺が寄ったりした原稿用紙の束を恭しく受け取り、藍色の筆蹟を二つの黒曜石がなぞってゆく。その精巧な横顔を文机に肘をついてじっと、見詰めた。先刻よりも柔らかな静寂に時折、原稿用紙が擦れる乾いた音だけが響く。
ふと、視界の端で淡く瞬く緋色が揺らいだ。緋色の軌跡を辿れば、四匹の金魚が俯く彼女の周りを寄り添うように泳いでいる。彼女は――気付いていないようだ。そのまま、悟られないように一匹ずつ握り潰してゆく。空を掴む感触と開いた掌から解けた光の帯が闇に溶けてゆく様が、僕の昏い心底を擽った。
「先生……?」
「はい」
彼女は暫し空に視線を泳がせた後、遠慮がちに怖ず怖ずと言葉を選びながら紡ぐ。
「あの、髪に何か……」
「貴女の髪があまりにも美しかったものですから……触れてみたくなってしまって、つい。断りも無く触れてしまって申し訳ありません」
指に絡めていた艶やかな黒髪に口付け、名残惜しむように解く。少しだけ彼女から距離を取ると、小さく吐息を漏らす音が聞こえた。
「いかがでしたか?」
「物語としては差し障りないと思います。ただ……」
視線で逡巡する彼女に先を促す。
「ただ、蓮沼で心中する部分の描写が、それまでの描写と濃度の差があるように思われます」
「……」
「先生?」
「……実際にその軌跡を僕と、辿って頂けますか?」
腰を上げ、じっと僕を見上げる彼女に手を差し出す。彼女は拒まない、それを知っていて、無垢を装い詰めてゆく、一等尊い僕の聖女を。
「ぇ?」
ぱちぱち、と数回瞬きをした後に一刻、躊躇するも彼女は怖ず怖ずと手を重ねた。ふわり、と蠟梅の甘い香りが匂い立つ。華奢な手を壊さぬように優しく、されど、逃がさぬように包み込んだ。
絹糸のような雨が誘うように蛇の目傘を打ち、洩れる白い吐息が闇夜へ揺らいで消えてゆく。角袖外套の合間を縫って刺すような冷気が、僕を現へと引き戻させた。角燈の灯りがぼんやりと泥濘んだ足許を照らす。
「雨下の闇夜に連れ出してしまって、申し訳ありません……」
俯いたまま零した懺悔の言葉が雨音に紛れる前に掬われる。
「いいえ……幸甚に存じます」
すっ、と手元が引き抜かれて、白魚のような華奢な手が包む。じっと睨めば、彼女は眉尻を下げて微笑んだ。
「季節外れに咲いた蓮華をみせてくださるのでしょう? 連れていってください」
提げた角燈の灯りがひとつ、大きく揺らぐ。泥濘んだ路を歩むその時分、隣を歩む彼女の体温を、吐息を感じて、僕の浅ましい虚が満たされる気がした。針のように細かい雨の中を淡い光を纏った四匹の赤い金魚が、隠世へ誘うように泳ぐ。
「寒くは、ありませんか?」
「差し支えございません」
手元を彼女の手ごと包み込み、空いていた僅かな隙間も埋める。ぐっ、と近づく彼女との距離は本来なら許されるべきではなく。今宵だけ、と心の中で懺悔する。
「僕は、」
ぐっ、と唇を噛み、これ以上溢れ落ちないようにと言葉を噛み殺す。遠く、前を見詰めたまま彼女は僕の心ごと掬いあげる。
「誰だって、ずっと疑ったり、探ったり……考えたりし続ければ疲弊してしまいますから」
「……僕だけを愛してくださいますか?」
小さく横に振り、小さな幼子を諭すように視線を逸らさずに微笑む。
「先生のこと、信じております。けれど……恋慕の情ではございません」
ゆらり、と紅い尾鰭が眼前で揺れて、僕と彼女を隔てる。
「まだ……信じていてくれますか? こんな私を」
「貴女を猜疑の目でみることは、決してありません。こんなにも、」
冷ややかな指先が唇にそっ、と触れた。
「なりません、その先はどうか……お許しくださいませ」
細雨が傘と地を打つ音に紛れて、水面を乱す音色が鼓膜を振るわせる。
――あぁ、終焉がそこに。
「もう……楽になりたいのです。この時だけでも良いから……僕だけ、と言って」
細腕を握りこんで、勢いよく僕の方へと引き寄せた。ふわり、と傘が四匹の金魚と共に宙を舞う。一際、大きな波紋を描いて薄氷が張った沼底へと身を墜とす。背中から僕等を包み込む沼水は凍てついていて、密着した互いの体温が熱いと感じる程だった。
「どうか――僕だけを愛して、」
揺らめく黒闇に墜ちながら、腕の中に閉じ込めた聖女に請う。滲みながら閉じてゆく僕の世界の端で、彼女が幽かに微笑んだ気がした。
冬の未明に蓮沼で、とある作家と担当編集者が心中を遂げた。運良く、担当編集者と思しき女性は一命を取り留めたが、その後消息を絶っている――。