落華 未だ昼間の暑さを残す夜風が僕の頬を撫で、闇夜に溶け込む絹糸をさらった。ふと、遠くから幽かに響く潮騒に歩を止め、煌々と冴えた月を見上げれば。
「先生?」
陽炎のような不安げに揺らいだ声が数歩後ろから、遠慮がちに袂を引いた。ゆったりと望月から陽炎へと視線を移してゆく。月白の月光を遮るように佇み、双つの深潭が僕をじっと見詰めていた。何の感情も読めぬ深潭は冷ややかなようで、何処か温もりと悲哀を感じて――真意を探るように見詰め返す。
「せんせい、」
ざァ……っ、と少し冷え込んだ風が吹き、彼女の声と共に僕の心を平らにしてゆく。
「私もお供しますから」
風で乱れる髪を押さえ、真っ直ぐに貫く黒曜石のような双眼と僅かに甘く柔らかな声音が、躊躇していた僕の背をトンっ、と押した。
「貴女は……いえ、何でもありません」
――それで良いのか、なんて彼女へ問える筈もなく。ぐっ、と唇を噛み締めて押し殺す。そして再び、砂利路を蹴って歩み始めた。寸刻遅れて彼女が砂利路を踏む音を耳にして、隣を歩んでくれない事実に少しだけ淋しさに胸が痛む。
夜の海は仄かに蒼く艶めき、白い砂地に溶けるように滑らかだった。寄せて返す波が足元の砂を攫い、遠慮がちに手招きする。
「先生、手を」
差し出された清らかな小さき掌をとり、包み込むように握ってみた。柔らかな感触と少し冷えた温度がじんわり、と僕の体温に馴染む可笑しさに口元が緩む。漣の音が彼女の声を掻き消してしまうのが厭で、どこまでも透明で清らかな声音だけに耳を傾けていたいと願った。
「行きましょう」
ゆるり、と彼女に手を引かれながら傾く冴える望月へと海をふたり、違えることなく歩み続ける。生温い海水を吸った衣服は肌に張り付き、重さを増す枷となった。それでも、彼女と歩む足取りは軽く、全ての境界線が曖昧に溶け合ってゆく。
凪いだ蒼に墜ちた月が揺らめいて、彼女と重なった。空と海、境界線が曖昧な世界で彼女だけが明瞭になる。仄かに月光を纏う月下美人が咲き綻ぶように微笑む彼女がゆっくりと振り返り、僕の背中へと腕を回して後ろへ傾いた。水膜を張った眼に浮かぶ月が狂おしい迄に美しくて、愛おしくて、言の葉になって溢れ落ちる。
「月が……」
月光に晒された二つの黒瑪瑙は寂然と僕を見下ろして、とろり、と闇が溜まった奈落へ堕としてゆく。
「直に沈んでしまいます」
柔らかな胸に顔が埋まり、漣の音が混じる声音だけでは、彼女がどんな貌をして答えてくれたのか窺い知れない。どんな意図で紡がれた言葉なのか、もう恐れなくて良い瑣末なことだ。
緩やかに上る泡沫に微睡む意識、彼女の鼓動と僕の鼓動が重なり合って一つになってゆく――どこか懐かしい心地。ずっと夢にまでみた最期を迎えるその瞬間――僕はやっと彼女を愛せたのだと、幻想をみた。
――聖女は永久に僕だけのもの。