水族館 考えたら今までデートらしいデートをしたことがなかった。
仕事で知り合い、常に一緒にいるうちに次第にそういう仲になり、仕事柄国内外を共に飛び回っているので今更どこかに出掛けたいなど考えたことがなかった。その上、仕事中もプライベートも四六時中一緒にいるのだ。改めて出掛けることを目的とした外出をしたことがなかったのだ。
「デートしませんか?」
と黒死牟が提案した時は、何を今更と呆れた様子の無惨であったが、今朝は起こす前に起きており、ウォークインクローゼットの中であれやこれやと服を選んでいる。
最終的にシンプルな格好で落ち着くのだが、無惨が自分と出掛けるからと、いつも以上に服選びに神経質になっているのは嬉しかった。そんな自分の女々しさが嫌になるくらいに。
「今日はデートだからな」
玄関を出る時に黒死牟の手から車の鍵を取り上げる。そして、助手席のドアを開け「どうぞ」と乗るように促した。
「運転くらいは私が……」
「今日のお前は秘書ではなく、私の恋人だ」
そう言われ、照れながら助手席に乗った。運転席に座った無惨は顔の半分が隠れるくらい大きなサングラスをして、高いエンジン音を響かせた。
無惨の運転は少々荒っぽいところがあるが、大事な恋人を乗せているから、と今日は安全運転を心掛けていた。
「それで、どこに行きたい?」
「え?」
「デートだろう? お前の行きたいところに連れて行ってやる」
全く考えていなかった黒死牟は助手席で完全にフリーズしてしまう。そんな黒死牟を見て、無惨は小さく笑った。
「そうだな、折角朝早く出たから、ベタなところだと遊園地、動物園、水族館……あとは山上にドライブに行くとか、海岸線を走るとか、サービスエリアや道の駅を巡るとかでも……」
「ホテルに直行とかじゃないんですか……?」
「お前、今まで、どんな相手と付き合ってきたのだ……」
無惨が明らかに引いているのが解り、黒死牟は真っ赤になる。
「まぁ、私はお前と一日中ホテルで過ごすというのでも全然構わないが、お前がデートしたいなんて言うのは珍しいからな。普段しないことをしよう」
「……では、水族館で」
「了解」
無惨は滑らかに車を走らせる。カーステレオから流れるプレイリストの曲に合わせて口ずさむ無惨の歌声がとても心地好かった。
休日の水族館は家族連れやカップルでごった返し、入場に少々時間が掛かったものの、中に入ると人気のイルカショーや魚と触れ合えるコーナーなど日の当たる明るいところに人が流れていく。青い照明に照らされた涼しげで暗い館内は、ちらほらとした人しかおらず、大きな水槽の前で無惨は熱心に解説パネルと魚を見比べている。かと思えば、撮影OKと書かれているので、スマホで魚の群れや大きなクジラを撮影したり、キラキラした熱帯魚に目を輝かせている。
黒死牟に行き先を選ばせた割に一番楽しんでいる無邪気な姿を見ると、黒死牟は胸の奥が温かくなり、少し離れた場所で見守っていたが、突然腕を引っ張られ、インカメラに切り替えたスマホで並んで撮影させられた。
「ブログに載せるから、もっと楽しそうな顔をしろ」
「載せるんですか?」
「載せる。お前との貴重なデートだぞ? 載せるに決まっているだろう」
今まで何度も無惨のブログに登場しているが、それはあくまでもスタッフの一人として写り込んだだけであり、私服姿の完全プライベートの無惨の横に並んで写真を撮ったことはない。
「私はちょっと……」
「駄目だ、命令だ」
そう言われると抵抗出来ず、水槽の前で二人寄り添って写真を撮った。
それからもはしゃぐ無惨と少し距離をあけて黒死牟は歩いていた。水槽のトンネルをくぐり頭上の魚を見上げていると、無惨はそっと黒死牟の左手を握る。
「デートなのだ、もっと近くに寄れ」
「……はい」
青い淡い光に照らされた無惨の顔が美しすぎて、抵抗できず静かに従った。
ふわふわと軽やかに泳ぐ、透き通ったクラゲを見ていると緊張が緩んでいく気がした。永遠にこの水槽の前にいたいと黒死牟が見入っていると、無惨は大きな溜息を吐いた。
「お前、どうせ良くないことを考えているだろう」
何も言えず黙り込む黒死牟の手を骨が軋むほどに強く握る。
「このデートを最後に……とか、最後にデートをするにしても人の少ない場所で……とか、別れ話をするつもりだろう」
「何でもお見通しですね。そのつもりです」
ゆったりと水槽の中を漂うクラゲを見つめながら黒死牟は答えた。
「別に無惨様のことを嫌いになったとか、仕事を辞めるつもりもないのですが、この関係は続けるべきではないと思っています」
「またそんな面倒臭いことを……」
黒死牟がこういった話を始めると長期戦になる。黒死牟は無惨が根負けしそうになるくらい頑固な一面があるのだが、こればかりは譲れないので無惨は呆れて黒死牟の腕を引っ張り、館内のカフェに向かった。
「もう何度、その話をした? 私の将来だ、世継ぎだ、そんな面倒臭いことを考えるな」
「考えます。私は無惨様の恋人である前に秘書です。鬼舞辻家の繁栄を考えるのが私の役目です」
「あー、もう鬱陶しい!」
無惨は怒りながら、小さな箱を乱暴に机に置いた。
「ちゃんとサプライズの演出も用意したかったのに、お前が突然言い出すから悪いのだ!」
「これは……」
「開けて見ろ! このサイズの箱の中身はひとつしかないだろう!」
無惨はガチギレで席を立ち、飲み物を買いに行った。黒死牟は恐る恐る白いリボンをほどき、箱を開けると同じ色のリングケースが入っており、「Marry Me」とシルバーの文字で刻印されている。
中を見ずに固まっている黒死牟を見て、アイスコーヒーをふたつ持ってきた無惨の機嫌はますます悪くなる。
「無惨様……これは……」
「そんな簡単な英語も読めないのか? コーヒーぶっかけるぞ」
テーブルに置いた無惨は箱を取り上げ、リングケースの蓋を開けて中身を見せながら黒死牟に跪いた。
「私と結婚しろ。返事は不要、これは命令だ」
ランチタイムが近付き、周囲に人がわらわらと集まってくる。「あれ、鬼舞辻議員じゃない?」とひそひそ話す声が聞こえ始め、黒死牟はその指輪を受け取れずにいる。
「さっさと受け取れ。私は早くイルカのご飯の時間を見に行きたいのだ」
それでも受け取れない黒死牟だが、周囲から拍手や歓声が聞こえ、もう後には引けない状態である。
「ここで私に恥をかかせたら、一生下僕としてこき使うからな」
「別にそれでも良いです……無惨様のパートナーなんて荷が重すぎます」
「煩い。早く受け取れ」
そう言われ、黒死牟は渋々指輪を受け取り、無惨と並んで周囲に笑顔を振りまいた。
イルカのご飯を見る為、屋外エリアに移動する時、無惨と黒死牟は手を繋ぎながら話した。
「私は一生、お前を手放す気は無いし、お前が別れて欲しいと懇願しても絶対に別れるつもりはない。その時はお前を殺して私も死ぬ」
「そんなめちゃくちゃな……」
頭を抱える黒死牟と正反対に、スタッフのイルカの説明を聞きながら、イルカがイワシを食べる様子を無惨は楽しそうに見ている。
「お前は今日、私とここに来て楽しくなかったか?」
太陽を受けて輝くイルカに負けないくらい無惨の笑顔は輝いている。思わず「めちゃくちゃ楽しいです」と即答すると、無惨は声を出して笑う。
「その気持ちだけで、これからも上手くやっていけると思わないか? ほら、次はペンギンのご飯を見に行くぞ」
あぁ、この人には敵わない。黒死牟は諦めて無惨の手を握り返した。