待ちぼうけ この鬼舞辻無惨を待たせることが出来る男は、この世でひとりしかいない。
気の短い無惨が既に15分も待っているのだが、いかんせん電話も繋がらず、LINEの既読もつかないとなると「帰る」と一言伝えることが困難に思え、向こうから何らかの連絡があるまで待ってみようと思った。
開放的なホテルのカフェラウンジ。一面ガラス張りになった外の景色を見ると、美しく整えられた庭園があり、高い天井から吊り下げられた豪奢なシャンデリアも含め、景色がとても良かった。その上、椅子の座り心地も悪くない。
ウェイターを呼び止め、ぬるくなったコーヒーを改めて注文しなおした。スマホばかり見ているのも何と無くみっともない気がして、鞄の中から読みかけの文庫本を取り出した。
まとまって読む時間がないので、冒頭だけ読んで放置していた。読みたい気持ちはあるので、常に鞄に入れていたが、ページを開くことすらなかった。
改めて冒頭から読み直し、テーブルに置かれた新しいコーヒーにも気付かず、無惨は真剣に読み始めた。
一方の黒死牟は、後援会との打ち合わせが押しに押し、無惨から鬼着信が入っていることに気付いていたが出るわけにも行かず、会議室から解放された時に着信履歴を見ると、待ち合わせ時間から15分経過した時点で、ピタリと電話もLINEも寄越さなくなっていた。
これは怒って帰ったな……と思ったが、取り敢えず現地に向かうことが礼儀だと思い、待ち合わせ場所のホテルまでタクシーを飛ばした。
待ち合わせ時間に大幅に遅刻しているが、タクシーを降りてから、走ってロビーにあるカフェラウンジへと向かう。開放的な空間を見渡すと、無惨の姿が見えた。
その瞬間、自分を待ってくれていたという喜びで全身が震えた。帰って、もういないと思っていたので、この現実が受け入れられないくらいだ。
「遅れて申し訳ありません!」
走って座席に向かうと、無惨は右手を上げて真剣に本を読んでいた。
長時間、コーヒーだけで席を占領するのは気が引ける為か、テーブルには食べもしないクラブハウスサンドウィッチと人気のモンブランが置かれている。
「召し上がらないのですか?」
「お前が食え」
「畏まりました」
黒死牟は席に着き、同じようにコーヒーを頼んだ。
横長で両サイドに薄いチョコレートが飾られた、土台がチョコレートフィナンシェで出来たモンブランは人気のケーキで、来たら必ず食べようと思っていたので密かに嬉しかった。しかし、まずはクラブハウスサンドウィッチを食べたい心境だ。長丁場の話し合いで食事する暇もなかったので、目の前の食事は実に魅力的に見える。
だが、遅れた謝罪もなしに、いきなりがっついては失礼だろうか、と無惨の様子を見たが、本に夢中のようで黒死牟が遅れた理由を語り、謝ろうとすると、多分待たせたことより、読書の邪魔をする方が怒らせるだろうと思い、黙って俯いていた。
「食え」
「はい……」
おしぼりで手を拭いて、黒死牟は少々乾きつつあるサンドウィッチを口に運んだ。多少パサパサになっていても十分美味しいし、そんなことが気にならないほどに空腹だった為、そのまま、サンドウィッチとモンブランをぺろりと完食する。食べ終わっても尚、無惨はずっと本を読んでいる。左手側の残りページは僅かなので、黒死牟は静かに読み終わるのを待っていた。
ページを捲る細い指先、俯き、真剣な表情で本を読む姿が美しくて、見ているだけでも退屈しなかった。
背表紙を確認すると無惨がずっと読みたいと言っていた本だ。普段は電子書籍で読んでいるが、じっくりと読み、何度でも読みたい本はやはり紙の本で買うと話していた。
読み終えると、無惨は本をテーブルに置いて、冷たくなったコーヒーを一口飲んだ。
「遅くなって申し訳ありませんでした」
「こちらこそ。待たせて悪かったな」
「いえ……」
自分は大好きな無惨を眺めながら、美味しい食事とコーヒーまでいただけて割と有意義な時間を過ごしていた。だが、無惨は連絡のつかない黒死牟を待ちながら、こうして読書をして過ごしていたのだ。
「まさか無惨様がこの時間までここにいるとは思わず……」
「帰ることも考えたが、まぁ、たまには待つのも悪くないと思って。おかげで本を読むことも出来たし」
普段は出来ない時間の有効利用だと無惨は笑う。
だが、夕焼けで染まる窓の外を見ながら、ぽつりと呟いた。
「何度か、このままお前が来ないのではないか、と考えたりもした。だから、お前が来た時、少し安心した」
無惨の言葉に胸が締め付けられる。自分もここに無惨がいてくれて、どれほど嬉しく、安心したか。今まで、こんな風に人を想い、愛したことはなかった。知らなかった感情を無惨と一緒にいると沢山覚えていくのだ。
「私が無惨様のお側を離れることはございません」
「そうか……」
口許に笑みを浮かべて呟き、読み終わった本を鞄に仕舞った。