黒革 初めて人を殺した時の感触は、今でもはっきり覚えている。
彼に貰った黒革の手袋を着けたまま、相手の首を思い切り絞めた。
首に指がめり込む感触は覚えているのに、どうして、この男を殺そうと思ったのか、理由はよく覚えていない。多分、彼に「殺してくれ」と頼まれたからだったと思う。
軍隊にいたが、実戦でも素手で人を殺すことなど一度もない。訓練では急所など、人の殺し方は大体学んでいるが、使う日などないと思っていた。だが、その日は案外早くやってきた。それも惚れた男に「殺せ」と命じられただけで実行してしまったのだ。
黒革に包まれた指先が相手の首にめり込み、徐々に男の顔色が変わっていく。
首の骨が折れるのではないかと思うほど絞めているのに、赤黒く膨れた顔は命の火を消そうとはしない。思ったより人間はしぶといと知った。
苦しそうに、こちらの手を掴み、必死に爪を立て引っ掻くが、爪の間に革の表面が入るだけだ。
がくっと力が抜けたので、一気に体が重くなった。死んだ人間の体はこんなに重いのかと思いながら、役目を終えた安心感で手から力が抜け、死んだ男を地面に落とした。足に力が入らず、死体の隣に蹲ると、苦しそうに目を見開いた死体と目が合った。
壁に凭れて様子を見ていた彼が、握っていた銃を懐にしまい、ゆっくりと歩いてきた。
「よくやった、黒死牟」
大きな拍手をしながら、地面に蹲る自分を抱き締めた。甘い香水の匂いに少し癒された。
胸に顔を押し当てると、硬い銃の感触が伝わってくる。恐らく、自分ができなかったら二人まとめて殺す気だったのだろう。役に立たないなら殺す。彼は平気でそれが出来る人だ。何度かセックスしたくらいで情が移るとは思えない。
安心はしたものの、隣で転がっている死体と人を殺したという事実は変わらない。
「先生……私……人を……」
「あぁ、お前ならやってくれると思っていたよ。お前は私の自慢の恋人だ」
初めて彼がこれほどまでに興奮し、頬を赤く染め、笑みを浮かべる姿を見た。どこまでも美しく、どこまでも官能的だ。
そして、細い指先で顎を掴み、そっとくちづけてくる。彼の背中に腕を回し、音を立てながらくちづけた。緊張で渇いた唇が、彼のくちづけで甘く潤っていく。軍隊にいる時に気付いたが、殺し合いの場所に身を置く興奮は、セックスの時の興奮と似ている。ここで抱いて欲しいと思うくらい興奮していた。
だが、ふと目に入った自分の黒革の手袋を見て、意識が現実へと引き戻される。
「遺体は……」
「そんなもの薬品で跡形もなく溶かせば良い。チンピラひとり消えたところで、誰も気付かない」
ドラム缶にコンクリと一緒に詰めて海に沈めても良いし、何とでも処理出来ると、くちづけの合間に平然と答える。
「それと……先生から貰った手袋が……」
「あぁ」
震える手から黒革の手袋を脱がせ、彼は遺体の上に投げた。
「一緒に溶かせば良い、証拠隠滅だ」
「ですが、折角いただいたのに……」
「こんなもの、いくらでも買ってやる」
人を殺した指先に優しくくちづけてくる。
「愛しいお前の素肌に他人が触れることは許さぬ。お前に触れて良いのは私だけだ」
愛の言葉で雁字搦めにされ、人を殺した後悔を快感が上塗りする。彼に認められ、愛されるのなら、人の命などちっぽけで安いと思った。
それから黒革の手袋を与えられる時は、必ず殺しの指令が付いていた。
手袋の処分と共に罪も消される。自分の素肌に触れることが出来るのは彼ただひとりだけだった。