死者の奉仕とダイナマイト黒いスーツを身につけ、黒いネクタイを締め、黒い革靴を履いた桐生は、東城会の本部に来ていた。
もう二度と、足を踏み入れることはないと思っていた場所だった。よっぽどの大事件がない限りは、もう見ることすらないと思っていた。
たとえば何らかの組織に本部を襲撃されて大吾が人質にとられたり、何らかの病気にかかった大吾が桐生を呼んだり、何らかの局地的災害で大吾が助けを求めてきたり(桐生は幼い頃から知っている大吾に対して、他の人間よりも甘かった)、あとはたとえば――
――たとえば、真島の葬式とかでなければ。
◇
真島を構成するものはとてもわかりやすい。
すぐに思い浮かぶのはあの人を喰ったような笑い声で、時代が時代なら魔女裁判に掛けられてもおかしくない不気味さがあった。
それに、ひとつだけの目。
詳しく聞いたことはなかったが過去の傷らしい。失明したと言っていたが、桐生はこれに関しては今も嘘だと思っている。真島が身体的ハンデを感じさせる瞬間なんて一ミリたりともなかったからだ。だからきっとあの眼帯は、桐生の知らない技術で出来た特殊なサングラスとかなのだろう。
あとは、変な革ジャン。
真島はよく桐生のファッションセンスを声高らかにこき下ろしてきたが、桐生からすれば真島も大概だった。あの夏場に死ぬほど蒸れそうなズボンも、鉄板の入った革靴も、桐生なら絶対に選ばないセンスだ。
しかし奇妙なことに真島が身につけるとすべてがピッタリと馴染んで、これが正解かのように目に映るのだから不思議なものだった。
……その姿も、もう見ることはないのだが。
どこか胸に穴が空いたような気持ちで本家の石畳を歩く。向かう先、正面玄関に大吾がぽつんと立っていた。
彼も黒で全身を包んでおり、桐生と目を合わせると軽く顎を引いた。
「――お久しぶりです、桐生さん」
「ああ……」
桐生はもうその名前は捨てたと言おうか悩んだが、東城会の情報網でそれを知らない訳はないだろう。知ってなお大吾が名前を呼ぶのなら、今日だけは受け入れようと思い口を閉ざした。
大吾は「では、中に」と言葉少なに言い、先導して本家の扉をくぐった。
二人分の靴音が寒々しく響く。
大吾の重い疲労がのしかかっている背中を追いながら、桐生はまた真島のことを思い返していた。
彼には随分と世話になったものだ。
真島は出所したての桐生を四六時中付け狙い、「桐生ちゃ~ん」とドスを振り回しながら、仕舞いには幻聴が聞こえるまで桐生を追い詰めた。
ようやく当時の勘が戻った頃。なんでこんなことをしたんだと聞いたら、真島は今更なんだという顔で「最初に言うたやろ。お前の強さを取り戻すためや」と優しい声で言っていた。
真島の親切で何度も死にかけた桐生からすれば、「ありがとう」と「もっとやり方があっただろう」の中間で低く唸ることしか出来なかったがとにかく、真島の行動はすべて、桐生のためだった。
だから桐生にとって、このノイローゼ寸前だった日々と、大吾を支えるために東城会に戻ってくれたことが、彼への恩義の八割を占めていた。
付け加えるなら、桃源郷にトラックで突っ込んで来た時に発生しただろう諸々の請求書や、国会議事堂にダンプカーで突っ込んで来た時に少なからず発生しただろう請求書を一切こちらに回さずに処理してくれたことも有難かった。
「寂しくなりますね、きっと」
「…、…そうだな」
ぽつりと呟かれた言葉に、一瞬声が詰まった。
特段感傷に浸っていたわけではなかったが、寂しいという感情は地脈を這う水路の如くひたひたと胸の内を流れ続けていたから、それを大吾に言われたことで心を見透かされた気がしたのだ。
「きっと地獄で元気にしてるでしょうけどね」
「そうだな…」
こんな時くらい嘘でも天国と言ったほうがいいんじゃないか?という考えが頭をよぎったが、いくら無神論者の極道でも嘘を吐けない時があるのだろう。試しに「天国かもしれないぜ」と言おうとしたが、最初の「て」を発する前に舌を噛んだ。
「あの人、先月だったかな、山を買ったんですよ」
「…ああ」
薄暗い昼間の日差しが差す廊下を歩きながら、大吾の声に耳を傾ける。
足元はいつの間にか無機質な石造りから毛足の長い絨毯に変わっていて、聞こえるのは遠くの鳥のさえずりと、どこかへ走り去る車のエンジン音だけになっていた。
「その山、どうしたと思います?」
「ダイナマイトで爆破してたな」
「えっ…」
はじめて大吾が振り返った。
平素と変わらぬ様子の顔色に驚きを乗せて、「あの場にいらしてたんですか」と言った。
「俺は後から聞かされましたよ……森林法に引っかかるどころの話じゃない。いくら彼が災害レベルの問題をいくつも抱えていたとしても、自ら率先して引き起こす必要はないでしょうに。お陰でうちの本部長は厚労省とのやり取りばかり上手くなる」
「まぁ……大変そうだな、お前も」
わかってくれますか、と何もかも諦めた声で言った大吾は気を持ち直すように軽く頭を振って、ふたたび足を進めた。
桐生は今まで真島によって引き起こされた数々の苦労を偲びながらも、先月のことを思い出していた。
◇
真島は一言で表せば滅茶苦茶で、彼をよく知らない人にもう少し丁寧に説明するとしたら、『壁に防音材が埋め込まれた病室に入れられるべきところを図抜けた話術と器用さと滲み出るアルファメイルで逃れ続けている』ようなタイプの男だった。
そんな聞くも恐ろしい男に、桐生は拉致された。
「ええ山やろ」
「……」
桐生は夜勤明けだった。
数時間前までは福岡でタクシーを走らせていた。
極道として生きた過去を捨て、遥や子供たちのために一人きりで生きることを決めて、鈴木太一という名前で生きていた。過去に築いてきた栄光や信頼、いくつもの戦いに一生開かない鍵を掛けてでも、幼い未来のために身を捧げたのだ。
もはや自分を構成するものは背中の龍しかなく、その龍も泣き疲れて静かに眠ってしまった頃に、真島はやってきた。
まるで昨日も会ったような顔で現れたかと思えば「ちょお来てや」と、桐生を都内の山奥に攫ったのだ。
まったく何が起こったかわからなかったがひとつ確実なことは、真島は桐生の選択をすべて理解した上で、桐生一馬を手繰り寄せたということだった。
……まぁそんなことは些細なことである。
とにかく様々な決意や覚悟を脇に追いやられた桐生は、真島が買った山奥の、綺麗な小川にある座り心地の良い岩に腰掛けていた。
「なんなんだ、一体…」
悪い夢のようだったが、柔らかな日差しもあたたかな岩の手触りも、小鳥の鳴き声も穏やかなせせらぎも、全部現実のように感じられた。
これは実はLSD入りの菓子パンによる幻覚作用で、次に目が覚めたら真っ白な天井が見えていないかしら…と思いぎゅっと目を瞑ったが、何も変わらなかった。恐る恐る開けた視界の中で、興味深そうな顔をした真島が「何しとるん?」と聞いてきただけだった。
「…いや、なんでもない」
「まったく、おかしな奴やな」
仕方なさそうに笑う顔は出会った頃よりも歳を取ったが、桐生に向けられる年長者の温もりは何ひとつ変わっていなかった。
いつになく柔らかい雰囲気を纏った真島は、「ええもん手に入れたから、桐生ちゃんにもお披露目したくて」と言いながらどこからか取り出した筒状の何かを放って寄越した。
「これは……?」
「ダイナマイト」
桐生は無言で真島を見た。
いくら史上最大かつ最悪と名高いツァーリ・ボンバのほんの500億分の1程度の威力しかない爆発物だとしても、無造作に投げていいモノではないだろう。桐生はそ…っとダイナマイトを自分の座っていた岩に置き、音を立てずにその場から離れた。
真島はそれを見ながら悪戯が成功したような顔で煙草に火をつけ、
「桐生ちゃんはもっと派手に生きたらええ。お前が表を歩いてくれんと、俺らが影に隠れられんやろ」
と、言いながら輪っかの煙を吐いた。
桐生はしゃがんだ真島の隣で同じ様に膝を折り、畳んだ両足を抱え込むようにしてバランスをとった。奇しくもこれは、神室町で喧嘩をした後に並んで煙草を吸っていた時と同じ体勢だった。
「……兄さん」
「うん?」
「このために俺を拉致したのか?」
「人聞きの悪い事を言うのぉ。招待って言えや」
「今日も夕方からシフトが入ってるんだが」
「車なんてモンは誰に頼まれんでもひっきりなしにそこらを走り回っとるんや。迷子みたいにウロウロしとるタクシーが昨日より一台減ったとして、誰も気にせん」
「俺を拾ってくれた社長に恩があるんだ」
「恩やったら俺にもあるやろ」
「む、」
桐生はそれもそうか…と納得して、拉致誘拐の件に関しては諦めることにした。
真島には確かに恩がある。街中での喧嘩による器物損壊費なんかも、きっと彼が処理してくれていただろうし。
「それで、こんな山奥で何をするっていうんだ。まさかあのダイナマイトを爆発させるのか?」
「今日は察しがええな」
「えっ……?」
ぽかんと開いた口に吸いかけの煙草を差し込まれ、反射で閉じる。息を吸いきったタイミングでひょいと抜かれた。真島の愛煙が桐生を包む。
「一緒に爆発させよ、アレ」
「な、なんでだ……?」
久々の感覚だった。
これが現実だということをじわじわ理解し始めた脳が、真島への警戒心をゆっくりと呼び起こさせる。気狂いのように笑っている時の真島は言うまでもなくヤバかったが、こうして穏やかに理解不能なことをのたまう時の真島もそれと同じくらいヤバいのを、桐生は知っていた。
真島は口をぽかんと半開きにして絶句している桐生に、一等愛おしいものを見る目を向けた。
それは表情から感情の機微を読み取れるタイプの人間であれば、顔を赤らめて恥じらうような眼差しだった。しかし桐生はそういう繊細な質ではなかったし、彼にとっては見慣れた表情だった。
「お前が元気ないんちゃうかて思ってな。俺なりに考えた結果や」
「……?ぉ…、…お気持ちだけで結構です…」
一体何を食べたらこんな思考回路になるのだろう。
聞いたことのない動物の肉を食べてそうだな、と思いながら過去一丁重に断ったが、当然この程度の拒絶で止まる真島ではない。
「心配せんでもあんな一本だけなんてショボいこと言わんよ」と聞きたくもない情報を開示しながら、嫌がる桐生の腕をガッチリ掴んで山の更に奥へ足を進め、深い穴の手前でようやく立ち止まった。
広くて深い穴の中には無数のダイナマイトと起爆装置のようなものが入っていて、そこから一本の長い導火線が伸びていた。
「その……兄さん……?」
「んー?」
桐生は半ば本気で、今からここに突き落とされて殺されるのだと思った。なるべく彼の無数にある変なスイッチを刺激しないように、慎重に言葉を選ぶ。
「ここを……吹き飛ばして、それでどうして俺の元気が出ると思ったんだ…?」
「はぁ、そんなんも分からんのかお前は」
真島は1+1が出来ない子どもを見る学者のような目をして、やれやれと首を横に振った。そして穴の淵に伸びる長い導線を手に取り、桐生に握らせながら言った。
「ダイナマイトの正しい使い方は知っとるか?」
「いや、知らないが……」
「これはな、地形を破壊することによって、人間の歪んだエゴと行き過ぎた驕りを表現するために作られたんや」
「はぁ、」
真島は何ひとつ理解していない顔の桐生を見て、仕方なさそうに続けた。講義の終了時間までまだ数分あって、教育機関との労働契約上、授業を続けなければならない教師のようだった。
「俺は昔から人類至上主義者たちと論争してきたんやけどな」
「はぁ、」
そんなことは今までひと言たりとも聞いたことがない。真島のペースに飲まれていることを感じながら、一応曖昧に頷いた。
「俺はそいつらに、『山をくり抜いたかと思えば今度は地下を掘って、更には海も空も果ては宇宙まで手に入れんと気が済まん傲慢な動物がアホほど増えたんは、他でもないダイナマイトのせいや』って言うたんや」
「なんでダイナマイトのせいなんだ…?」
「ええか、これは今の歴史から見た解釈やけどな。ダイナマイトで人間は燃料と土地を手に入れたやろ。一方では何十億年もかけて出来た地形と、数年あるいは数十年生きた人間が大勢死んだんや」
桐生はこの隙に握らされた導火線をそっと地面に置こうとしたが、真島の革手袋によってそれを阻まれた。山の空気に触れて少しひんやりとした革が、導火線ごと桐生の手を包み込んでいだ。
「もしスウェーデンの医師に道徳心があってノーベルが産まれた瞬間にきちんと窒息させていれば、ダイナマイトは生まれんかった。……ああ、代わりに同じようなものが作られただろうって言いたいんやろ?」
「え、いや……」
桐生は正直なところ、半分も聞いていなかった。真島のよくわからない話の内容よりも、今自分の右手を握り込んでいる手袋と、それによって自分の右手が握り込まされている導火線のことばかり気になっていた。
……どうすればこの場を脱せるのだろう。
真島と知り合ってから様々なことがあり、そのほとんどすべてが悪い冗談のような出来事で、それによって桐生は人よりも状況解決能力が鍛えられていると自負していた。
しかし、今はどうだ。さっぱり何も思いつかない。
やはりタクシー運転手という平和な職業がいけなかったのだろうか。
このまま真島の腕を掴み、爆薬がみっしり詰まった深い穴の中に投げ込む以外で、安全にこの場を離れる方法が思い浮かばなかった。
「――やからな、観測するまでは、可能な行動のすべてが可能性として残っとるんや。その確率の波形は“なんだって起こり得る”未来で、それを手っ取り早く見るためにこの場を用意したっちゅうワケや」
「……あ、あぁ」
気付けば講義は終了したらしく、三拍の間を置いてからぎこちなく頷く桐生に真島は口角を上げ、「ほな桐生ちゃんも納得したことやし景気よくドカンとやろか」と言った。
てっきりこれから導火線の端に火をつけるものだとばかり思っていたが、真島はひとしきり穴の淵からダイナマイトの具合だか機嫌だかを確認したかと思うと、「よっしゃ、行こ」とふたたび桐生の腕を引き、来た道を引き返した。
「爆弾はどうするんだ」と思ったが、桐生は山を爆発させたいなんて思いはなかったし、もし下手に質問すれば真島の話をほとんど聞いていなかったことがバレるため、黙って手を引かれるまま歩いた。
途中で振り返れば、大きな穴も、そこから不気味に伸びた導線も、すっかり見えなくなっていた。
二人はひとり寂しく留守番をしていたダイナマイトの元まで戻ってきた。
桐生はこれを小川に浸して不発弾にしようとしたが、水中に沈める様子を止めることなく横で見ていた真島に「酸素置換基を持っとるんやから、そんなことしても炭素と水素が連鎖燃焼して結局爆発するで」と言われ、無言で水中から引き揚げた。
理屈は分からなかったが、「結局爆発する」のならばこの行為に意味はないのだろう。
桐生はなるべく遠くの、柔らかそうな土の上に濡れたダイナマイトを置いて、一度は爆薬に譲った岩に腰掛けた。
「はぁ……」
どっと疲労が押し寄せてきた。
睡眠不足だったし、腹も減っていて、何より採れたての狂気をおすそ分けしてくれる親切な男が隣にいるのだ。たとえ万全の体調であっても疲れる状況だった。
真島はそんな様子に少しも意に介していない様子で足元にしゃがみ、桐生の俯いた顔を眺めながら煙草に火をつけた。ぷかぷかと輪っかの紫煙を吐いている。
「……兄さん」
「んー?」
「何も聞かねぇのか、俺に」
「聞くって、何を」
桐生は顔を覆っていた手の隙間から真島を見下ろした。真島はいたって普通の顔で、促すように少し首をかしげた。
「…急に、いなくなったこととか」
「んー……まぁ、今はおるしなぁ」
「俺は…消える必要があるんだ…」
「生きてりゃたまにはそういう時もあるわな。俺も嶋野の親父が癇癪起こす度に消えとったし」
「……あさがおの子供たちのために、存在してちゃあならねぇんだ」
「お前のことを知らん女が勝手に言うただけやろ」
真島は一際大きな輪っかを吐いて、吸い殻を丁寧に簡易灰皿に押し込んでから、もう一本火をつけた。よく知る匂いが辺りを漂い、まるで過去に戻ったようだった。
一番自分に興味を持ち、一番それを行動に移してきた男を見つめる。
眼帯の柄が少し変わっただけで、真島は他に何も変わることなく桐生を待っていた。十年の歳月によって変化した世界で桐生が混乱しないように、取り残されないように、いつだって口の端を上げて待っていてくれた。
――唐突に、寂しさに襲われた。
この男に何も言わずに消えたのは自分なのに、今まで真島から何の音沙汰もなかったことが寂しかったというワガママで自分勝手な感情が沸き起こった。これは桐生にとって馴染みがなく、うまく制御できない感情で、どうすればいいか分からずに途方に暮れた。
こういう時にいつも助けてくれるのは真島で、その真島は目の前にいて……だから桐生が真島を無意識に頼るのは、至極当たり前のことだった。
「兄さん……」
「…、……あぁ、んな顔すんなや」
ちらりと桐生を見上げた真島は一瞬目を見開き、今度は無造作に煙草を投げ捨て、流れるような動きで桐生の後頭部を引き寄せて、唇を合わせた。
「っ……」
目を見開く桐生の視界で、真島の白蛇と切れ長の瞳が近すぎる距離で輝く。
少しかさついた唇を押し付けるだけのキスは、突如鳴り響いた胸の悪くなるような衝撃音で途切れた。
「っな、な…!?なんだ、いまの!?」
「何って、キスやけど」
「そっちじゃない!」
どっ…という気味の悪い重低音が腹の底に響き、地面が揺れたのだ。桐生の聞きたいことは一瞬前のキスではなく、天変地異の前触れのような大地の唸り声のことだった。この状況であれば百人が百人そうだろう。
しかし真島は「なんやそっちかい」とつまらなそうに呟き、桐生の口の端にもう一度軽く口付けてから、「ダイナマイトに決まっとるやろ」と言った。
「や、だって……あれは、火をつけてなかったのに…」
「タイマー起動やもん」
「な……」
ダイナマイトのことなど唐突なキスによって吹き飛ばされていたというのに、今度はキスがダイナマイトに吹き飛ばされた。あの意味深な導線はなんだったというのか。ブラフか、もしくは「本来ならここに火をつけるんですよ」という見本だったのか。
とにかく、桐生の想定外のことが2つも立て続けに起こった。尻と足の裏にはまだあの不気味な衝撃が残っていて、唇には真島とのキスの感触も残っていた。
……これ以上何かあれば気絶する。
桐生は自分のキャパシティを優に超える出来事を前に、完全に硬直していた。
「案外崩れんもんやなぁ」とのん気な声で言った真島は、ピシ…ッと固まったままの桐生を見て、安心させるように微笑んだ。
「これが正しい使い方や。きっとノーベルも地獄で喜んどるやろ」
桐生はダイナマイトの生みの親のことなんて何ひとつ知らなかったが、確実に「喜んでいないだろう」ということだけは分かった。きっとノーベルという人物は、少なくとももっと生産性のあることに利用されることを望んだ筈だ。
何から言葉にすればいいか分からずに、真島を見つめる。
真島はよく桐生を無口だと称したが、正確には真島の突飛な行動に絶句している時間が長いだけだった。そしてそれは桐生だけではなく、真島の周囲にいる人間は大抵、無口になる運命を背負っていた。
真島はしかしそんなことを気にする男ではないので、はくはくと言葉にならない悲鳴を零す桐生に向かって、とびっきり穏やかな顔で笑った。
「桐生ちゃん。俺、お前のこと好きやわ」
「~~~???」
「あっ…!」
桐生の想定外がこれで3つになり、完全にキャパシティを超えた思考回路はアッサリとその役目を放棄した。ついでに意識のスイッチをOFFにした脳はようやく、どこかで聞こえる焦ったような声も締め出して、深い眠りつについた。
意識を手放す寸前、真島の腕に抱き留められた気がしたが、確かめる術はなかった。
◇
ひたすら長い廊下を通り過ぎ、扉の存在を極限まで消している部屋に入り、真っ黒な棺を見下ろす。
こういうのは大抵白いもんじゃないのか?という考えが頭を過ぎったが、真っ白な棺と真島吾朗という組み合わせはどうにも想像が出来なかった。
「中には何もないんですよ」
白い百合が一輪だけ置かれた棺は、大吾の言葉の通り空っぽだった。
なんとなく、そういう気がしていた。
ニュースで真島の訃報を知った時から、そうだと思っていた。
「ああ」
――桐生は今日、身を切る思いの覚悟を投げ打ってでも、この事実を確認しに来たのだった。
「……寂しくなるな、これから」
「どうでしょう。やっと平穏な日々が送れると期待しているのですが」
大吾の軽口に、ふっと笑う。
真島はしばらくの間、この世から姿を消す決意をした。それが何のためか、桐生はしっかりと分かっていた。
『東城会を、大吾を支えてやってくれ』
そう言った桐生のために、真島吾朗は死んだのだ。
「……まだ、返事もしてねぇのに」
小さく零れた言葉は、空中に溶けて消えた。
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圧倒的ハピエン厨なので、脳内ではちゃんと両想いになってます。
このあと雲隠れ大成功ダブルピースした真島が爆音とともにえっちなタクシー運転手を攫って、不意打ちダイナマイトがしっかりトラウマになった桐生さんはふたたび気絶。
またかいな!って驚きながらも意気揚々と都内まで連れてきて、なんやかんやの大団円。ハッピーエンドで挙式してほしいです。