黄金の後悔 真白の聖者二人きりにしてもらえないか、と。
最後の我儘を大人しく聞き届けてくれたことに感謝を心の中だけで、英雄王と呼ばれた王は告げた。
豪奢とはいいがたいが、使われている寝具はできうる限り最高のものをと近習たちに選ばれたもので。
長くフォルセナを導いた王の臨終を、少しでも穏やかにしようとする心遣いがそこにはあった。
「……座るがよいデュラン」
「……はい」
王の終の場所となる私室に、王が誰より信頼する腹心にして。
聖剣の勇者となった勲を持つ聖騎士に、座るように促す。
王の命令を受諾する聖騎士は、真白の鎧を小さく鳴らしながら、寝台の傍らに備えられた小さな椅子に座る。
紫紺の瞳に、随分と年老いた王をいたわる光をたたえながら。
「どうやら先に行かねばならんようだ」
「…………」
デュランが着席したのを見計らったようにかけられる声は、ひどくないでいた。
己の命がこれ以上先に伸びないことへの恐怖も悔恨も何一つなく、背筋を伸ばして定命の運命を受け入れた姿は、一国の王としても英雄と呼ばれる者としても堂々としたものであった。
だからこそデュランも何も言えずにいた。
目の前にいる王の命の火を、伸ばすことはもはや叶わぬと理解していたから。
「ずいぶんとロキたちを待たせてしまった」
「……陛下」
「お前をはじめとした者たちには、苦労を掛けてしまったな」
「そんなことは、ありません」
為政者としても騎士としても、目の前の王は素晴らしき人であったことをデュランは知っている。
邪悪なる竜によって巻き起こされた大戦の後、世界が激変した中でも、フォルセナは生き延びることができた。
そればかりか、激変した世界に翻弄される民たちを救うために、手を差し伸べることを恐れなかった。
デュランをはじめとして、フォルセナの騎士たちは世界を幾度も回ってフォルセナの救いを求める者たちに、手を差し伸べてきた。
それを命じた王を、誰もが誇りにしていたのだ。
苦労とも思ったことなど、ない。 そう、言いきれた。
「我々は陛下のご命令を苦になど、思ったことはありません」
「……そう言ってもらえるのは、助かる。
だが、ワシの言いたいことは……そうではないのだよ」
痩せてしまった手を伸ばし、英雄と呼ばれた王はデュランの頬に触れる。
わずかばかり、紫紺の瞳に沈痛な色を乗せはしたものの。
枯れたその手を振り払うことも、かといって、触れることもためらわれて。
代わりに何か言葉に出そうとしても、喉の奥に声も言葉も張り付いてしまい、沈黙でただ王の言葉を待つしかなかった。
「デュラン」「はい」
「……ワシはお前に、謝らねばならん」
そうして沈黙を途切れさせるように、悔恨とともに吐き出された王の言葉を、デュランは再び沈黙をもって受け止める。
謝らねばならないという言葉の意味に込められたものを、推察はできても、それが正しいかはわからないから。
……沈黙したデュランの態度をどう、英雄王は受け止めたのか。
わずかの間、目を伏せて。 そして、己の悔恨と向き合うように顔をあげ、デュランの双眸を見つめた。
「ワシはお前に謝らねばならん。竜帝をワシが仕留めきれなかったことが、そもそものすべての始まりであった。
お前の父を犠牲にし、ワシのフェアリーを犠牲にしても、あの竜を仕留めきれなかったがために。
再び竜帝が復活したとき、お前の旅路を悲しみで彩ってしまった。否、お前が旅に出て聖剣の勇者となることも、なかったはずなのだ」
「陛下」
「わかっておる。お前があの戦いによって誰よりも成長し、世界を救済し、フォルセナを守り抜いてくれたことも。
わかっておるのだ。 だが」
……一呼吸。長く重い悔恨を吐き出すための準備の吐息が、漏れた後に。
目の前にいるデュランに負わせてしまった最大の悔恨を、英雄王は吐き出す。
「ワシはお前を。 人のままでいさせてやることが、できなんだ」
……マナが失われた大戦より20数年の年月が経ち。
生まれた赤ん坊が成人し、若者が壮年となり、壮年だった者が老人となる年月が経ったというのに。
英雄王の目に写るデュランは いまだ、大戦が終わった時の姿のままだった。
あの日から時が止まったように、デュランだけが少年の面影を残した青年のままの姿で留めている。
それが意味することは。考えられるだけで、一つしかなかった。
「女神の眷属となってしまったお前を 人に戻してやれなんだ」
「陛下……」
「……ワシはな、あの旅でお前が成長して帰ってきてくれたことがとても、嬉しかった。だが……」
だが、こんなことは望んではなかった。
誰が悪いわけでもないからこそ、はじまりを阻止できなかった自身の無力を、これまでに何度も英雄王は噛みしめた。
あの竜を仕留めていれば、せめてロキだけでも救えていれば。
何度そう思い、無力を噛みしめては、表に出すことができずに己の中で飼い殺してきたかは数えきれない。
「それでも陛下 私は 俺は……後悔はしておりません」
そして。
優しいデュランは、英雄王の悔恨を理解しながらも。
それでも赦すように微笑んだ。
「そのように思っていただいて、本当にありがとうございます」
「…………デュラン」
「ですけれど、俺は後悔していません。皆に置いて行かれることも承知で、すべて望んだことです。
女神とともに世界を、フォルセナを見守りたい。
これもまた、偽りなき思いなのです陛下」
もうすでに決した道を違えることはないと、ほほ笑むデュランの姿は美しく。
だからこそ、英雄王の胸に去来する痛みは鋭い。
そのような道を歩ませたくはなかった、と。
……そういっても、恐らくデュランはそれでも笑うのだろうと、英雄王は理解する。
誰よりも優しいから、誰よりも前を見据えているから、か。
女神はゆえに、デュランを選定したのだろうと。
「だからどうか。胸を張ってください陛下。 陛下が今まで戦ってきてくださったからこそ、俺はこのフォルセナが大好きで。
……陛下を忘れたくないから、ずっと見守りたいと願ったんです。
陛下が守ってくれたフォルセナを、陛下が愛したフォルセナを」
「お前は本当に……優しい子に育ったな……」
そして強すぎるからこそ、背負ってしまうのだな、と。
その言葉は飲み込む。
言ったところで詮無いのだと、気づいてしまっていた。
「陛下がいてくださったからです、すべては」
まだどこかあどけなさすら残る笑顔の美しさが、決意の強さをあらわしているように思えて、眩しそうに少しだけ目を細める英雄王に。
そっと頬に触れられたままの手を重ね、少しずつ薄くなり出している命の灯火をいとおしむように撫でるデュラン。
「あなたのことが、大好きだったから、決断できたんです」
「……そうか……」
これ以上の言葉はもう必要はない、それだけで十分に……デュランの思いは理解できた。
ならばせめて。
その先行きがよいものであることだけを、願おうと。
重ねた手を小さく握って、わずかにでも願いの熱を遺そうと、した。
英雄王として讃えられたフォルセナ王が崩御し、その葬儀が営まれた日。
王の最期を看取った白の聖騎士は姿を消し。
その後、彼の姿を見たものは誰もいなかったという。