放課後の松本くん「お前らの学年にめっちゃ可愛い子いるだろ」
先輩に話しかけら得たので一応手を止めた。止めざるを得なかった。ここは運動部。それも日本一の男子バスケットボール部。骨の髄まで叩き込まれた上下関係が、運動部の遺伝子が、先輩という絶対の存在を無視出来ない。胃液しか出なくなるまで吐いて、ようやく一日の過酷な練習が終わった。夏に向かい気温が上がるにつれ、死なないギリギリの質と量で考えられている練習はなおさらキツくなった。最下級生の仕事である片付けと備品の手入れを終え、命からがら部室に戻ってきた。本当は、視線を動かすのすら億劫だった。
松本稔は困っていた。そんな話しをしている暇があったら一分一秒でも早く風呂に入ってベッドに倒れ込みたい。でも体力お化けの先輩たちはそれに気がつかない。部活動後にみっちり自主練をしてそのあと女の子の噂話が出来るほどに元気がありあまっている。
見ろこの青白い顔を、と思う。あの体力お化けの河田でさえ顔色が可笑しい。唯一前回の合宿で逃げ出さなかった一年、漢の中の漢、ミスター忍耐の一之倉すら先ほどから着替えるスピードが遅い。多分筋肉疲労で腕が上がらないのではないかと推測出来た。練習後は正直Tシャツを脱ぐのもダルい時さえある。
一番丈夫な河田の健康状態は一年のバロメーターだ。あいつがダメなら全員ダメ。そう思ってもらって差し支えはないのだ。
「あ、いるっすね」
などとぐるぐる考えていることはおくびにも出さず、松本は答えた。
「吹奏楽部の」
「「「「「「文芸部の」」」」」
え、と全員が松本を見て、え、と松本は隣の深津を見た。
深津はいじられる側に回ることを極力避けるためかこの手の話題には絶対に参加してこない。それが今日はなぜか素直に答えた。下手に答えずに「むっつりスケベ」の烙印を押されたが最後、集中砲火を浴びる。それを避けるためもあるだろう。シカトしておまえーなどとつっかれたら隠している自分の恋心が白日のもとに晒されてしまうかもしれない。足並みを揃えて悪いことはない。でも深津が素直にノッてきた理由は別のところにある。
それもそうだ。何故なら深津は先日の合宿の期間に一度合宿所から逃走したからだ。深津にも罪悪感とかそういうものがあるのだな、と松本は思ったが、他人の心配をしている場合ではない。
松本を除いた野太い一年生の声全員分が被った。山王で唯一男子の所属しない、秘密の花園こと文芸部の「明日葉もも」という学年一の美少女だった。声も仕草も可愛いが、とにかく抜群に顔が可愛かった。彼女のことを本当に可愛いと思って名前を挙げたやつと、可愛いとは思っているけれど、本当に好きな子は別にいる、あるいは興味はないが、足並みを揃えようというやつ。とにかく絡まれたくないやつ。いろんなやつがいたはずだ。いずれにせよ「彼女は学年で一番の美少女である」という共通の認識があるから成り立つ回答だった。
で、なぜ松本だけが、彼女ではなく「吹奏楽部」と答えたのかということである。
「まーつーもーとー」
「いや違うっす。そういうんじゃなく」
松本の隣のロッカーで、仕事は終わったと言わんばかりに深津はしれっと着替えを再開していた。このスットコドッコイマイペース男でさえ「文芸部の」と皆と足並みを揃えたのに、と松本は悔しく思った。
「話しかける頻度が可笑しい」
「挙動不審」
「なんなら彼女の友達にまでいい顔しようとしている」
同級生からジェットストリームアタックを食らって松本は瀕死だった。そんな話しかけてねーよ。なんなら話したいなと思った三回に二回はやっぱやめておこうと思ってじっとしている。そう言いたかったがそれがただの燃料になることは分かりきっていたので飲み込んだ。
さっきまで死にかけの魚みたいな濁った目をしていた同輩たちが、次々に松本をいじりに来た。終わった、と思った。そりゃあ可愛い子には視線がいく。でも別に誰も彼も興味の対象として見ているわけじゃない。「女の子」の前に彼女たちは同級生でありクラスメイトなのだ。でも、やっぱり、気になる子は特別だ。クラスの友人たちにするようには接せられない。
実は先日彼女が学校を休んだ。その日クラスでは郊外学習の係り決めがあり、彼女の友人があぶれたのだ。男子たちは緊張からか誰も彼女と目を合わせようとせず、お世辞にも社交的とは言えない大人しいその子は青ざめて固まってしまった。
「別にいい顔しようとしてたわけじゃねえよ。クラスの男、みんな女子と組みたがらなかったんだよ」
いくら女子相手の緊張が拭えないからといって、あの引き方はない。あんまりに居たたまれなくて、思わず「オレと組まないか?」と声をかけた。それが松本の本音である。その子の友人への下心が一ミリもなかったと言われたら、それは、ノーコメントだ。「じゃあ私もこの係りにしよ」なんてなったらいいなあと思っていたくらい。本当にそれだけだ。
「へー。可愛い?あ、可愛い子っつって挙げたんだからそーか」
いじられるのも嫌だが、へーまじ可愛いじゃんなどとなってライバルが増えるのは最悪だ。そんな可愛くないですよなんて嘘でも言いたくない。可愛いし。実際めっちゃ可愛い。
話しは、説明不要、満場一致の学年一の美人へ戻り、松本はなんとか九死に一生を得た。
「めっちゃくちゃ可愛いよな。なんかもう骨格からして俺らと同じ人間とは思えない」
「華奢っつーか。頭とかめっちゃちっちゃいじゃん」
「白くて」
「小さくて」
明日葉への正当な賛辞を口々に述べる男子たちに、一部から異論が上がった。
「日焼けの良さが分からないとか素人かよ」
「おっぱいお腹お尻指が埋まる至高のぷにぷに感」
「おへそは魔の窪み」
「女の子に見下ろされたいかもしれない」
日焼けの玄人ってそもそもなんだ。虚空を揉む手が宙を掻く様なんてもう見ていられない。かもしれないとか逃げはやめろ。全部妄想なのに悲しすぎる。
レンタルビデオ屋の黒いカーテンの向こうに行ける日まで、堂々とコンビニの雑誌コーナーの端っこに立てる日まで、OBから支給された絶妙に趣味の合わないエロ本で生き長らえている先輩たちは鍛え方が違う。性癖の違いに目を瞑り、へろへろになるまで仲間内で回し読み、一年には「ガキには妄想で充分」と回ってこなかったはずのお下がりを、今の先輩たちは「表紙だけな」とおこぼれをくれる。歴戦の猛者といった風格である。中学三年の時、山王工業に学校見学に来た。ずっと、ずっと憧れていた白と紺のユニフォーム姿の精鋭たちが。あの時の自分が見たら失神すると思う。
「松本同じクラスベシ」
「まじで!?」
深津の言葉を聞くや否や、先輩が二、三人松本にのし掛かってきた。
それを丁寧に往なしながら、松本は深津に抗議を入れる。
「いやちげえよ。三組だろ?河田とかと同じじゃね」
松本は悟った。こいつふりをしていただけで、実はまったく興味がなかったんだな、と。こともあろうに学年一の美少女のクラスを勘違いしているなんて。これだけ女子が少人数だから、さすがの松本も顔と名前とクラスぐらいは一致している。部活はぼちぼち。何部か知らない子もいる。何故なら放課後、松本たちは体育館に缶詰だからだ。
明日葉のクラスを知らない男子はこの学校に深津以外はいない。
「クラスメイト忘れるとか薄情すぎるベシ」
「いや、つかお前だって体育はうちのクラスと一緒だろ?明日葉さんいねえじゃん」
「明日葉さん?」
「いやそうだろ。なんだよ」
上手く皆に紛れようとしやがって、と松本は思った。
合点がいったという顔をして、深津はもうそれ以上しゃべらなかった。参加したならケツくらいもって欲しい。理不尽に悪態を吐く元気もなく、松本は細いため息を吐いて、ロッカーの扉を閉めた。