ぼくのたからもの(風虚、途中までです) 虚淮ははっきりと言えば無愛想で一見近寄り難く思われるが、その実誰も拒まない妖精だ。物静かだけど、賑やかに皆で集まるのが嫌いな訳でもない。最初は怖がっていた妖精でも、その性分さえ分かれば自分から訪ねて会いに来る者も多い。だって動物も植物も、そして妖精も皆、水辺に集まってくるものだ。
だけど、今日の先客には流石に驚いた。相談がしたくて、虚淮が暮らす泉に向かうと、何やら話し声が聞こえた。そっと覗くと、青年の姿をした妖精が一人、虚淮と話をしていた。燃える様な赤い髪を短く切りそろえた、見覚えのある妖精だ。年も近く、霊力も高い。仲良く出来ればきっと頼もしいのだけれど、乱暴が過ぎるというか、自分の強さを誇示しない気が済まない性分で、何かと風息の事を目の敵にしてくる。いつも数人の仲間と固まっていて、取りつく島も無い。
あいつ、一人で虚淮を訪ねて来るなんて、一体どういう了見だ。気にはなったが、まさか盗み聞きする訳にもいかない。二人に気付かれる前にその場を立ち去ろうとした刹那、妖精が虚淮の手首を無理に掴んだ。妖精は酷く興奮した様子で、虚淮に向かって何か捲し立てていた。ここからでは、二人の表情は見えない。雑談というには物騒な雰囲気に、介入しようとした瞬間、先に虚淮がこちらに気が付いた。
「風息」
虚淮は容易く妖精の腕をふりほどいて、真っ直ぐ風息の元に駆け寄ってくる。妖精はそれを咎める訳でもなく、後ろに突っ立って黙ったままだった。しかしその目は、真っ直ぐに風息を睨んでいた。あまりの剣幕に一瞬動揺するが、虚淮を庇う様に、風息は無意識に一歩前に出る。
「風息が私に用があるらしい。悪いがもう帰ってくれ」
有無を言わせぬ態度で、虚淮が妖精に向かって言う。妖精は不服そうだったが、そのまま黙って背を向ける。木々の間に背中が見えなくなると、ようやく一安心する。
「……良かったのか? 何か大事な話をしていた様に見えたけど」
「もう済んだ」
虚淮は淡々と答える。そしてほう、とため息をつくと、何を思ったのか、風息の胸元に枝垂れかかってくる。洛竹や天虎ならともかく、虚淮がこんなにも接触をしてくるのは珍しい。と言うか、初めてだ。具合でも悪いのかと焦ったけれど、いつもよりずっと近い距離から見下ろす長兄は、いつも通り涼しい顔をしている。丸い額や形の良い旋毛が目に入る。
はっ、と気が付く。姿は確認出来ないが、まだそう遠くはない草陰から、妖精がこちらをじっと見ている気配が確かにあった。
「虚淮、まだアイツが近くに……」
慌てて虚淮に告げると、虚淮は風息の唇を指で塞いで言葉を制した。そのまま睦言でも囁く様に唇を耳元に寄せる。視界の端で、淡彩の髪がさらさらと揺れる。
「ああ、見てるな」
「どういうつもり?」
「少しで良い、私の腹いせに付き合え」
「腹いせ?」
言葉の意味が捉えきれず、聞き返す。虚淮の声が一段と低くなる。
「番になって欲しいと頼まれた。……あの男、随分とお前を敵視しているじゃないか。弱い者とばかり戯れる、お山の大将なんてやめておけ、などと言われて、当てつけ位したくもなるだろう」
虚淮の言葉を理解するまで、時間を要した。理解した瞬間、脳を赤く塗りつぶす様な怒りが湧き上がってくる。自分を侮辱された事に対する怒りではない。あいつは、縄張りを侵した。俺のものに手を出そうとした。まず脳裏に浮かんだ言葉はそれだった。
冷静に考えれば、そんな事を思うのは滑稽だ。第一、風息と虚淮は妖精が思う様な仲では無い。まずは妖精の誤解を解いて、虚淮にもそんな意地悪な事はしてはいけないと諭すべきだっただろう。森の守護者なら、きっとそうするべきだった。だけど、出来なかった。先程みた、妖精の表情を思い出す。あれは悋気だったのだ。今、風息もきっと同じ表情をしている。
虚淮はまだ何か話を続けていたが、両手で頬を掴み、無理矢理にそれを遮った。藍玉に似た瞳が大きく瞬きをする。
妖精の気配は、まだそこにあった。息を殺してこちらを覗きこんでいるのが分かる。苦々しいものが胸に広がる。横目でそちらを伺ってから、風息、と訝しげに呟く目の前の唇を強引に奪った。腕の中にある体が硬直する。
挨拶代わりに動物や妖精たちと鼻をくっつけたり、互いに毛繕いをする事はよくあるけれど、こんな風に真正面から抱き合って唇をあわせるなんて、人間の真似事みたいだ。初めて触れた虚淮の唇は柔らかく、自分の唇を押し当てると、ゼリーみたいに沈む。唇も体も、生き物が持つ筈の骨肉の質量とはどこか違う、掴みどころがない感じがする。冷たいけれど、嫌じゃない。心地良いと思った。ゆっくりと唇を離す。
「あいつ、まだ見てる」
虚淮の耳元で囁く。その声に呆然としていた虚淮が、はっと正気を取り戻す。いつも通りの冷静な表情に戻る。
「しつこい奴だな」
「追い出してやろう」
返事を待たずに、もう一度唇を重ねた。角度を変えて、もう一回。ひんやりとした両の手が頬を包んだかと思えば、やわやわと唇を吸われて驚く。風息も虚淮の真似をして、薄い唇を吸う。音をたてながら夢中になって何度も繰り返すと、上出来とばかりに薄い唇が開いてそこから冷たい舌が降りてくる。背筋が震える。風息が誘いにのると、虚淮は主導権をあっという間に明け渡した。二人の間に漏れる水音もくぐもった声も、わざとらしい位に淫らで、あの妖精を挑発する為に演じているのだ、と分かる。自分の事を風息に支配させている。ずっと長くこの森に暮らす、清らかで、いつでも冷静で皆から頼られている妖精を、まだ若い風息が支配している。
未だみている、いやその場から動けずにいる妖精がいる方向に向かって、風息は霊力を放った。直撃はしなかったが、こちらの意図は伝わった筈だ。叫び声をあげなかったのは流石といった所か。
これ以上俺の邪魔をするな。消えろ。視線で合図を送る。肉眼で確認は出来なかったが、十分だろう。妖精の気配が、遠のいていくのが分かった。
腕の中に強く抱き抱えていた虚淮を、ようやく開放する。二人とも息が上がって、暫く声を出す事を忘れていた。
「……演技派だな」
ゴシゴシと裾で濡れた口元を拭いながら、虚淮が先に呟いた。どの口が言う。そこに居るのはいつも通りの虚淮だ。途端に我を忘れて感情的に動いた自分が恥ずかしくなる。
「……ご、ごめん」
「何故謝る。助かったよ風息、なかなかに痛快だったぞ」
さっきまで貪欲に接吻を貪っていた姿が嘘の様だ。もう息の一つ乱れていない虚淮の様子に、風息は面食らう。自分は腹いせに体よく利用されてしまっただけなんだろうか。
「あいつ、どうするかなあ。へんな噂にならないといいけれど」
「誰にも話せないだろう。自分が惨めになるだけだ。……ああ、そういえば風息。今日は何の用事だ」
「ええ……」
その後の事は、よく覚えていない。何かいつも通りの雑談を少しして、逃げる様にさっさと泉から離れた。今日も森は平穏そのもので、木々は青々と繁り小鳥の囀りが美しい。先程の出来事は夢だったのかも知れない。それでも風息の体には熱の芯みたいなものが、いつまでも溶けずに残った。