そっちじゃないです!/グルアオ『はぁ〜、つっかれた』
大きなため息をつきながらテーブルの上に突っ伏すのは、お疲れモードのボタンだ。
なんでもLPのシステム改修作業に協力しているみたいで、連日徹夜らしい。
リーグへの奉仕活動はだいぶ前に完了したけれど、戦力になるのであれば学生でも容赦なく依頼していくようで…オモダカさんは、やっぱりすごいな。
元気になってもらうため、私はオボンのみで作られた紙パックジュースをボタンに差し出した。
顔だけあげて弱々しくお礼を言うと、上半身はテーブルの上についたまま飲み口にストローをさしてちびちびと飲み始める。
そんな様子を見たペパーも、食べようとしていたサンドウィッチを彼女の前に置いた。
『わたし、元気になるおまじない知ってるけど、試してみる?』
『なにそれ…』
力なく聞き返すボタンに対して、変わった提案をしたネモがピカピカの笑顔を向ける。
そしてこれだよーと言うなり、ボタンの背中に覆い被さった。
『え?え?なんなん?』
伏せていたためイマイチ何をされているのかがわかっていないせいで大混乱しているボタンをよそに、ネモは明るく笑う。
『ハグだよ、ハグ!
わたしが体調崩してたら、よくお母様がしてくれたんだ。
ね、元気になったでしょ?』
『え、ちょっと…意味がわからん』
『あれ…わたしだけじゃ足りないかな?
なら、アオイもペパーも一緒にやろー』
『はあ!?オレも?』
『いいじゃん、やろうよ!これでボタンが元気になれるかもしれないし!』
ネモの呼びかけに応じて彼女の背中に飛びつくと、ペパーも恐る恐る私達の背中に腕を回して体重をかけてきた。
これで三重のハグ。
どうかな?とネモの肩越しにボタンの様子を見ると、重い!潰れる!と慌てている。
でも声のボリュームはさっきとは全然違って大きく、力が入っていた。
『わ、元気になったんじゃない?』
『でしょー?ハグされると力がみなぎってくるからね!』
『そんなもんかぁ?』
訝しげなペパーとは対照的に効果が出たと喜ぶ私達はもっと元気になってもらおうと、抱きしめる力をさらに込めた。
『あ、暑苦しいからさっさと退けー!』
ボタンの渾身の大声が、脳内で思い出される。
学生時代、そんなことよくしていたなーと。
どうしてこの時を思い出したかというと、今テレビでオキシトシンなどの幸せホルモンについての話題が出ているから。
なんでもハグだとかのスキンシップを数秒だけでも行えば、ストレスが三割減るらしい。
なにそれすごい。
やっぱりネモが言ってた元気になるおまじないってちゃんと理由があったんだなー。
それなら、これから帰ってくる人にしてみてもいいかもしれない。
リビングの壁にかけられている時計はもうすぐ夜の九時を回ろうとしていて、グルーシャさんが帰宅予定と言ってた時間が迫っていた。
アカデミーを卒業後、大好きなグルーシャさんと一緒に住むようになってから、早数ヶ月が過ぎた。
その間に彼がスノーボードの教室を開き ジムリーダーと兼業で働き始めたため、近頃多忙を極めていた。
帰ってくるのは大体日付が変わる前で、今日はまだ早い方。
スノーボード教室の方も徐々に生徒さん達が集まってきているようで、両立は大変だけど やりがいがあると笑っていた。
けれど、日に日に濃くなっていくクマや普段活気がなくなり始めた段階から、私は彼のことが心配になってきた。
…頑張り屋さんで、なかなか私に弱音を吐いてくれない人だから。
どうすればいいのかと悩んでいたところ、たまたまやっていたニュース番組でストレス社会に生きる私達に向けた幸せホルモンに関する特集がされているのを見て、過去の出来事を思い出したのだ。
少しでも疲れやストレスを軽減してほしいから、帰ってきたら 思いっきり抱きしめてみよう。
ありがとうって言いながら、優しく抱きしめ返してくれるかな…だなんてちょっと想像しただけで、キャーと一人で歓声をあげてしまった。
…いけない、いけない。
今日のハグは、私じゃなくてグルーシャさんのためなんだから。
趣旨を間違えちゃいけないな、と考えている間に玄関の方で鍵が開く音が聞こえた。
ソファから立ち上がると、扉の前でスタンバイ。
ガチャと扉が開いた瞬間、黄色がかったもこもこ上着目がけて飛び込んだ。
「グルーシャさん、おかえりなさい!
今日もお疲れ様でしたー」
力一杯抱きしめてから様子を伺うけれど、相手からのリアクションはなし。
あれ?と思って見上げると、アイスブルーの瞳がじっとこちらを見下ろしていた。
…でも、なんだか様子が変だ。
なんか目が据わってる…?
「あの、グルーシャさ…」
「アオイも、同じだったんだ」
「え?」
ぼそりと呟かれた言葉を聞き返された瞬間、気がつけばカーペットがひかれた床の上に押し倒されていて――
「え?ええええ!?」
混乱する中首筋にキスをされ、知らない間に服の中に冷たい手が入ってきたから寒さで体が震えた。
ちょっと待って。なんだか思っていたのと違う!
「ぎょ、ぎょえー!!」
慌てて待ったをかけようとしたけれど、時すでに遅し。
雪崩に負けない勢いで押された私は、グルーシャさんによってぐずぐずに溶かされしまった。
そして次の日の朝、妙にすっきりした晴れやかな顔で先に起きていたグルーシャさんに、昨晩の奇行について問いかけてみた。
「昨日、なんであんな急に…」
「え?あれ誘ってたんじゃないの?」
キョトンとした顔でとんでもないことを聞かれて、全然違うと説明したけれど…。
「ふーん。ま、アオイのおかげで疲れも取れたし、別にいいよね」
そんな平然とした態度で言われた言葉に対して、私は開いた口が塞がらなかった。
終わり