missing「鬼太郎さん、お久し振りです……」
「あなたは……」
久しぶりに現れたその人は、変わらず美しく変わらずどこか寂しげに笑っていた。そんな姿を見ていると、初めて会った時に時間が引き戻されてゆくような感覚に陥る。
数年前、ニューギニアへ向かう空港のロビー。忙しい仕事の合間を縫って駆けつけ、たった一人の肉親を想い、小さなお守りを僕に託したひと。誰よりも彼を信じ、慕っていたひと。あの頃と何一つ変わらない彼女だったけれど、唯一あの時と違っていることがあるとすれば、その瞳がひどく悲しそうに見える……ということだけ。
「鬼太郎さん……」
彼女の言葉はそこで止まってしまった。しばらく様子を伺っていたが、一向にそこから先を切り出せないでいる彼女に「啓子さん?」と促すと、ようやく意を決したような表情をして続きを口にする。その声は僅かに震えていた。
「先日……、兄が亡くなりました……」
「?!」
「啓子さん……一体、何があったというのじゃ?」
父さんの質問に頷くと、涙を瞼に滲ませて俯いた。今まで必死にこらえていた感情が涙と一緒にパタパタと音を立てて床に零れ落ちてゆく。困ったわ……と無理矢理に笑顔を作り目元の涙を払うと大きく息を吐き、僕らを真っ直ぐに見て静かに経緯を打ち明けた。
「実験中の事故でした」
「事故?」
「はい。兄は生物学者を目指しておりましたが、その研究のほとんどは科学的な実験です。人様に対しては傲慢な所もある兄でしたが、学者としてはとても優秀で……まさか、そんな事で命を落とすなんて、思っても……」
いませんでした。という語尾は、涙に飲まれて消えてしまう。小さな肩を震わせ、「ごめんなさい」と謝る彼女に僕は何の言葉を掛けてやることも出来なかった。
「啓子さん、どうかお気を落とさずに……、そんなに落ち込んでしまってはお兄さんの山田君も安心して成仏出来んよ。唯一のご家族を亡くされて辛いとは……思うが……。これ、鬼太郎。お前も何か言ってやらんか。折角、お前に知らせにきて下さったんじゃぞ?」
「はい、父さん……」
でも、それ以上の言葉は出て来ない。だって、何をどういえばいいのか僕には分からなかったから。心の奥底から無理矢理に何かを引っ張り出そうと頭を振る。そうして湧き上がった感情はたった一つ。労いや慰めの言葉とは程遠い、怒りの言葉だけだった。無意識のうちに握った拳は、あの時と同じように熱を帯びて膝の上で震えた。
「山田さん、あんたは……クズだ」
「鬼太郎、さん?」
「あの時も今も、こんなにあなたを想ってくれている啓子さんをほっぽらかして勝手にっ……!」
「これ!よさんか、鬼太郎!け、啓子さん、申し訳ない!鬼太郎も混乱しているんじゃ。どうか許してやって欲しい」
父さんの言葉に小さく微笑み頷くと、彼女は「私はこれで」と静かに立ち上がった。父さんの掛ける言葉にただ頷く姿がとても痛々しくて、僕は思わず目を閉じた。これ以上、彼女を見ている事は出来なかった。
森の小路へと消えてゆくその小さな背中に掛けてやれる言葉は、いくつだってあったんだと思う。
──あまりお気を落とされないように。
──辛いとは思いますが、どうか、元気を出してください。
──僕に出来る事があれば、何でも相談して下さい。
けれど、どの言葉もきっと彼女の胸には届かない。啓子さんが聞きたいのは、僕の言葉なんかじゃない。
だから、僕は何も言えなかったんだ。
* * *
真夜中の大学内は、まるで廃墟のようだと思った。ところどころに灯った非常灯の光はなんとも心許なく、寂しげに通路を映し出している。コンクリートで出来た古くて薄暗い建物は迷路のような作りではあったけれど、以前数回訪れたことがあった僕は迷う事は無かった。慣れた足取りで目的の部屋を目指して冷えた廊下を進んだ。
「確か、あの廊下の先……。えーと、何号室だったかな……?」
深く伸びた廊下の突き当たり、5つある部屋のどれかはすぐに分かった。警察の規制線が貼られたその部屋の扉は大きく拉げていた。
もはや扉の役目を果たさない鉄の衝立を大きく引き戻せば、内側からの熱気で溶け落ち外れかけた蝶番がギイと大きく軋んだ。
「これは……」
実験中の事故という話は聞いていたからそれなりの状況を予想していたのだけれど、その心積もりを大きく上回る惨状が目の前に飛び込んできた。
粉々に砕け散った窓ガラス、作り付けのロッカーは高温で変形してその形を大きく歪めている。ソファや机の痕跡はどこにも見当たらず、真っ黒な煤が部屋中に張り付いていた。微かに感じる焼け焦げたようなにおいと、サッシだけになった窓枠から流れ込むひんやりとした夜気が混ざり合い通路の奥へと通り抜けてゆく。
部屋というよりは大きな空洞のような空間に足を踏み入れ、その真ん中でもう一度部屋の中を見回す。人の気配どころか、物の気配すら感じられなかった。
ため息を吐き捨て静かに目を閉じ、意識を高めてゆく。ほんの一欠片でも構わない、何かを拾い上げる事が出来れば、それでいい。
想いは、叫びは、魂は……、消えてしまったあなたの形跡が僕は欲しかった。深い悲しみの中に身を置き続けるあのひとの為に。何か、言いたい事が、想い残しがあるのなら僕が代わりに伝えてあげますから。啓子さんを救えるのは、僕じゃない。あなただけなんですよ?ねぇ、山田さん?
けれど、どんなに感覚を研ぎ澄ませてみても結果は同じだった。
「……あなたって人は本当に薄情者だな」
不意の事故で命を落とした場合、状況が掴めずその場所に留まり続けてしまう人間の霊魂も少なくない。思い込みの激しいところのある男だったから、もしかしたらと思って訪れてみたのだけれど、どうやら空振りに終わったらしい。
「別の場所を当たるか……」
そう呟いた時、僕には一体彼がどこに思い止まるのか見当もつかない事に気が付く。思えば、この場所以外で彼に会ったことはなかった。そこに思い至って初めて、自分の知りうる彼について想いを巡らせてみる。
「あなたはいつも僕に怯え、僕を欺いて、それから……」
──僕を、殺そうとした。
僕が知っている彼は、たったそれだけだった。
大海獣の一件以降も何となく関係は断ち切れず、懲りずに彼が仕掛けてくることも、その挑発にのって「山田さんの研究に協力してあげましょうか?」と僕が唆すこともあって、それはそれで楽しい退屈しのぎだと思っていた。そして逢う度に余りに苛烈な感情を向けられていたせいで、お互いにもっと深い部分まで知りあっていたような気持ちになっていた。
だけ……、だったんだ。きっと。
「僕は山田さんのこと、何にも知らなかったんですね」
知らなかったというより、知ろうとしなかったという方が正しいのかも知れない。あれだけ感情をぶつけあったはずなのに、こうして後に残るものは何一つ無かった。
「探したくても、僕にはあなたが想いを残しそうな場所が分からない……」
元来た道を戻る気にはなれず、僕は枠だけになった窓ガラスに手を掛け身を乗り出すと研究室を後にした。
* * *
「そう……だったんですか。鬼太郎さん、わざわざありがとうございます」
「いえ、僕に出来ることはこれくらいしか思いつきませんでしたから……それに、僕は何も出来ませんでした」
「とんでもない。そこまでして頂ければ、もう十分です。本当にありがとうございました」
何の手がかりも掴めなかったまま自分のもとを訪ねてきた僕に、彼女は優しく微笑んだ。あの日より、心なしか穏やかな表情を浮かべる姿に少しだけホッとする。何の慰めにもならないとは思ったのだけれど、未練を残したまま現世に彷徨っているようなことは無さそうだという事だけでも、このひとに伝えたかった。
「最後まで飄々としていて、変わり者な兄らしいです」
「……」
「昔から肝心なことは何も教えてくれないひとだったから……」
寂しげに俯く彼女の向こう側に配置されたチェストの上には、いくつか写真が並べられていた。フレームの中では年配の夫婦のような二人が肩を寄せ合っていたり、兄妹が並び、はにかむように微笑んでいる。
僕には一度だって見せたこと無かった表情に、思わず釘づけになる。山田さん、あなたもこんな顔をするんですね。
そんな僕の視線に気が付いたのか、彼女は後ろを振り返り写真を手に取るとそっと差し出した。予想外の行動にどう反応したらいいのか分からない僕は、慌てて椅子から立ち上がる。
「僕、もう帰ります」
「鬼太郎さん……?」
「少しだけお元気そうで、安心しました。まだ、辛いこともあるかと思いますが、僕でよければ何でも相談してください」
彼女の手の中で行き場を失った写真は、再び元在った場所へと戻された。
「それじゃ、僕はこれで」
啓子さんに向かって頭を下げ、再びあの写真に目をやり背を向けた。
さようなら、山田さん。
玄関の扉に手を掛け、ノブを捻ったところで背中越しに声が掛かった。
「あ、あのっ、鬼太郎さん、お願いが……あるんです」
* * *
夕方から降り出した雨はいよいよ本降りになってしまった。人魂のようにゆらゆらと揺れる手元の行燈の明かりだけを頼りに道を歩いてゆく。時々、思い出したように駆け抜ける夜風に髪がはらはらとなびいた。小さなメモ用紙に記された道順を辿り、石畳の道を進む。随分奥の方まで歩いて来たけれど、道中すれ違う人は一人もいなかった。こんな雨の晩に僕の背と同じくらいの高さの礎が立ち並ぶ場所に来る人間などいなくて当然なのかも知れない。
「あっと、ここ……か?」
立ち並ぶ墓石に記された名前と、彼女からもらった手書きの地図の場所を見比べ立ち止まる。綺麗に手入れの行き届いた礎石は影のようにひっそりとそこに佇んでいた。
──鬼太郎さん、お願いが……あるんです。もし、よかったら最後に兄に会ってやってもらえませんか?兄が鬼太郎さんに散々酷い事をしてきたことは承知しています。ここまでして頂いた上に厚かましいとは分かっています。ですが……どうか……
縋るような眼差しで懇願されて、僕は断ることが出来なくなった。
「だから悪いけど、墓参りに来たわけじゃないよ。あなたに手を合わせるつもりもない」
僕は、あなたの妹さんに頼まれたから来た、ただ、それだけ。
思えば、山田さんが死んでしまった事に驚き、動揺はしたけれど悲しみの感情だけは何故か大きく欠落していた。涙なら、あなたの妹さんが沢山流してくれています。僕がそうしなくても、十分でしょう?僕はこれっぽっちも悲しくなんかないのだから。
黒い影の側面に刻まれた真新しい文字に触れると、ひんやりとした感覚が指先から体の芯に這いあがってくる。
「山田さん、秀一って名前だったんですか……。それすら、知らなかった……」
彼はこんな場所にいないことにとっくに気が付いていながら、冷たい礎石に囁いた。問いかけに返事が欲しい訳ではなかった。
「ねぇ、山田さん。どうして死んじゃったんです?あんなに僕に執着していたくせに」
瞬間、僕の声は吹き付ける風雨にかき消された。ザワザワと木々が揺れ、空へと立ち上がってゆく。大木の枝で羽を休めていた烏たちが慌ただしく翼を広げ何処かへ消えていった。
「勝手に死ぬなんて僕、聞いてない……」
手の中に握ったままのメモ用紙が、くしゃりと悲鳴をあげた。再び訪れた沈黙は長くて冷たいものだった。不意に、ついさっき啓子さんが口にした言葉が脳裏をよぎる。
──昔から肝心なことは何も教えてくれないひとだったから……
本当にその通りですね、山田さん。不慮の事故だったとは言え、何も言わずに消えていくなんて。いや、敢えてそうしたのでしょう?そうして、一人残された僕を高みの見物でもしようって思っているんですか?僕が苦しんだり、悲しんだりするとでも……思っているんですか?だとしたら、いかにも山田さんらしい思い上がりですよ。
「山田さん、あんたはやっぱりクズだ」
今頃、閻魔大王の前で生前の悪事を暴かれて地獄に落とされている頃だろうか?啓子さんの気持ちを慮れば、情状酌量を求めて僕が山田さんのところに行ってやっても構わないけど、きっとあなたはそれすら拒否するんでしょう?僕に情けを掛けられること、あなたは何よりも嫌がっていましたから。
気が付けば行燈の中の蝋燭は大分背丈が短くなってしまっている。僕は案外長い時間、ここにいるらしい。
彼が眠る礎の上に腰掛けて、僕は目を細めた。
「山田さん、雨やみませんね」
今度は雨音に掻き消されないように話し掛けてみる。
けれど、いくら待ってみても僕の問いかけへの答えは、やはり返ってはこなかった。
おしまい。