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    「私は狩りが得意だ。立派な巣も準備できる」
    「う、ん……? はは、そうか」
    ゴロゴロゴロ……
    「細やかながらこのバブルオレンジは君へのプレゼントだ。受け取ってほしい」
    「(二十個はあるぞ、これ……)」
    ヌヴィリオ・メリュジーヌ視点。前後半の予定で前半はバター大好きマーナちゃん視点です。仕事一途で自分たちを大切にしてくれていたヌヴィレットの恋路を応援したいとマーナが奔走するお話。

    ウォーアイニー①【マーナの証言】


     仕事の合間にボーッと海を眺めるのが、マーナの密かな楽しみである。
     特段変わった事を考えている訳ではない。今日は何を食べようかとか、まだバターが残っていたかなとか、些細な日常の出来事をだ。
    「今日も良い天気だわ~。帰りにお茶でもしに行こうかな」
     ポテポテと、今日はスメールからの観光客が多いパレ・メルモニアを巡回しつつ、元気よく頭上で輝く真夏の太陽に目を細めた。雨季から乾季へと切り替わったこの季節のフォンテーヌは、とても心地が良い。小さな体で太陽の恵みを受け止めつつ、マーナは水の薫りを胸いっぱいに吸い込んだ。
     天気は最高、気分は良好、仕事も順調。
     あと三十分で今日のお勤めも無事に終わる。いつもの場所で夕暮れを眺めようかとパレ・メルモニアの裏手へ回ると、そこには先客の姿があった。
    「……あれ?」
     海が見えるマーナお気に入りの場所。そこに居たのは、メリュジーヌ達が敬愛する人の姿。
    「ヌヴィレット様! お疲れさまです~」
    「……ん? ああ、マーナか。巡回ご苦労」
     この時間にヌヴィレットがここに居るのは珍しい。マーナはニコニコと近寄り、ヌヴィレットの隣へ立った。マーナお気に入りの場所からは、本日の勤めを終えようとエスス山麓へ顔を隠し始めた太陽と、真っ赤に染まる地上大湖の煌めきが見える。
    「今日も夕日が綺麗ですね。明日も良いお天気になりそう」
    「ああ、そうだな」
    「ヌヴィレット様も今日は定時でお帰りですか?」
    「いや、私は……」
    「…………?」
    「私はまだ掛かりそうだ。少し考えたい事がある」
     あ、なるほど。
     これは特殊な視覚を持つメリュジーヌだからではなく、ヌヴィレットを心から敬愛する眷属としての直感だ。マーナへ心配をかけまいと、ヌヴィレットはいつものように優しく微笑んではいるが、間違いない。何かショックな出来事があったのだろう。それも、自省を促すような。いつも思慮深いヌヴィレットにしては珍しく、なにかを後悔をしているらしい。
     だがマーナは、敢えて気が付かないふりをしてニコッと明るい笑顔を浮かべた。
    「そうなのですね! あまりご無理なさらず、早めに休んで下さい」
    「ああ、ありがとうマーナ。君は、今日の夕食は決まったのだろうか?」
    「はい。今日はリアスを誘って、お茶でもしに行こうかなって」
    「ほう? それは賑やかになりそうだ」
    「ふふ、パレ・メルモニア女子会です。最近できたカフェのクレープが美味しくてですね……」
     マーナの話へ真摯に耳を傾けてくれるヌヴィレットからは、もう憂いは消えていた。メリュジーヌ達の前では、いや、誰の前でも弱っている所を見せたくないとの矜持からだろう。
     公正無私、泰然自若としたフォンテーヌ最高審判官。何事にも動じず、髪を振り乱し襟を開く事はしない。フォンテーヌの象徴であれと、ヌヴィレットは常日頃から自らを律しているのだ。

     だが、マーナは考えていた。ぼんやりと海を眺めながら、思いを馳せていた疑問のひとつ。
     ならば、本当の“ヌヴィレット”はどこに居るのだろう。公正無私なヌヴィレットも、マーナに付き合ってくれる優しいヌヴィレットも本当だ。だが、もっと剥き出しの魂に近い。装飾を脱ぎ捨てた本当の自分を曝け出せる場所が、ヌヴィレットにはあるのだろうか。

     フォンテーヌ廷・ヴァザーリ回廊。
     人通りが多くいつも賑やかなその地区には、常に新しいカフェやレストランがオープンしている。休前日の夜ともなれば、流行に敏感な若い女性達や議論を交わす紳士達で、常にどの店も満席だ。
    「ん~! このクレープ美味しい~」
    「このチーズケーキも最高だよ。ね、パスタもシェアしない?」
    「うんうん、食べる食べる」
     休前日の女子会と言えば、一週間のご褒美にと美味しい物を食べたり、同僚と他愛も無い話で盛り上がったりするのが楽しみだ。マーナとリアスも例に漏れず、フォトジェニックな雰囲気が売りである新しいカフェで舌鼓を打っていた。
     美味しい物を囲んだ女子達の話題は尽きない。コスメに洋服、同僚の噂話に新人俳優の誰々が男前だとか。上司の愚痴、は自分たちにとってはヌヴィレットが上司に当たるので、出てこない。どちらかと言えば愚痴よりも、働き詰めのヌヴィレットに対する心配の方が大きいのだ。
    「そう言えば、マーナ」
    「ん?」
    「夕方、ヌヴィレット様とお話してたでしょ? 大丈夫だった?」
    「あー……うん。少し元気が無かったかも」
     落ち込んでいた、とは流石に言えなかった。だが、リアスには何か心当たりがあるのだろう。「そっかぁ……」と、運ばれてきたパスタを取り分けつつ、小さな溜め息を零した。
    「……ヌヴィレット様、何かあったの?」
    「あ、ううん。私も詳しくは分からないんだけど。今日は公爵が来てたのよ」
    「公爵?」
     水の下の公爵・リオセスリ。メロピデ要塞の管理者であり、ヌヴィレットが全幅の信頼を置いている人間。水の下の絶対的存在で多忙な身の彼がパレ・メルモニアへやって来るのは、数ヶ月ぶりだ。
    「シグウィンも一緒に?」
    「ううん。今日はお仕事だから公爵お一人で。ほら。この間、要塞で発砲事件があったでしょう?」
    「あー……公爵が怪我をされた件だっけ?」
     メロピデ要塞発砲事件。入所者の一人が脱獄を試みようと、マシナリーパーツを密かにくすね、違法拳銃を自作していた件だ。事前に発見した看守が一名撃たれて死亡し、管理者である公爵が直々に捕縛したとか。
    「そうそう。公爵ご自身は大したことないって言い張っていたけど。シグウィンの報告だと犯人が乱射した弾が肩に残ってしまったとかでね」
     体内に残った弾は手術で無事に取り出せたが、その怪我を負ったせいでここ数ヶ月は定期報告にも顔を出していなかった。事件の一報が入った時には、ヌヴィレットも流石に険しい顔をしていた記憶がある。
    「でもそれなら、ヌヴィレット様も嬉しかったんじゃない? 公爵がお元気な顔を見せてくれたのでしょう?」
    「うん、そうだと思うよ。でもセドナの話だと、何か口論になってしまったみたいで……」
     水の上と下、フォンテーヌの中枢を支える二人だ。つい議論に熱が入り口論になることは珍しくない。公の場でも意見が食い違い口論しているのを、パレ・メルモニアの職員ならば一度は見た事がある。だがそれでも、最終的に二人が見ている先は同じなのだ。互いにそれを理解しているからこそ、二人の間には揺るがぬ深い信頼関係が成り立っている。
    「今回は仲直りできなかった、ってこと?」
    「うーん……そうね。簡単に言えばそうなのかな?」
    「簡単に……?」
     訪問者がある時間は、ヌヴィレットに呼ばれぬ限り誰も執務室へは入れない。セドナは勿論その規則に従っており、西の空が赤く染まり始めた頃ようやく執務室の扉が開いた。中から出て来たのはリオセスリ。いつもならばセドナへも優しく声を掛けて行く筈の彼は、動揺を隠す様に早足でパレ・メルモニアを去ってしまった。
    「お帰りになる公爵とは私も鉢合わせたんだけど。なにかに凄く驚いている感じがしたのよね」
    「驚く? ……なんか、公爵のイメージじゃないなぁ」
    「そうなの。だから私もセドナも不思議に感じていてね。ヌヴィレット様はずっと塞ぎ込んでいる様子だし……」
    「うーん……?」
     本日の日替わりパスタは、夏らしいレモンソース。爽やかで酸っぱくてとても美味しいけれど、それよりもヌヴィレットの事が気になってしまった。
    「お二人とも、早く仲直りできるといいね」
    「そうだね。公爵と話している時のヌヴィレット様は、とても楽しそうだし」
    「シグウィンなら良いアイデアを出してくれるんじゃないかな?」
    「うん、そうだね。あまり長引く様だったら、シグウィンに相談してみよう」
    「うんうん。そうしよ」

     そうして、マーナとリアスの忙しない一週間は幕を閉じた。
     お疲れさま、また来週。





     平日はもの凄く長い気がするのに、休日は幾らあっても時間が足りない。
     それは時間感覚の異なるメリュジーヌにとっても同じであり、マーナは月曜日の朝らしく、目覚ましを一度スヌーズにして二度目のベルで、ようやくベッドから顔を出した。
    「ふぁ……バターはまだあったっけ……?」
     本日のフォンテーヌは晴れ。カーテンを開けてカンムリガラ達のさえずりを遠くに聞きつつ、マーナはふかふかのパンをトースターへ放り込んだ。新聞ポストから朝刊を受け取り、前髪にカーラーを巻きつつ新聞へ目を通す。毎朝欠かさず一通りのニュースへ目を通すのは、マレショーセ・ファントムとしての嗜みだ。
     その新聞のとある欄に、見覚えのありすぎる人物が掲載されているのを見つけた。
    「……ん? ヌヴィレット様の記事だ」
     記事の内容は、復興計画の進捗に関しての物だった。よくある内容だが、目を引いたのは私生活に関する質問の欄。名水サロンの再開予定や、璃月への弾丸旅行に関して。そして、これは一際珍しい。結婚相手に関する理想像についてだ。
     新聞や雑誌に掲載される質問質疑に関しては、事前にパレ・メルモニアの精査が入る。ヌヴィレットが否と言えば、その質問には一切回答しない。だがこうして記事になっていると言うことは、ヌヴィレット本人が回答したのだろう。これは非常に珍しい。一体どう言う風の吹き回しだろう。
    「ええと? 結婚相手へ求める資質、条件は……」
     ──聡明で忍耐強く、機知に富む者。必要に応じ、他者を慮る懐の深さを持ち合わせている者。私自身があまり歓談が得意ではないので、会話上手な方が良い。
     ──風貌は健やかで丈夫であれば、あまり重要ではない。敢えてあげるのならば、清水の様な青い瞳で、微笑むと目元に優しさが滲み出る顔立ちが好ましい。目にはその者の生き様が表れる。
     ──共に居て心地の良い存在。永遠の春を感じさせてくれるような、そんな相手がいい。
    「ほぁ……」
     これは、大ニュースではなかろうか。いやいや、大ニュースだ。おそらくこれを読んだメリュジーヌ達は、みなマーナと同じ事を思っている。
     一気に目が覚めたような気がして、マーナはぴょんと椅子を飛び降り慌てて身支度を始めた。これはぜひ出勤前にリアスへ報告をしなくては。いや、もしかしてリアスもいま同じ事を考えているかもしれない。リアスもセドナもヴェレダも。シグウィンは、もしかして気が付いていたのかもしれないが。
    「そっか……恋をしているんだ、ヌヴィレット様」
     間違いない。ヌヴィレットは誰かに恋をしている。だからこそ、あえてこの質問へ答えたのだ。持ち合わせるべき答えを心の中で見つけたから、ヌヴィレットはこの茶番に応じたのだろう。
     メリュジーヌ達にとってヌヴィレットは父親の様な存在だ。生みの親であるエリナスともまた違う。ヌヴィレットは自分たちメリュジーヌを凄く大切にしてくれている。
     だが逆を返せば、メリュジーヌたちにとってもヌヴィレットは大切で敬愛すべき存在なのだ。そんなヌヴィレットに心を寄せる相手が出来たとなれば、これ以上の朗報はない。
    「おはよっ!」
     キラキラと輝くような心持ちで、パレ・メルモニアへ続くリフトを降りた。裏手にある職員通用口の所でリアスとセドナに会い、マーナは小走りで駆け寄って行く。
    「おはよー、マーナ」
    「なんだかすごく元気だね。良い事でもあった?」
    「ふふ……! 二人とも、今朝の新聞読んだ?」
     すると、リアスもセドナもすぐに理解できたのだろう。マーナと同じ輝く様な笑顔を浮かべた。
    「うんうん、ヌヴィレット様の記事でしょ? 読んだよ」
    「良かったよね~。ヌヴィレット様にも心の余裕が出てきたって事だもんね」
     ヌヴィレットは多忙である。
     それは司法に関わることだけに留まらず、エネルギー問題や社会構造、外交や貿易についてなど、その役目は多岐にわたる。カビ臭い仕組みを徐々に変化させようと才のある若者を積極的に採用したり、古い世襲制度をなくし能力重視の人事をするよう少しずつ働きかけている。リオセスリの異例の抜擢などは、その新しい時代の尤もたる象徴だ。法廷から歌劇的な要素を排除し正常な状態へ戻そうとしているのも、その一環である。
     だがやはり、古い慣習へ新しい風を吹き込むのは一筋縄では行かない。
    「ヌヴィレット様、今日は議会へ出席しているのだっけ?」
    「そうそう。今日の議題は、巡水船の再整備についてだとか。夕方には戻って来るみたいだけど」
    「そっか……恋人さんとデートする時間とかあるのかな?」
    「うーん、ちょっと心配だよね。あ、でも……懐の広い方ってヌヴィレット様が言っていたから。大丈夫なのかな……?」
     為すべき役目と責任感で忙殺され続けてきた、敬愛する父。そんな彼にようやく訪れた春だ。愛娘たちとしては陰ながら応援してあげたい。それは、メリュジーヌ皆の願いでもあるだろう。
     始業時刻になりパレ・メルモニアの扉が開かれ、皆それぞれの持ち場へと移動して行く。マーナも巡回に行こうとしたその時、ヌヴィレットの姿が見えた。議会へ行く前に立ち寄ったのだろう。何やらアイフェへ小包を託し、すぐにパレ・メルモニアを去ってしまった。
    「アイフェ、おはよー」
    「あ、マーナ。おはよう」
    「ヌヴィレット様、いらっしゃってたんだね」
    「うん。これを届けてくれって、頼みに来たみたい」
    「その荷物?」
    「うん、メロピデ要塞の公爵宛て」
     書類と一緒に、公爵へ届けて欲しい。そうアイフェが託されたのは、綺麗な包装紙に包まれた箱と一本のレインボーローズだ。
    「新作の茶葉なんだって。公爵はお茶がお好きだから」
    「そうなんだ? 私は公爵とあまりお話したことないからなぁ……」
    「その代わり、マーナはヌヴィレット様と仲良しじゃない」
    「え、そうかな? へへ……」
    「そうだよ~、いいなぁ。私もヌヴィレット様と一緒に海を眺めたい」
    「あはは! うん、アイフェがお誘いしたらきっとヌヴィレット様も喜ぶよ。これから要塞へ行くの? シグウィンによろしくね」
    「うん、伝えておく」
     じゃあねとアイフェと手を振り合い、マーナも巡回へ出た。
     パレ・メルモニア周辺は今日も賑やかだ。マーナお気に入りの裏手バルコニーも人が多く、海の見えるベンチでは恋人達が愛を囁き合っている。男性の方はここでプロポーズをすると決心していたのか、一本のレインボーローズを恋人へ差し出していた。彼女は驚いていたらしいが、ぽろぽろと大粒の嬉し涙を流しつつ、そのレインボーローズを受け取った。周囲の者達からは拍手が起こり「おめでとう」「お幸せに!」と口々に祝福が贈られている。もちろん、マーナも一緒に拍手をした。
     おめでとう。お幸せに。
     そうして今日も平和な一日が暮れて行き、夕日に染まったパレ・メルモニアには夕刻を報せる馴染みの曲が流れ始めていた。
    「ふう……今日は忙しかったなぁ。さすが月曜日だ」
     巡回日誌を記入し終え、執律庭へと提出する。後は終業時間まで自由だ。いつもの場所でぼんやりしようとパレ・メルモニアを出ると、入り口前バルコニーの左手。海の向こうへエピクレシス歌劇場を望む場所で、見慣れた姿を見つけた。
    「ヌヴィレット様? お戻りになられたのですね」
    「マーナか。ああ、先ほど戻った。異常はないか?」
    「はい。月初めの月曜日なんで手続きに訪れる人が多かったですけど。特に大きな揉め事は無かったと思います」
    「そうか。それは良かった」
     ヌヴィレットはそう微笑むと、再び視線を前方へと戻す。視線の先には夕暮れに染まる歌劇場が見える。なにか思案に暮れているのだろうか。
    「…………」
     スッと、マーナは何も言わずにヌヴィレットの隣へ立った。賢いマーナは知っている。“ただぼんやりと海を眺めている時”と“ただぼんやりと海を眺めているしか出来ない時”の違いを。そして今のヌヴィレットは、きっと後者だ。
     ヌヴィレットは何も言わず、ただじっと夜色に染まって行く歌劇場を眺めていた。マーナも声を掛けぬまま、そんなヌヴィレットへただ付き合っている。かつてヌヴィレットが、そうしてくれたように。
     そうしてどのくらいの時間が過ぎたのだろう。歌劇場へ明かりが灯り、パレ・メルモニアの街灯が点灯し始めた頃。ヌヴィレットは、ようやくポツリと独り言のように言葉を零してくれた。
    「…………いま彼は、何をしているのだろうかと考えていた」
    「……今日はお会いにならないのですか?」
    「今日は会えない。 ……いや、本音を言えば私は毎日顔を見たいのだが」
    「お相手様も、ヌヴィレット様に会いたいと思って下さっているかもしれませんよ?」
    「……私は彼を困らせてしまった。焦りすぎたのだ」
    「喧嘩ですか?」
    「いや、拒否をされた。より世俗的な表現をすると、失恋をしたと言うべきか」
     思わずマーナはヌヴィレットの横顔を見上げてしまった。ヌヴィレットが誰かに好意を抱いているのは確かだが、どうやら相手はそれを拒否しているらしい。俄には信じがたい話だ。
    「……お相手様へ想いを告げたのですね?」
    「ああ。想像以上に怪我が深刻であったのを知り、万が一彼を喪っていたら私は自分を許せないだろうと思い……口に出してしまっていた」
     喪失の可能性に気が付いてしまった時の、焦り、怒り、そして恐怖。初めて知る感情の奔流を自覚してしまい、それを告げたのだとヌヴィレットは静かに語る。ヌヴィレットに神は必要ないが、まるで懺悔をしているかのようだ。
     ヌヴィレットはとても綺麗だ。それは人間から見ても、メリュジーヌから見ても、みな同じ感想を抱くだろう。濁りひとつない清らかな流水のような髪と、彫刻みたいに整った横顔。だがその横顔が、今はとても生々しい感情を浮かべている。後悔、と言う名の苦しい感情だ。
    「……きっとだいじょうぶです」
    「マーナ?」
    「大丈夫です、ヌヴィレット様。絶対に大丈夫」
    「…………ああ」
    「諦められない……いえ、諦められるようなお気持ちじゃないのですよね?」
    「無論だ。彼は私にとって、生命を維持する水にも等しい」
     自分が自分であるが為に。だから彼が必要なのだと。
     一点の曇りも無いヌヴィレットの瞳を見て、マーナは満面の笑みを浮かべた。
    「ふふ……! じゃあ大丈夫ですよ。今の言葉をそのまま素直に伝えてみて下さい」
    「素直に……? そうか、分かった。感謝する、マーナ」
    「いえいえ。大好きなお父さんの恋路を応援するのも、娘の勤めですから」
     するとヌヴィレットは一瞬目を丸くし、すぐにフッと口元を綻ばせた。最近よく見せてくれるようになった、少しはにかんだ笑顔だ。
     ヌヴィレットは、たくさんの顔を見せてくれるようになった。はにかんだ笑顔、困った顔、驚いた顔、悲しんでいる顔。そして、好きな人の事を思い出している時の嬉しそうな顔。彫刻みたいに整った格好良いヌヴィレットはもちろん自慢の父ではあるが、色んな顔を見せてくれる自然な姿はもっと素敵だ。
     こんなに素敵な父を、好きにならない筈がない。
    「色事には正直あまり興味を抱いてこなかったが……私はまだまだ勉強せねばならないな」
    「生物界だと、狩りが上手だったり、立派な毛並みを持つオスがもてるそうですよ」
    「ふむ……? 狩りか……魚を捕るのは出来そうだが……」
    「人間は漁や釣りで魚を捕まえますよね」
    「釣りか、なるほど。一考の余地がありそうだ」
     良かった。少し元気が戻ったらしい。
     完全にとまでは行かないが、少し元気を取り戻したヌヴィレットの姿を見て、マーナはホッと胸をなで下ろした。大好きな人にはいつも笑っていてほしいから。

     この日から、マーナの“ヌヴィレット様の恋を応援する会”の活動が密かに始まったのだ。

    「ヌヴィレット様! この新発売のブラシで髪を梳かすと、艶々になるそうですよ」
    「ほう?」
    「私が梳かしてさし上げますね。あ、リボンも新しいのを買ってきました」
    「ありがとう。君の髪は私が梳かしても良いだろうか?」
    「えっ、私もですか」
    「うむ」
    「えへへ……ありがとうございます」
     上手く仲直りが出来たのだろう。明日、ようやく思い人に会えるとソワソワしていたヌヴィレットへ、ブラシをプレゼントした。
     ヌヴィレットのお相手はお茶を好むらしい。食通の友人や雑誌から情報を集め、各国で流行している茶葉や洒落たティーセットをヌヴィレットに教えてあげた。
    「スメールの教令院には妙論派と言う派閥があるそうで。そこには高名な建築デザイナーさんとかもいらっしゃるそうですよ」
    「聞いた事があるな。確かに、居心地の良い家を持つのも悪くなさそうだ」
    「お相手様に時間のお気遣いをかけず、お茶にも誘えますしね。将来的にも悪くないと思います」
    「ふむ……検討しておこう。小動物が飼育可能な場所が欲しい」
    「ヌヴィレット様はペットを飼うご予定が?」
    「いや、彼がだ。小動物を側に置こうかと考えた事があるそうだ」
     ヌヴィレットのお相手が優しいのは本当らしい。詳細は分からないが、小動物が欲しいと思っても飼えない環境なのだろう。自らのエゴで動物を側に置いたりはしない。必要に応じ、他者を慮る懐の深さを持ち合わせている者。まさしくその通りの人物だ。
    「それと先日気が付いたのだが、ヒトの基準によると私は標準よりも背が高い」
    「うんうん、そうですね。とても素敵です」
    「ありがとう。それ故バブルオレンジを初めとする果実を、ハシゴを使わず高い所へ実った物まで収穫できるのだ」
    「え、ええーっ そ、それはすごい…!」
    「ふふ……これで君に教わった、狩りが上手いオス、の条件を満たせるだろうか?」
    「完璧ですよ! 私なんて棚の上のバターを取るのに椅子とハシゴ使いますもん」
    「棚の上のバターを取って欲しい時は呼んでくれたまえ。うむ、では私は狩りが得意だとアピールしてみよう」
    「そうですね。きっとお相手様もメロメロになるはずです! じゃんじゃん魅力をアピールして行きましょう」

     そして“ヌヴィレット様の恋を応援する会”の発足から一ヶ月が過ぎた、ある日。

    「あ、マーナ。ストップ」
    「んっ?」
     今日は新作歌劇のチケットが二枚手に入ったので、お誘いしてみてはどうでしょうかとヌヴィレットへプレゼントする予定だった。チケットを手に執務室へ向かうと、受付にいたセドナに引き止められたのだ。
    「ヌヴィレット様なら、いま居ないよ」
    「えっ? 今日は外出のご予定あったっけ……?」
    「ううん、急用。公爵がいらっしゃってね。お二人で出かけたよ」
    「公爵? えっ……なにかまた事件でもあったの?」
     メロピデ要塞の管理者であり多忙の身でもある彼が、月に何回もパレ・メルモニアへ顔を出すのは珍しい。また何か起きたのだろうかとマーナは表情を硬くすると、セドナは違うちがうと首を横へ振った。
    「個人的な件でだと思うよ」
    「個人的な……?」
    「も~……マーナはほんとぼんやりとしてるから……」
     セドナは小さく息を吐いて、マーナへ顔を寄せ耳打ちをしてきた。
    「新聞、マーナも読んだでしょ?」
    「うん? ヌヴィレット様のインタビューでしょ? 読んだよ」
    「じゃあ分かるよね? いまはお邪魔しちゃダメ」
    「う、ん……???」
     セドナの言葉が、分かるような分からないような。未だ釈然とせずマーナが小首を傾げていると、セドナは仕方がないと言わんばかりに説明を続けてくれた。
    「キミは海を眺めてぼんやりするのが好きだよね? マーナ」
    「え、うん。大好きだよ」
    「それはどうして?」
    「どうして、って……海を見ていると落ち着くし、安らぐから」
    「でしょう? ヌヴィレット様も歌劇場の裏手をよく散歩なさっているのを、知っているでしょ?」
    「うん……あそこは静かでとても落ち着くって……、……え、……?」
     なんだか唐突に、全てが繋がってしまった気がする。
     マーナは目を丸くしセドナの方へ視線を向けると、どうやら正解へ辿り着いてしまったらしい。セドナはニコッと満面の笑みを浮かべ、力強く頷いた。
    「そーゆーこと。分かった?」
    「……え……? ……え……じゃあ、ヌヴィレット様のお相手って……」
    「マーナ、本当に気が付いてなかったの?」
    「……う、うん……」
    「あー、そっか……マーナはあの頃、まだフォンテーヌ廷に来てなかったからなぁ……」
    「え? 昔に何かあったの?」
    「うん、まあ。ヌヴィレット様はまだ公爵が“公爵”じゃなかった頃から、ご縁があると言うか」
     ──あの少年へ、温かいスープを。
     あれから、何年の月日が経つのだろうか。メリュジーヌ達からしてみればほんの一瞬、まばたきをする程度の僅かな時間。その昔ヌヴィレットに頼まれて、ある少年へ影ながら支援をしていた。
    「私も当時、直接関わっていた訳じゃないんだけどね」
    「そうなんだ……知らなかった」
    「ふふ。でもマーナは、ヌヴィレット様の恋の相談役を務めているじゃない」
    「う、うん」
    「じゃあ、影ながら応援してあげましょ。私たちの大好きなお父様の恋が、バブルオレンジみたいに実を結びますようにって」
    「……うん! そうだね!」
     嬉しい、嬉しい。
     何だかスキップでもしたくなるような気持ちで、マーナはフォンテーヌ廷を飛び出した。仕事をさぼっている訳ではない。マーナの担当はフォンテーヌ廷地区の北側。パレ・メルモニアだけではなく、周辺地域の治安維持も業務に含まれているからだ。
     色とりどりの花々が咲き誇る、フォンテーヌの夏。草花と潮風が混じる心地良い空気を全身で受け止めながら、マーナはパレ・メルモニアを見上げつつ軽い足取りで坂道を登って行く。
    「いー匂い……空も綺麗」
     フォンテーヌ廷へ来なければ、夏の匂いもパンケーキの美味しさも、知らないままだった。ヌヴィレットがメリュジーヌを受け入れてくれていなかったら、今もまだ自分たちは水の下で静かに暮らしていたのだろう。
     メリュシー村での生活も悪くはない。時々無性に故郷が懐かしくなる時もある。だけど今はこのフォンテーヌ廷が、大好きなヌヴィレットの側が、メリュジーヌ達の第二の故郷だ。
    「……あ、」
     坂道の終点、小さなテーブルが置かれた古いガゼボの下に人影がふたつ。ヌヴィレットとリオセスリだ。この辺りは殆ど人通りがなく、巡回しているマシナリーも少ない。二人はここでじっくりと本音をぶつけ合ったのだろう。遠目で見ても分かるくらいにはヌヴィレットの表情が輝いており、これ以上はないくらいに優しく微笑んでいる。
     喜びが隠しきれないヌヴィレットは上着の中をゴソゴソと漁り、バブルオレンジを数個取り出した。取り出したバブルオレンジをテーブルの上へコロコロと置きながら、何やらヌヴィレットは真剣に説明をしている。一方のリオセスリは、採れたてオレンジとヌヴィレットの顔を交互に見比べつつ目を丸くし、頭上へクエスチョンマークを浮かべている。この人は一体なにを言っているんだ。そんな心の声が聞こえてきそうな顔だ。だが、ヌヴィレットは大真面目にバブルオレンジを手に熱弁し、そんなリオセスリへとオレンジを手渡していた。
     ──私が毎日、君の為にバブルオレンジを収穫しよう。
     ヌヴィレットなりに考えた、狩りの上手いオスアピールだ。
     ぽかんとした間の抜けた顔のリオセスリはとても貴重で、童顔なのも相まってとても幼く見える。ヌヴィレットの心を籠めたアピールに感動しているのか、驚いているのか。リオセスリは声を上げて笑い始め、困惑しているヌヴィレットの背中をバシバシと叩いていた。
     ──嬉しいよ。ありがとな。
     どうやら、バブルオレンジは無事に受け取ってもらえたらしい。こんなに沢山持って帰れるかなと困り笑いをしているリオセスリを、ヌヴィレットがとてもとても優しい目で見つめていた。
    「……良かったぁ……」
     よかった。どうやら想いは上手く通じてくれたらしい。ヌヴィレットの心へまたひとつ、新しい表情が加わった。愛している、と言う一人だけに見せる顔だ。
     悪戯な風がザ……と木々を揺らす。山脈から吹き下ろす突風で木々が揺れ、花が舞う。青い青い夏の空へ、色とりどりの花々が。
    「わっ……!」
     悪戯な花嵐。この目で見た事はないが、楽園が本当に存在するとしたら、こんな光景が広がっているのかもしれない。その嵐から庇うように、ガゼボの下にいたヌヴィレットが恋人の前に立ち、そのまま二つの影が重なった。長い、長い初めての口付け。まるでそこだけ時間に閉じ込められたような、永遠を切り取った一場面。
     ──共に居て心地の良い存在。永遠の春を感じさせてくれるような、そんな相手がいい。
     ああ、そうだ。
     そんな永遠を、ヌヴィレットはようやく手に入れたのだ。
    「……今日は別のルートを巡回しよっかな」
     ガゼボの下では、ようやく解放されたリオセスリが少しはにかみつつも笑っている。笑うと垂れてとても優しい雰囲気になるリオセスリの清水みたいな瞳が、マーナはとても可愛いと以前から思っていた。
     そんな可愛らしい表情を、もっともっと見せてあげてほしいです。私たちの大好きな、自慢のお父様へ。
    「今日は何を食べようかしら~……焼きたてのパンに、バターをたっぷり塗ったやつが食べたいなぁ」

     メロピデ要塞管理者、公爵様へ。
     素敵な父を持つマーナより。かしこ。

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