ラディへ捧ぐ・2【秋】
吾輩のような犬種は、ニンゲンに換算すると一年で七~十二歳ほどの年を取るらしい。
「ラディ、大きくなったねぇ」
吾輩がこの家へやって来てから季節が何度か巡った。ダルモアの短い夏が終わりかけている、この季節。ラモラック殿にブラッシングをされつつ、ゆったりと流れる雲を眺めていた。
「ん? なに……アハハ!くすぐったい! よしよし」
大きくなったのはお互いにですよ。
そんな親愛の情を籠めて軽くじゃれつき、頬を舐めた。本気でじゃれつくと怪我をさせてしまうかもしれないので、手加減をして。ラモラック殿の腕にすっぽりと収まっていた吾輩の体は、いまや見違えるほど大きく成長していたのだ。
黒光りするほどの艶々とした毛並みは、母親譲りである。ピンと立った耳は右側が少し欠けているが、これは鷲との戦いに打ち勝った勲章だ。相変わらず右目も開かぬままだが、これも全く不自由は感じない。寧ろ右目がない分、他の犬よりも感覚が鋭敏だと自覚していた。
元気いっぱい、沢山の人々から愛情を受けて、国一番の猟犬になるべく日々健やかに成長している。この少年達と共に。
「あ、そう言えばね。この間『隻眼の英雄』って本を読んだよ。君と同じだね」
そうなのですか? せきがん、目が片方しかない者の事ですか。新しい言葉をまたひとつ覚えました。
「お、ラディも興味ある?」
はい、勿論。勇敢な者の物語は、子供にとってはいつでも心が躍ります。
「そっか! じゃあ今度読み聞かせてあげるね。面白かったよ~。隻眼の騎士が大鷲に乗って旅をする話でね……」
とても興味深いお話ですね。楽しみにしております。
「ガウェインも鍛錬ばかりじゃなくて、たまには本も読めばいいのにねー? よっし、ラディ。散歩に行こっかー」
ええ、お供しますぞ。
ですが、ラモラック殿。名誉の為にひとつだけ訂正させて戴きますと、ご主人は時々眠る前に読書をされています。ラモラック殿が置いて行かれた本を、あいつが面白いと言っていたから、と。
数ページ読んだ所で寝てしまい、いつも吾輩が床に落ちている本を机へ戻すのですが……それは日々の厳しい鍛錬で、すぐに眠くなってしまうだけなのです。
どうです、ご理解いただけましたか?
「ん?なにー、どうしたの? 今日は随分甘えんぼだねぇ。よしよし」
いえいえ、違います。ご主人の援護を……ああ……。ラモラック殿は撫で上手すぎて……尻尾がつい……。
「こちょこちょこちょ~アハハ! そんなに尻尾振ったら取れちゃうよ」
それは困ります。尻尾が無くなるのは困ってしまうので、散歩に集中しましょう。ああ、今日のコースは川辺の散歩ですね。吾輩が貴方たちと出会えた、懐かしい場所です。
西の山に顔を隠し始めた陽の光が、柔らかい色へと変化して行く。鮮やかだった草木にもいつの間にか黄色が混じり始めており、草むらから聞こえる虫の声も、秋の音だ。今はまだ程よく涼しいだけだが、あとひと月もすれば足の裏へ感じる大地も冷たくなるのだろう。
「ラディ! あんま遠くまで行っちゃ駄目だよー」
吾輩にはリードが必要無い。吾輩はこの国一番の猟犬。お手間は掛けさせません。ラモラック殿の声でピタリと足を止め、ワンと元気にひと鳴きする。ラモラック殿がこちらへやって来たのを確認し、ぴったりと隣へ寄り添い散歩を再開した。
夏の間にこんがりと焼かれた木々の香りが、夕刻の風に乗って流れてくる。毛皮を纏う身としては、秋や冬は大歓迎だ。ようやく木陰を探さずとも快適な季節がやって来る。
赤や黄が混じり始めた山を遠くに眺めつつ進んで行くと、眼前には大きな橋が見えてきた。苔むした石造りの橋へ近付くごとに、水の香りが濃くなり始める。石橋の下を流れる清らかな川だ。山脈から街中へと流れ込む大きな川が、視界に飛び込んでくる。
「懐かしいねぇ。君と出会った所だ」
ええ、そうですね。
「あれからもう三年かぁ……君も僕も、大きくなる訳だ」
ニンゲンの年月で数えるとそうなりますね。
「あ、三年と言えばさ。パーシィの誕生日祝いに、今年は剣の手入れ道具を贈ったんだー。ガウェインが教えてくれた、ダルモア騎士団御用達のやつ」
パーシィ、パーシヴァル殿ですね。ラモラック殿の弟君だと記憶しております。
「パーシィも来年は修行に出るみたいだからね。でも、パーシィならきっと何処に行っても大活躍間違いなしだと思う」
優秀な弟君なのですね。ラモラック殿にはお兄様もいらっしゃるのでしたっけ?
「それでね、アグ兄からも手紙がきたんだ。元気だったよ~。逆に僕がダルモアでちゃんとやっているのかって、痛いとこ突かれちゃった。アハハ!」
成る程、兄上様はなかなか手厳しいのですね。ご心配なく。時々、訓練をサボってご主人と遊んでいたりはしますが。ラモラック様はとても優秀ですよと、吾輩からもお伝えしたいところです。
「あれ?もしかして慰めてくれてるの? ふふ、ありがと」
慰めなんかじゃありません。ラモラック殿は本当に凄いです。いつも明るくて、とてもお優しい。それに鋭い感覚をお持ちですし。あの時も吾輩の声を聞き届けて下さいました。
「アグ兄もパーシィもきっと、ウェールズを支える偉大な人になると思うんだ」
そうですね。きっとそこには、ラモラック殿の姿もありますよ。
「兄弟達だけにじゃなくて、ガウェインやフロレンスにもだけどさ。僕も負けないように夢を叶えたいなぁ」
夢、ですか。吾輩もよく夢を見ます。ラモラック殿やご主人にたくさん遊んで貰う夢とか。
だがどうやら吾輩が考えている夢と、ラモラック殿が思い浮かべている夢は、同じ言葉でも少々意味合いが違うらしい。隣を歩く彼をふと見上げてみると、その横顔には珍しく翳りが落ちていた。
「……夢、かぁ……」
ああ、いつからだろう。
まだまだ子供だと思っていたラモラック殿が、時々こんな顔をするようになったのは。
日に日に成長する草木の如く背丈が伸び、丸みを帯びていた手足には筋肉が付き始めていた。それは吾輩もラモラック殿も、ご主人も同じ。共に成長しているのだ。
「僕さ、明日は大切な試験があるんだ」
魔法の試験ですか?
ああそれで、少々ナイーブになっておられるのですね。
「治癒の能力を諮る試験なんだ。他の魔術は上達してきたと思うんだけど……どうも治癒の術だけが上手く扱えなくてさー」
そう言えば、拾われたばかりの頃に側にいてくれたラモラック殿が呟いたのを耳にした覚えがある。君は僕と同じだね、と。状況こそ違えど、ラモラック殿も幼少のみぎりに親御様、母上をお見送りになられたのだとか。自分が治癒の術が使えれば母上の怪我も治せたのにと酷く後悔しており、それが今の原動力になっているのだと。
「他の魔法には自信があるんだ。解呪も結界も、小っちゃくなる魔法だってきっといつか完成できる。でも……治癒術は……」
……成る程。残念ながら吾輩は見守る事しかできないのですが……ご不安でしたら、ご主人にご相談されてみてはどうでしょうか?
だが、ラモラック殿はすぐに翳りを隠してしまい、いつもの明るい笑顔へとパッと切り替えてしまった。
「もーやめやめ! ごめんね、ラディ。あんま表で弱気なこと言うとさー、ガウェインに揶揄われるから。ムカつくし」
ああ、ふふ。そうでしたね。想像できます。お二人はケンカするほど仲が良いのだと、モルゴース殿が言っておられました。兄弟みたいなものなのよ、と。
「だからさ、試験で高得点を取って自慢してやるんだ。僕の方が、先に夢へ近付いたぞってさ!」
はい、応援してます。頑張って下さい。
主人であるガウェインの夢は、騎士団長になって誰よりも強い男になる事だ。追い付き追い付かれ、彼等は切磋琢磨しあい夢へ向かい走り続けている。
吾輩はいつでもそんなお二人を応援していますよ。そんな思いを籠めてラモラックの手にすり、と鼻先を寄せると、くすぐったそうな笑い声が聞こえてくる。
「……ふふ、ありがと! よぉし、じゃあご褒美にー駆けっこしようか?」
本当ですか! はい、走りたいです。
「僕はガウェインみたいに体力バカじゃないから、お手柔らかにね。じゃあ、あの丘まで競争!」
分かりました。ラモラック殿を先導します。
「あ、ちょっ……早! こら!お手柔らかにって言ったよね」
駆け回れる喜びに全身の筋肉を躍動させ、若き猟犬は大地を跳ねる。共に成長している小さな魔導師と丘の上で転げ合い、二人は声を上げてはしゃぎ回った。
どうかこのさり気ない日々が、少しでも彼の心を和らげてくれますように。そう願いを籠めて、艶々な頬をペロペロと舐め親愛の情を伝えた。
◆
散歩を終えて家へ戻った頃には、空が半分夜色に染まりかけていた。
家の前では見覚えのありすぎる人影が牛乳瓶を片付けており、帰還を報せるべく吾輩はワンと大きくひと鳴きする。
すると人影、ご主人は顔を上げ、ヒラヒラと手を振るラモラック殿と吾輩を呆れ顔で迎えてくれたのだ。
「おい、随分と長い散歩だったな?」
「ガウェイン帰ってたのー? 今日は早かったじゃん」
「牧場で子馬が産まれるらしくてな。早めの解散になった」
「へぇ~! あそっか、教官殿は軍の牧場も管理しているんだっけ?」
「ああ、元は牧場主の跡継ぎだからな。今年は季候が良かったお陰か、子沢山らしいぞ」
ご主人はそう話しつつ吾輩の前へ屈み込み、ワシワシと頭や体を撫でてくれた。ラモラック殿の巧妙な手付きとは違うやや乱暴な撫で方は、昔から変わらない。だがご主人の手はとても温かくて、大好きだ。
庭にある水場へ三人で向かい、ご主人は吾輩の足に付いた泥を丁寧に洗い流してくれる。ラモラック殿が用意してくれた水を有り難く頂戴していると、お二人はそれを見守りつつ話を続けていた。
「子馬かー、いいな。可愛いだろうね」
「子馬を見た事はないのか?」
「うちの厩舎にはいなかったなぁ。遠くからは見たことあるよ」
ラモラック殿はリョウケノゴシソク、と言う種類のニンゲンらしい。吾輩には意味が良く分からないが、犬で例えると血統書付きみたいなものだろうか。
水を飲み終え喉の渇きが癒やされると、眠くなってきてしまった。大きな欠伸をひとつ零し、庭のベンチへ腰を下ろしているお二人の足元で丸くなる。
遠くに見える険しい山脈、その背中に隠れかけている太陽が眩しい。街中の方は既に暗くなっており、家々の窓には灯りが点り始めていた。
「……ふ、ん……そっか」
「うん」
「……じゃあ、その……」
「うん?」
「今度、見せて貰いに行くか? その、子馬を」
ご主人、痛いです。
照れ隠しなのだろうか、ご主人は吾輩の頭を更に乱暴に撫でつつ、ラモラック殿をお誘いしていた。何故照れる必要があるのだろうか。ラモラック殿も喜ばれてますよ。ほら、ちゃんと顔を上げて、目を合わせて。きちんとお誘いすべきです。
だがやはり、ご主人は顔を上げてくれない。吾輩の方へ向けられている顔は何故だが今日の夕陽と同じ色をしていて、撫でてくれている手は温かいを通り越して熱いくらいだ。
「……ほんとに?」
「い、嫌なら別にいい!」
「ううん、嫌なんじゃなくてさ」
「別に、無理をしなくても……」
「そうじゃなくてー。騎士団の牧場は関係者以外は入れないんでしょ? 僕も、いいの?」
「……あ? ああ、そっちか……」
「忍び込んでもいいけどさー、バレたらまたお尻八つになるくらい叩かれちゃわない? あの時ガウェイン涙目になってたじゃん」
「昔の事を引き摺り出すのはやめろ! ちゃんと許可はとった」
「え? ホントに?」
「ああ、俺が一緒ならかまわんそうだ。 ……それに」
「うん?」
ほら、ご主人頑張って。
「……お前はもう、ダルモアの一員だからな」
産まれた所は違うかもしれない。育ってきた環境も、目指すべき道も。だけど、僕らはいま同じ空を見て、同じ時間を過ごしている。夜色に染まって行く空も、地上の星みたいな家の灯りも、肩を並べて一緒に眺めているのだ。それ以上の理由が必要だろうか。
ラモラック殿はキョトンとした顔をしていたが、徐々にその表情が綻んで行く。艶々とした頬が喜びで満たされほんの少し紅潮している様子は、まるで採れたての果実みたいだなと思った。
「……うん! 行く、僕も子馬見に行きたい」
「そ、そうか。分かった、伝えておく」
「うん! うわ~楽しみだなぁ」
ようやく恐る恐る顔を上げてくれたご主人も、ラモラック殿の表情を見て心底ホッとしているらしい。断られるとでも思っていたのだろうか。ご安心ください、そんな筈はありませんよ。
「ねえねえ、ニンジン何本くらい持っていこうかな? イチゴも食べられる?」
「ん? 生まれたばかりだから、まだ食べられないぞ」
「え、そうなのー」
「当たり前だ、バカ。最初はミルクだけだ。ラディだってそうだっただろ」
「あ、いまバカって言った?」
「バカにバカと言って何が悪い?」
「あーあ。今日の座学で居眠りしてたの、フロ姉にチクっちゃおうかな~?」
「やめろ」
おや、またじゃれ合いですか。お二人は本当に仲が良いですね。しかし、少々騒がしいのでお静かに願えませんでしょうか。これでは眠れません。
「ラディ~、君のご主人はほんっとーに意地悪だよね! かわいそー、ウチの子になりなよ」
「駄目だ! おい、離せ。ラディが困っているだろうが!」
「やだね。ラディは僕の味方だもん。ねー?」
吾輩はお二人の味方ですよ。ううん、しかしそんなに引っ張られると困ってしまいますね。
ご主人もいつもの調子を取り戻したのか、ギャーギャーと忙しない賑やかさが戻ってきた。
結局昼寝はできなかったが、まあ構わない。最近のご主人は時々こうして様子がおかしい時がある。以前は全くそんな素振りは見せなかった筈なのに、何かを言おうとして言葉を飲み込んでしまったり、ぼんやりと物思いに耽っている時があるのだ。
「あ、そう言えば……なんかガウェインいー匂いしない? なに食べてんのー?」
「おぁ……おい! やめろ!近い 覗き込むな」
「キャンディじゃん~。ねー僕も食べたい。イチゴ味ちょーだい」
「わかった、やる! やるから離れろ」
「今さらなに照れてんの~? ホラホラ、早く出さないと口の中のやつ盗っちゃうよ?」
「やめろーっ」
ふふ、微笑ましいですね。大丈夫ですよ。ご主人はラモラック殿の分もいつもちゃんとご用意しています。
ふと、誰かの事を考えてしまう。それは誰にでも自然と訪れる、成長の証。
親愛と言う全てに向けられる括りの中から、その感情は気が付けばいつのまにか芽生えてしまっている。
だがその感情に名前を付けられるのは、まだもう少し先になるだろう。
「ガウェイン、ラモラック。ただいま」
「ん? ああ、お帰り母さん」
「おかえりなさい~、師匠!」
門を開く軽い金属音に続いて、今日の仕事を終えたモルゴース殿がクスクスと笑いながら帰宅した。
お帰りなさい、母上殿。尻尾を激しく揺らしながらお迎えに行くと、モルゴース殿の優しい手が頭を撫でてくれた。
「師匠、お仕事終わったの?」
「ええ、明日の準備は万端よ。頑張ってね、ラモラック」
「うん!」
そんなやり取りを交わしているお二人を、ご主人は何か言いたげに少し離れた所で見ている。ああ、駄目だ。また言葉を飲み込まれてしまった。
「あれ? そう言えばフロ姉は?」
「フロレンスはお買い物があるみたいで、寄り道しているわ。さ、夕食の支度をしなくちゃね。はい、ガウェイン」
「ん? ああ、荷物か。運んでおく」
ご主人はモルゴース殿から食料品の入った袋を受け取り、玄関へと向かった。モルゴース殿は優しい手付きでラモラック殿の背を押し、いつもの様に吾輩もその後へ続いて家の中へ戻ろうとする。
だが今日は、少々様子が違うらしい。
「僕さ、今日は帰るよ。モルゴース」
「……えっ?」
ふいに足を止めたラモラック殿が、そう言い出したのだ。これには流石に吾輩も驚かざるを得ない。
確かに、ラモラック殿のお住まいは此処ではない。大切な賓客として城内にあるお屋敷へ一室を設けられているが、訓練を終えた後はご主人とほぼ毎日遊んでいるせいだろう。そのまま此処へ来て夕食を一緒にしたり、そのまま泊まって行くのも日常茶飯事である。
吾輩は勿論、モルゴース殿もフロレンス殿も、そしてご主人も。今ではそれが日常だと当然受け入れていた。
「どうしたの? どこか具合でも……」
「ううん。明日の勉強もしたいし。アグ兄から手紙がきてたから、それも読みたいからさ」
おや? たしか兄上様からのお手紙は、もうお読みになられた筈では……。
だが残念なことに、吾輩にはそれをお伝えする言語を持ち合わせていない。黙ってお二人の様子を見守っていると、モルゴース殿が慈愛の微笑みを浮かべた。
「──そう。分かったわ、ラモラック」
「うん、ごめんね。モルゴース師匠、明日はよろしくお願いします」
「ふふ……ええ。あまり根を詰めすぎずに、ちゃんと寝るのよ」
「はぁい」
キュッと、モルゴース殿は小さな体を抱き締め、その頬へと親愛のキスを贈る。自分の子供へするのと同じように。いやモルゴース殿にとっては、ラモラック殿は既に自分の子供同然なのだろう。
その愛情を全身で受け止めるかのように、ラモラック殿もギュッとモルゴース殿へとしがみつく。長い抱擁を終えたあと、ラモラック殿からも親愛のキスを返し二人はようやく体を離した。
「じゃあね、ラディ。ガウェインも。バイバーイ!」
「あ、おい。ちょっと待て、城まで送って……」
「一人でだいじょーぶ! たまには家のお手伝いしなよ~」
「いつもしている! あ、おい……!」
行ってしまわれた。
ラモラック殿は軽やかな足取りで門を出て行き、吾輩達も家の中へと戻った。ご主人は買い物袋を抱えたまま、ラモラック殿の小さな背中が見えなくなるまで見送っていた。その様子をモルゴース殿は目を細めて見ていたが、あえて声は掛けずに吾輩を伴い先に家へと入る。
見送っているご主人の背中は、何処か寂しげで「頑張れ」と、素直に伝えられなかった後悔が滲み出てしまっていた。
「ラディ。こっちへ来い」
一日の終わり。吾輩の寝床はご主人の部屋、窓際にあるベンチの上だ。フロレンス殿が作ってくれたお気に入りのパッチワークカバーの上へ寝そべり、夜空を見上げながら眠りに就く。
だが今日は、この時期にしては珍しい。床に入ったご主人は眠れないのだろうか。何度か寝返りを打ち溜め息を零したかと思うと、毛布の端を持ち上げつつ吾輩を呼んだ。
ててっと床を駆け毛布の中へ潜り込むと、ご主人の温かい手にぎゅっと抱き寄せられた。まだまだ成長途中にある我々の体は、今は吾輩の方が少し大きい。
「……あったかい」
それは良かった。よく冬になると、ご主人とラモラック殿に挟まれてこうやって眠りますね。今年の冬もお二人を温めます。ですが、今日はそれほど冷え込んでいない筈ですが。
ご主人は吾輩の胸元にぽふんと顔を埋め、深い深い後悔の溜め息を零す。
「……明日」
はい。
「明日、頑張れって。精一杯やってこいって、言ってやりたかったんだ」
ええ、そうですね。ご主人は、ラモラック殿を鼓舞して差し上げたかったのですよね。
以前、ご主人が昇格試験を受けた時は、ラモラック殿にも応援して頂いてましたからね。その御礼をしたかったのですよね、分かっています。
「でも、言えなかった……クソッ……!」
ご主人の頑固さは美点でもありますが、時に障害ともなりますからね。
「ああ、もう……ほんっと……調子が狂う……」
長所と短所は表裏一体なのだと、ご近所の長老がお話していたのを拝聴した事があります。あまりそう、思い詰めずに。
クン、と小さく鳴きながらご主人の柔らかい癖っ毛に鼻先を埋める。ご主人の髪は太陽の匂いがして、大好きだ。
「……試験が終わったら、あいつの所へ行こうと思うんだ」
そうですね。きっと喜ばれると思いますよ。
「お前も一緒に行くぞ。行ってくれるか?」
はい、勿論です。お供します。
「……ありがとう」
温もりに包まれ安心したのだろう。しばらくすると穏やかな寝息が聞こえ始めたので、吾輩もようやく安心して身体の力を抜いた。
一緒に迎えに行きましょう。
お疲れさま、と素直に言えなさそうでしたら、吾輩が尻を押して差し上げますから。
◆
彼には目標があった。
目の前で命の灯が消えて行くのをただ見守るだけしかできず、自分の無力さを思い知ってしまった、あの日。まだその重みを受け止めるには、幼すぎた。
だがその重さ故に、彼は厳しい修行にも耐え魔導の道を歩み始め、この国へひとりやって来たのだ。愛する家族と、住み慣れた土地を離れ、一人で。
もう誰も目の前で死なせたくない、と。
「……は? ラモラックがいない……?」
ご主人がその報せを聞いたのは、青ざめた顔をしたフロレンス殿からだった。フロレンス殿は慎重に言葉を選び、コクリと頷く。
「うちに来ているかと思ったのだけど……違うみたいね」
「……今日はずっと家に居たが……来ていたらまず、こいつが気が付く筈だ」
ご主人はそう言い、ポンと吾輩の頭へ手を置いた。
ええ、そうですね。足音でラモラック殿だと分かります。ここ数日、いらっしゃっていませんね。
「そもそもあいつは、大切な試験があったんじゃないのか?」
そうだ。治癒の能力を諮る試験があるのだと、ラモラック殿はお話されていた。
「試験はちゃんと受けたわよ。でも……その、結果が……」
「──結果?」
ご主人はガタリと椅子から立ち上がり、フロレンス殿へと一歩詰め寄る。フロレンス殿、そんなに胸元を強く掴むと、お洋服が皺になってしまいますよ。吾輩はフロレンス殿の足元へ頬を擦り寄せ、クンと小さく鼻を鳴らす。
「結果がどうした? どうせいつも通り首席なのだろう?」
「先に言っておくけど、ラモラックは凄い才能を秘めている。間違いなく稀代の魔導師になるわ」
「当然だ。今さら何を言っている」
「私ですら……いえ、母さんも凌ぐかもしれない。だけど、」
「……だけど?」
「……──治癒の能力だけが、極端に欠けているのよ」
それは、誰もがうっすらと感じていた、厳しい現実。
個人個人で得手不得手があるように、魔術にもそれは存在している。吾輩も誰よりも早く駆け飛び上がるのは得意だが、毛繕いが苦手だ。それと同じように、ラモラック殿にも苦手が存在していたらしい。
「……そんな筈はない!」
治癒術が苦手であるのは、ご本人が一番よく分かっているのだろう。そして、側でそれを見ていたご主人達も。だが頭では現実を理解していても、感情が追い付かないのだ。
「あいつは誰よりも努力していた! そんな筈はないだろうが」
「知っているわよ! 治癒術訓練の日は、いつも一番遅くまで練習していたもの……!」
ああ、そうだ。吾輩もそれはよく知っている。いつかの日に見た、あの光景──。
『……ん? ラディ、どうしたの?』
ラモラック殿、手が。傷絆創膏だらけです。
『ああ、ふふ。薬草が塗ってあるから舐めると苦いよ? ありがと』
お怪我ですか?
『うん。昨日遅くまで治癒術の勉強してたらさ、魔法薬の調合間違えちゃって』
おや……大丈夫ですか? 勉強熱心なのは感心致しますが、寝不足は良くありませんよ。
『ボカーン!って、光華みたいに爆発したんだよ~アハハ! ラディにも見せたかったなぁ』
光華? 聞いた事がありません。見てみたいです。
『──……なんてね。もう何年も治癒術の訓練しているのに、この程度の傷もまだ治せないんだよねぇ』
僕、一生懸命がんばっているんだけどな。
明るく振る舞うその影に、愁いを帯びた顔がある事を。
だからこそ、ご主人も試験を頑張れと伝えたかったのだと思う。
「……でも、駄目だったの。それからずっと、部屋に籠もりっきりで……」
「…………」
ああ、だから。フロレンス殿もモルゴース殿も、ここ数日お戻りにならなかった理由はそれだろう。ご主人も試験の結果を気にしていたのか、落ち着きがなかった。苛々していたかと思うと、ぼんやり外を眺めていたりと。結果が気になってはいたが、本人の口から聞くまではと、ご主人なりに我慢をしていたのだ。
「私も母さんもずっと説得していたのだけど、扉を開けてくれなくて……」
「……そう、か……」
「せめて食事だけでもしなさいって声を掛けた時に、扉が開いているのに気が付いたの」
ラモラックの原動力にもなっていた、治癒術者となる目標。それを志半ばで諦めろと他人に言われた所で、すぐに飲み込むのは難しいのだろう。目標を見失い絶望に陥ったとしても、仕方がない。
「──フロレンス」
ご主人は伏せていた顔を持ち上げると、そこにもう迷いはなかった。山奥にある湖の様に澄んだ瞳には力強さが戻ってきており、壁に掛けられていた剣を腰へ差す。
「あいつがいなくなったのは、どのくらい前だ?」
「気が付いたのは一時間ほど前よ」
「分かった。城内には居なかったのだな?」
「ええ。感知能力で探れる範囲内には、居ないわ」
「じゃあ山の方だな。ラディ、行くぞ」
はい、お供致します。ご主人。
「ガウェイン? 心当たりがあるの?」
「あいつの足で行ける範囲なら俺が一番把握している。俺達が必ず連れ戻す。母さんにもそう伝えてくれ」
吾輩がラモラック殿の匂いを辿りましょう。任せて下さい、鼻は良く効きます。
ワン! と大きくひと鳴きし、ご主人と共に家を飛び出した。
ラモラック殿、どうかご無事で。必ず追い付いてみせますから、無理はなさらず待っていて下さい。
「ラディ、まずは宿舎へ行くぞ。そこから匂いを追跡しよう」
ええ、そうしましょう。ここは吾輩に着いてきて下さい。
ご主人を先導するように駆け出し、真っ直ぐ城へと向かう。ご主人は足も速いし体力もあるが、スピードに関しては猟犬の専売特許だ。城への近道を軽やかに駆け抜けていると、見覚えのある人々が時々「あら、ラディちゃん」と声を掛けてくれる。
すまない。いつもならば尻尾を振って愛想を振りまく所なのだが、今日は急用がありまして。また今度、遊んでほしい。
時おり立ち止まりご主人を見失わぬよう気に掛けつつ、二人は城へと到着した。以前ラモラック殿に教わった〝近衛兵に見付からずに出入りできる抜け道〟を通り、敷地内にある宿舎へと潜り込む。
「ラディ?」
あった。見付けた、ラモラック殿の匂いだ。
後から追い付き肩で息を整えているご主人へ、そう視線で伝える。もう一度石畳へ鼻を近付け慎重に確認してみたが、間違いない。ラモラック殿はここを通り、抜け道を出て北へ進んだのだ。
「分かるか? ラディ」
無論。まずは北へ参りましょう。
来た道を戻り敷地内を出て、ご主人と共に北方面へと向かう。城から北の方角は、大聖堂や墓地があり、その背後には軍の牧場地を見下ろすように天険の山々が連なっていた。あの山には何度かご主人の伴をして登った事がある。修行の一環なのだそうだ。
その裾野に広がる牧場では、美しくも逞しい馬達がのんびりと過ごしていた。もしかして、ラモラック殿はあそこへ行かれたのではないだろうか。ご主人も同じ事を考えていたのだろう。一度足を止めご主人を仰ぎ見ると、こくりと力強く頷いてくれた。
「行ってみよう。許可なら俺が後で取る」
分かりました。追跡を続けます。
匂いを見失ってしまわぬよう慎重に追い続け、まずは大聖堂を通り抜ける。大聖堂の前では数人の子供達が遊んでおり、広場では露店を出していた店主が店じまいの準備を始めていた。ニンゲンは暗闇で目が利かない。なんとか日が暮れてしまう前に追い付かなくては。
大聖堂の前で、ラモラック殿の匂いを濃く感じ足を止めた。
「ラディ、ここに居るのか?」
いや、匂いを複数感じるのですが……大聖堂の中へ入ったのかもしれません。行ってみましょう。そうご主人を促し、大聖堂の入り口へと向かった。
「……誰もいないな」
だが、大聖堂の中はガランとしたまま。ステンドグラスから差し込む柔らかな光が聖堂内を照らし出しているだけだ。二人の来訪に気が付いたのか、事務仕事をしていた神父がどうしましたか、と声を掛けてくれる。
「ああ、突然すまない神父殿。ラモラックを見かけなかったか?」
だが、神父の答えはノーだ。今日は見ていませんよと、申し訳なさそうに教えてくれた。
ご主人は神父様へ丁寧に頭を下げ、大聖堂を後にする。
「大聖堂には立ち寄らなかったって事か……ラディ、まだ匂いはあるか?」
匂いが複数残っている辺りをもう一度確認すると、どうやらラモラック殿は大聖堂へ入ろうか迷ったのち、更に北へと向かわれたらしい。
「やはり牧場か? よし、行ってみよう」
元気よくひと鳴きし、匂いを見失わぬよう注意しながら牧場へと向かう。急いで、だが慎重に匂いを辿って行くと、牧場の入り口ではなく柵の前へ到着した。ここからは牧場全体を良く見渡すことができた。そこにはラモラック殿の匂いが濃く残っており、どうやらここでしばらく立ち止まっていたらしい。
「……ここか? 姿は見えないようだが……」
すると、柵の向こう側で牧草を積み上げていた人物がこちらへ気が付き、声を掛けてくれた。子馬を見に来たのかい、と。
「ああ、いや。子馬は今度……その、友達と一緒に」
そうですね、ラモラック殿と一緒に。そうお約束されていましたしね。
「あの、ここに子供が来ていないか? 俺と同じくらいの歳で、こう髪の長い……」
ご主人の問い掛けを聞いた人物は心当たりがあるのか。ああ、と小さく呟き親切に教えてくれた。
いたよ。ここでしばらく馬を眺めていたんだ。
「! やっぱり……そいつは何処に……」
すると、牧夫殿はほんの少し表情を曇らせ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
それがね、帰ってしまったみたいで。子馬の話がショックだったみたいなんだ。
「……えっ? 子馬が……どうした?」
子馬はもう、いないんだよ。
牧夫殿の話によると、残念ながら子馬は生まれつき足が悪かったらしい。ここは騎士団が所有する国営の牧場だ。走れぬ馬は置いておけない。
「……そんな……」
現実は時に厳しい。直視したくなくとも、向き合わねばならない残酷な事実が多すぎるのだ。
おそらくだが、ラモラック殿は子馬の話を聞き、今の自分の状況と重ねてしまい心を痛めてしまったのだろう。
「分かった。仕事の邪魔をしてしまってすまない。ありがとう」
あちらの方角へ行ったよ。と、教えてくれた牧夫殿にご主人は丁寧に頭を下げ、捜索を再開する。
牧夫殿が教えてくれたのは、山の方角。確かにラモラック殿の匂いも、山の方へと真っ直ぐ向かっていた。
「あっちにはもう民家も殆どない筈だ。急ごう」
はい。日も暮れてきましたしね。
裾野の辺りまではラモラック殿も道に詳しい筈だが、山に入ったとなれば別だ。目の利かぬニンゲンにとって、夜の山は慣れた者でも危険である。
急ぎ足で山の方角へ向かっていると、馴染みのある感覚が混じり始めてきた。嫌な予感がし、吾輩とご主人は同時に空へと視線を向ける。
「チッ……一雨きそうだな」
これはまずい。雨が降るとラモラック殿の匂いが流されてしまう。だが無常にも雲はどんどん広がり始め、夜の訪れと同時にとうとう泣き出してしまった。
「ラディ! まだ追えるか」
お任せ下さい。必ず追い付いてみせます。猟犬としてのプライドをかけて。小さな親友であり、命の恩人でもある未来の大魔導師様の為に。吾輩は全力を尽くしましょう。
雨に洗われ、どんどん薄まって行く匂いを少しも逃さないよう、全身全霊をかけて微かな痕跡を探り続けた。
「あそこで民家は終わりだな。この先はもう、山への入り口だけだが……」
山の裾野にポツリと建つその民家には灯りが点いておらず、どうやら留守であるらしい。そのせいなのか、突然降り出した雨のせいなのか。眼前に聳え立つ真っ暗な山はいつもより重圧感があり、心が弱い者ならば押し潰されてしまいそうだ。
今年の夏は暑さが厳しかったせいで、山へ入る者も少なかったのか。入り口付近は草木が青々と生い茂っており、非常に見えづらい。ご主人は入り口付近へ屈み込み、生い茂る草木を観察していた。
「……草木が踏み潰されていない?」
そうですね。雨で多少流されているものの、ラモラック殿の匂いもありません。と言う事は、山には入っていないのだろうか。
「ここで引き返したのか? もしかして行き違いの可能性も……」
その時だった。
見えない筈の吾輩の右目へ、ふと幻影のような映像が浮かび上がってくる。幻影の中にあるラモラック殿の小さな背中は、草木に覆われた山の入り口を前に呆然と立ち尽くしており、そのままくるりと来た道を引き返し始めた。
『城へ戻るべきなのだろうか』
『自分はまだ、あそこに居ても良いのだろうか』
『才能もないくせに。僕には、どうして──』
小さな背中はそう語っており、途方に暮れた足取りでフラフラと彷徨い続ける。そのうちに空が泣き出してきて、小さな背中はとある軒下へと駆け込んだ。
──見付けた!
「あ、おい! ラディ」
ダッと全速力で駆け出し、先ほど通り過ぎた民家へと引き返す。民家の裏手には古い物置小屋があり、そこの軒下に膝を抱えて小さく丸まった子供の姿があった。
ああ良かった。ご無事でしたか?
「えっ……ラディ?」
ワンと歓喜の声を上げ、小さな体へと飛び付いた。ラモラック殿は驚いたのだろう。持ち上げられた小さな顔には涙の痕がありありと残っており、それをペロペロと舐め取ってやる。
良かった。お迎えに来ましたよ。一緒に帰りましょう。
「……ふふ……くすぐった……なぁに、慰めてくれるの?」
はい、泣かないで下さい。吾輩もご主人も、皆さん心配しております。早く戻りましょう。
「……戻れないよ」
どうして?
「だって僕、才能がないんだって……治癒の勉強をしに、きたのに……」
一生懸命、勉強したのに。
力の無い言葉と共に、雨粒とは違う大粒の涙がポロポロと零れ落ちる。くん……と思わず切ない声が漏れてしまい、こんな時吾輩は己の無力さを噛み締めるのだ。
ラモラック殿が賢明に努力されていたのは、皆知っています。だからどうか、一人で泣かないで下さい。
「ラモラック」
それと同時に、全速力で追いかけて来たご主人が軒下へ滑り込んできた。
「ガウェイ……わっぷ! 冷た……!」
ご主人が全速力で飛び込んできたせいで、草木に溜まっていた水が盛大に跳ね上がる。お陰で吾輩もラモラック殿もずぶ濡れになってしまったが、そんな場合ではない。
ずぶ濡れにはなってしまったが、それに驚いたせいかラモラック殿の涙は止まっていた。
「ガウェイン、どうしてここが……」
どうしてここが分かったのか。その問い掛けを全部聞き終えるよりも先に、肩で息を整えていたご主人が顔を上げ、キッとラモラック殿を真っ直ぐに睨み付ける。
あっ……ご主人!
「──ッ、」
パンッ! と、渇いた平手打ちの音が雨の中へ響き渡る。
「──立て」
ご主人、駄目です。ここはどうか、吾輩の顔に免じて抑えて。
「さっさと立て!」
「ガウェイン……」
「前も教えてやったはずだ。貴様はこんな所で負けてやるつもりか」
「……ッ、……」
そうだ。思い出した。
以前にもこんな事があった。治癒術が上手く行かず、苦しんだラモラック殿は訓練に顔を出さなかった時期がある。その時もこうして、ご主人は真っ向からぶつかって行ったのだ。
『泥にまみれようが傷だらけになろうが、最後まで立ってる奴が勝ちなんだ!』
才能がない、なんて言葉、貴様の口からだけは聞きたくない。
そう言いながら真っ正面からぶつかって行くのは、誰よりもラモラック殿の才能を確信しているから。傷だらけになろうと泥まみれになろうと、勝て。己に打ち勝てと、檄を飛ばし続けているのだ。
「……ハッ。俺の見込み違いか? 情けない奴だな」
「…………」
「所詮は箱入りだな。貴様の願いとやらもこの程度のものか」
「……うるさい」
「立つなら手を貸してやってもいいぞ」
「いらない」
ラモラック殿はゆっくりと立ち上がりつつ、伸ばされたご主人の手をパンッと跳ね避ける。だが拒否されたご主人は、どこか嬉しそうだ。
そう、これでいい。彼等は違うようで、とてもよく似ている。己自身にも負けたくない程の、負けず嫌いなのだ。誰かの手を借りずとも、彼等は一人で立ち上がり続ける。
「……フン。負けを認めるつもりはないのか?」
「ないよ。だって僕は、強くなるためにここへ来たんだ」
「言ったな? よし、じゃあ俺と勝負だ」
ご主人はそう言うと、ポーチの中から皺だらけのハンカチを取りだし、泥で汚れてしまったラモラック殿の顔をぐちゃぐちゃと乱暴に拭く。
ああ、ご主人。毛繕いはもう少し丁寧に……ますます汚れが広がってしまっていますよ。
汚れを酷くしてしまったのに気が付いたのだろう。ラモラック殿は真っ黒な顔でぽかんと呆けており、ご主人はばつの悪そうな顔をしている。気を取り直す様にご主人は小さく咳払いをし、汚れて丸まったハンカチをポイッとラモラック殿へ投げ渡した。
「だが、ひとまず勝負はお預けだ。まずはその小汚い顔を何とかするんだな」
「小汚い顔って……八割くらい君のせいだけど……」
「……うっ……うるさい! いいから戻るぞ。母さんやフロレンスが心配している」
「う、ん……」
「──ああ、それと」
ご主人はそう言うと、顔同様ぐしゃぐしゃになってしまったラモラック殿の頭をポンと撫で、ゴチンと軽く頭突きをかます。
「痛ッ……た! ちょ、なに……!」
「俺はお前みたいにお調子者ではないから、あまり要領が良くない」
「は? 褒めてんのか貶してるのか……」
「たとえお前が泣いていたとしても、雨だと勘違いして気が付かないだろう」
「…………え?」
「だから泣くなら、城へ戻るまでの今が好機だ」
ご主人は不器用で他人には理解されにくいが、大きな優しさを持つ。でもそれはきっと、いつも一緒に遊んでいるラモラック殿は十分ご存じですよね。
どうぞ、思う存分泣き喚いてください。子供とは泣くものです。そして泣くのをひとつずつ堪えるたびに、人は大人になって行くもの。これは貴方が大人になる為の、大切な一歩ですから。
「……ぅ、……」
悔しかったですね。悲しかったですね。
でもきっと、その悔しさが大きなバネとなる。
吾輩は、猟犬として産まれながら片目がなく、親兄弟と引き離された。生命の危機に晒された所をご主人やラモラック殿に救われ、強くなろうと心に決めた。
だから、一緒に強くなりましょう。ゆっくりと大人になる貴方達を、吾輩は隣で見守り続けますから。今の苦境を乗り越えられる強さを、貴方様に。
「……! ──……、……!」
嘆き悲しむ嗚咽の声が、雨の中へ響き渡る。ご主人は何も言わずに、泣き続けるラモラック殿の手をただしっかりと握り、雨の中をゆっくり歩いていた。吾輩も二人を護る様に寄り添い、時々ラモラック殿の足へと擦り寄る。
雨の日はあまり好ましくはありませんが、今日はゆっくり戻りましょう。
先ほどまで激しく大地へ打ち付けていた雨粒も、徐々に弱まってきた。遠くの空が少しずつ明るくなってきている。じきに冷たい雨は止むだろう。そして、あの山と城を結ぶように大きな虹が架かるのだ。
おかえりなさい。
大きな虹は少年達を迎え入れるように、ただそこへ輝き続ける。
◆
「僕さ、治癒術者を目指すのは無理だけど、小さな傷なら治せるみたいなんだ」
「当たり前だ。そもそもお前は、ラディの傷を治したじゃないか」
四季、と言う概念に当てはめれば、今は短い秋とやらの季節なのだろう。
ダルモアの長い長い冬が訪れる前の、僅かな期間。青々としていた草原は黄金色へと染まり、大地からは様々な実りを収穫できる、豊穣の季節。
そんな心地良いとある日、吾輩達は郊外にある大きな牧場へと来ていた。柵の向こう側ではこの夏生まれたばかりの子馬が元気よく走り回っており、その横では牧羊犬が長閑に日向ぼっこをしている。
ご主人とラモラック殿はその柵に寄りかかりつつ、ここ数日間の日々をしみじみと噛み締めているらしい。
「あはは、そうだね。こないだガウェインが木から落ちた時のたんこぶも、治せたし」
「あ、あれはたまたま手が滑っただけだ ……まあ、一応感謝は、してい……る……」
ご主人、感謝している時は「ありがとう」と素直にお伝えするべきですよ。だがラモラック殿は、いつもの事だと気にしていないらしい。ケラケラと朗らかな笑い声を上げつつ、再び視線を子馬へと向ける。
「──ガウェイン」
「……なんだ」
「子馬の行き先調べてくれたのも、君でしょ? ありがと」
そう、夏の終わりを告げる雨の後。
虹を連れて城へ戻ると、城門まで駆け付けたモルゴース殿はラモラック殿の頬をパンッと両手で叩くように包み込み、そのままきつく抱き締めていた。まるで我が子を叱るかの様に、愛に溢れた仕草で。
そうして、愛溢れる師匠と姉弟子にも背中を押され、ラモラック殿は再び笑顔を取り戻した。
ラモラック殿が元気を取り戻すまでのあいだ、ご主人は再び軍の牧場へ足を運び、子馬の行方を聞き出していたのだ。
「ああ。軍用馬として働くのは厳しいそうだが、大きくなる種だ。農耕馬として活躍してもらうらしいぞ」
「そっかー。農耕馬は大切なお仕事だもんね。すごいや」
いくら戦が強くとも農業や畜産が滞れば、国力は衰えて行くばかりだ。特にダルモアの様な小国にとっては、生死に関わる。一次産業は最重要事項なのだ。
ご主人は傍らで待機していた吾輩の隣へ膝をつき、ワシワシと頭を撫でてくれる。ラモラック殿は柵へ頬杖を付きながら、その様子を見て微笑んでいた。
「ラディも子馬も、僕よりずっとすごいや。一度も弱音吐いていないもんね。強いよ」
「ラモラック……」
馬として致命的な足の故障を抱えた子馬、右目のない猟犬として生を受けた吾輩。そして、治癒の才能を得られなかったラモラック殿。
我々は三者三様に望んだ物を得られず、悩み苦しみ、それを乗り越えたのだ。
「僕も君らに負けてらんないよね! ダルモアまで来て尻尾巻いて帰るなんて、アグ兄にもパーシィにも恥ずかしくて言えないよ」
「当たり前だ! 国へ帰るなんて言い出したら、俺が尻を蹴り飛ばして二度と来るなと追い出してやるぞ」
「アハハ! ガウェインにお尻蹴られたら、あの山のてっぺんまで飛んでいっちゃいそ~」
楽しそうな笑い声、いつものやり取り。
ああ、良かった。もしラモラック殿がお帰りになられてしまったら、きっとご主人は悲しみます。なかなか素直には言えないでしょうが、ご主人はラモラック殿のことが大好きですから。
吾輩が、ラモラック殿に遊んで貰うのを楽しみにしているように──いや、それ以上に。
「──ガウェイン」
「ん?」
サラリと、視界の端に夕陽色の絹糸が流れた。いや、絹糸ではない。ラモラック殿の長い髪だ。ラモラック殿が柵から体を離し、こちらへ屈み込んだからだ。屈み込んだラモラック殿は何をしているのかと言うと、何故だかご主人と顔をくっつけている。
吾輩を撫でていたご主人の手は石みたいに硬直し、ラモラック殿が顔を離しても一ミリも動かなかった。いや、呼吸しているのかも怪しい。
大丈夫ですか? ご主人。
「……ぅ、ひゃっ……」
ペロリと頬をひと舐めすると、ご主人は大仰な声を上げ、こちらが動揺してしまうほど飛び上がって驚いていた。そのやり取りを目を丸くして見ていたラモラック殿は、ご主人の大慌てぶりに腹を抱えて笑い出す。
「……ラ……ラモラック! き、さま……っ」
「アハハハ!ただのお礼だよー?」
「れ、礼、だぁ」
「あ、もしかして初めてだったの? ごめんごめんー」
「は あ、あたりま……いや! ハッ……そんな訳がないだろう!」
見栄を張るのはよろしくない癖ですよ、ご主人。
「え、違うの?」
「そうだ! 当然お前より先に、とっくに済ませて……」
「えーいつ?誰と?どうして?どこでしたの?」
「……ウッ……そ、それ、は……」
「……フーン。嘘なんだ? それとも、僕には言いたくないだけかな?」
「いや! その、アレだ……おい! 俺の事よりお前はどうなんだ」
「え、僕?」
「そうだ! ならば、お前も初めてじゃないのか」
「えー? そんなの秘密だよ。ガウェインが教えてくれないなら、僕も教えなーい」
「ハァ」
ああ、今日も忙しない。口と口がぶつかった所で、怪我をする訳でもあるまいに。ニンゲンとは複雑怪奇、時々理解不能な生物だ。
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる子供達を尻目に、吾輩は大きな欠伸をひとつ零し柔らかい大地の上に体を伏せた。冬の近付いた空は高く、遠くまで澄み切っている。今年もきっと、雪の深い寒い冬になるだろう。
ご主人、ラモラック殿。これだけはよく聞いておいて下さい。
今こうして吾輩が何度目かの冬を迎える事ができるのも、あの日あの時、あなた方が命を繋いでくれたお陰です。
だからどうか、そのまま前へお進み下さい。自分の進むべき道を見失わぬよう、真っ直ぐに。吾輩の目が見えるうちは、先導いたします。
【秋:了】