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    straight1011

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    straight1011

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    しばらく忙しくて書けないので、出来たとこまでをあげておきます。
    ばついちの流と娘と、その面倒を見ることになった夢主のお話

    ばついち流 連絡があったのは、実に十年以上ぶりであった。一方的にテレビや新聞などのメディアで活躍を見ることがあっても、直接会って話すということはなく。既に遠い存在となった一個下の後輩は、彼にしては珍しく、切羽詰まった様子で連絡を入れてきた。
     娘の面倒を見てほしいっす。
     はあ、と気の抜けた返事をしてしまった。電話越しであったから、彼の表情などは全く分からない。というより、聞いたことのない声色だったから、想像もつかなかったというのが正しい。
     別にいいけれど、それはともかくとして顔を見せに来てほしいと、そう話をまとめて電話を切る。四月の心地よい日、店を開く前のことだった。




     街中に、ひっそりと佇むこのカフェ……といっても、フードを店内提供というよりケーキのテイクアウトをほとんど収入源としている店は、私が前店主から引き継いだものだ。前店主のおじいさんと店員の私で経営していたこの店は、おじいさんが急に亡くなってしまったことにより、私のものになった。身寄りもなかったおじいさんだから家族からとやかく言われもせず、というか亡くなったら私に譲る気であったらしい。
     開店は正午から。閉店は十七時、もしくはケーキがなくなり次第。定休日は火曜日。店前にカレンダーを設置して、基本ここでスケジュールを伝える。あと季節のケーキは近くのボードに提示しておく。売り上げは、前店主の引継ぎとあって、前の顧客が続いているのでそれなりに安定している。
     土曜日、午前十時。カランカランと入り口の鈴が鳴り、来客を知らせる。
    「はーい今行きます」
     店内の奥の方で作業していた私は一旦手を止めて、扉の方へと向かった。
     扉の前に人影が二つ。ひとりは背が高く、凛とした佇まいでこちらを見ている。最後に会ったのは何年も前のはずなのに、すぐに彼だとわかった。
     もうひとり、小さな影がいた。彼のズボンを掴んで、こちらをじっと見ている。笑いもせず、ただ静かにこちらを見る姿は彼にそっくりだった。
    「久しぶり」
    「っす」
     軽く頭を下げた彼の声は、やはり記憶と変わりない。私は少し身をかがめ、小さな女の子にも笑いかけた。こんにちは、そう言えば彼女は彼のズボンに隠れるように身を縮めた。
    「挨拶しろ」
    「いいよ。まあ、中に入って流川」
     少女を咎める流川をなだめながら、店内の席に案内する。こじんまりとした店内に彼の大きな体は狭そうに見えた。それに隣にいる少女の影響もあるのだろう。
    「コーヒー飲める?」
    「いや、大丈夫っす」
    「そう言わず。えーと、娘ちゃんはピリピリしたのとか大丈夫かな。オレンジジュースの方がいい?」
     そう聞けば、流川は少女を見た。どうする、という無言の問いかけに少女は何も言わない。親子でテレパシーでもしているのかと馬鹿なことを思っていると、流川がなんでも大丈夫だと答えた。
     コーヒーをふたつ、青いクリームソーダをひとつ作る。小さなグラスに炭酸水と着色されたシロップを注ぎ、アイスクリームを乗せる。サクランボとクマのビスケットを飾れば、我ながら可愛らしい出来のドリンクが完成した。
     少女の反応はやっぱり薄かった。が、僅かに興味を示したのか、クリームソーダを彼女の前に置くと、もじもじ動き出した。
    「どうぞ」
     そう言って笑えば、少女はおずおずとスプーンを持って、てっぺんのサクランボをぽんと押し退けてからアイスを食べ始めた。
    「お名前は?」
    「もみじ」
    「いい名前だね」
     アイスから目を離さないまま答えたもみじに、私はそう答えた。そして流川を見れば、何故か彼は複雑そうな顔でこちらを見ていた。
    「全然変わらないね」
    「先輩こそ……老けてないっすね」
    「うそ、この間リョータが来た時、年相応の顔になったって言われたけど」
     そんな軽口を叩きながら、雑談をいくつか交えて、流川はやっと本題に入った。
     アメリカの……というより世界のトップが集うバスケリーグに所属していた流川が日本に拠点を移すことになった。早すぎやしないかという声はあまりない。何故なら日本では流川の度重なる怪我を報道してきたからだ。
     日本人初、という快挙を彼はいくつも達成してきた。日本のトッププレイヤーと言っても誰も反論はしないだろう。今は日本にいるだけで、そのうちまた海を越えるのかもしれないが、私の知るところではない。
     そんな彼が結婚をしたのは、早いことに向こうの大学を卒業してすぐのことだった。その知らせを聞いた時、あの流川が……? と思わずリョータに聞き返してしまったほど。ちなみに、離婚したのを聞いたのはその五年後のことだった。
     まあ、ちょっとわかる気がする、と失礼ながら私は思った。だって流川だ。不愛想でバスケ一筋、そんな彼が恋人に対して甘い顔を見せるなど想像がつかない。だが意外だったのが、娘の親権を流川が取ったことだった。
    「学童に、行きたくねえって言われて」
     ほとほと困り果てたように流川はそう言った。小学一年生のもみじは、そんな流川に目もくれず、もくもくとアイスクリームを食べている。
    「シッターも探したんすけど……こっちのやつはいまいちわかんねえし」
     つい先日こちらに来たばかりの流川は、もみじの預かり先を決めかねていた。もっとゆっくり探したいというのが流川の本音だろうが、仕事の関係でそんな暇もなさそうだ。両親は、それぞれの親の介護があって余裕がなく、他に頼れる人もいない。というか、どこに頼ればいいかわからない。可哀想な状況だ。
    「仕事が終わるまで、ひとりにさせんのもアレなんで……」
     大人になったなあ、と内心思いながら私はコーヒーを飲む。恋人も子どももいない私からすれば、一個下の彼の方がよほど大人びて見えた。
     ひとり親、というのが珍しくなくなってきた現代ではあるが、シングルファーザーというのはまだまだ少数なのではないか。目の前で苦い顔……いやいつもと大して変わらない顔にも見えるが、ともかくそういう顔の彼に私は努めて明るく話しかけた。
    「ま、店の中で待ってられるなら、ここに来てもらって構わないよ」
     そう言えば、流川はわずかに目を見開いた。希望を見出したみたいな顔をしていた。
    「いいんすか」
    「いいよ別に」
    「……」
    「苦労してるみたいだしね……ああでも、もみじちゃんはそれでいい?」
     アイスクリームはなくなって、ただのソーダをストローで飲んでいるもみじに話しかける。彼女は特に嫌がりもせず、というか話を聞いていたかすらわからないが、とりあえず頷いてくれた。
    「……」
     彼は黙って、私に頭を下げた。もみじはそんな父を見て不思議そうにしていた。
    「じゃあよろしくね。私の名前は三嶋一。好きに呼んで」
     そう言えば、流川が呼んでいたのを聞いていたのか、私をじっと見てから……せんぱい、と呟いた。そんな娘を流川は小突いて、ハジメさんだ、と訂正したのを見て、私は思わず吹き出してしまったのだった。




     三嶋先輩とは卒業式ぶりである。流川は少し緊張した面持ちで、メモに書かれた店に向かっていた。
     CLOSE、と書かれた札がさげてある。しかし開けておくから入ってきてよいと、事前に教えてもらっていた。自分に似て無口な娘の歩幅に合わせながら歩いてきた流川は、卒業式のことを思い出していた。

     卒業日和、といった風に晴れた空の下で、あの人は宮城と二人で写真を撮っていた。宮城の母親がもっと寄りなさいよと宮城に言って、もーさっさと撮ってと、恥ずかしそうに言い返している。
     ニヤニヤ笑う彩子や他の部員、微笑ましそうに見ている安田を、流川は少し離れた位置で見ていた。実感がわかない。もう学校で先輩を見かけることがなくなるとは、現実味がなかった。
    「おいキツネ」
     憎たらしそうに自分を呼ぶ声がした。振り返れば、桜木が何故か苦い顔をして、色紙を差し出してきている。それは部員が卒業する先輩たちに書いた寄せ書きで、三嶋の分だった。
    「てめーが渡せ」
     そう言って桜木は色紙を押し付けてきた。何で俺が、と面倒に思いながらも、あの人の色紙だと思えばずさんな扱いはできない。そっと受け取ると、桜木がふんっと鼻で笑う気配がした。
    「意気地なしめ」
     そう言った桜木を睨めば、何故か桜木は同情するような目を向けてくる。ムカついた。何で自分がそんな目を向けられなければならないのかと思った。しかし、桜木の言わんとすることもわかるので、何も言うことはできなかった。
    「リョーちん! そつぎょー祝いだ!」
    「バカ花道! 投げんじゃねえよ!」
     にぎやかなバスケ部の声がする。流川は手にある色紙に視線を落として、それからため息をひとつ、誰にもバレないように吐き出す。
    「先輩」
     先輩は何人かいたのに、自分のことだと疑いもせずに三嶋は振り返った。この人は自分の心が読めているんじゃないかと思うことが度々あった。だとしたら、今の自分の心情はさぞ情けなくこの人に映っているだろう。
    「これ……」
     そう言って手渡した色紙を、三嶋は笑いながら受け取ってくれた。寂しそうでも悲しそうでもなく、いつも通りだった。それがどうしてか寂しく思えた。
     言いたいことはあった。お世話になりましたとか、頑張ってくださいとか、そんな話ではない。自分の好不調にいち早く気づいてくれたこと、面倒ごとに冷静に対応してくれたこと、自分には少し甘く接してくれていたような気がすること……それらを問い詰めて、聞き出したかった。
    「ハジメ、三年で写真撮ろうぜ」
     そう宮城の声がすると、色紙を眺めていた三嶋はぱっと顔を上げた。流川にもう一度お礼を言って、宮城たちの元へ向かっていく。呼び止めることはできなかった。ただぼんやり、背中を眺めた。
     意気地なしめ。脳内で桜木がまたこちらを馬鹿にした。今度は舌打ちをひとつして、流川は空を見上げる。ムカつくくらいの青空は、流川の心情に反比例していた。

    「あれ、だれ」
     三嶋と会った帰り道だった。ずっと黙っていた娘が、そう聞いてきた。流川は高校の時の先輩だと教える。もみじはふうん……と興味もないように呟いて、それから落ちていた石をこつんと蹴った。
    「学校おわったら、あそこに行くの」
    「そうだ」
    「いつまで」
    「……俺の仕事が終わるまで」
    「なんじ?」
     この歳の子どもが親と居たがるのは何となく理解していた。早く帰ってきてほしいのだろう。だが流川とて仕事がある。勝たなければならないから、そのための練習をする。練習だけでなく、たまに子どもたちにバスケを教えるなど、普及活動も勝手に日程調整されて行かなければならない。
    「わからねえけど、あの人に迷惑かけないように」
     そう言った流川を、もみじは不服そうに睨んだ。自分の気持ちを一切わかっちゃいないと思ったのかもしれない。実際そうだ。この娘が思うことなど何一つわからない。
     お父さんとお母さん、どっちについて行く? わずか五歳だったもみじに元嫁がそう聞いた。きっと母親だろうなと流川は思っていた。向こうの不倫によって別れることになったのだが、母親という存在の方が娘にとっては大きいと考えていたから。
     もみじは流川を見て、お父さん、そう答えた。母親は焦ったように、本当に? お母さんとあんまり会えなくなっちゃうよと、何度も聞きなおしたが、娘の答えは変わらなかった。
     どうして自分を選んだのか、聞いたことはない。ただ選ばれたからには、自分はこの子を育てる義務がある。そう思って早二年経つが、未だに流川は娘との距離感を測りかねている状況であった。




     午後三時、カランカランと鈴の音がする。いらっしゃいませと反射的に声を出して扉を見るが、誰もいない。不思議に思って身体を乗り出せば、流川の娘のもみじが立っていた。
    「いらっしゃい。ちゃんと来れてよかった」
     安心したようにそう言って、おいでと手招きする。素直にこちらにやって来たもみじを店内の一番奥の席に座らせて、麦茶を出した。
    「いつもこれくらいに学校は終わるの?」
     そう聞けば、もみじはコクっと頷いた。相変わらず笑うことはない。人見知りなのか、父親譲りなのかはわからない。
    「ここで宿題しててもいいし、あ、トイレはあっちね。あとは……漫画本があそこの棚にあるから読んでもいいし……あんまりすることないね」
     そう言って笑えば、もみじは小さな声でだいじょうぶです、と言った。そうしてランドセルの中からプリントと筆箱を取り出す。どうやら宿題をやるらしい。
     お客さんが来た気配を感じ、私は一旦そちらの対応に戻った。今日は売れ行きがいい。十七時前には売り切れそうだ。そんな予想をしながら、私はもみじの様子を気にかけていた。
     ケーキが売り切れたのが十六時過ぎ。CLOSEの札を吊るして、ショーケースを掃除する。そうしてから今日の売り上げを計算していると、流石に暇になったのか、もみじが歩いてこちらにやって来た。
     カウンターの正面から背伸びしてこちらを覗き込んでいたもみじを抱っこして、椅子に座らせる。小学生には少し高いので、ひとりで座るのが難しい椅子なのだ。
    「おとうさん、まだ」
    「まだ来ないね」
     退屈そうに足をプラプラさせるもみじを、お金を数えながら相手する。暇そうに頬杖をつくので、私は何か話題を探した。
    「学校は楽しい?」
     そう聞くと、もみじは頷いた。それなりに楽しめているようだ。
    「今日たいいくで」
    「うん」
    「走るので、いちばんだった」
    「すごいね? 足早いんだ」
     褒められたのが嬉しかったのか恥ずかしかったのか、もみじは渋い顔をした。それを皮切りに、もみじは学校の話をし出した。算数は一番に手を挙げて答えている、せいかつの授業で学校探検をした、給食では食べるのが遅くて最後まで残ってしまう、そんなお話。
     計算を終えた私はその話をうんうんと聞いていた。堰を切ったように溢れるもみじの話を、遮るようなことはしなかった。これは彼女と信頼関係を作る大切な分かれ目だと思ったから。
     満足に話し終えたもみじは、時計を見てお腹すいたと呟いた。時刻は十七時、一時間近く話し込んでいたらしい。そんな彼女に私はチョコレートを渡した。
    「いつも何時ごろ帰って来るかな」
    「……ばらばら」
    「そっか」
     わからないなら待つしかない。その後も私は給食のメニューを聞いたり担任の先生のことを聞いたりして場を繋いでいたが、十七時半を過ぎて、鈴の音がした。
    「お、来た」
     流川をみた瞬間、もみじがぱっと顔を明るくした。余程待ちわびていたのだろう。慎重に椅子から降りたもみじは、すぐに自分のランドセルを取りにテーブル席の方へと向かった。
    「……平気っすか」
    「お利口だったよ」
     そう言えば、流川は安心したようだ。帰り支度をしているもみじの姿を横目に、私に何か紙袋を渡してきた。
    「これ、どうぞ」
    「え? 何々? いいのに、気にしなくて」
    「そーいうわけには」
    「本当に、今度からはいいからね。選ぶのも一苦労でしょ」
     手土産を持ってきた流川とそんな会話をしていると、ランドセルを背負ったもみじがやって来た。早く帰ろうと流川に目で訴えるもみじに、流川はちょっと待ってろと言った。
    「明日、定休日っすよね」
    「明後日の仕込みに午後からこっちに来るから、大丈夫だよ。鍵開けとくから、今日と同じとこから入って来てね」
     そうもみじに言えば、こくんと頷いてくれた。表情も、最初に会った時よりずいぶん柔らかくなった。少しは打ち解けることが出来たのだろうか。
    「またね」
     そう言えば、もみじは小さく手を振った。流川が少し驚いたような顔をする。私は手を振り返して、二人を扉近くで見送った。




     数週間、そんな日々が続いた。随分ともみじは打ち解けてくれた。いつの間にか、くり返しの日々の中にもみじの学校での話が加わって、刺激になっていた。子どもがいるってのも悪くないものだと、産んだわけでも子育ての苦労も知らない私は思った。
    「あら、空いてるじゃん」
     ある日の火曜日。そう言って入って来たのはもみじではなく、常連の男性客。歳は四十ほどで、前店主が亡くなってから来るようになった客だ。
     いや休みなんだから入って来るなよと、まさかお客さんに対して言えるはずもなく。笑顔を咄嗟に作って、私は扉まで歩いて行った。
    「すみません、今日はお休みで何も置いてないです」
    「あらーそうだった? でもハジメちゃんの顔が見たかったからいいよ」
     私はよくないけれど、と心の中で言ってから、すみません、と声に出してもう一度謝った。
     しつこい男性客だった。面倒な絡み方をしてくる。出禁にしてやろうかと何度も思ったが、ケーキが美味しかったと感想を言われたら、許してしまう。甘いんだろうなとは思うが、どうにもできなかった。
    「火曜日もいるんだね? いつお休みしてるの?」
    「いや……まあ、適当に休んでますよ」
    「そんなんじゃ恋人と遊べないでしょ?」
    「いやー……」
    「ああ、フリーだったっけ? ごめんごめん」
     ニヤニヤ嬉しそうに笑うその客に、思わず笑みが引きつった。何を考えているか、大まかにわかってしまう。早く帰ってくれと祈るが、一向に男性は帰らない。
     そんな時、またカランカランと音がした。ひょこっと、もみじが顔を覗かせる。私はほっとして、もみじを手招きした。
    「あれ、どちらさん?」
    「知り合いの子で……すみません、今日はこの子の面倒を見ないといけないので」
     帰ってくれと遠回しに伝えると、男はふーんと言ってもみじを見た。
    「いいように使われてるんじゃないの?」
     表面は心配するような顔で、しかしからかうような感情も滲んでいた。ああもう、と叫びたくなるのを抑えて、どうにか笑顔で対応する。しっかり帰ったのを見送ってから、大きく息を吐き出した。
    「だれ?」
     そうもみじが聞いてくる。私は痛む頭を抑えながら、疲れたように笑った。
    「お客さん……ちょっと、変わった人でね」
     だいぶオブラートに包んで言えば、もみじはふーん、と言った。
    「そんなことより、この間もみじちゃんのお父さんからもらったお菓子があるから、一緒に食べようか」
     お茶を用意しながら、もらったお菓子の箱を開ける。それなりに値段がするであろうそれは、値段相応の美味しさだった。
    買ってこなくていいと言っても、定期的に持ってくるものだから、いい加減にしてほしい。まあ何も渡さないというのに気が引ける気持ちも理解できるのだが。それを、もみじも美味しいと言いながら食べている。
    「だれに」
    「うん?」
    「つかわれてるの」
     先ほどの男の言葉を思い出してか、もみじがそう聞いてきた。どうしてそんなことを聞いたのかわからないが、とりあえず使われてないよと返した。
    「おとうさんに?」
     そう聞かれて思わず固まってしまった。小学一年生とは思ったより賢く、男の話を理解していたらしい。
    「使われてなんかないよ」
    「……」
    「頼られてるの」
     流川から電話が来たときは驚いたが、悪い気はしなかった。頼られるというのは嬉しいことだ。利用されていると言われたら気分が悪いが、そうではない。私だから頼ってくれたのだろう。そこにはかつて築いた信頼がわずかに残っていたのだと私は信じている。
    「嬉しいんだよ、頼ってもらえたら」
    「……ハジメは」
    「うん」
    「おとうさんのこと好きなの」
     大真面目にそう聞いてくるもみじに、そうきたか……と苦笑する。そんな素振りを見せたつもりはなかったが、一体どこで勘違いしたのか。
    「可愛い後輩だよ」
    「?」
    「弟みたいな感じ」
     そう言えば、弟居ないからわからないと返された。それもそうだ。私だっていない。
     お茶を全部飲み終えたもみじのために、新しいお茶をコップに足していると、もみじは何の脈絡もない話をし始めた。
    「ハジメはおかあさんに似てる」
     えっ、と一瞬思い、次に踏み込んでいい話かを考えた。もみじと出会ってから一か月も経っていない。どれだけ彼女がこちらを信頼しているかわからないし、もしかしたら彼女は私を試すためにこんなことを言いだしたのかもしれない。
     そう考えて、結局私はそうなんだ、と無難な返事をした。これ以上踏み込んでくるようならまたその時考えようと。
    「おかあさんはハジメよりうるさいけど」
    「……」
    「喋りかたとか似てる」
     どういう意図が含まれているのかわからないので、私は黙って聞いていることにした。もみじは流川よりはお喋りだった。淡々と話す感じは似ているが、しかしそんな感じでもみじはたくさんお話をしてくれる。
    「……寂しい?」
     恐る恐るそう聞けば、もみじはすぐに首を横に振った。どうやらそういうことではないらしい。
     新しく汲んだお茶を飲んだ後で、もみじはすっと目を伏せた。流川にそっくりな表情だ。ものすごく大人びて綺麗な顔に見えるが、これは眠たくなってきたという合図である。
    「眠い? 奥の方で寝てていいよ?」
     一応店の奥にはキッチンの他に、休憩できる小部屋があった。ふあ、と欠伸をひとつしたもみじの手を引いて、小部屋に案内する。うとうとする姿も父親の面影があった。
     ソファにこてんと寝転んだもみじにタオルケットをかけて、お父さん来たら起こすからねと言って店に戻った。仕込みはほとんど終わっているので、翌月のスケジュールをカレンダーに書き込み始める。
     作業しながら、先ほどの会話を思い出した。あの年齢の子どもが母親を恋しがらないというのは珍しい。それほど流川が愛情を注いでいるのだろうか。想像はつかないが、きっと子どもの存在というのは人を変えるのだろう。
     にしても、私に似た喋り方の奥さんって……と苦笑する。どちらかといえば彩子みたいなタイプの女性の方が合いそうな感じだが……いや私よりうるさいと評されていた辺り、ぐいぐい来る感じだったのだろうか。見たこともない流川の元嫁について勝手に想像している内に、日が暮れてしまった。





    「……」
    「いらっしゃい」
     とある日のことだった。五月の初めを過ぎた頃、もみじがいつもより浮かない顔で店にやって来た。気が付いてはいたが、いきなり聞いてもと思い、いったんジュースを用意してから、客が来ないのを見計らってもみじの隣に座った。
    「可愛いピンしてるね。お父さんに買ってもらったの?」
     珍しくピンクのピンで前髪を横に留めていたのでそう聞けば、もみじは頷いた。流川が娘にピンクのピンを買うところなど一ミリも想像が出来ないが、ともかく父親として頑張っているらしい。
     それから他愛ない雑談を繰り返して、今日は元気ないねと話を振れば、彼女はいじけた様子で話を始めた。
    「今日、ははの日のお手紙、書く授業だった」
     それはまた……と声に出しそうになったのをぐっとこらえて、そっかと相槌をうつ。担任の配慮が出来てないのか、はたまた完全に失念していたか。
    「おかあさんには会えないから、てがみ書けなくて」
    「うん」
    「まっ白だったの、となりの子に見られてわらわれた」
     誰だそいつは、親の顔が見てみたい、なんて思いつつも、小学一年生の配慮の能力などに期待するべきじゃないとも考える。もう少し柔軟に対応してあげたらよいのにと担任の先生に思うが、クレームを入れる立場でもない。ただもみじの背中を擦るくらいしか私に出来ることなどなかった。
    「皆にはおかあさんがいるのに、もみじの家はおとうさんとおかあさん、仲悪いから」
    「……」
    「おかあさんは、違うひととなかよしだから」
     ここで、私は流川の離婚理由を薄々察し始めた。直接は聞いたことがなかったし、わざわざ聞くのも……と堪えていた。だがおそらく、奥さん側に何かあったのだろう。
     難しい問題である。母親代わりに流川がなれるかと言われたら正直顔をしかめるが、しかしならなければならないのが子育てである。
    「おとうさん、おかあさんと仲直りしてくれないのかな」
     そう寂しそうに呟いたもみじに、そうだね、と返した。無責任に何か言うことはできなかった。




     その日、もみじは精神的に疲れたのか眠ってしまっていた。流川が迎えに来たので、私はこのことを話すか迷ったが、結局話すことにした。言っておかなければ、というよりは親として知っておいてほしいことだろう。
     座ってと流川に促せば、いつもと空気の違う私に気が付いてか大人しく席に着いた。お茶をふたつ用意して、それから今日の話をした。流川は黙って聞いていた。
    「よりを戻すつもりはねえ」
     開口一番、流川はそう言った。
    「無理っす。どうせくり返すだけ」
     そうだろうなと心の中で頷いた。どれだけ子どもが願おうが、どうにもならないという残酷な現実がある。二人でまた仲良くなんてのは夢物語なのだ。
     あまり首を深く突っ込むのもどうかと思うので、ここらで話を切り上げようとしたが、何故か流川がまだ話し足りなそうな顔をした。気づいてしまったからには無視するわけにもいかず。
    「向こうの不倫だった」
     淡々と、何の感情も含まずに流川はそう言った。私は落ち着かなくなって、しかし立ち上がるわけにもいかないので、お茶に口をつける。流川の表情はすとんと落ちていて、怖いくらい凪いでいた。
    「寂しかったとか、もっと構ってほしかったとか」
    「……」
    「言われねえとわかるわけねえだろ」
     吐き捨てるような言い方だった。テーブルの上に置かれた流川の拳がわずかに震えていた。正直身体が固まるような恐怖を感じた。決して私に言っているわけではないのだが、それでも怖かった。
     引きつった顔をどうにかいつも通りに戻し、私はそっかと答えた。和やかな雰囲気に今更戻すなど困難だ。
    「苦労したみたいだね」
     他人事みたいだが、これ以上無難な言葉も見つからない。流川の瞳が、ゆっくりとこちらを向く。まるで機嫌の悪い獣に睨まれたみたいな迫力があった。そんな目を向けられる筋合いはないはずだが。
    「でもそれは、もみじちゃんが大人にならないとわからないことだよ」
     流川はすっと目を伏せた。瞳から解放された私は、ほっと肩の力を抜く。こんなにビビるなんて情けない。
    「流川が愛情注いで育ててあげてるのは伝わるし、私も協力するから……」
    「……」
    「あの子のこと、大切にしてあげようよ」
     子どもという存在はとても愛おしいものだ。赤の他人の私ですらもみじを大切に思っているのだから、流川はそれ以上だろう。
     流川は小さくお礼を言って、頭を下げた。疲れているような顔を一瞬したが、すぐにいつもの顔に戻って、もみじを呼びに奥へと行った。
     テーブルに取り残された私は、手を付けていない流川のコップを見た。人のことを愛して、一生一緒にいたいと思った時期が彼にあったのだろうか。それとも、流れに身を任せ、深く考えずに過ごしたのだろうか。わからない。後者であったとしても別にそれが悪いわけではなくて、ただ人生というのはままならないのだと感じるだけ。
     ランドセルを流川が持って、もみじは寝ぼけ眼のままやって来た。私に気が付くと、寝ぼけたままで手を振ってきた。どうやら帰るということは理解しているらしい。
    「……じゃあ先輩……またお願いします」
    「うん。またいらっしゃい」
     流川は私をじっと見てから、すっと視線を逸らした。何かまだ言いたげであった流川だが、もうもみじが限界そうなので、そのまま見送った。




     夜、流川のすることはいくつかある。まず晩御飯。自分の分だけならタンパク質やらなんやら、栄養素だけを考えたご飯でいいのだが、子どもがいるとなればそうもいかない。バランスが取れて、なおかつそれなりの見栄えでないと娘の食欲が誘えない。
     といっても流川に自炊する能力はあまりない。母親が教えてくれた味噌汁のレシピくらい。ご飯も炊飯器さえあればまあ炊ける。あとは買ってきて並べるだけ。家事代行でも雇えばいいのだが、それはおいおい。とにかく今はまだ少し落ち着いていない時期なのだ。
     ご飯が終わったら娘を風呂に入れる。これは勝手に入ってくれるから問題ない。そのうちに食器を洗ってしまい、一息つく。そしたら娘が風呂から上がってくるので、髪の毛を拭き、ドライヤーで乾かす。そろそろ自分で乾かしてほしいから最近は黙っているが、そうするとドライヤーを持ってきて渡してくる。いい加減言葉で伝えないと、とは思っているが、どうしてか言うことが出来ない。このままでいいと思っているのかもしれない。
     もみじは自分に似て静かなのかと思いきや、意外とよく喋る。良く頭が回る子で賢い。自分と同じようなテンションなのに自分の倍以上喋るのが面白かった。
     流川の膝の上に座って、自分で髪を梳くもみじは、まるでその日の体力を使い果たすかのように、眠くなるまでずっとしゃべり続ける。
     最近は学校の話の他に、三嶋の話も出るようになった。暇な時間にカルタをしたとか、オセロ、チェスなどのボードゲームもしているとか。元から持っていたのか、わざわざ買ったのか、後で聞かなければならない。あの人のことだからどうせ誤魔化すのだろうけれど。
    「きょうはあたらしいケーキを食べたよ」
    「なんだそれ」
    「しんさくのいちごケーキ」
    「へえ」
     確かに店の前のボードには、季節限定のケーキが紹介されていた。しっかり見たことはないが、ああいうのを使って購買意欲を上げているのだろう。
    「おとうさん、たべたことない?」
    「……」
     はて、どうだっただろうか。言われてみれば、店の商品を食べた記憶はない。高校時代にバレンタインで手作りのケーキをもらったことはある。確かに美味しかった記憶だって残っている。素朴だけれど、優しい味がした。
    「ハジメがね、もみじの誕生日にケーキつくってくれるって」
    「……よかったな」
     もみじの誕生日は八月の終わり。夏休みが終わる直前あたりだ。今年も誕生日プレゼント等を用意しなければならないと思ったが、ケーキは三嶋に頼むことが出来そうだ。ひとつ負担が軽くなってよかったと流川は思った。
     だんだんと眠たげな眼をしてきた娘に、もう寝ろと言って寝室に連れて行った。寝つきはものすごくいい。自分に似たのだろう。
     そうして一人になって、静かになった部屋の中で流川は息を吐き出した。見渡しても、必要な家具しかない。例えば、家族の写真だとか、前の嫁が使用していたマグカップなどは全部処分してしまったから。
     どうしても胸に押しとどめた気持ちの悪い感情はある。だがそんなのを娘に吐露するわけにもいかない。そうやって数年経ち、消化しきっていたつもりだったのに、あの人の前でそれが溢れてしまった。
     あの人の表情は変わらなかったが、しかしきっと失望された。コントロールが効かない自分の感情に苛立ち、舌打ちを……すると娘が怖がるので、息を吐き出すだけに留める癖があった。今だって娘は寝てしまっているが、舌打ちはできなかった。

     あの人とならこんな風にはならなかっただろう。いや自分が勝手に三嶋をいいように解釈しているだけなのかもしれないが、それでももう少し上手くいったはずだ。でもそれを勝手に諦めて、一生言わないつもりでいた。高校の時からあの人の眼にはただ一人しか映っていなかった。
     流川だってわかっていた。宮城が彩子のことを好いていたことくらい。だったら自分も三嶋も一方通行で、それならまだ救われたのに、けれど流川よりか三嶋はまだ希望があるようだった。
     今の自分は三嶋にどう映っているのだろうか。娘の面倒を見ろなんて図々しい奴に嫌気がさしているんじゃないか。でも困っていたのは本当だ。
     ただ信頼できる人だから頼っているだけ。そこに、娘を迎えに行くわずかな時間、あの人に会えるのを心待ちにしている自分の欲が、僅かにでも滲んではいけない。娘を利用して抱き込むような、そんな最低な真似をあの人にしたくない。あの人の傍で楽し気にしている娘を見るたびに、自分は手を伸ばしてしまいたくなる。いつか理性に糸が切れてしまう前に、終わりにしなければ。
     時計の針が、てっぺんに到着しようとしている。流川はリビングの電気を消し、欠伸をひとつこぼして後頭部を掻いた。




     流川から電話が来た。もみじが熱を出したが、自分は今結構遠くにいて、早くても帰るのは三時間後になる。学校に迎えに行ってくれないか、というお願い。ケーキはほとんど残っているが、放っておくわけにもいかない。
     本日の営業は終了しましたとボードに書き足して、店を閉める。これ、私が迎えに行っても大丈夫なのか? 警察に通報されたりしないか? との心配はあったが、それはもみじに知り合いだと証言してもらうしかない。
     学校は近くにあった。職員入り口で事務員らしき人に流川もみじの迎えに来たと伝えると、すぐに担任の先生が出てきた。歳をとった優しそうな先生だった。
    「……えっと、流川さん?」
    「あ、いえ……流川楓は今ちょっと来れないので、私が」
    「……あの、失礼ですが」
    「私は……えっと、もみじちゃんの面倒をたまにみている者で……もみじちゃんの父親に頼まれて代わりに」
     そんな話をしながら待っていると、ランドセルを背負ったもみじがやって来た。確かに少し顔が赤くて、目が潤んでいる。ふらふらとおぼつかない足取りで歩いてきたもみじを引き取って、タクシーを呼んだ。

     流石に店に連れて行くのはかわいそうなので、私のアパートに連れて行く。もみじを招くのは初めてだった。
    「……」
     もみじはずっと静かで、アパートについて自分のベッドに寝かせると、ピクリとも動かないで寝ている。時々怖くなって覗き込むと息はちゃんとしていた。冷たいシートを頭に貼ってあげると身じろぎはしたが、それでも起きなかった。
     何か食べさせてあげられるものはあるかと冷蔵庫を漁る。生野菜や昨日作った酢の物、焼いた肉などはあるが、病人向けのものはない。かろうじてあったミカンゼリーならいいかもしれない。
     米を一合、水につけておく。おかゆを作るためだ。食べるかはわからないが、食べなかったら私が食べたらいい。たまにはおかゆでもいいだろう。
     さて、あとはもみじの様子を見ながら流川を待つだけだが、彼は私の家にたどり着けるだろうか。住所は教えたが……
     と、二時間経ったあたりで、もみじが起きてきた。のどかわいた、と言ったもみじにスポーツドリンクをコップに注いで、ストローをさして渡した。が、ストローは使われず、コップにそのまま口をつけてごくごく飲み干す。
    「まだ頭痛い?」
    「いたい」
     額に貼ったシートは自分ではがしてしまっていた。額に手を伸ばして熱を測ると、じんわりと温かい。もみじは目を細めて、されるがままだった。
    「お薬買ってこようか? ……でもお父さんが買ってくるかもしれないし……メールしてみようか」
    「……」
    「ちょっとでかけてもいい? いたほうがいい?」
    そう聞くと、もみじは首を振った。どちらかわからなかったのでいたほうがいいかと聞くと、首を縦に振った。
     もみじをベッドに寝かせて、しばらくその近くに座っていたら、もみじがこちらを見ているのに気が付いた。どうしたのか聞いても何も答えない。ただじっとこちらを見ているだけ。
    「ミカンゼリーあるけど、食べる?」
    「……」
    「もしかして、給食も食べてない? だったらお腹すいてるよね」
    「……」
    「……どうしたの?」
     そんな話をしながらもみじの頭を撫でていると、もみじは布団を掴んで顔を隠した。うわ、嫌がられた、とショックを受けて手を引っ込める。いや嫌がられたわけではないのはわかっていた。そのあとすぐに顔を出したもみじは、小さな声で話し出した。
    「おとうさんこないの」
    「今お仕事で遠くにいるんだって。大丈夫、すぐ来るよ」
    「……」
     もみじは潤んだ瞳でこちらを見上げていた。どことなく寂しそうな顔をしている。私に出来ることなんてあまりなくて、幼子を寝かせるようにポンポンともみじの胸を叩いた。
    「……おかあさん」
     私を見てもみじが呟いた。消え入りそうな声だった。私はただ微笑んで、ん? と首をかしげて聞き取れなかったふりをする。さすがにこれ以上首を突っ込むのは気が引けたから。
     そりゃそうだろう。こんなに面倒を見たら母の代わりみたいにも思える。しかし無責任にそんな振る舞いをして勘違いさせるのだって残酷だ。あくまで他人として優しく接していきたい。いきなり、私はあなたの母親じゃありませんと突き放されたら、きっともみじは傷つくだろう。
     難しい。いったいどうするのが正解なのか。ただ他人としてこの子にできることは限られていて、しかしどうにかしてあげたいというお節介な自分もいる。いっそ母親になれば? いやいや、流川がどんな顔をするか。ふざけたこと言わないでくださいと怒られるのは怖すぎる。
     などと考えている内にもみじは眠りについていた。私はしばらくその寝顔を眺めていたが、やがて水につけていた米のことを思い出し、慌てて立ち上がったのだった。




    「そう、おかゆは食べさせたから。余ったけど持って帰る?」
     迎えに来た流川は起きてテレビを見ているもみじを見てほっと安心したような顔をした。何時間か寝れば熱もおさまって起き上がれるくらいには回復した。日頃の疲れが出てしまったのかもしれない。
    「……すみません」
    「いいよ。でも心配なら病院連れて行った方がいいと思うよ。まだ小さいからね」
     っす、と言った流川はなんだかいつもより覇気がない。というか申し訳なさそうにしている。なんか調子狂うなと思っていると、流川は唐突にこんな話をしてきた。
    「そろそろ家事代行を雇おうと思ってます。子どもの面倒も、そっちで見てもらう」
     いきなり何言っているんだと困惑したが、それはものすごく遠回しに、もうあなたに迷惑はかけないですと言ったのだと気が付いた。なるほど気にしていたのかと納得し、そっかと無難な返事を返す。
     が、もみじはそうではなかった。
    「やだ」
     テレビを見たままでもみじがそう言った。
    「もみじ、家でひとりやだ」
     拗ねたようにそう話すもみじに、流川は静かに視線をやった。一人じゃない、面倒を見てくれる人がいる、そう話しても、もみじは不機嫌になるだけだった。
    「……帰るぞ」
    「かえんない」
    「……」
    「きょうはかえらない」
     そう言ってもみじはソファに寝転んでしまった。子どもというのは妙なところで拗ねるが、多分何か理由があったはずだ。お手伝いさんというのが嫌なのだろうか。それとも家で面倒を見てくれるというのを理解できていないから、ひとりは嫌だ、なのだろうか。
    「いい加減にしろ」
     そう低い声で言った流川を咄嗟に、まあまあとなだめる。この空気に持っていきたくはない。
    「これ以上先輩に迷惑かけんのは……」
    「ハジメ、たよられるの好きっていってた」
    「……」
     あー言えばこう言う、そんな娘に苛立つ流川の顔が見えた。頼むから爆発しないでくれと願いながら、私はタッパーにおかゆを詰めに行った。親子間の問題なので私が何か言うのはお門違いだろうと思って。
    「いらない。ハジメのとこ行くから」
    「……わがまま言うな」
    「いらない」
     背後で、流川が息を吐き出す音がした。疲れたようなため息だった。タッパーを持って振り返ると、流川は立ったままでもみじを見下ろしていた。
    「先輩は母親じゃねえんだよ。迷惑かけるな」
     そう言った瞬間、もみじの顔がくしゃっと歪んで、ソファに顔を伏せた。すん、と鼻をすする音がする。どうやら泣いてしまったらしい。
     あちゃー、それは禁句だ、と私は頭を抱えたくなったが、流川は泣いてしまった娘を静かに見下ろすだけ。どうしようもなくなった空気が満ちる部屋に、私がテーブルにタッパーを置く音だけが響く。
    「いいよ。今日は泊まっていって」
    「……でも」
    「あ、でも着替えとか……」
    「おとうさんもってきて」
     涙声でそう指示するもみじに、流川は顔をしかめた。が、まあまあと私がなだめると、やがて息を深く吐き出して、取ってきますと部屋を出て行った。すぐに玄関を出ていく音がする。オートロックじゃないんだから、と私は玄関にカギをかけた。
     しばらく泣いていたもみじだったが、やがて疲れたのか寝息が聞こえてきた。私は客用の布団を敷きながら、流川を待った。もしかしたらこのまま寝るから着替え要らなかったかも、と連絡しようか迷ったが、やっぱり着替えくらいはさせたい。お風呂は入るのが難しいかもしれないので、身体をタオルで拭こうかと考え、新品のタオルを戸棚から引っ張り出してきた。




     結局もみじは起きなかった。流川がもみじを抱っこで布団に移動させ、着替えは明日することに。時刻は夜十時。私と流川はお互い疲れた顔で椅子に座った。
    「何か前に嫌なことがあったんじゃない? お手伝いさんと……」
    「多分ないっす」
    「……」
     聞いてみないとわからないだろうと言おうか迷ったが、子育てしたことない私に何か言われるのは癪に障るかもしれない。そう思って結局口を閉じる。
    「……何か、食べる? 晩御飯食べた?」
    「いや、何も」
    「残り物しかないけれど」
     とりあえず、空腹では気持ちも落ち着かないだろうと晩御飯を食べることにした。ご飯は冷凍していたもの、あとは冷蔵庫にあった作り置き。人に出すものとしては粗末だが、私自身も正直疲れ切っていた。 
     そうしてお互い無言でご飯を食べた。本当に何も話さなかった。ただ流川はたまにこちらの様子を窺っていて、私は気が付かないふりをした。そこに気を遣う体力はもう使い切ったから。
    「美味しかった?」
    「っす」
    「よかった」
     食べ終わってそう聞くと、流川は頷いた。安心して笑い、食器を片付ける。自分が洗うと言った流川にいいよと言ったのだが、引かなかった。じゃあ流してくれとお願いして流しに二人で立つ。そこで後悔した。この男デカい。すごく、言っちゃあれだが邪魔だった。窮屈に思いながらも洗った皿を渡す。慣れたように泡を流す流川の手を横目に見て、ああ大人になったなとしみじみ感じた。
     最後の皿、私が流してしまおうと思ったら流川は受け取ろうとしていたらしく、手がぶつかる。あ、ごめん、そう言っても流川の返事はない。ただ黙って皿を受け取り、泡を流して水を止めた。





     皿を洗い終わった後、テーブルに座ってもみじの預かりの予定を、カレンダーを見ながら確認していた。その後で三嶋は泊まっていくかと聞いてきた。流川は首を横に振る。流石にそこまではできない。
     娘が母親の面影を三嶋に重ね始めたのには薄々気づいていた。だからこそ焦った。このままなら確実に自分は利用してしまう。手段など選ばずに、この人の優しさにつけ込む。
    「……大丈夫、明日になったら気持ちも落ち着いてるよ」
     考え込む流川に三嶋はそう言った。疲れたのか、いつもより声が静かだった。
     どうして、こんなにもみじのことを見てくれるのだろうか。ふと思った。彼女の優しさ故なのか。それとも、自分の娘だからなのか。
    「なんで」
    「ん?」
    「先輩は……」
     何と聞くのが正解かわからず、言葉が詰まる。三嶋は黙って流川のことを見て待っていた。
    「先輩は優しすぎる」
    「え? 何急に」
    「アンタ、そんなんじゃ損しますよ」
     そんなことが言いたかったわけではないが、出してしまった言葉は戻らない。傷ついただろうか。怒っただろうか。ともかく感じのいい言葉ではなかったはずだ。だからか、三嶋の顔を見ることが出来なかった。代わりに、無意識だったが、テーブルの上に置かれた白い手に視線が向く。指輪はない。何度見ても、いつ見てもそこには何の枷も嵌められていない。だからといって、いないとは限らないというのが面倒なところだった。
    「損なんてしてないよ」
     急に耳に入り込んできたのはあっさりした声色。怒ってはいないようだ。そう思って顔を上げると、やはりいつも通りの表情。この人、一体どうすれば怒ったり不機嫌になったりするのだろうと疑問に思った。
    「いいのよ。嫌だったら言うし」
    「……」
    「君が困ってるのがほっとけないの」
     もみじが寝ているからか、声を潜めて、しかし空気を優しく揺らすような声でそう言った。僅かに目尻が下がる、高校の時と変わらない笑み。でもそれは、いつも自分以外に向けられていたもの。それが今は自分のものになった気がした。
     気が付けば手が伸びていた。テーブルに置かれた彼女の手に、自分の手を重ねる。重ねて気が付くが、彼女の手は小さくて弱そうだった。するっと、手の甲を親指で撫でて、彼女の顔を窺う。三嶋はただ不思議そうにこちらを見ていた。何をされているか、流川の行動の意図が分かっていないようだった。無防備にも程があるが、純粋で美しいとも思った。わからせてやりたい、わかってほしい、そんな欲を含ませた瞳を向け続ける。
     指を絡めたら、流石に気づくだろうか。思い切り引っ張って抱きしめて、そうしてキスを迫ったなら怒るかもしれない。それくらいしないと、この人は……
     静まり返った部屋に、娘が寝返りをうって布が擦れる音が微かに聞こえた。それは流川を正気に戻した。集まっていた熱が急激に冷めていく。意識して吐きだした息は自分でもわかるくらいに熱かった。
     その後どうやって帰ったか覚えていない。かろうじて、朝にもみじを迎えに来ると言って帰ったのは覚えている。
     気を付けて帰ってね、玄関前でいつものように三嶋はそう言った。ドアが閉まるその一瞬、三嶋がわずかに握られた手を擦ったのを、流川は気づくことがなかった。




     カランカラン、来客を知らせる鈴の音がなる。もみじが来るにはまだ早い時間。いらっしゃいませと顔を出せば、懐かしい顔がそこにはいた。
    「久しぶりね」
    「カオルさん」
     宮城の母、カオルがそこにはいた。宮城と妹のアンナが出て行った後、アパートで一人暮らしをしているカオルはこの近くに住んでいて、たまにこうしてケーキを買いに来る。
    「いちごは終わった?」
    「いいタイミングですね。今日で最後ですよ」
     期間限定のいちごタルトは今日で最後だ。カオルはよかったと笑って、ショーケースの中のケーキたちを眺めた。顎に手を当てて、うーんと唸る。お客さんのその楽しみそうな表情がなによりも好きだった。
     タルトとモンブランをひとつずつ選んだので、それをショーケースから取り出しているとまた来客の音。今度はもみじだった。
     慣れた様子でこちらにやって来て奥のテーブルに座るもみじを、カオルは不思議そうに見た。
    「覚えてますか。後輩の流川の娘ちゃんですよ」
    「え? あ……あー、あれ? 帰ってきたの? こっちにいたんだっけ」
     カオルは驚いた様子でもみじを見る。もみじは少しだけこちらに視線をやったが、やがてランドセルを漁っていつものように宿題をし始めた。
    「……」
     あれ、もしかして……という風にカオルが見てくるので、ああ何か勘違いされてるかもと思いながら、訂正する。仕事が終わるまで一時的に預っているのだと。なるほどね、とカオルは笑って、それからもみじの方をじっと見た。
    「顔がそっくりね」
    「流川君にですよね。わかります」
    「あの横顔の感じ、すごい似てる」
     そう言ってクスクス笑うカオルに、私はケーキを渡した。ありがとうと受け取ったカオルは、そういえばと思い出したように顔を上げた。
    「ここって誕生日ケーキも承ってる?」
    「はい、予約してもらえたら」
    「七月末にリョータが帰って来るって言うから……小さいのでいいのよ。三人しか食べないから」
     三人というのはカオル、リョータ、アンナだろうか。久しぶりに家族が揃うのは嬉しいだろうな。
     そんなことを思いながら予約の手続きを済ませると、カオルは満足そうに帰っていった。そうしてすぐ後にもみじがやって来て、私に紙を渡してきた。
     音読、そう題された紙に、日付と確認欄の表が書かれている。懐かしい、そう呟いたらもみじは次にペンを渡してきた。
    「おんどくする」
    「チェックつけるの? 私でいいの?」
    「そう、なまえかくの」
     名前書くのか……流川……って書いた方がいいんだろうな。なんて考えているともみじはもう読み始めていた。懐かしい話だった。私も小学校時代に読んだ記憶がある。拙いながらも内容を理解することが出来る音読だった。
     流川、そう確認欄に書き込むのは不思議な気持ちだった。本当なら流川が聞くべきなのだろうが、もみじはさっさと宿題を終わらせたかったのだろう。
     上手だったね、そう言って紙を返すと、もみじは紙を見てから首をかしげた。
    「ハジメも流川ってなまえなの」
    「え? ああ、いいや……三嶋だよ」
    「三嶋ってかかないの?」
    「うーん……先生がみたらびっくりしないかな? 三嶋って誰かなってならない?」
     そう聞くともみじは自信満々に大丈夫と言った。何故こんなに自信が溢れているのかわからないが、とにかくペンで書いてしまったから今更書き直すことはできない。
    「ありがとう」
     しっかり目を見て言ったもみじに笑いをこぼして頷く。もみじが満足そうに、僅かに表情を綻ばせたのがわかった。長く一緒にいるとわかるものだ。何だか仲良くなれたようで嬉しく、もみじに気味悪がられないようにこっそり笑った。




     十七時、流川が迎えに来た。彼は先日から少し様子がおかしい。それはもみじが熱を出した日のあれが原因だろう。
     急に手を重ねてきたときは何事かと思ったが、人は驚くと一周回って冷静になるらしい。あの時はいつも通りの顔を取り繕ったが、帰った後で悶々と悩む羽目になった。
     口説かれている? あの流川に? いやいやありえない。バスケマシンのあの男が人間アピールで結婚して、しかしほとほと凝りた様子で愚痴っていたというのに、また同じことを繰り返すなんて。
     いや、流川からしたら私は娘の面倒見てくれる都合のいい先輩で、あわよくば再婚してもみじの教育を押し付けるつもりじゃ……
     いや流石にそこまで外道とは思っていないが、しかしバスケのためならやりそうだしな……ちょっと注意深く接していくか。
    「今日早いね」
    「っす」
     流川は目を合わさないように返事をした。もみじはさっさとランドセルを持ってきて、流川に帰ろうと促す。
    「……」
     流川は何か用がある様子で黙っているので、もみじが不思議そうに流川の顔を見上げた。私も、同じように流川を見る。
    「……いつも、世話になってるんで」
    「う、うん」
    「一緒にご飯でも行かない……っすか」
     それに真っ先に反応したのはもみじだった。行く、と即答したもみじに流川は何も言わない。ただじっと、私の返事を待っているようだった。
    「……今?」
    「いや、先輩の都合のいい日で」
    「……」
     行かない、と愛想悪く断るのは出来ない。かといって行きますと乗り気で言うのは……と悩んでいると、もみじが近寄ってきた。私のズボンを掴んで見上げてくるもみじは、子どもらしくおねだりするように、首をゆらゆら揺らした。
    「おすしがいい」
     もみじの中では行くことが決まっているらしい。困ったなと苦笑すれば、流川と目が合った。彼は珍しく緊張しているのか、顔をこわばらせていた。
    「あ、えっと……明日、スケジュール確認しておくから……」
    「……」
    「楽しみにしてるね」
     流川の肩に入っていた力が抜けた。頷いた流川にお礼を言って、帰る二人を見送る。
     そこまで仲良しになっちゃっていいんだろうか。そう思うが、いっそ流されてしまえばいいのではという自分もいる。でももみじはきっと前の母親のことを忘れられないだろうし、私がズカズカ入るのはなあ……と、気が引けた。
     とりあえず、残っていた仕事を片付けようと店内に戻れば、すぐ後にまた来客の音。忘れ物かと思って身内に向ける声で返事をしたが、振り返ったところにいたのは全く知らない女性だった。
    「突然すみません」
     落ち着いた女性の声に、ああいや……と困惑する。誰だろう。多分客ではないなと直感で思った。上品な花柄のワンピースを着て、高そうなバッグを持った、細身の女性がそこにいた。
    「お話したいことがあって」
     彼女は今にも泣きだしそうな、儚い顔をした。綺麗な人だと思った。
    「もみじの母です」
     私はああ、と納得したような声を出した。その後で、えっと間抜けな声を出す。母? そう聞き返せば彼女は頷いた。もみじの母ってことは……流川の……
    「……」
     本当に実在したんだ。そんな衝撃を受けながら、私はとりあえず、と彼女を椅子に座らせたのだった。


     

     なんでこの人、私の店に来たのだろう。と、コーヒーを出しながら考えた。このタイミングってことは、この店から流川と娘が出てくるのを見ていたのだろう。そう考えるとちょっと怖い。
    「もみじは元気ですか」
     そう聞かれたので、頷いた。彼女はよかったと安心したように笑う。母親の顔をしている彼女に、私はここに来た意味を知りたくて仕方なくなった。
    「あの……」
    「あの人も……」
     そう聞くので、おそらく流川のことだろうと思い、頷く。彼女は複雑そうな顔をしたが、やがてふうっと息を吐き出し、コーヒーに口をつけた。私はこの空気で飲むコーヒーが美味しいとは思えない。何だか怒られるのを待っている気分だ。
    「愛想ないでしょ? でもたまに可愛いこと言うから、憎らしさも許せるのよ」
     あ、今は女の顔。そう内心呟く。長い睫毛を伏せて、色づいた唇をわずかに上げるその顔は魅力的な女性のものだった。確かにこれは……あいつやるなあ、とどの目線かわからない褒め方をしてしまう。
    「私、彼に会うために日本に来たんです」
    「……それは」
    「もう一度、やり直したくて」
     そこから彼女は静かに語った。バスケばかりの流川に不満を募らせ、別のパートナーを作ってしまったこと。自分のしたことは許されないけれど、それでも流川のことが忘れられなかったこと。もみじのことが、心配で仕方なかったこと。
    「彼の知り合いに聞いて、やっと見つけることが出来て……あなたは、その、今の楓の……」
    「あっいやいや。私はただ……仕事が忙しい彼に代わって、もみじちゃんの面倒を見ているだけで……そんなんじゃないですよ」
     そういえば、彼女はゆっくりと、口角を上げた。作ったような美しさの笑みだった。その裏にはおそらく、私の言葉が本当か疑う心が隠されている。なんだか怖くなって早く帰ってほしい気持ちになり、ついつい早口になってしまった。
    「私が流川に連絡しましょうか?」
    「いいえ、大丈夫よ。連絡先は知ってるの……ただ、忙しいのかメールの返事が返ってこなくて」
     あ、それは多分、というか絶対に意図して無視しているなと私は思った。なぜなら私との連絡は結構スムーズで、携帯を操作する姿も頻繁にみられていたから。きっと彼は連絡をとりたくないのだろう。
     だがそんなことを言うわけにもいかないので、そうなんですかと無難な返事をした。すると、彼女は申し訳なさそうな表情で私にお願いしてきた。
    「確認するように、彼に言ってもらえませんか」
    「あ、もちろん、それくらいは」
     いい感じに話が終わりそうだ。私は果ての見えなかった地獄から解放される予感に笑みを浮かべる。彼女も上品な笑みを浮かべて、そろそろ失礼します……と立ち上がった。
    「よかった。あなたが良い人で」
     すっと彼女の瞳が細まる。きっと本心から言っているわけではない。むしろ邪魔な存在で、どうにか利用してやろうくらい思っているんじゃないかと私は感じた。もしかしたら勘違いかもしれないが、そういう人の気持ちを大まかにみることに、昔から私は長けていた。
     扉の近くまで、彼女を見送る。一貫して理性的で、落ち着いた人だった。以前もみじがうるさいと表現していたが、そんな様子は全く見られない。
     彼女と流川がよりを戻せば、きっともみじは幸せだろう。だが流川は多分嫌なんだろう。そこでもみじのために我慢するような男かと言われたら、私は首を横に振る。あるいは親権の移動……いやどうだろう。流川ももみじを大切に思っているだろうし、そうホイホイと渡したりはしないはず。それに元嫁は流川のことをまだ好いているようだし、複雑な問題だ。
     ……人様の家庭に色々考えすぎか。私はやりかけの店内の掃除に戻ったが、頭からはこのことが離れることがなかった。




    「おとうさんは」
    「……」
    「あの人がすきなの」
     いつものように、ドライヤーで髪を乾かし終え、もみじの学校での話を聞いているときだった。娘にしては珍しく、こちらを窺うような慎重さを見せた聞き方をしてきた。
     流川は膝の上に乗る娘のつむじを見つめた。小さくても女だ。もし息子だったら気づくことはなかっただろう。
    「だったら嫌か」
     娘はプラプラと足を揺らしながら、うーんと唸った。
    「ハジメがお母さんになるの」
    「わかんねえ」
    「おかあさんのことはもう好きじゃないの」
     もみじが、振り返らずに下を向いてそう聞いた。流川は久しぶりに体が冷えるような衝撃を感じた。その声色には流川を責めるような色が滲んでいた。別れるときの元嫁の言い方にも似ていた。
    「……好きじゃない」
     正直に流川は答えた。嘘をついてもバレるだろうから。娘はきっと元嫁のことを嫌っていないし、元通りになるのを望んでいるとも聞いていた。だがそんなのは無理だ。もうあの女に抱く気持ちは知り合いの一人に向けるものほど軽くなってしまったし、それに三嶋が近くにいる。きっと自分の気持ちはずっとそちらに向く。あの人への気持ちを殺して、好きでもない女とまた生活を始めるとなったら、それは捨ててしまいたいほど最悪な人生だ。
    「もみじがおかあさんの代わりにあやまるよ」
     娘がこちらを見た。その目はゆらゆらと揺らいでいるが、決壊することはない。ただ何かを堪えながら、言葉を紡ぐ健気さがあった。
    「あやまったらすきになる?」
     言葉尻が滲んだ。もみじは唇を噛んで、すんっと鼻をすすった。
     流川は小さな娘の頭に自分の手を置き、ゆっくり撫でた。乾かしたばかりの髪はさらさらと触り心地が良い。石鹸の清潔な香りがした。
    「ならない」
     娘は何も言わなかった。黙って流川の膝から降りて、寝室へと向かった。流れた涙が一粒だけ床に落ち、フローリングを濡らしたのを、流川は静かな瞳で見つめていた。





     ご飯に誘われた、次の日のことだった。もみじを迎えに来た流川が日程について聞いてきたので、それに答えた。答えながら、昨日のことを話すタイミングを窺った。
     もみじの前でこのことを話していいのだろうか。いや絶対だめだ。不確定なことを子どもの前で話すのは心を傷つける可能性がある。しかしもみじにあっちに行っててと話すわけにもいかない。
     ご飯は今週の金曜日の夜。その時にももちろんもみじがいる。確実に流川だけと話すためには……と、ここで私はひらめく。
    「流川」
    「……?」
    「……今日の夜、十時ごろ、電話しても大丈夫?」
     そう聞くと、流川は目を見開いた。反対にもみじは気に入らないという風に目が鋭くなった。その二人の変化に私は気づいたが、心情まではわからない。
    「平気っす」
    「……じゃあ、気を付けて帰ってね。もみじちゃん、またね」
     もみじはハッとしたように顔を上げ、ぎこちなく手を振った。何か様子が変だ。
     そのまま帰る二人を見送った。今夜は流川を説得しなければならない。きっと骨が折れる作業だと思いながら、私はため息をついた。




     正直期待した。夜に電話したい、なんて言われたら何だろうと思うだろう。だが現実はそう上手くはいかない。流川は三嶋の話を聞いて、舌打ちをしたくなるのをどうにか堪えた。
     ベランダに出て、夜の街並みを見下ろしながら流川は考えた。まさか三嶋の元に行くとは思わなかった。元嫁はそうやって、逃げ場をなくすのが得意な人間だった。
    「もうそのつもりはねえっす」
    「でも、一回話した方がいいよ」
     電話越しの三嶋の声は、娘と居る時とは違う、高校時代の親し気な雰囲気があった。
    「もみじちゃんとも話してさ。そうしないと、お互いのためにならないよ」
    「……先輩は」
    「ん?」
    「やり直すこと、何とも思わねえんすか」
     もしも、少しでも嫌だと、拒否的なことを言ってくれたなら嬉しかった。流川は逃げたかったのだ。こんな面倒事はもう二度とごめんだと、離婚の手続きを行っているときに思った。またあの不毛な話し合いをするなんて、想像するだけで疲弊した。
    「いや……私が何か言うのはちょっと違うかなって」
    「なんで」
    「なんでって」
    「先輩ならどうしますか」
     しばらく、沈黙が続いた。電話が切れたのかと確認したが、まだ通話中だ。夜風が流川の髪を揺らすのを感じながら、じっと、息を潜めて気配を探った。
    「私なら……んー……」
    「……」
    「……考えつかないや」
     ごめんね、と謝られて、いいっすと返した。それもそうだ。何を勝手に期待しているのだろう。
    「あ、でも」
     話を切り上げようとしたときだ。流川はベランダ出口の中のカーテンから、もみじがこっそりとこちらを覗き込んでいるのが見えた。
    「私は、流川ともみじちゃんの、両方が幸せになれたらいいと思ってる」
     流川と目が合ったもみじが、さっとカーテンの裏に隠れた。流川は、誰にも気づかれずにふっと笑う。三嶋らしい返事だ。こういう先輩だからこそ、自分は惹かれた。
    「まあ、恋人も夫もいない私の話なんて参考にならないんだから、他の人にも相談した方がいいよ」
    「……いま」
    「ん?」
     ぽろっと出てきた情報は、流川がずっと聞きたくて、しかし尻込みしていたこと。そしてその情報は希望だった。
    「いないんすね」
    「あ、馬鹿にした?」
    「いや」
     流川は空を見上げた。月が雲に邪魔されることなく、はっきりと輝いている。今の流川の心情に近いものだ。
    「先輩、おやすみ」
    「おやすみ」
     電話を切った後で、流川は息を吐き出す。目標や希望があれば、重い腰というのは上がるものだ。足りていなかった燃料を注ぎ込まれた気分だった。
     けじめをつけて、三嶋に伝えよう。そう決意した流川は、自分を待っているであろうもみじの元へと戻った。




     ケーキの売れ行きがよくない。そう感じ始めたのは、流川の元嫁がやって来て、一か月が経った頃だった。あれから流川は元嫁とどうしたのか、流石に聞けていない。
    私は週に一回くらいの頻度で流川ともみじと一緒に外食をするようになり、以前よりも過ごす時間が増えた。その感じを見るに、彼女と会っているようではない。仮にこれで元嫁と仲直りしていたら、いくら何でも私と一緒に外食をしすぎだろう。
     七月に入り、もうすぐ夏休みだと浮足立つもみじに、夏休みどうするのだろうと思った。流川は当然仕事だろうし、実家に預けるのか、私にお願いしてくるのか。正直、店にいてくれるだけなら問題ないのだ。だが夏休みは遊びたくなるものだろうし、どこか出かけたいとなったら、どうしようか。店を二、三日休みにするのは私の裁量なのだが、売り上げがよくないのであまりそういうことはしたくない。
     と、まだ頼まれてもいないことを心配していると、懐かしい人が来店してきた。
    「あ、彩子」
     随分小綺麗な人がいると思ったら彩子だった。久しぶりねと、変わらない笑顔を浮かべる彼女に私も笑顔で迎える。
    「久しぶりに食べたくなったのよね」
     そう言って店内で食べると言った彩子に、ケーキを運び、コーヒーはサービスした。
     何の連絡もなく急に来るものだから驚いた。それと同時に、何か用があるのではと勘ぐってしまう。他の客もいなかったので、私は彩子の正面に座って一緒にコーヒーを飲んだ。
     しばらく彩子とは世間話を交わした。お互い仕事は充実している。だが彼女は私と違い、結婚もして子どもがいた。何度か会ったことがあるが、顔は完全に父親似だった。
     そうして穏やかに話していると、ふと沈黙となった。何か空気が変わった気配を感じ、私の心は無意識に構える。コーヒーを飲んだ彩子は、やがて言いにくそうに話し出した。
    「アンタ、ネット見たりする?」
    「ん、んー……あんまり」
    「ネット上のサイトに、店を評価するのがあるんだけど……この店、誰かに荒らされてるのよ」
     彩子は、ネット上でうちの店の悪評判が目立っていることを教えてくれた。おいしくないとか、髪の毛が入っていたとか、店員の態度が悪いとか。
     ショックを受ける……よりも、ここ最近の売り上げに納得がいった。確かにいつも来るご老人や、ネットに疎そうな中年のお客は途切れていなかった。だがこう……流行りを取り入れていそうな、若い人たちは減っていた。
    「態度悪いかなあ……」
    「よっぽど……流川レベルの不愛想でない限りそんな評価はされないわよ。絶対に評判を落とすために書いてるわ」
     彩子が言うに、書き込んでいるのは一人だけらしい。それがわかればレビューの信憑性も疑えるのだが、一般人がユーザー名まで確認するかと言われたら微妙なところだろう。
    「消せる?」
    「サイトの管理者に問い合わせないと無理ね」
    「うわ……手間だなあ」
    「……ま、コーヒーサービスしてくれたから、やったげるわ」
     親切にそう申し出てくれた彩子に感謝し、もみじと一緒に食べる予定だった焼き菓子の、私の分を彩子に持たせた。
    「この店の雰囲気、アンタっぽくて結構好きよ」
     扉まで見送ると、彩子はそう言ってくれた。引き継いでからもう数年経つが、そんな風に言われると寂しい気持ちと同時に、嬉しくもあった。前店主は好きにしろと言ってくれたが、やはり残しておきたいものもあり、自分の経営と葛藤した部分があったから。
     帰っていく彩子の背中が見えなくなった後、私はケーキを確認した。髪の気なんて入れていないが、誤って混入した可能性は否めない。その場合は電話してくれとパッケージに記載したが、電話があった記憶もなかった。
     同業者による嫌がらせだろうか。暇人によるお遊びだろうか。わからないが、この店が潰れたら途方に暮れるだろう。実家を手伝うのは嫌だ。それにおじいさんの店を終わらせたくない。
     ため息をひとつ。ここ最近、新しいことがあって疲れているのかもしれない。少しセーブしながらいこうと思い、コーヒーカップをふたつ洗った。




    「ハジメ、ねえ」
     ハッと、揺さぶられて目が覚めた。もみじが心配そうにこちらを覗き込んでいる。
     時計を見れば午後四時。もみじが三時半ごろにやって来て、お茶を出した後の記憶が途切れている。どうやら客がいなかったから居眠りしてしまっていたようだ。そんな自分に驚きつつも、もみじにどうしたのか尋ねた。
    「のどかわいた」
    「あ、お茶……待ってね」
     飲み終え空になったコップを持って、もみじはそう言った。奥に置いてある冷蔵庫から麦茶を持ってきて注ごうとすると、もみじは自分でやると言った。重いかもよといいながら麦茶のペットボトルを渡すと、手を震わせながら、僅かに溢しながら、もみじはコップにお茶を入れた。
    「最近暑くなって来たもんね」
    「あつい」
    「髪も伸びてきたね」
     もみじの髪は出会った頃はショートカットだったが、今は肩につきそうなくらいに伸びていた。結んであげようかとゴムを取り出すと、もみじは椅子に座って背を向けた。簡単にポニーテールに結ってあげる。首元は少し涼しそうになった。
    「髪伸ばしたいの?」
    「ううん。じゃま」
    「そっか」
    「ハジメはのばしてる」
     確かに私の髪はセミロングくらいだった。別に伸ばしているわけではないし、忙しさから手入れも疎かにしていた。だが先日の彩子の話が頭にちらついて、髪の毛の話題にうっと心が暗くなった。いっそ切ってしまおうか、イメチェンにもなるし。
    「今度一緒に美容院に行こうか」
    「いいの?」
    「もみじちゃんのお父さんに聞いてからね」
     せっかくだし一緒に連れて行こうかと思い、そう提案すればもみじは喜んだ。早く切りたかったらしい。髪はおしゃれではなく、機能性重視なのだろうか。そんなことを思い、流川の面影がちらついてふっと笑いをこぼした。




     その日の、午後四時半くらいだった。いつも来てくれるあの変わった男性客が来た。彼はいつも話をしてくる。最近暑いねとかそういう世間話から、よかったらご飯でも行かないと。それをいつものようにあしらおうとしたとき、たまたま、こちらの会話がもみじに聞こえてしまったのだろう。
    「今日はもみじとご飯だよ」
     テーブルに座って何か作業していたもみじが、私を見てそう言った。そう、今日は一緒にご飯に行く日だった。それを聞いた男が、えっ、と私の顔を見る。
    「ご飯まで連れて行っているの? 親御さん、随分と図々しいね」
    「あ、いえ……」
    「おとうさんがお金はらってる」
     むっとした様子でもみじがそう言い返した。男性は更に目を見開き、それからすっと表情を落とした。嫌な予感がした。
    「俺とはご飯に行かないのに、あの子の父親とは行っているの?」
    「……いや、面倒を見ているお礼にって」
    「それって奥さんは知ってるの? 浮気になるんじゃないの」
     そう言われて、ああそうか、事情を知らないとそう解釈するのかと思った。確かに奥さんがいたら問題だろうが、そうじゃないからこうしているわけで。もみじはもう知らん顔して作業に戻っていた。聞きたくなかったのかもしれない。
    「そんなんじゃないですよ。あの、もうこの話はやめましょう」
    「……」
    「今日はもう店を閉めますから」
     どうにか笑顔で対応したが、内心ふつふつと苛立つのがわかった。どうしてこう他人の家庭の事情に無神経に関わろうとするのだろう。しかも子どもがいる前で。
     男は不服そうな、あるいは苛立つような顔のまま、乱暴にケーキを受け取って帰っていった。
    「おとうさんは浮気してない」
     そうもみじが呟いた。
    「おかあさんががんばって調べたけど」
    「……」
    「ちゃんとおしごとしてた」
     一応調べたのか、と私は苦笑した。確かに流川は浮気をする性格じゃないというか、バスケに関わらない面倒は避けようとするところがあった。きっと相手を傷つけるから、ではなくて面倒事が増えてバスケの時間が減るから、が流川のマインドだろう。
    「そっか」
    「おかあさん、この間来たんだよ、もみじのいえに」
     えっ、と思わず声が漏れた。まさか会っているとは思わなかった。だとしたら、あの男性客の言う通りまずいのでは。
    「おかあさんといっしょにくらそうって言われた」
     淡々と、いつものようにもみじは言った。私はそばに近づこうか迷い、結局今の距離から詰めないでもみじの話を聞いた。
    「おとうさんひとりになるからだめって言った」
    「……」
    「でもおとうさんはハジメと結婚するからだいじょうぶだよって、おかあさんに言われた」
     もみじは顔を上げなかった。ただいつも通りそう話した。それが怖かった。意図が読み取れない。それに、私は流川とそういう関係ではないと母親に話したはずだ。
    「もみじ、おかあさんとおとうさんと暮らしたい」
     前も聞いたもみじの願い。しかし叶うことが難しいであろうそれに、私は何と返したらいいかわからない。全部が間違いな気がする。小さな子どもとのやりとりにしては、妙な緊張感があった。
    「だからハジメと、おとうさんとおかあさんが、なかよしになったらいいと思うよ」
     それで四人で暮らすの。そう話すもみじの声は純粋な子どものもので、真剣だった。
     彼女なりに考えて、これが一番だと思ったのだろう。だが難易度は一番上がっている。無理だ。仮にその四人で生活して、私はどの立場に収まるんだ。家政婦か。
    「もみじちゃんは優しいね」
    「……」
    「でもね、きっとそれは難しいんじゃないかな」
     なんで、そうもみじが聞いてくる。私はどういえば伝わるか必死に頭を回しながら、もみじの座るテーブルの傍の椅子に寄りかかった。
    「……もみじちゃん、学校に好きなお友達いる?」
    「うん」
    「苦手なお友達もいる?」
    「うん」
    「二人と一緒に過ごすか、好きな方と一緒に過ごすか、どっちがいい?」
    「好きな方」
    「そう、だからお父さんはもみじちゃんと暮らしてるんじゃないかな」
     伝わっただろうか。もみじの顔を見れば、彼女はそっか、とどこか腑に落ちた顔をしていた。ぶつぶつと、たくやと一緒に過ごすのはあやがいても嫌だとか、苦い顔しながら呟いている。どうしても嫌いな人がいるようだ。
     そんな話をしていると、流川がやって来た。今日は一緒にご飯の約束だったが、片付けが終わっていないので、待っててと言って急いで片付ける。その時に、なんだか身体に違和感をおぼえた。いつも通り動かないというか、怠いというか。貧血のときのような気持ち悪さもあった。
    「先輩」
    「ん?」
    「顔色、悪いっすよ」
     慌ただしく動く私に、流川はそう言った。私はやっぱりかと思いつつも、そんなことないよと誤魔化す。が、流川はじっとこちらを見てくるので、視線が痛かった。
    「本当に大丈夫だよ」
    「無理しなくても」
    「……ん、んー」
     確かに、正直言って、この後一緒にご飯に行くのは厳しかった。帰って早く寝てしまいと思っていた。申し訳ないのだが。
    「……ごめんね。今日は二人でご飯食べて。私はちょっと、疲れちゃったみたい」
     そう言うと、もみじが残念そうな声を出した。流川は心配だから送っていくと言ってくれたが、断った。
    「なんかあったんすか」
     そう聞いてくる流川の顔は、珍しく真剣というか、こちらに興味を示したもので。忙しかったから、と言えばもみじがいるせいだと捉えかねないので、ただ夏バテだと答えた。
    「……明日、俺オフなんで、なんかあったら連絡してください」
    「ありがとうね。でも多分……うん、大丈夫だと思う」
     さりげなく壁に寄りかかりながら私は答えた。口に出すと、なんだか立っているのも辛くなった。
     店を出ていく二人を、今日は扉まで見送ることが出来ない。仕事を片付けるふりをして、じっと立ったまま耐えていた。二人がいなくなった気配を察し、崩れるようにしゃがみ込む。
    「あー……なんでしんどいのもう……」
     店の中に私の呟きが虚しく響いた。


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