~〝恋人ごっこ〟する燐ひめ ⑦ 仕事に追われる毎日の中で、時間はすり抜けるように過ぎていった。冬を越えて、春を越えて、夏を越えて。それを二周。気付けばあと数か月であれから丸二年、HiMERUは二十五歳になっていた。あくまでも公式プロフィール上である。
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ガラガラと引き摺るキャリーケースは日本を飛び立った時に比べると随分重くなった。主に仲間たちや大切な家族へのお土産が増えたからだ。菓子箱は嵩張る。
「蒸し暑い……っ」
遠慮を知らない太陽はもうとっくに沈んだというのに、夜になってもなお汗ばむこの国の気候は好きになれない。十五時間に及ぶフライトを終えて帰国したHiMERUは、空港ロビーを足早に抜けながら小さく舌打ちをした。
連日最高気温を更新し続けていた真夏の日本を抜け出したのは一か月と少し前のこと。フィレンツェに活動拠点を置く瀬名泉の指名を受けて、ブランドのイメージモデルとしてヨーロッパでのショーに幾つか参加していた。相変わらずプロ意識の高すぎる瀬名はなんだかんだと口うるさく言いながらも仕事相手としてHiMERUを気に入っているらしく、同じステージに立つ機会も少なくない。HiMERUが個人活動を始めてからは特に。
ユニット名を冠さない〝HiMERU〟として仕事を受けるのもすっかり慣れてしまった。正確に言えば、ユニットを組む前に戻っただけなのに。不思議なものだ。
「……もしもし要?……うん、ただいま。調子はどうだ?……そう。良かった。……うん、明日か、もしかしたら明後日になるけど。お土産楽しみにしてて」
歩きながら一番に連絡を入れたのは大事な家族。電話越しの弟の声は嬉しそうな顔が目に浮かぶほどに弾んでいて、想像するだけで疲れを吹き飛ばしてくれる魔法のようなものだと思う。
あまり夜更かしするなよと言い残し、画面をスライドして通話を切る。いつまで子供扱いするのですかと拗ねていたけれど、過保護と言われようが性分なのだから仕方ないだろう。
暗転した画面が狙いすましたかのように一寸の間もなく着信を告げた。表示された名前に、弟のおかげで吹き飛んだはずの疲れが倍になって戻って来る気がして眉間に皺が寄る。けれど無視したらそれはそれで後が面倒だ。
「……はい」
『これはこれはHiMERU氏!長旅ご苦労様であります!久しぶりの日本はいかがですか?』
「ただいま戻りました。暑苦しくて最悪ですね、あちらの方が気候的には過ごしやすかったですよ。新曲の話さえ無ければあと一ヶ月は滞在したかったです。――業務報告は明日でも宜しいでしょうか?副所長でしたら粗方の情報は入っているのでしょうけど」
あっはっは!と響く茨のご機嫌な声は、若干の時差ボケで痛む頭にガンガンと追い打ちをかける。受話音量を少し下げた。
『さすがHiMERU氏、個人でも充分な成果を上げられますな。先方からも非常に好感触です、次回以降の依頼についてはまた後日お話しましょう。お疲れでしょうから事務所には寄らずお帰り下さい。迎えを行かせましたので』
「迎え?」
いくら高額になろうとどうせ事務所の経費で落とせるし、とタクシーを捕まえるつもりだったのだけれど。タクシー乗り場へ向かって外に出たところに、見慣れたシルエットが姿勢良く立っているのが見えた。
「……っす。お疲れ様です」
小さく会釈をして当然のようにHiMERUの荷物を持とうとする、そんなジュンの習性が気の毒で久しぶりに声を出して笑ってしまった。
生真面目な性格を表すようにジュンの運転は丁寧で、後部座席に身体を沈ませたHiMERUは襲ってきた眠気にこっそりと欠伸を漏らす。対向車のヘッドライトが眩しくて目を閉じそうになったけれど、そうすると本格的に眠ってしまいそうだ。
「……すみません。面倒かけて」
「こんくらいどうってことないっすよ。運転嫌いじゃねぇし」
「ああ、いえ。その……いろいろと」
言い淀むHiMERUをバックミラー越しにちらりと見たジュンが、「別に」とけろりと笑った。
「大丈夫っす。あんたの留守中にあいつの世話するくらいなんてことねぇです」
あいつの我儘っぷりには昔から慣れてます、と続けたジュンは失言だったと思ったのか「あ、いや、自由奔放さ?」と言い直した。慌てたようなそれに、HiMERUは思わず吹き出してしまう。素直で気の良い男だ。
「漣へのお土産は他よりちょっと高級なお菓子です。ここに置いておきますので」
「ハハッ、ありがとーございます。明日Edenの集まりがあるんで頂きますねぇ」
そんな遣り取りを終えると、車内には沈黙が落ちた。ジュンも本来口数が多い方ではないのだろう。ぼんやりと見つめる窓の外を、高層ビルの黒いシルエットが過ぎていく。
「――あいつ、何度もCrazy:Bの映像見てましたよ。かっこいいかっこいいって夢中になって。お兄ちゃんが一番だって相変わらず言ってます」
やがて、ジュンがぽつりと零した。ユニットの名にHiMERUはゆっくりと瞬きをする。
「久しぶりに見たけど。やっぱカッケーなって俺も思いました」
「……そうですね」
カッケーんですよ。我々は。
変わらずそう思っている。あれからずっと。
「漣、このまま行ってほしいところがあるのですが」
最近めっきり足が遠のいていたカフェ・シナモンの前に立つ。入り口の照明はすでに落とされていて、自動ドアにはCLOSEDの札がかけられているけれど、手をかけてみると重いながらも手動でゆっくりと開いてHiMERUを迎え入れた。
「あ!おかえりなさいっすHiMERUくん!」
「おかえり。久しぶりやな」
オレンジ色のカフェライトに照らされたカウンターを挟んで話していた二人がHiMERUの顔を見て破顔する。
「ただいま」
椎名。桜河。
久しぶりに口にした名はすぐ舌に馴染んで、ようやくHiMERUは心底緊張が解れたのだった。
***
時間を考慮したのだろう、ニキがコースターに置いたノンカフェインのフレーバーティーとHiMERUがキャリーケースから取り出したローカロリーの菓子をつまみながら、あれこれと積もる話をした。こうして三人顔をつき合わせるのも何ヶ月ぶりだろう。
「椎名に頼まれていた食材は別便で送ってしまったので、近いうちに直接ここに届くはずですよ」
「やったー!HiMERUくんありがと!」
これでレシピ研究が捗るっす~!とご機嫌なニキも、このお菓子美味しいなと目を輝かせるこはくも、いつ顔を合わせても変わらない。ユニット名を残したままの活動はラジオの番組名くらいでそれすら三人揃う収録はほぼ無いのだけれど、いくら空白の期間があろうとそんなものを感じさせないのが苦楽を共にしたメンバーというものなのだろうか。
「お役に立てるなら何よりですが。……椎名、少し太りましたね?」
己のスタイル管理もできないなんてアイドルとしてあるまじき、とジト目を向けると、あっけらかんといつも通りの気の抜ける声が上がる。
「なはは~。レシピ作っては試食繰り返してるっすからね。前ならホラ、たかりに来た燐音くんに分けたりとかしてたけど。おサイフ狙われることも無くなったから食材買い込むお金もあるし」
「ぬしはん嬉々として食べとるやろがい。でもまぁ改めて聞かんでも随分なヤクザもんやな、あんお人は」
「暇さえあればパチンコ行って、たまーに気前良くお菓子くれたと思ったら交換した景品だったり」
「そこのテーブル席で麻雀打ったりもしましたね。今考えれば正気かと」
口を開けば飛び出すのは愚痴ばかり。問題児集団だった自分たちの中でも飛び切りのトラブルメイカーだったあの男は、三人集まった時には話題の中心にいつもいる。あまり良い思い出が語られないのは、それぞれが何となく気恥ずかしくなるからだろうか。
「元気にしてるっすかね~。最近めっきり連絡も来なくなっちゃったし」
「どうせ変わらずやっているでしょう。天城一彩にでも聞いてみては?」
「ALKALOIDも忙しいみたいで、近頃ESでもめっきり見かけないんすよ。弟さんにも全然会わないから聞くこともできないっす」
一瞬の沈黙が空間を漂った。カランとグラスの中の氷がバランスを崩す音が高いところでクリアに響く。
「……二年、か」
こはくの呟きに滲むのは不透明なこの先への迷いだろうか。「もしかしたら、このまま」頭の片隅に浮かぶそんな文字列が口から出そうになり、HiMERUは奥歯で噛み潰す。多分ここにいる誰もが同じ気持ちだった。
ESのビルに、事務所に貼られたポスターに、カフェシナモンに、CDショップに、雑誌のバックナンバーに。この街のいたる所から〝天城燐音〟の残り香がする。〝残り香〟だ。二年も経てばそうなる。それを理解しているし受け入れているのだけれど、一方で惜しまずにいられない。
それは自分たちだけではないようで、ほとんど動きの無いファンクラブに今でもちらほらと新規入会申込があると聞いた。当然、活動休止に伴って減った会員数の方が多いのだけれど。それでも待っているという声は常に届き続けている。求められてこそのアイドル、ファンとは心底有り難いものだ。
「……ふふ。俺たちがCrazy:Bだーとか叫びたいですね」
「HiMERUはんがそない言うん珍しな」
「たまには桜河と一緒に歌いたいだけですよ」
「えー!HiMERUくん僕は?」
「椎名は体重を戻したら考えましょう」
「んぃ」
一人で上がるステージも悪いものではないけれど、少々広過ぎる。昔はユニットでの活動に愛着など持っていなかったのに、誰よりもあの場所を愛していた男に声を重ねる快感と皆で見る景色の格別さを教えられたから。
四人で飛び回ったあのサイリウムの花畑をもう一度。――そう思っている。
でも。
(このまま、会わないほうが。〝俺〟にとってはきっと良い)
約束だった期限をむかえて、物理的にも離れて。本来それと同時に消し去るはずだった恋情は心の奥底で燻ったままだ。どうして好きになってしまったのかわからないから、忘れ方もわからないままに。
今はもう守らなければならないものが増えているだろう彼を思い出す。非生産的な時間だ、自分はこんなにも執念深い人間だったのだろうか。それは認めたくないな。
汗をかいたグラスの中でまた一つ氷が落ちる。少しずつ溶けていずれ見つけられなくなるそれをHiMERUはただ見据えていた。
このまま少しずつ確実に溶かして消して。いつか顔を見たその時には、「所帯染みましたね」なんて鼻で笑ってやるのだ。