りんごはどこまでも赤 果実には誘惑の意味が込められている。
生物学的にも正しいだろう。果実の色が明るく目に入るのも、華やかな香りがするのも、その実が甘いのも。すべては果実、とりわけ被子植物の生存本能に由来するからだ。
その身を食され種子を他者、動物によって運ばせることで己の種を守りながら、広域に散布される。
ゆえに、その実にかじりつきたい。と果実に魅了されるのは果実の生殖戦略であり、世界においては、ありふれた自然現象の一つにすぎない。
「持ち方に気をつけて。誤って皮膚を切ってしまわないように。そう。力みすぎず、沿うように動かして……」
人間によって栽培される果樹。あれらも植物の戦略のうちの一つだと言えるだろうか。
だからこの状況に特別な意味はない。
たとえ誰かの戦略であったとしても。
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夏の猛りもずいぶんと落ち着いたころ。今年の収穫祭を終えたモンドには、磨かれた水晶のような風が渡り鳥と共に訪れていた。
祭りの様子を見届けたタンポポたちは最後の開花で見る人を楽しませたのちに、色鮮やかな花の装いから綿毛へと姿を変えていった。
彼らは空が高く抜けた日をほくほくと待ち望み、風を捕まえて旅に出る。季節が巡った先でまた姿を見せてくれることだろう。
「蛍〜、そっちは集め終えたのか〜?」
明るい声が木々の間を通り抜ける。蛍は声がするほうに目を配らせた。
姿が見えないと思ったらいつのまにか離れていたようだ。そういえば、美味しいヤツを見極めて見せる。と息巻いていたっけ。と蛍は食への一貫した行動原理に笑いを一つこぼす。
3つ、4つ離れた木の幹からパイモンがひょっこりと顔を覗かせた。蛍の心うちを知らないパイモンは、不思議そうな目つきで蛍に近づいてきた。
「あと2本分かな」
「お、後少しだな! 早く帰って暖炉にあたろうぜ。オイラ、なんだか寒くなってきたぞ。モンドってこんな寒かったか?」
「この辺りはドラゴンスパインにも近いから、というのもあるけど、季節の変わり目なんだとおもう」
「ああ、アデリンが言ってたやつだな! このリンゴたちも冬支度をするためにより一層甘くなるって!」
記憶の結びつけ方が独特なパイモンに蛍は慣れ切っていた。「お前たちがどれだけ甘くなったか、オイラが責任を持って確かめてやるからな!」
「パイモンこそ、集め終わったの?」
「ふふん、オイラはちゃっかりしてるからな! もう終わったぞ!」
功績を確かめるようにパイモンは抱えたカゴを傾けた。カゴの中には丸々としたリンゴが5つほど身を寄せ合っていた。
抱える荷物が多すぎると飛べなくなってしまうパイモン。
記憶にあるモンドの風よりわずかに冷気をまとった風が均等に並ぶ果樹の葉をゆらした。
丘の緑を撫でつける風が蛍の剥き出しの肩や背中にも触れ、巻いたスカーフをご苦労様と言わんばかりに揺らした。
さわやかな口当たりが売りのアップルサイダー。一口目に広がるりんご独自の甘み、そして飲んだ後の清涼感。うるさくない甘みと酸味。細かな炭酸。それらが絶妙に組み合わさった至高の一品。
繊細な味を提供するために使われるリンゴは収穫祭より前、熟れ過ぎていないリンゴを使うそうだ。
蛍たちが現在収穫しているのは、蜜を蓄え始めたリンゴだ。
コンポートでも作ろうかと。
りんごなんて服の袖で少し磨いてから皮のまま丸齧りしていた蛍。皮をうまく剥くことは難しく思えた。
刃物の扱いが得意だと自負していたが、どうも研鑽の余地があるようだ。
★途中で帰ってきたディルックの旦那がアデリンからの報告を受け、厨房に様子を見にくる。
「りんごの皮にはジンクスがある。最後まで途切れずに剥けると願いが叶うらしい。君は知っていたか?」
蛍は素直に首を横に振った。
民間伝承なのだろうか? と口には出さず心の中で問いかけて、ディルックの言葉の続きを待った。蛍の意図を汲み取ったディルックはフルーツナイフを手にとり、言葉を続けた。
「リンゴは当然だが赤い。それを昔のモンドの人たちは心臓や情熱に見立てて、願掛けをした。相手への忠誠や信頼、好意の代わりとしてリンゴを使った手料理を振る舞ったとか。今はそのような風習は廃れて、形骸的なものに変わり果ててしまったけどね」
さくり。さくり。淡々としたディルック口調にまぎれて、彼の手の中でリンゴの白い姿があらわになる。真っ赤な皮はとぐろを巻いた蛇のようになっていた。
★後ろからレクチャー受ける蛍ちゃん
「無事、剥けたな。君の願いが叶うといいのだが」