さみしがりの夜更け.
草神救出作戦を終えて、スメールの観光や依頼で生活を繋げていたおちついた頃。そろそろ次の国の情報を集め出そうか、と動き始めた時部のことだった。砂漠の方で、なにやらアビス教団が悪さをしているという噂を耳にしたのは。
砂漠の奥の奥。ヒルチャールたちがとても凶暴になっているという噂だ。砂漠にも手を差し伸べる計画を進めていくために駆り出された教令院の学者、冒険者、そして護衛のエルマイト旅団の三者が酒場で語ってみせたのだ。凶暴なヒルチャールたちの恐ろしさを三者三様に。新鮮な噂は酒場にとっていいツマミになったのだろう。色とりどりの羽をつけて、噂はスメール中を飛び交った。
とはいえ、それだけのことなら蛍にとってはなんでもないただの風の噂で、よくある任務の始まりに過ぎない。雨林で降る雨のようにそういった噂や依頼は絶えず生まれ、雨足を強め、そして何事もなかったかのように去っていく。だが、例の噂は蛍の足取りを無理やり止めた。
蛍よりもいくぶんか色を濃くした髪色の少年の姿もみられたという。その情報はたいていの人にとって舞台を織りなす砂漠の砂つぶであっても、蛍にとっては意味のある砂金へと瞬く間に変化する。
黄金の波の下。かつての栄華を色濃く残した、地下におかれた門。固く閉ざされた荘厳なる扉が眠るその場所と、金色の髪の少年。こんな出来のいい偶然などあっていいのだろうか。
「そこをどいて、セノ」
「いいや、どかない」
彼はどうしてこんなところにいるのだろう。
噂を聞いた時から、蛍はこの計画を実行しようと心に決めていた。パイモンを宿に残し、一人で兄と対峙することを。もう一度だけあの金の瞳と目が合えば、きっと本音がわかると思ったから。兄に少しでも手が届くと、信じているから。
夜、ナヒーダからスメールに滞在する時は使ってと言われた宿を飛び出して。甘いミルクのような色をした月の麓を飛ぶように走った。心のうちに秘めたこの計画のことを誰にも話していないのに、どうして。どうしてここにセノがいるのだろうか。
「マハマトラとしてのセノではなく、友達のセノとして警告する……。お前はこの先に行くべきじゃない」
蛍は相対する白髪の少年を睨みつけて、吐き捨てるように言葉を繋げる。
「それはあなたが決めることじゃない」
「俺は友達にそんな顔をさせたいわけではないんだが……」
そう言ってセノは少し悲しげに目をほそめる。彼の声色はどこまでも優しくて、穏やかだった。そんなセノのあたたかさに、蛍は次に取り出すべき言葉を失った。
この人はどこまで ”知って” いるんだろう? なぜここにいるのか、なんのためにこの場所を知っているのか。疑問ばかりが浮かんでは消える。しかし、それを口に出すことは決してしない。口に出してしまったら、今のこの瞬間が泡のように弾けて消えてしまう気がしたからだ。
沈黙の中、蛍は彼の瞳を見つめ続ける。このまま無作為に時間を過ごすわけにもいかないのに、と蛍は唇を噛み締める。すると、彼の背後に広がる重厚な夜の気配の中に、一点、きらりと光るものがあった。
よく見ると、遠くにあるその小さな光のまわりにもいくつかの光がぽつぽつと灯るように光が見えてくる。それらはゆっくりと弧を描くようにしてこちらに向かってくるようだった。
――まさか!
そう思った時にはもう遅く、いくつもの小さな灯りはあっと言う間に大きくなり、それがたくさんのヒルチャールたちだとわかったときには、彼らは蛍たちのすぐ近くまで来ていた。
弓を構えたヒルチャールたちは一斉に矢を放つ。蛍は咄嗟に剣を構え、セノを庇うように一歩前へ踏み込み、飛んできた矢を叩き落とした。
「セノ!!」
振り返った時には、セノがいなくなっていた。
しまった、と思った時にはすでに遅く。後ろから強い力で身体の自由を奪われていた。
「やめて! セノ、離して!」
「だめだ。ここでお前を行かせる訳にはいかない」
必死でもがく蛍の腕を、セノは力を込めて押さえつけた。
「どうして……」
「どうしてもだ。俺を信じてくれ」
セノの声は真剣そのもので、いつものおどけた様子は一切感じられなかった。その声色を聞いて、蛍はようやく心を解くように、セノに抵抗することをやめた。彼が自分を止める理由が知りたかったからだ。
蛍の意志を見とったセノは、いつかのように蛍の手をとって走り出す。
「……」
「走りながらでいいから聞いてくれ。お前の兄はここにはいない」
「どうして言い切れるの」
「俺が確認したからだ」
「……どういうこと?」
「あいつらが連れ去ったのは教令院の少女だ。だからお前がここに来た理由はどうあがいても満たせないぞ」
「でも、少年って……」
「噂は噂にすぎない。きっと彼らも、今のおれたちみたいに、追いかけられていたんだろう。焦り、恐怖。そういった負の感情で押し潰されながら見たものは不確かになるだろう。噂に残ったのは強く印象付けられたものと、そうであってほしいという妄想がごっちゃになった……」
そうセノは冷静に分析を下してから、蛍の方をちらっと盗み見た。乾いた夜風に乗って、後ろへ後ろへと流される輝きを失わない蛍の金糸。その一端を眩しそうにみつめる。
「……それにしても、こんなところで会うことになるとは予想外だった」
「私も」
「もう、いいか?」
「……いいよ、ありがとう。セノのおかげで落ち着いた」
「お前との共闘は悪くないからな。七聖召喚でも、実戦でもだ」
「ふふ、これが終わったら七聖召喚、またやる?」
「その約束、反故にするなよ?」
セノの言葉を皮切りに、二人は足を止めて後ろを振り返る。ヒルチャールの大群に切先を向けて、距離を詰める。月夜を背景に、二人の獲物が夜の合間を縫うように月を照り返す。
数十分後には、シルクのような肌触りの砂漠が静寂をのみほして、世界は一つになった。
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