レノックス・ラムは緑の瞳の夢を見るか?(未完) 1
レノックス・ラムがいつも見る夢がある。
ヘーゼルグリーンの菱形の瞳孔に冬の海のような灰色の虹彩をした不思議な瞳の男と、一緒にいる夢。ここではないどこかで、笑ったり、踊ったり、時には喧嘩をして仲直りをしたり。幼い子どもの世話をしていることもあれば、ふたりだけで晩酌をしていることもある。
名前はわからない。夢の中でははっきりその名を呼んでいるにも関わらず、記憶は目が覚めると同時に急速に霧散し、夢の概要と不思議な瞳のことしか覚えていないのである。
不愉快な機械音が目を覚ますべき時間であることを告げ、ディスプレイに今日の天気が示される。本日は終日曇り、桜の時期を過ぎて気温は暑くも寒くもなく。
起き上がり、レノックスは窓の外を見た。わざわざ見なくとも、先ほど得た情報と違わない灰色の曇り空が広がっているのはわかっている。天気予報は正確で、誤報が生じたことは殆どない。だがレノックスはこの頃空を、特に曇り空を見上げるようになった。薄曇りの空の灰色は、夢で見る不思議な瞳の虹彩と同じ色だからだ。
レノックスは着替えながら、今日の夢のことをできる限り反芻する。今日はどこか山の近くの草原が舞台で、レノックスは沢山の羊と共に歩いていた。それらは生きた羊だった。生きた羊は、幼い頃に観光牧場で見たきりで、それ以降は博物館の剝製か立体ホログラムの羊しか見ていないのだが、それにしては羊の見た目も様子も非常にリアルだった。そしてレノックスが歩く行き先に、白い衣をまとった不思議な瞳の男が立っており、レノックスを待っていた。男は若い見かけにも関わらず老成した振る舞いと広い見識があり、夢の中のレノックスはこの人物に恩を感じ、また尊敬し敬いながらも、呆れと哀れみ、そして愛情を持って接していた。レノックスが男の近くまで来た時、男が何かを言って、レノックスはそれに答えた。そしてふたりで笑っていた。幸福な気持ちだった。だが何を話していたのか、目覚めてしまった今ではもう何も思い出せなかった。今日はそれだけの夢だった。
レノックスの自宅は、勤めているラボから少し遠い。毎朝、遠距離通勤のコミュータ(通勤者)で満員になっている車両に乗り込んで職場へと向かう。レノックスのようなコミュータは、ラボにはあまり多くない。職員の多くはラボに近い場所へ居住しており、徒歩、あるいは自転車(健康のためにと最近流行っている)やエアバイクで通勤している。ハイクラスに至ってはエアカーの送迎がある。ビル上層に居住している場合、それが最適かつ最短であるからだ。
乗客でみっちり詰まった車両の中でも、レノックスはあまり窮屈ではなかった。彼は非常に背が高く、まわりの人々よりも頭ひとつ抜けているからだ。そのため視界は開けているし、空調からも距離が近い。人間と、そしてアシストロイドの色とりどりな頭を眺めながら、レノックスは職場へと向かった。
レノックスの職場は、フォルモーント・ラボラトリィ。この街で最も、優れた頭脳が集まる場所だ。最近ではアシストロイドの研究開発を第一線で行っており、特にレノックスの上司、知能機械情報部の部長であるフィガロ・ガルシア博士が在籍していることでも有名だ。今や街中にある大型モニタを始め、通勤車両に取り付けられた小型長方形モニタ、ホログラム広告、インターネット、その他あらゆるメディア、果ては娯楽雑誌と多岐に渡ってガルシア博士の姿を見ることができる。
ガルシア博士は細身の長身に、白い肌、灰色の瞳、何より人間離れした作り物のような端正な顔立ちが目を引く、美しい人物だ。『セクシーな知的人物』で二位に選ばれているほどで、成程、あの美しい容姿をした彼が作り出したアシストロイドの顔立ちが、魅力的なのも頷ける。
インタビュアがガルシア博士に「ご自身の容姿を、アシストロイドを作る際の参考になさったのですか」と尋ねると、彼はその美しいかんばせを穏やかに横に振り、「いえ、まさか。自分と似た顔を作りたいと思ったことはありません。同僚の顔を参考にしたり、あとは美術館へ行って彫刻や絵画を観察したりして、皆さまに好まれる造形を研究しました」と答え、にこりと微笑んだ。その微笑みに、インタビュアから感嘆の吐息が漏れた。
ともかく、ガルシア博士はこのような人物であるから、もはやラボに出資しているスポンサの一部は、ラボの研究そのものではなく、彼の美しい容姿に金を出していると言っても過言ではないほどだった(そして出資の見返りに、ガルシア博士が彼らの会社や商品の宣伝をさせられることも、ざらではなかった)。
レノックスが通勤車両を降りた時、駅の売店に陳列された雑誌の表紙に、ガルシア博士の姿があった。駅を利用しないハイクラスの彼は、きっとその雑誌が飛ぶように売れていることを知らないだろう。
レノックスは、雑誌を求める人々で列ができた売店に並び、朝のコーヒーを買うついでにその雑誌も買った。雑誌の表紙には最新技術が使われており、写真の中の人物は短い動きをループする。表紙の写真のガルシア博士は爽やかな微笑みを浮かべて、時折片目を閉じてウィンクをした。
午前の仕事を順調に終えたレノックスは、所属している部署の主任であるファウスト・ラウィーニアと共に食堂に来ていた。基本的に彼に与えられた個室から出ることがないファウストを、レノックスが無理に食堂へ連れてきた形だ。そうでもしないと、ファウストは休憩も食事も取らずに仕事に没頭してしまうからだ。
食堂は、トレイを持って列に並び、配膳係から食事を提供されるという旧式なシステムだ。所内にあらゆる最新機器が導入されても、なぜかこれだけは進歩がない。大学の食堂でさえ、今は各テーブルに書かれたコードを端末で読み取って注文を行い、ドローン、あるいは簡易ロボットが配膳するというのに。
レノックスとファウストはそれぞれ定食を受け取り、席についた。食事は、職員ならば無料で提供される。その上味も良いので、三食をここで済ます職員がいるほどだ。
「それは?」
レノックスがテーブルに置いた雑誌を指して、ファウストが言う。裏表紙に、新しい栄養補助食品の写真が載っている。
「サプリメント? 君が?」
「いえ」レノックスは雑誌を裏返した。ガルシア博士が微笑む、例の表紙だ。
「君もあの人のファンなのか」
「ファンではありませんが、いい写真だなと思ったので」
それに、夢に出てくる男をどこか彷彿とさせる微笑みでもあった。
ふたりが皿の半分を空にした頃、食堂の入り口のほうが騒がしくなった。
「何事だ?」
ファウストが顔を上げて、そちらを見る。食堂の入り口はレノックスの背面にあったので、体を捻ってそちらを見た。
食堂にいる職員たちの視線が、ほぼ全て、そちらに集まっていた。
「スノウ様、ホワイト様、本当に、本当に放してください!」
悲壮な響きの声が、ざわめきの向こうから聞こえてくる。
「ダメじゃ! 今日もまたゼリーで済まそうとして! 我らもう看過できぬ」
「たまには栄養のある温かい食事を取るのじゃ!」
「栄養なら取れてますから……」
「我は栄養のある温かい食事と言ったのじゃ」
三人組の騒がしい声。その主は、フィガロ・ガルシアと彼のアシストロイドであるスノウとホワイトだった。ガルシア博士はその端正な顔を歪ませ、自身を引きずるアシストロイド二体に抵抗を試みるも、メカニズムでできた重量のある彼らに敵うはずもなく、ずるずると食堂まで引きずられて来たのだろう。所内よりもメディアでその姿を見る頻度の方が高い有名人の登場に、人々の注目が集まっていたのである。
レノックスはちらりと雑誌の表紙を見た。柔和な笑みを浮かべて品よく微笑む写真の姿と比べて、肉眼で初めて見る現実のガルシア博士は情けない表情を浮かべ、アシストロイドに無様に引きずられている。
「わかりましたから、もう放して……。視線が集まっているので……」
「わかればよろしい」
「ほら、トレイを持つのじゃ」
仕草も見かけも瓜ふたつな双子のアシストロイドは、降参したガルシア博士を列に並ばせると、嬉々として彼にトレイを渡す。
「注文は我がしよう」
「スムージーだけでいいです」
「温かい食事」アシストロイドが念押しする。
「ならスープで」
「もっと栄養を取るのじゃ。お魚の定食が良いじゃろう」
「そんなに沢山、食べられませんよ……」
「しょうがないのう。ご飯は小盛りにしてもらうかの」
賑やかな三人組は賑やかに注文を済ませると、丁度、レノックスとファウストの隣のテーブルに座った。
「あ、」
驚いて、レノックスは思わず声が出た。それに反応して、ガルシア博士がこちらを見た。モニタで見るよりも痩せていて、色が白い。色付きのゴーグルをしていた。
「やあ、ファウスト。それに、君はレノックス・ラムだよね」
彼はメディアに出る時用の、よそ行きな笑顔を浮かべて挨拶をする。
レノックスはガルシア博士の部署に所属しているが、直に会ったことはなかった。仕事の指示はいつも直属の上司であるファウストからされている。だから、ガルシア博士に名前を呼ばれて思わず目を見開いた。
「あれ、違った? 自分の部下の顔は覚えているつもりだったんだけど……」
「いえ、ラムです。申し訳ありません、顔を覚えていただけているとは思わず、驚いてしまいました」
「よかった。この前は助かったよ、ありがとう」
「いえ」
この前というのは、オーエンによる襲撃事件の時のことだ。レノックスは一部始終を、閉じ込められてしまった研究室のモニタで見ていた。そして、その事件の原因であるカルディア・システムの開発を行ったガルシア博士のことを、レノックスはファウストと共に擁護したのだ。
ガルシア博士はトレイに乗った定食のスープに口をつける。彼の皿に盛り付けられている量は、ディスプレイで見た見本の写真に比べてはるかに少ない。半分もないのではないだろうか。それを非常にゆっくりとしたペースで口に運ぶ。咀嚼が長い。その様子を、アシストロイドたちが対面に並んで見つめていた。
ガルシア博士のアシストロイドは彼の手製だ。プロトタイプであり、それでいて最新の研究成果が反映された、最新型でもある。そんな、子どもの姿をした双子のアシストロイドが、ある意味『親』である博士を見つめる様子は、まるで『我が子』を見守るようだった。
フィガロ先生を育てたのは彼らだ。見かけは逆転しているが、何も不思議なことはない——いや、違う、それは……、あれ、何の記憶だ?
レノックスは思わず、片手で額を押さえた。耳鳴りがしていた。
「どうした?」
ファウストが、レノックスの様子に気づいて声をかける。
「いえ、なんでもありません」
「彼、具合が悪いの?」青白い顔色をしたガルシア博士が言う。彼の方がよっぽど具合が悪そうに見える。
「大丈夫です」
耳鳴りは、既に治まっていた。
「僅かな不調でも、それを見逃すと後に響く。午後は休みにするといい。ファウスト、あとで彼の代わりに早退の申請をしておいてもらえる?」
医者のように、ガルシア博士が指示する。その的確で簡潔な物言いが、なぜか懐かしかった。
早速、早退手続きがなされたレノックスは、システムによって研究所から速やかにはじき出されてしまった。パスも生体認証も応じてくれず、ゲートは一切開かない。
本当に何ともないのだが……、とレノックスは苦笑し、仕方がないので帰路に就いた。
今朝コミュータで満載だった車両は、今は殆ど乗客がいない。八人がけのシートの端に座って、レノックスは目を閉じた。そして、規則的な揺れでまどろみ、夢を見た。
どこか、古い時代の建物。天井にはシャンデリアが吊るされ、暖炉と上等な布が張られたソファがある。豪奢な作りの内装だ。
そこに、双子の子どもと、青い髪の男がいた。
「ほら、フィガロちゃん、これも食べるのじゃ」
「お主、これが好きじゃろう?」
「好きだったのは大昔のことですよ」
「えー、せっかく用意したのにぃ」双子の声が重なる。
「はいはい、食べます、食べますよ」
フィガロが菓子と紅茶を押し付けられて、強制的に茶会に参加させられていた。
「おや、レノックスじゃ」
「レノックスもおいで。一緒にお茶会じゃ」
レノックスを見つけた双子は、彼を手招きした。
「ああ、助かるよ、レノ」
山のように盛られた菓子を前にして辟易した顔のフィガロが、お茶会に追加の犠牲者を得て安堵の表情を浮かべる。
レノックスがフィガロの隣に座ると、ポットがひとりでに宙に浮き、新たに現れたカップへ紅茶を注ぐ。皿の上には、双子が菓子を盛っていく。
「あの、俺もそこまで沢山は……」
しかし双子は菓子を盛る手を緩めない。子どもはお菓子が好きでしょ、と言いながら、皿の上に菓子をますます追加する。
お菓子は好きだが、量が量であるし、なにより子どもではない。しかしここで、『もう四百歳も過ぎているので』などと言えば、数千歳の彼らに鼻で笑われ、微笑ましい目を向けられるのは明らかだった。双子の前では、長寿で偉大な魔法使いであるフィガロでさえ、子ども扱いなのだから。
菓子をこっそり押し付けあったり、隠して後で子ども達にあげようと画策したりしているフィガロとレノックスを眺めながら、双子は幸福そうな表情を浮かべていた。
「レノックス」スノウが呼んだ。
「はい」呼ばれて返事をした。
「フィガロちゃんと仲良くしてくれて、ありがとう」ホワイトが言う。
「はい」
隣に座るフィガロが、照れているのか、レノックスのことを肘で小突いた。
目が覚めたレノックスは、自宅の最寄り駅に降りた。
なにか、幸福な夢を見ていたことはわかるのに、その幸福な夢の輪郭さえも思い出せないことを歯がゆく思いながら、彼はプラットホームを立ち去った。
―――――――――
2
通知音と共に、ティスプレイにポップアップが現れる。メッセージ。送信者はフィガロ・ガルシア。
食堂で隣り合わせて以来、ガルシア博士から直接、レノックスに仕事の指示が来るようになった。どのような経緯かはわからないが、おそらく本人の意思ではないだろう。彼のアシストロイドが、そのように仕向けたに違いない。
ガルシア博士から送られてくるメッセージはどれも簡潔で、その多くは仕事の指示にデータファイルが添付されているだけだ。だが、AIで抽出された文章のペーストや、アシストロイド任せではなく、フィガロ・ガルシア自身からメッセージが送られてくることに、レノックスは好感を持っていた。
レノックスは新たに受信したメッセージを確認した。先日提出した分析結果に問題がなかったことを知らせる内容だ。
『問題なし。お疲れ様』
書いてあるのはそれだけだ。僅かでもデータ容量を軽くしたい、エンジニアらしい文面に思えた。
レノックスは伸びをして、立ち上がった。時刻は昼を過ぎていた。昼食を食べ損ねている。同じ研究室の面々は既に食堂へ去った後で、ファウストからも『今日は研究室で食べる』とメッセージが入っていた。つまり、食堂に誘わなくても大丈夫、という意味である。仕事に集中しているレノックスに気を遣ってくれたのだ。
レノックスは、部屋でおとなしく眠っていた羊型のアシストロイドに触れた。羊たちは目を覚ますと、部屋を移動するレノックスの後をついて回る。
「散歩に行こう」
その言葉に羊たちは跳ねて、喜びを表現した。
レノックスは羊たちを従えてラボの外へ出ると、近くにある中央公園に足を運んだ。中央公園はこの街で最も樹木が多い場所だ。人造ではあるが森林や川があり、鳥をはじめとした小動物の住処になっている。芝の広場もあり、手入れがされた花壇がいつでも美しい草花が目を楽しませてくれる、市民の憩いの場である。
レノックスは芝の広場まで来ると、羊たちを自由にさせた。電気仕掛けの羊達は実際に草を食むことはできないが、体を器用に動かして、本物の羊がするように草を食む真似をする。レノックスはその様子を、ベンチに座って眺めていた。
電気羊に不満はない。世話の必要がほとんどないので手間がかからないし、見かけも可愛らしい。何より、作ったのはレノックス自身だ、羊たちには愛着と愛情がある。
だが、夢で見た本物の羊のことが胸に引っかかっていた。
羊。
草原。
雄大な山々。
穏やかな風が吹き渡る。
杖を持ち、羊飼いだった自分。
そして、白衣をまとった不思議な瞳の男。
どうしてこれらが、こんなにも気にかかるのだろうか。
また耳鳴りがしている。
レノックスはふうと息を吐いて、公園に来る途中で買ったサンドイッチを食べようと、カバンに手を入れた。そして、写真のガルシア博士と目が合った。爽やかなウィンク。この雑誌を買ってから時間が経つが、毎日カバンから出し忘れていた。まだ開いてもいない。
雑誌をカバンから出し、その下に入り込んでいたサンドイッチと、コーヒーのボトルも出す。レノックスはサンドイッチの包みを開けると、それにかぶりつきながら雑誌をめくった。ハイクラス向けとはいえ、女性娯楽誌にまで彼の寄稿があるとは、と驚きつつ読み進める。記事は『アシストロイドとの楽しい休日のために』と題されていた。しかし、楽し気なタイトルに対して、書かれている内容はアシストロイドの取り扱いについての基本的な忠告だ。つまり『水辺に連れて行くな』とか、『火気に注意』といった内容である。アシストロイドの見かけは人間に非常に近く、知性があり、良き友人だ。だからこそ、アシストロイドが『機械』であることを忘れがちになる。人間の友人と過ごすように海やプールで泳いだり、バーベキューをしたりしたい人も多いだろう。だがそれが彼ら『機械』にとっては非常に危険であることを、記事は伝えていた。フィガロ・ガルシアの写真を添えて(尤も、この雑誌にとってどちらがメインであるかは明白だ)。
ガルシア博士の記事の他には、最新の服と宝飾品、美容と流行りのスイーツの情報、恋愛占いが掲載されていた。おうし座の欄には『思いがけない恋に落ちる予感』と書かれていた。レノックスはそれらを眺めると雑誌を閉じ、サンドイッチの包みを丸めた。
レノックスが羊を眺めながらコーヒーを飲んでいると「あの」と声がかけられた。
見ると、学生と思しき少年と、その少年によく似た金髪の青年が立っていた。ふたりとも、同じ色の瞳をしている。兄弟だろう。
「羊飼いさんですよね?」
羊飼い、と呼ばれて、レノックスは目を見開いた。心を読まれたような気がして。
「あ、ごめんなさい、急に話しかけて……。僕はミチル・フローレスといいます」
「私はルチル・フローレスです。あの羊さんたちのオーナーさんですよね?」
なるほど、それで『羊飼い』と呼ばれたのか、とレノックスは納得した。
「ああ」レノックスは頷いた。「レノックス・ラムだ」
「ラムさん」ミチルが言う。
「レノックスで良い」
「レノックスさん、羊に触ってもいいですか?」
レノックスは頷いた。
「やさしく撫でてやってくれ」
「ありがとうございます!」
ミチルは嬉しそうな笑顔で、草を食む(仕草をしている)羊たちへ近づくと優しい手つきで彼らを撫でた。撫でられた羊たちは、嬉しそうにしている。
「ありがとうございます」ルチルが言う。「羊のアシストロイドは初めて見ました」
「自分で作ったんだ」
「え、ご自分で?」
「ああ」ラボの人間だと明かそうか迷ったが、初対面の相手に開示することでもないと思いなおして「趣味で」と続けた。嘘ではない。
「すごい。じゃあ、エンジニアさんなんですね」
ルチルは温かい眼差しで、羊と戯れる弟を見守っていた。
「仲が良いんだな」
「はい」ルチルは頷いて、何かしらを言いかけて、止めた。彼もまた、初対面の相手に開示することではないな、と思い直したのだろう。歳が離れているようだし、何かしらの事情があるのかもしれない。
「私も、触ってきていいですか?」
彼の瞳は好奇心に輝いていた。
「もちろん」
「ありがとうございます!」
弟と同じ、嬉しそうな笑顔で羊に近づいて行く。
羊たちに囲まれ、賑やかに、楽しそうに笑う兄弟の様子に、レノックスは目を細めた。しかし同時に、なぜか隣が寂しいような心地がしていた。
―――――――――
3
レノックスが羊たちを連れてラボに戻ると、エントランスの電子掲示板に人が集まっていた。
顔見知りの職員に「何があったんだ?」と聞くと、彼は掲示板を指さす。
「システム障害だってさ」
電源が落ちて画面が暗くなった掲示板に、張り紙がしてある。だが、張り紙は小さい上に、人だかりができていて近づけそうもない。彼は張り紙を撮影した写真を、レノックスに見せてくれた。
【 重要なお知らせ 】
現在、研究所内のネットワークがエラーにより停止しています。
この問題を解決するため、午後から所内の全システムを停止しメンテナンス作業を行うことになりました。
つきましては、職員の皆様には大変ご迷惑をおかけしますが、午後からの作業に伴い、速やかに帰宅していただきますようお願いいたします。
なお、作業終了後、再度システムを立ち上げますので、来週から通常通りに業務に復帰できるよう準備いたします。
ご不便をおかけしていますが、ご理解とご協力をお願いいたします。
いかにも、AIの生成した文章といった感じがする慇懃なアナウンスだった。
外に出ている間に、大騒動があったことに驚きつつ、レノックスは
「それにしても、ネットワーク障害だけで全システムを停止させるのか?」
と疑問を呈した。
レノックスの言葉に、顔見知りの職員は肩をすくめる。
「実際にはウィルスの駆除じゃないかな。あるいはクラッキングへの防衛戦が長引いてるとか」
以前、クラッキングによってアシストロイドが暴走して以来、研究所の防御態勢はかなり厳しくなった。ウィルスを感染させることも、クラッキングも容易ではないはずだ。彼の仮説が真だとすれば、新型のウィルスに感染したか、より強力な電子攻撃が行われており、その延焼を防ぐための全システム停止だと考えられる。いずれにせよ、レノックスも彼も専門外なので憶測の域を出ないが。
職員と別れて、レノックスは自分の研究室へ戻った。他の研究員は誰も残っておらず、レノックスのデスクに付箋で『いつものところで飲んでる』と伝言が残されていた。金曜の午後だ。早上がりになったし飲んで帰ろうという話になったのだろう。
レノックスは羊たちを定位置に寝かせ、念のためマナプレートを抜いた。可哀そうだが、クラッキング対策のためだ、仕方がない。それから自分のデスクに戻るとマナプレートを物理鍵付きの引き出しに入れ施錠した。そのあと、午後提出する予定だったデータに目を通した。不備がなかったのでそれを外部メモリに入れ、ポケットに仕舞う。
身支度を整え、レノックスは研究室を出た。彼は廊下をエントランスとは逆の方向へ進むと、ある扉の前で入室のリクエストをした。ガルシア博士の部屋だ。数分待つかと思ったが、予想に反して扉は直ぐに空いた。
ガルシア博士の研究室に入るのは、初めてだった。薄暗い室内に、様々な計器と大きなモニタ、それから外装のないボディが収納された円柱型のポッドが置かれている。
部屋には誰もいなかった。ガルシア博士も、彼のアシストロイドも見当たらない。
「あの、ガルシア部長……」と声をかける。
「何の用事? 来る前にメッセージを送ってもらいたいし、できれば直接来ないでほしいんだけど」
物陰から、ひりついた声が聞こえてきた。レノックスの突然の訪問に、苛立っているようだ。
「ネットワークが使えないので、今日の報告を直接持ってきました」
「ネットワークが使えない?」
ガルシア博士はポッドの陰から出てきた。彼はデスクに置かれたモニタを確認して、ため息をついた。
「これ、いつ直るって?」
「来週には、と」
「ああ、そう……」小さく舌打ちをした。
「今日は帰宅するようにと指示が出てます」
「そんな事態に?」
「はい。所内のシステムをすべて停止して、復旧作業に取り掛かると」
「シャットダウンまで残り時間は?」
レノックスは時計を確認した。
「あと二十分ですね」
「そうか、ありがとう。機器の主電源を落とすのを手伝ってもらえる?」
彼は言いながら、既に機器の主電源を落としていた。復旧した時の電圧で機器が壊れるのを防ぐためだ。
レノックスは彼に従って、機器の電源を落として回った。二人がかりで部屋中を回って、作業はすぐに終わった。
ガルシア博士はデスクに戻ると、モニタを確認し、モニタとコンピュータの電源も落とす。
「助かったよ」
「いえ。メモリをお渡ししても?」
「忘れてた。そこに置いて」
レノックスはガルシア博士が指定した場所へ外部メモリを置こうと、デスクに近づいた。
「ああ、待って、それ以上近づかないで」
デスクに向かっていたガルシア博士が、身体を強張らせる。彼は決してレノックスの方を見ようとせずに、少しずつ後退した。
アシストロイド依存症。神経質で繊細なハイクラス層が陥っている、現代社会の歪(ひず)みのひとつだ。他人との交流を拒み、己に都合のいい人形遊びに傾倒した結果、更に他人との交流への耐性が低下する負のスパイラル。完璧に見えるフィガロ・ガルシアのウィークポイントでもある。
しかし、ガルシア博士と、かつて彼のアシストロイド開発のパートナーだったラスティカ・フェルチ博士が対人恐怖を抱えていたからこそ、アシストロイドに関する技術は飛躍的に発展し、遂には心——カルディア・システム——を得るに至った。いまや多くのアシストロイドにこのシステムが搭載され、彼らの主権が認められるようになった。
しかしそこに至るまでには大きな事件があった。オーエンと呼ばれる全く新しいアシストロイドが起こした、フォルモーント・ラボラトリィ襲撃事件だ。
レノックスは、それを(モニタ越しに)見た。カルディア・システムを搭載した最新型のアシストロイド。いや、アシストロイドと呼べるのだろうか。彼は誰のこともアシストしない。完全に自由で、完全に孤独な、人間と類似の存在。異なるのは身体が機械であること。
オーエンを、いや、カルディア・システムの存在を知った時、レノックスは唖然とした。ガルシア博士とフェルチ博士の機械に心を与えるようという発想と、それを実現してしまった技術に。
そして、研究者として、この才能が途絶えてしまうのは惜しいと思った。この人の下で働き続けたい。気づけば、ファウストと共に、これが社会に如何に有用であるかを、上層部に説いていた。ファウストは猫型のアシストロイド、レノックスは羊のアシストロイド越しに。彼もまた同じ気持ちだったに違いない。
レノックスはガルシア博士が充分な距離を確保したことを確認してから、彼のデスクに外部メモリを置いた。
「では、俺は帰ります。お疲れ様でした」
そう言ってレノックスが踵を返した時、大きな物音がした。振り返ると、ガルシア博士がうずくまっている。
「大丈夫ですか」
慌てて駆け寄り、手を差し出す。
「待って、来ないで、大丈夫、ちょっと立ちくらみがしただけだから」
しかし、顔を上げたガルシア博士は真っ青だ。血の気が完全に引いていて、皮膚の下の血管が青く透けて見えている。レノックスを見るその目も、どこか焦点があっていない。
今すぐ彼を医務室へ連れていかなければ。
頭ではそう思うのに、レノックスは動けなかった。彼の瞳を見たからだ。灰色の海と曇り空の狭間で輝く、緑の星。それは、いつも夢で見る男の瞳だ。
「あなたは……」
――誰なんですか?
レノックスの夢に巣食い、レノックスの心を乱す男。いつかは神で、また別の時には世界を蹂躙した災禍。あるいは主人の師で優れた教育者、もしくは湖畔の集落に済む町医者。レノックスの脳裏に、様々な姿が駆け巡る。そのいずれの姿も緑の瞳をしていた。
「フィガロ――」
様?
先生?
混乱する。耳鳴りに頭痛が加わる。
「レノ……?」
かすれた声で、呼び掛けられた。
緑色の瞳はっきりとレノックスの姿を捉えて、逸らさない。青ざめた顔に少しだけ血の気が戻ったように見えた。
彼はレノックスが差し出していた手を掴んだ。しかし、その手にほとんど力が入っておらず、立ち上がることができないまま座り込んでいる。
レノックスはその瞳をもっとよく見ようと、顔を近づけた。
彼の瞳に、自分が写っている。
夢は幻に過ぎない。
だが、この距離を知っている。
いや、知っていると、錯覚しているのか。
それにしても、なんて、懐かしい。
もっと、近くに。
欲求が湧き上がる。腕を彼の背中に回した。彼もまた、レノックスに身体を寄せる。互いの息がかかる程に、顔が近づく。
ガルシア博士の頬に、安心したような笑みが浮かぶ。そして、がくりと身体は力をなくし、レノックスの腕の中に倒れ込んだ。
「ガルシア博士!」
呼びかけに応じない。意識を失っている。
「フィガロ! フィガロや!」
「フィガロちゃん、返事して!」
どこからか声がする。見回すと、デスクの上に端末がある。そこからの音声だ。
「誰か、そこにおらぬか!」
「います。レノックス・ラムです」
「おお、お主か。フィガロに何があったのじゃ」
「意識を失っています。真っ青で、血の気がありません」
「引き出しの中にある注射を打つのじゃ」
「医務室に連れて行きます」
「いや、医務室にはもう誰もおらぬだろう。」
「エアカーを手配した。それに乗って、我らの家まで来るのじゃ」
「医者に見せなくていいんですか」
「万が一に備えて、我ら、医療の知識もインプットしておる」
「万が一に備えて、ある程度の医薬品の備蓄もある。フィガロを頼むぞ、レノックス」
通信が途切れる。レノックスは腕にいるガルシア博士を一旦寝かせ、引き出しを漁る。簡易式の注射が直ぐに見つかり、それをガルシア博士に打った。それから外部メモリを彼のデスクの引き出しに仕舞った。替わりに、彼の端末を回収してポケットに入れる。研究室内を見回したが、他に私物らしきものは見当たらなかった。
レノックスは、ガルシア博士を抱きかかえた。脱力した成人男性(しかもガルシア博士はなかなかの高身長だ)はかなりの重量がある。日頃筋トレをしておいてよかった、と自分の努力に感謝をしながら、レノックスは研究室を出た。
廊下を進む。所内は無人だった。職員は殆どが既に帰宅したのだろう。誰にも見られず、ガルシア博士を運べるのは都合がよかった。ただでさえ、目を惹く人だから。
外では運転席がない最新型のエアカーが、アイドリング状態で待機していた。近づくと、側面が中央から左右にスライドして開く。内部は黒い革張りのシートが前後対面に配置され、壁にちいさなテーブル備え付けてあった。明らかな高級仕様である。
そして、車内は無人だった。てっきりガルシア博士のアシストロイドが迎えに来ると思い込んでいたレノックスは、立ち尽くしてしまった。
「レノックス」
促すように、アシストロイドが呼ぶ。車内のスピーカーから声がしていた。
レノックスはエアカーに乗り込み、シートにガルシア博士を横たえた。先ほどの注射が聞いているのか、顔色がかなり良くなっており、レノックスは安心した。
彼の無事を確認して、レノックスは車外へ出ようとした。博士のアシストロイドは家まで来るように言っていたが、家主であるガルシア博士の意識がない状態で勝手に上がり込むのは気が引けた。だが振り返ると既にドアは閉まっており、エアカーは浮遊し始めていた。しかたなく、レノックスは空いているシートに座った。
エアカーは音もなく上昇し、ビルの合間を安定した挙動で移動していく。上空から眺めるフォルモーント・シティは、まったく異なる顔を見せる。広告や看板のネオンが賑やかな地上付近に対して、いまエアカーが飛行している辺りにはそれらの類は殆どない。おそらく、ハイクラスの生活区域だからだろう。閑静な住宅街、というわけだ。
レノックスはエアカーに乗るのは初めてだ。だが、この浮遊感を知っている。この感覚も、どこか懐かしい。
なんだか最近は、そのようなことばかりである。
デジャビュは、脳が作り出す体験の誤認識だ。実際には経験したことがない体験が、あたかも経験したことがあるかのように感じられる。それは記憶の蓄積と類型化の結果によって引き起こされるものであるという説明や、あるいは忘れてしまった夢の記憶が想起されているのであるという説明もある。
いまのレノックスには、後者の説明がしっくりきていた。いま、目の前に横たわっているガルシア博士の瞳は、夢で見た男のものと同じだった。ならばきっと、最近感じている懐かしさはどれも、いまは忘れてしまった夢で見た記憶なのだろう。
エアカーはレノックスが思っていたよりもずっと早く、目的地に到着した。
高層ビルに近づくと、壁面が口のように開く。そこへエアカーが滑り込んだ。駐車場だ。似たような高級エアカーがいくつも停まっている。
「レノックス。よく来たのう」
一体のアシストロイドが、レノックスを出迎えた。そのそばをストレッチャが自走している。レノックスには、そのアシストロイドがガルシア博士が所有しているスノウとホワイトのどちらなのかはわからなかった。
レノックスはガルシア博士を抱き上げると、ストレッチャへと横たえる。
「こっちじゃ」
アシストロイドはストレッチャと共に、奥へと進む。
無機質な廊下を進み、エレベータに乗る。その扉が開いた先は、廊下ではなく、既に居室だった。
吹き抜けの広々とした空間で、正面にあるガラス張りの窓からはフォルモーント・シティが一望できる。部屋の中心にはソファが置かれたリビング、右手にダイニングキッチン。吹き抜けになっているリビング部分の左壁面にはちょっとしたロフトがあり、下階にはコンピュータが置かれ、上階壁面は本で埋め尽くされていた。
アシストロイドはエレベータを降りてすぐ右手にある階段を上る。ストレッチャは段差に対応しているらしく、階段を追走していった。レノックスもついて行くとベッドが置かれていた。ここが寝室らしい。そこで、もう一体のアシストロイドが待っていた。手には医療器具と思しき装置を持っている。
「フィガロちゃんを移動させてもらえる?」と、レノックスを連れて来た方のアシストロイドが言う。
アシストロイドに手伝いを頼まれるのも随分不思議だと思いながら、レノックスはガルシア博士をストレッチャからベッドに移動させた。
待機していたアシストロイドが、持っていた装置でガルシア博士に処置を施す。
「もう大丈夫じゃ。少し休めば、元気になる」
「そなたが来てくれてとても助かった、礼を言うぞレノックス」
幼い子どもの見かけのアシストロイドから、長老のような風格ある物言いで礼を言われ、不思議と背筋が伸びる。
「いえ。あの場に俺がいてよかったです。誰もいないところで倒れなくて」
「そなたの言う通りじゃな」
「我ら、そなたに礼がしたいのじゃが、時間はあるかのう?」
「時間はありますが、礼をされるほどのことでは……」
「お茶会じゃ!」「お茶会をしよう!」
可愛らしく声を合わせて、アシストロイドだちは階段を下りていく。子どもらしいはしゃぎようで。
ガルシア博士のアシストロイドはいささか強引なたちらしい。
菓子は好きなのでお言葉に甘えてお茶をご馳走されることにし、階段を下りてようとして、ふと、棚に置かれた人形が目に留まった。
三角錐と球体を組み合わせた単純な造形での羊飼いの人形と、綿が貼り付けられもこもことした羊の人形が数体。丘陵を模したらしい小さな箱庭に、それらが置かれていた。
特にレノックスの視線を留めたのが、羊飼いの人形だ。絵具で彩色された羊飼いの人形は、黒い頭髪に、赤いカバンを持っている。
レノックスがついて来ていないことに気が付いたアシストロイドたちが、階段を上って戻って来る。
「この人形は?」
「ああ、昔、フィガロが作った人形じゃの」
「昔……」
「子どものころに見た夢に出て来たそうじゃ」
子どものころに見た夢。
羊飼いの人形の姿は、夢の中のレノックスの姿に酷似している。赤いカバンに、白と黒の羊を連れて、緑の丘陵を歩む羊飼い。
同じ夢を見ているというのか。
確信に近い疑問を抱いて、レノックスは階段を下りた。
―――――――――
4
夜中に目が覚めた。時計を見れば、布団に入ってまだ二時間ほどしか経っていない。
機械のモーター音が低い耳鳴りのように響く他は音がない静かな部屋で、レノックスは高鳴る心臓を落ち着かせようと数度深呼吸をし、それからベッドを出た。
キッチンに立ち、グラスに水を注ぎ、飲み干す。
不思議な瞳の男の夢を見た。これまで見たどの夢よりも、感覚が鮮明で鮮烈だった。
夢は、湖の上空から始まった。レノックスは箒にまたがって夕方の空を飛んでいて、眼下には湖と湖畔の集落が見えた。目的地はその集落の少し外れにある深い青色に塗られた屋根の建物で、その庭先に男が立っていた。あの不思議な瞳の男だと、直ぐにわかった。男は、こちらを見上げていた。
レノックスはその建物の庭に降り立った。白い衣をまとったその男は降り立ったレノックスに足早に近づいてくると、腕を掴んで、建物の方へ引っ張っていく。
「フィガロ先生……?」
問いかけても、返答がない。
男に手を引かれるまま、レノックスは彼と共に建物の中へと入った。薬品の匂いがする薄暗い室内で、男は「レノ」と小さく名前を呼んだ。
男の催促に、レノックスは応え、彼と唇を重ねる。
「レノックス」
男が、ねだるように再び名前を呼ぶ。
「フィガロ先生」
レノックスもまた、男の名前を呼んだ。彼の骨ばった肉付きの悪い痩躯を抱きながら。
そこで、目が覚めた。
レノックスは空になったグラスを置きながら、記憶を確かめた。
あの湖は、ラッセル湖。
あの建物は、その湖畔に建つ診療所。
そうだ。夢に出てくるあの男の名前はフィガロだった。
――フィガロ・ガルシア。
名前をはっきりと思い出した。もう忘れないだろう。どうして、目覚めるたびに忘れてしまっていたのだろうか。この大切な名前を。
レノックスの視界に、テーブルに置いたままになっていたいつか買った雑誌の表紙が飛び込んでくる。爽やかに微笑む、青い髪の男。
夢の男の名前は、ガルシア博士と同じだ。
◆
『この前のお礼がしたいんだけど、今週末空いてる?』
出勤したレノックスに、ガルシア博士からメッセージが届いた。
『お礼なら、博士のアシストロイドにしていただきました』
ガルシア博士を助けたあの日、彼のアシストロイドにもてなされ、更には土産に高い菓子を渡された上に、エアカーで自宅まで送迎されてしまった。レノックスとしては、倒れた人を救助するのは当然のことなので、お礼をされる筋合いがない。
『そのアシストロイド様が、俺からもちゃんとお礼をしろってうるさいんだ』
どうもガルシア博士のアシストロイドは、レノックスとガルシア博士を交流させたいらしい。
返信を考えていると、メッセージが追加で送られてきた。
『俺からもお礼がしたいのは本心。君が良ければ話がしたい』
心臓が、跳ねる。心が見透かされたような気がしたから。レノックスが見ている夢と、ガルシア博士が見ている夢には同じ要素がある、いや、同じなのではないか。その疑問を、彼に尋ねて解消したかった。
おそらく彼の方でも、レノックスが彼の夢を元に作られた人形に興味を示したことを知り、そのことで話があるのだろう。
更にメッセージが送られてくる。記されていたのは、彼のプライベートの番号だった。
昼休みにレノックスは食堂のテラスに出て、番号をコールした。ガルシア博士は直ぐに応答した。
『わざわざかけさせてすまないね。あまりしつこくすると、ハラスメント委員会に何か言われそうだったから』
「いえ、大丈夫です。こちらこそ、返信が遅くてすみません。それにしても、社内ネットワークとはいえ、個人間のメッセージもチェックが入るんですか?」
『入るよ。この監視社会のパブリックなネットワークで、監視がされていない空間なんてない。それで、週末の予定はどう?』
「空いています」
『よかった。じゃあ夕方、君の研究室に迎えに行くから』
「はい。お待ちしています」
そしてその週末の夕方。研究室のメンバが、仕事をしていたレノックスの肩を揺さぶった。
「おい、レノックス!」
「……どうした?」揺すぶられたがためにずれた眼鏡を直しながら、返事をする。その呑気さに、同僚は声を大きくした。
「どうした、じゃない! ガルシア博士がお前を呼んでるぞ」
時計を見た。定時を少し過ぎている。集中していて、時間の感覚を失していた。
研究室の入口を見ると、他のメンバにもてなされているガルシア博士の姿があった。上司とはいえ有名人の登場に、研究室のメンバは興奮していた。彼の研究に憧れてラボに入った者は少なくない。その上、普段は電子上でしかやりとりしない相手が現実世界に登場しているのだ。騒ぐのも無理なかった。
そんな部下たちに囲まれ、称賛を受けるガルシア博士は愛想よく笑っていた。ニュースやインタビュー記事の写真で見る通りの、爽やかな微笑だ。しかし、その笑みはどこか引きつっているように見えた。対人恐怖を社交性のペルソナで補ってはいるが、非常にストレスがかかっていようだ。早めに救出した方が良さそうだった。
レノックスはデータを保存し、機器の電源を落として白衣を脱ぐと、ガルシア博士の方へ向かった。
「すみません、お待たせしました」
ガルシア博士はレノックスの姿に、わずかに安堵の表情を見せ無言で頷いた。限界だったようだ。
「それじゃあ、また来週」
「お疲れ様」
ガルシア博士を伴って退室する背後で、研究室のメンバが小声で話すのが聞こえた。しばらく、噂のネタになるかもしれない。
ふたりはエアカーに乗り込んで、目的地まで向かう。ガルシア博士はシートに座ると、ぐったりとした様子だ。先ほどひとに囲まれたことで、随分疲れたらしい。
夕方のフォルモーント・シティ上空。夕陽のオレンジを鮮やかに反射するビル群の合間をエアカーが優雅に飛び、目的地にはものの数分で到着した。
ガルシア博士がレノックスを連れて来たのはバーだった。青い光でライティングされた横長の大きな水槽が、店の中央の通路脇にそれぞれ置かれ、それが席間の仕切りを兼ねている。ふたりは案内係に、黒い革張りソファが置かれたボックス席へ案内された。ボックス席は一方が水槽、残りが黒い仕切りに囲われており、他の客と視線が交わらないようになっていた。
それぞれ酒と酒肴を頼んだ。
「君は、並行世界を信じる?」
案内係が立ち去った後、前置きもなく切り出したのはガルシア博士だった。彼は、その不思議な緑色の目を向けて、レノックスに問いかけた。
唐突な質問だったが、彼が夢のはなしをしていることはすぐにわかった。やはり同じ夢を見ている。
「あれは並行世界なんでしょうか」
「君の見ているものが本当に俺のと同じなのかわからないから、まだなんとも言いようがないけれど。ただの偶然が、あるいはユングの言うところの元型の作用かもしれない」
「それは、そうですね」
「君は、どんな夢を見ているんだ?」
「色々ありますが、大抵は、草原にいます。俺は羊を連れていて、羊飼いをしているんです。そこに見慣れない白い服を着た、あなたに似たひとも一緒にいます」
「俺に似たひとね。どんなふうに似ている?」
「どんな……。見かけは、全く同じですね」
言って、レノックスはガルシア博士を見た。雪のような白い肌。その輪郭を縁取る青い髪の下で、不思議な緑色の瞳が星のように輝いている。ガルシア博士には社交恐怖があるが、夢の中に出てくる男は正反対の性格で、非常に社交的であり、知り合いが多くいた。レノックスもまたそのうちのひとりだった。
「俺の夢はこう。最近見たのだと、俺は湖の近くの白い建物の外に立っていて、誰かを待っていた。箒に乗って空を飛んでいる男が、遠くからこっちに向かってくる。箒からどのようにして浮力が生じているのかはわからないけど、とにかく箒で飛んでいるんだ。それで、俺は地上に降り立ったその男の手を掴んで、建物の中に引きずり込む」
レノックスの心臓がどくどくと音を立てていた。その続きを、知っているからだ。そのあと、部屋の中で何をしたのかを。
「どんな、男ですか」絞り出すように言葉にした。
「黒い髪に赤い眼の羊飼いだったよ」
ガルシア博士が、じっとレノックスを見つめていた。レノックスの髪は黒く、眼は赤い。
やはりふたりとも、同じ夢を見ている。その確信がますますレノックスに湧いてきた。
小さなおとないの声と共にウェイタが酒と酒肴を持ってきた。配膳ロボットが来るものだと思っていたが、ウェイタはひとの姿をしていた。人間か、アシストロイドかは判別できなかった。
「あれはアシストロイドだね」ウェイタが立ち去った後で、フィガロが言った。
「わかりますか」
「うん。いまの子は整備不良だ。表皮が少し、剥がれていた」
「目をご覧になったのかと思いました」
「ああ、確かに目を見ればわかる。でも、いまの一瞬じゃ無理だよ」
「それは、そうですね。確かに」レノックスは首肯した。
アシストロイドの眼球にはカメラのレンズと同じ仕組みが用いられている。人間の眼球は、虹彩の伸縮によって取り入れる光量を調節している。その虹彩にあたる部分を、カメラのレンズと同様に絞り羽によって代用し、光量を調整するのだ。そうなると、人間の瞳孔とは様子が異なる。絞り羽を使用していることによって、瞳孔の形状が完全な円形ではなく多角形になるのだ。よって、目を見れば人間かアシストロイドかを見分けることが可能というわけだ。
「目を見ることができれば、眼球の観察は感情移入度検査法よりもずっと信頼性がある」
「そうですね。カルディアシステムが導入されたアシストロイドには、感情移入度検査法はもう使えません」
感情移入度検査法は、以前アシストロイドの鑑別に使われていた検査法だ。
カンプフ博士が作成したこの検査法は、特にシティ・ポリスが、人間の中に紛れ込んだ無許可のアシストロイドを取り締まる際に有用だった。
感情移入度検査法は、人間ならば即座に嫌悪を感じるような倫理に反した質問を相手に投げかけ、実際に嫌悪的反応を表出させるまでの速度を機器によって測定する検査だ。カルディア・システムを搭載する以前のアシストロイドはその質問が倫理に反しているか否かを演算したりネットワーク空間で情報を参照したりして、その後で嫌悪的反応を表出していた。そのわずかな時間の分、人間の反応との間に差が出るのだ。
現在ではカルディア・システムにより『感情』を得たアシストロイドは、反応速度が人間とほとんど変らなくなったので、測定不可能となった。
余談だが、昔、この感情移入度検査法を若いポリスがハイクラス市民に試行してしまい、もちろん非常な怒りを買った。そのような経緯に加え、機械による検査技術が進歩したこともあり、現在この質問式の検査法は使用されていない。
「まあ、有機体のアシストロイドが出回るようになれば、眼球を見てもわからなくなるけどね」
ガルシア博士の言葉に、レノックスは驚いて目を見張った。
「有機体のアシストロイドですか?」
「スポンサから要望があったんだ」ガルシア博士はうんざりしたように片頬で歪に笑った。「有機体のアシストロイドはもはや生物学の領域で専門外だから突っぱねたけど、そのうち他所の研究所が手を付けるだろう」
「なぜ、アシストロイドを有機体にするのでしょうか……」
アシストロイドは、頑丈な機体と強い力によって人間の生活をサポートすることを、完成当初売りとしていた。しかし、有機体となるとそれらの利点を捨てることになる。
「さあ。企業は、なんとでも言うさ。そうだな、例えば『恋人がほしいひと』にうってつけ、とか」
言いながら、フィガロはあからさまに顔を歪めて嫌悪を表出した。
彼が何を思い浮かべたのかをレノックスも察して、言葉に詰まる。
「……それで、実際には、どのような目的があるんですか」
「現状行き詰っている人工細胞と人工臓器の、臨床前の実践的な研究が目的だ。臨床実験に導入するのには面倒な倫理的な手続きをクリアする必要があるけど、有機体のアシストロイドの開発はそれそのものが人工細胞と人工臓器の実践利用になる。その上有機体のアシストロイドが完成すれば、治験者としても非常に優秀な存在だ」
レノックスは言葉が出なかった。
カルディア・システムが導入されていても、アシストロイドの感情は所詮プログラムかもしれない。しかし、日々アシストロイドと関わる仕事をしているレノックスには、そのように片づけることができなかった。彼らにも、感情や考えがあって、愛する人、愛する物事がある。倫理的な基準が彼らには適応されないという考え方は、受け入れ難かった。
「アシストロイドには既に、人間と同等の市民権が付与されたのだと思っていました」
「ああ、君は製造には関わっていなかったね。流石に、人間と同等まではいまの法令だと難しいけど、市中で暮らすアシストロイドにはある程度の権利があるのは確かだ。でも出荷前のアシストロイドには権利はない」
「そうですか……」
沈鬱な気持ちになる。握っていたグラスに、レノックスは目を落とした。溶けた氷が、酒を薄めている。
「アシストロイドが『生産物』である限り、人間と完全に同等の権利を得るのは厳しいだろう」
沈黙の後、ガルシア博士はため息をついて、酒をあおった。
「そのうち、俺にそっくりの有機体アシストロイドがその辺を歩くようになるかもね」
「え?」レノックスは驚いて、顔を上げる。
「研究は突っぱねたけど、その代わり遺伝子を提供することを約束させられたんだ。もちろん見返りはあったから、損だけをしたわけじゃない。それに顕在遺伝と潜在遺伝の関係があるから、遺伝子がそのまま使われることもないだろうけど」
「対人恐怖のアシストロイドですか」
「性格はデザインされるよ」
「じゃあ、社交的な博士が見られるんですね」
「君はもう、社交的な俺を知っているだろ、レノ」
机の下から長い足が伸びてきて、レノックスの足を戯れに軽く蹴る。
「ああ、はい。フィガロ先生はそうでした」
レノックスの返答に、向かいに座る彼が屈託なく笑っていた。
―――――――――
5
雨季が訪れていた。
ラボにあるわずかな窓から見える空はここのところずっと灰色で、低気圧のために職員の多くが暗い顔をしていた。
レノックスとしても、空が晴れている方が助かる。雨が降っていると、羊たちを散歩させることができないから。
レノックスが食堂へ行くと、食事を注文する列にファウストが並んでいた。ファウストは学会誌へ提出する論文の期限が迫っているらしく、最近忙しくしていた。そのためレノックスは、食事に呼びに来なくていいと言われてしまっている。きちんと食事を摂っているのかレノックスは心配だったが、彼を指導するガルシア博士からは一応食事を摂っていることを伝えられた。彼は食事の内容については明言しなかったが、しかし、おそらくサプリメントやゼリーが中心だろうことは予想がついた。そんなファウストが、自主的に食堂へ来るのは非常に珍しい。レノックスは驚いて、思わずじっと見てしまった。
「なに?」
「いえ、珍しいなと思ったので」レノックスは彼の後ろに並びながら言った。
「ネロが、もっと飯を食えってうるさいんだ」
「あの青い髪のアシストロイドですか?」
「ああ」ファウストは頷いた。
度々ラボに顔を出しているシティポリスの署長が(登録上)所有しているアシストロイドのメンテナンスを、少し前からファウストが請け負っていた。
そのアシストロイド――ネロには少々事情があった。
偽装IDを作成してまで人間のふりをして、警察署内に署員として紛れ込んでいたがために、長らく、まともなラボでメンテナンスを受けてこなかったのだ。それはこれまでアシストロイドが人間と同じように働くことができなかったがために生じた、苦肉の策のためだった。アシストロイド、つまり人間の所有物であることが判明すれば、就業することはできない。対して、人間として偽装をしていれば、アシストロイドとして真っ当なラボでのメンテナンスを受けることができない。ネロは署長のそばで彼をサポートし、働くために、人間のふりを続けることを選んできたのだ。
そのため、ネロのシステムは最新の状態に更新がされていなかった。違法薬物の一斉検挙の際に生じた電子的な攻防戦でその脆弱性を突かれ、ネットワークから電子ウィルスが侵入してしまった。機体の温度が上昇、高温状態が続きバッテリが損傷する寸前まで追い込まれた。その上運が悪いことに、一斉検挙の翌日が、市民権を得て初めての、ラボでのメンテナンスの予定日で、その際に修正がされることになっていた。
急遽持ち込まれたネロの対処は、ファウストが担当した。元々は担当ではなかったが、一斉検挙の際に多くの違法所持のアシストロイドが回収されたがために、人員不足だったのだ。その上、ネロの容態は悪く、ファウスト以外には対処困難だった。
ネロは無事に回復し、それ以降定期的なメンテナンスに訪れている。
「今日、メンテナンスだったんだ」
ああ、なるほど。と、レノックスは納得した。ネロは料理が得意で栄養価に関して口うるさい。元は調理の補助のために製作されたアシストロイドだったのかもしれない(少なくとも、フォルモーント・ラボ製造のアシストロイドではないのは確かだ)。ネロはファウストの食生活を聞いて憂慮しており、メンテナンスのたびに指摘してくるのだという。
ふたりは定食を受け取って、いつもの席に座る。
「来月から食堂のシステムが変わるらしいな」とファウスト。
「そうなんですか」
レノックスは全く、そのことを感知していなかった。
「施設課から一斉通知が送られて来ていたけど、見てない?」
レノックスは記憶を巡らせたが、覚えがなかった。
「……見ていないです」
「テーブルに設置される端末から注文する方式になるらしい」
「料理は、自分で取りに行くのでしょうか」
「簡易ロボットが配膳してくれるそうだよ」
「楽になりますね」
「鶴の一声だからな」
その言葉に、レノックスは納得した。対人恐怖のハイクラス様から、食堂のシステムについてお言葉があったのだ。
「随分早い実装ですね」
ガルシア博士が彼のアシストロイドによって食堂に連れてこられたのが、二カ月前のことだ。
「既存のシステムではあるし、必要な機材を買うのに、他のハイクラス連中の後押しもあったんだろう」
なるほど。それで備品購入の稟議申請を手早く終えることができ、早期に実装が叶ったわけだ。
ファウストは言葉を切り、レノックスをじっと見た。
「ところで君は、最近どうなんだ」
「どう、とは……」
レンジの広い問いかけだったために、彼の質問の意味がレノックスには解せなかった。
「他のメンバから、『ガルシア博士と随分親しそう』だと聞いたけど」
レノックスが、ガルシア博士から直接仕事を指示されていることを、直属の上司であるファウストは知っている。だから、そのことではない。ガルシア博士がレノックスを迎えに来た日のことや、それ以降、ふたりで連れ立って帰っていることを指摘されている。
「最近、食事に行っています」
「あの男が食事をするのか?」
「いえ、大半はお酒ばかりですが……」
「そう。とやかく言うつもりはないんだけど、噂になっているから気をつけた方がいい。『ファン』が多いから」
「はい」
まあそうだろうなと、レノックスは思った。ガルシア博士はどこにいても目立つ人だが、その彼が一定の人物と一緒にいるとなると、より一層、人々の興味をひくだろう。そして、彼ほどの人だ、彼の信奉者がどこかで見ていて、何が起こるかわかったものではない。用心するに越したことはなかった。
この世界に、魔法はないのだから。
レノックスは小さな声で、ある言葉を口にした。
——フォーセタオ・メユーバ。
もちろん、何も起こらなかった。
◆
「今日はさ、レノがよく行くお店を教えてよ」
フィガロのおねだりで、レノックスは彼と共に自宅近くにあるレストラン『ヒウカーオ』に来ていた。レノックスの自宅は郊外にあり、自然が非常に多いエリアだ。またこの辺りは丘陵地で、斜面にも人家がいくつも建っている。レストランも丘の斜面にあった。
「こんばんは」
レノックスが店に入ると、店主が微笑んで出迎えた。
「やあ、久しぶり。最近見ないから、引っ越したのかと思ったよ。こちらへどうぞ」
店主は、窓辺の席へふたりを案内する。
木製の建材が剥き出しの内装で、梁から電球に布張りの傘を被せた灯りが吊り下げられており、オレンジ色の光が広がっている。棚には素朴な装飾品が飾られていて、いくつかは子どもの工作品だろうと見て取れた。テーブルと椅子も天然の木製で、手作りのテーブルランナーとクッションがそれぞれに置かれている。穏やかで、木の柔らかな香りと温もりに溢れる店内だ。
フィガロは、それらを物珍しげに眺めていた。
「珍しいですか?」レノックスが尋ねる。
「うん、すごく。こんなお店、始めて来た」
確かに、都会でこのような店は見つからないだろう。高層ビルは、木材では作れない。内装に関しても、一部を天然の木材で装飾している店がないことはないが、人工素材であつらえた方が楽に済むし、コストも低い。
それからフィガロは、窓の外に目を向けた。窓からは、遠く、フォルモーントシティのビル群が見える。夜の街は、青白く輝いていた。
「ここ、いいね」窓に顔を向けたまま、フィガロが言う。
「はい。食事も美味しいですし、特にコーヒーが絶品です」
「なら食後に頂こうかな。もしかして、この店が好きで、街の中心に引っ越さないのか。給料は十分にあるだろう?」
「ええ、はい、それもそうですね。あとは、この辺りの丘や、その向こうの草原を眺めていると落ち着くんです」
「へえ。ならさ、あとで散歩に行こうよ。ここまで来れば、少しは星が見えるよね」
「夜の草原は危ないですよ。星が見たいなら、公園に行きませんか。沢山ではありませんが、芝生に寝ころべばいくらかは見られます」
「そう、いいね。公園には帰りに寄るとして、草原の散歩は朝にどう?」
朝、と言われてレノックスはドキッとした。フィガロは今夜、帰るつもりがないらしい。
レノックスは平静を装って返事をした。「朝、俺がジョギングに使っている道がありますから、そこをきましょうか」
フィガロは、何か少しがっかりしたような表情を見せたが、それは一瞬で拭い去られた。
「歩くのならね。走るのはごめんだな」
話している間に、注文していた料理が届いた。メインは牛肉の煮込み料理で、赤ワインによく合いそうだった。
食事をしながら、ふたりは色々なことを話した。仕事の話が大半だった。ふたりの仕事は機密情報が多いが、店内には他に客が居らず、店主も離れた場所に居たので気にせずに話した。ふたりとも端末の電源をオフにし、あらゆる企業のあらゆる監視や情報収集のシステムの範疇外にいる心地よさを味わった。
楽しく話していると、フィガロが対人恐怖であることを忘れてしまう。だがふと目が合った瞬間、フィガロが素早く視線を逸らしたので、レノックスはそのことを思い出した。
「博士はハイクラスですが、お話しされるのがお上手ですよね」
ハイクラスで対人恐怖のある人々は、どんなに有名な人物であってもメディアへの露出を厭う。対面でのインタビューはすべて断り、文書によって回答したり、写真の撮影はスタッフをすべてアシストロイドで固めたうえで行ったり、というのは珍しくもない。極めつけは、自分に似せたアシストロイドかロボットを代理に立たせている場合もある。なので、彼の本意ではないのは明らかであるものの、対人恐怖を抱えながらも自らが表に出て、その上しゃべり上手なフィガロは珍しい存在だ。
「昔、ラジオに出ていたことがあるんだ」フィガロが答えた。
「ラジオですか」
「そう。『これぞ神童』っていう、子どもを集めて討論させる番組があってね」
「それに出てらしたなら、やはり子どものころから頭が良かったんですね」
「さあ、どうだろう。それは何を『頭の良さ』の基準とするかに拠ると思う。ともかく、俺は何年かその番組に出て、他の子どもたちと討論させられたわけ」
「それで鍛えられた、ということですか?」
「まあそんなところ」
フィガロは言葉を切って、ワインを口に含んだ。彼の視線は窓の外に向けられていたが、実際に見ているのは遠い昔の記憶だろう。
「不思議だった。俺と話した後、他の子どもたちはみんな泣いてしまうんだ。反対に、大人たちは俺を褒めそやした。わけがわからなかった。俺は事実を述べただけなのに、泣いたり褒められたりする。それも、俺が考えたことじゃない。提示されたお題に沿って、ニュースで見聞きしたことや、本に書いてあったことを言っただけだ」
「大人に褒められるのはまだいい。賢く、けれど未熟な子どもの顔をしていればいいんだから。でも子どもは厄介だった。泣き喚いて、俺のことを睨んでくる。その上、親は謝れと迫ってくるんだ。なぜ謝る必要がある? 俺は聞かれたことに答えただけで、悪意を持って責め立てたことも、やりこめて恥をかかせてやろうと思ったことはなかった。でも俺が悪いらしい。勝手に彼らが泣いたのに」
「俺は次第に億劫になって、親たちが子どもにやるように、噛んで含めるように話して、相手の考えを引き出して答えさせるようにしたら、今度は懐かれた。この前まで俺を睨んでいた子が、俺の後をついて回るようになった」
「どうやら人間は議論内容の正確さや正しさよりも、それが何でコーティングされているかのほうが重要らしいとその時に悟ったよ。みんな、苦い薬は嫌いなんだ、ゼリーに包んでしまいたいらしい。何かを話すよりも、黙って微笑んでやれば、みんな喜んだ」
フィガロはグラスに残っていたワインを全て飲み干した。
「しばらく続けて、耐えられなくなってやめたよ」
フィガロは皿に残っていた最後の肉片にフォークを刺す。
「お前といると、話しすぎてよくない」
「俺は時に、何もしていませんが」
「その真剣な目だよ。あと、声かな。それがいけない。侵襲性がないから、開示しすぎる」
ここまで