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    nagi

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    nagi

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    ◆薄明の暁星(後編)◆
    ルシファーと人間界で過ごす10日間シリーズ。
    後編はルシファー視点。MCはネームレス。

    #obm
    #obeymelucifer

    薄明の暁星06.
     「おいで」と誘ったベッドの上。彼女は少しむくれて「ここ、私のベッドなのに」なんてこぼしつつも素直に俺の足の間に座り込んだ。
    「こうされることを望んだのはおまえだぞ?」
    「そ、そう、なんだけど……」
    「実際されると恥ずかしい、か」
    「っ……わかってるならっ」
    「くくっ……それでやめて貰えると思ったら大間違いだ」
    「、わ!」
     腕を取って腰を引き寄せると、驚くほど簡単に倒れこんでくる身体。いきなり何するの!とのお咎めは、同時に上を向いた口を塞ぐことで俺が呑み込んだ。
    「ん、ぅ、」
    「ふ、……は、ンっ」
     後頭部を固定して逃げられないようにすると、大人しく向こうからも舌が伸びてきて、絡めて食んで吸ってやれば、あふ、と悩ましい声が俺を内外から満たす。俺の胸のあたりに縋ってくる手が愛おしいと思う。こいつのこの行動は小悪魔に相違いない。暫く貪って舌を引き抜いたときには蕩けた瞳だけが残った。
    「ふ……そんなによかったか」
    「っは……だって……んも……きかないでっ」
    「全部知りたいから聞くんだ。教えてくれ」
     ちゅっと触れるだけのキスをもう一度。くすぐったそうに笑う彼女を頬、耳、首筋と唇で辿れば捩られる身体。それを全身で押さえつけて、服を剥いでいく。
    「ルシファーとキスするとすごく力が湧いてくるの……なんでだろうね?」
    「俺の魔力を分け与えているからだ」
    「は!?えっ!?聞いてない!」
    「言うことでもないだろう」
    「じゃあ私が魔術を使えるようになったのって」
    「俺のせいでもある」
    「う、うそぉ、……愛の力とか夢見てた私って一体……」
     その告白にはさすがに頭を抱えてしまう。いくら俺の出自が天界だったといってもそんな夢のような話があるものか。どれだけロマンティックな可愛いらしいことを考えていたのか。しかしそれでも、表情筋を保つのが大変だ。
    「俺はおまえのことが心底心配だ」
    「っバカにしてるんでしょ!夢見るのは自っぁっ、そんなっンン、ふぁ、」
    「ハァ……違うよ」
    「……、?」
    「俺が心配してるのは、おまえがあまりにも可愛いことを言うからだ」
    「はひ……?」
     なぜ言った本人がわからないんだ。
     腕の中にある体温を抱き上げたら半回転。そのままベッドへ押し倒した。
     ぱちくり、と一度の瞬きでは、どうやら理解が及ばなかった様子。そんな彼女にはとどめの一言をやらないとな。
    「今夜は寝かさないぞ」
    「!?」
    「煽ったのはおまえだ。覚悟するんだな」
     その台詞を最後に、部屋から会話らしい会話は消え、後に残されたのは艶めく吐息と喘ぎだけだった。

     それから何時か経ったろう。

     魔界では見慣れない日の光に、意識が覚醒するのは早かった。普段は億劫な「起き上がる」という行為も、人間界では素直にしてしまうのが不思議だ。
     乱れた髪をかき揚げながら気怠い身体を傾けると、んん、と小さな声がして、次いで隣にある体温を感じた。知らず下がるのは眉。誰も見ていないから律する必要もない。
    「……全く、幸せそうな顔をして。おまえの隣にいるのは悪魔だぞ?」
     むにゃ、と柔らかい表情で眠る姿を見るのに慣れすぎると、魔界に帰ったあとで寂しくなるかもな、なんて自分らしくない考えが浮かんで苦笑した。それを誤魔化すように、目の前にある唇を指で弄ぶと、ふにゅ、と変な声があがる。昨晩はあんなにも色香を滲ませていたというのにと自然と頬がほころんだ。
    「俺が構っているというのに起きないとは……お姫様にはキスをしてやろうか?」
     眠っているのがわかっていてこんな言葉をかけても返事があるわけがないのだが、それをいいことに唇を奪う。
     ちゅっと音があがる。
     起きない。
     もう一度押し当てる。
     起きない。
     今度は暫く口を塞ぐ。
     ここまですればきっと。
    「ん……ふ、んぅ!?」
    「ンッ、は、いい朝だな」
    「な、ぁ、ン!!?」
     やっとお目覚めの姫は、一度のキスで目覚めないあたり、御伽噺のように素直ではないらしい。
     目が開いたところですぐに俺から距離を取ろうとした身体を自分の身体で押さえつけ、片方の手は彼女の指を絡めとってベッドに縫い付け、もう片方で顔を固定すると今度こそ遠慮なく吐息を奪う深いキスをする。
     だんだんと力が抜けるのを感じ取ると、頬に添えた手を、首筋、肩、横腹、腰と這わせて、ぐっと引き寄せれば、観念したように向こうの腕も俺の首に回されてきて気分がよくなった。
     暫く、くちゅりくちゅりと唾液の交わる音と、それから濡れた声、衣擦れの音が朝の静かな部屋を満たした。もぞ、と俺の下で物欲しそうに擦り合わされる足に口角が上がる。求められるのに悪い気はしない。
    「っ、ハァ」
    「は、ふぁ、はぁっ……!」
    「目が覚めたろう」
    「さ、めた、なんてもんじゃ、ないよっ……!」
     真っ赤に熟れた顔が愛おしい。俺に翻弄されてくれているとわかるから。
     起き抜けのときのように、ふに、と指で唇に触れると、今度はむにゅと変な声が耳に届いて、俺は笑いを噛み殺せずにくつくつと喉を鳴らした。
    「悪かった。起きるか?それとも昨日の続きといくか?」
    「っ……あ、んなに、したのに、」
    「おまえ相手なら何度でもできる」
    「なっ……!?」
    「というのは本当なんだが、別におまえの身体を軽んじてるわけじゃない。人間には酷だろう。朝食でも作ってくる。待ってろ」
     あわあわとする彼女の髪を一撫で。額にキスを落としてから身体を起こした刹那。首に回っていた腕に力が籠り、ぐいと引き寄せられる。予想していなかったことに咄嗟に対応できずにまた彼女の上に逆戻りすると、耳に囁かれた悪魔の誘いには乗らざるを得なかった。
    「るしふぁーがしたいなら、っ、」
    「!」
    「今日は、家で過ごそ……?」
     断られるとでも思ったのか、心許なげに揺れる瞳。それになんと返事をするかなんて、千年前から決まっているのに変なところで臆病だ。まぁそこも可愛いところなんだがな。
    「目を閉じて、俺だけ感じてろ」
    「ん、っ」
     俺たちを覗くのは、月でも太陽でも許されない。彼女の全ては誰にも見せない。俺がすべて隠してやろうと、その身体の上に再び覆いかぶさった。
     明けたばかりの空に浮かんだ千切れ雲の向こう側で、今日も太陽が真っ赤に燃えていた。


    ∞∞━━━━━━━━━∞∞━━━━━━━━━∞∞

    07.
     朝八時。今日も早くに目が覚めたのは、明るさのせいだけではなく、リラックスできていることが大きいのかもしれない。本当に静かな日が続くのは久しぶりで、魔界に帰った時が恐ろしいなと寝起きの頭で考える自分はもはや重病だ。目頭を押さえたところで視線を感じ、隣を見れば、くるりとした二つの眼が俺を見つめていて苦笑が漏れた。
    「起きていたのか」
    「うん」
    「俺を待ってなくたって構わないのに。したいこともあるだろう」
    「……ん。別に……」
     連れない返事を残して、もぞ、と布団を被り直した彼女に「今日の予定は」と尋ねるが、頑なに特にないから大丈夫と言う。初日に聞いた話では行きたい場所もやりたいこともありすぎて、とてもじゃないが十日じゃ終わらないと笑っていたのに、一体どういう風の吹き回しだ。もう少ししたら起きると残し、拗ねたようにベッドの中で丸まった彼女を布団の上からぽんぽんとあやして、それなら起き上がる頃に何か食べられるように作っておくかと俺はベッドを抜け出した。
     コーヒーを蒸らしつつ朝食の材料は何が残っていただろうかと冷蔵庫の中を覗けば、意外と食材がなくなっていることに気づく。彼女が起きたらまずはマーケットまで散歩だなと考え、そこで、二人きりだとやはり穏やかだと腹の辺りがむず痒くなった。
     ぱたん、と冷蔵庫の戸を閉じたとき、ふと、その側面に小さなカレンダーが貼り付けてあるのが目に止まる。彼女の視線のあたりにあるので、今まで俺の視界には入っていなかったようだ。そのカレンダーには二つの書き込みがあった。一つはもちろん、俺が到着した日にある「ルシファーが人間界に来てくれる日」という予定。そしてもう一つは。
    「帰っちゃう日……っふ……こんな小さな文字では予定が見えないじゃないのか?」
     そう声に出して気づく。もしかして彼女の機嫌が急変したのはこのせいかと。カレンダーには律儀にも、一日ずつバツをつけていっているようだ。トン、と今日の日付を人差し指で叩く。
    「あと、三日、か」
     寂しがってもらえることは素直に嬉しい。それだけ依存してくれているのだとわかるから。ただ、悲しませるために来たわけではないのが難しいところだなと思う。
     行きたい場所がない、というのはおそらく口から飛び出した言い訳だろう。どこにでも連れて行ってやりたい気持ちがないわけではないが、そういうことならこれ以上どこにも出かける必要もないんじゃないか。家にいたところで二人きりなのに違いはないわけだし、あとは引きこもっていてもいいかもしれない。
     そっと寝室を覗いたが、出てきたときとなんら変わらずベッドの真ん中がぽっこりと膨らんでいるだけだったので、声を掛けるのも野暮かと、一筆「買い出しに行ってくる。すぐ戻る」と書き残して一人外へと繰り出した。
     こちらに来てから、一人で出歩くことがなかったので、片手が手持ち無沙汰でポケットに突っ込む。その中に入っている数枚のコインを指先で弄びながらマーケットまで一直線。しかし、こんなに距離があったとは。彼女と並んで歩いているとあっという間の道のりなのにと驚くと同時、ねぇねぇルシファー、との声が耳の奥でリフレインした。
    「最後まで笑っていてほしいものだが」
     そうもいかないんだろうと、わかっていても願ってしまうのは自惚れでもなんでもないただの事実だ。

     やっとのことでマーケットに着けば、リストアップしてきたもろもろの食材を買うことに意識を持っていかれる。マーケットは魔界と同じく賑やかだ。人間界のものの値段の相場はよくわからないが、美味ければ問題ないし、この国はほとんどのことがカードで事足りるのは大変助かる。あらかた買い物を終え、甘いものでも土産に持ち帰ろうとふらふらと見て回っていると、とあるペストリーショップのばあさんと目があった。
    「あれ。おにーさん、この間も来てくれたね」
    「よく覚えているな」
    「そりゃぁね、おにーさんほどの色男、忘れろってほうが無理さ」
     ばあさんは見た目にそぐわず快活に笑った。悪魔は人間の目に魅惑的に映るものだから、こんなことはしょっちゅうだが、こういうのは話を合わせるに限る。
    「俺もこのクロワッサンダマンドは見覚えがある。連れが美味い、また食べたいと言っていた。一つもらおうか」
    「おや、そういえば今日は奥さんは?」
    「ん?」
     またクロワッサンダマンドでいいのかい?オマケするよ、なんて言いながら、ばあさんはワゴンの奥に入っていった。だが俺の方は、その一言に対して、「そうか、彼女と並んでいると夫婦に見えるのか」と柄にもなく頬が緩みそうになり、片手で口周りを押さえる始末。そんな様子を見もしなかったばあさんは、奥から出てくるとクロワッサンを入れた紙袋を俺に押し付けた。
    「はい。お待たせ。二つで二ポンドにまけとくよ。で、随分と仲睦まじい様子だったからいつでも一緒なのかと思ったんだが、そうでもないのかい」
    「……色々と事情があるんだ」
    「事情、ねぇ」
    「俺の一存ではどうにもならない」
     そう、どうにかしてやりたくてもどうにもならないことは山ほどある。俺はばあさんの手に、ちょうど二つ残っていた硬貨を乗せると、これ以上の長居は無用とばかりに礼を述べた。
    「ありがとう。また来る」
    「ああいやだねぇ!男はいつだってそうだよ!」
    「は?」
    「黙ってりゃいいってもんじゃないんだよ!うちの旦那もなんでもかんでも一人で考えてアタシにゃなんの相談もしないでねぇ」
     唐突に始まった世間話には耐性がなく、どうしたものかと焦る。しかし悩みは一瞬のことで、次の瞬間には隣の店ーーそれは花屋のワゴンだったのだが、そこにいたじいさんの首根っこを引っ捕えて俺の前に連れ出した。
    「アタタタ!!なんだ鬼嫁!」
    「あらまぁひどい!その鬼嫁を好きになったのはどこのだれだったかね!」
    「い、いやそれは、」
    「あのねぇ、この人も、私にプロポーズするためにわざわざ花屋になって」
    「おまえそんな話っ!」
    「それでねぇ、俺の育てたバラはおまえにだけしかやらないからって言うんだよ。だから結婚してくれってねぇ、トンチンカンにもほどがあるだろ?」
    「え、あ、ああ」
     脈絡のない馴れ初め話に俺の頭はクエスチョンだらけだ。チラ見した時計は出発してからすでに二時間近く経過していることを示しており、正直一分一秒でも早く帰りたかったが、その話の続きは俺の興味を引いた。
    「アタシが言いたいのはね、そんなことされなくても、アタシはこの人に惚れてたのにってことさね」
    「え?」
    「アタシはね、この人以外に何にもいらなかった。店を持つための時間も、バラを育てるだけの時間も使ってさ。何年待たされたことか。その時間分ももっとはやく、一緒に居られたかもしれないのに。もうこんなにも老いぼれて」
     まぁ、もうここまできたら最期まで一緒に居るんだからいいんだけどねぇ。と笑うばあさんは、若かりし頃を思い出すかのように頬を染めて幸せそうに笑う。隣ではじいさんがぼりぼりと頭を掻いていた。
    「どんな事情も、相手にとったらそれ以上に重要なことがあるかもしれないよ。ただ一緒にいるだけでいい時もある。相手の顔を曇らせたとしたら、それはおまえさんの責任だ、色男」
    「……肝に銘じておく」
    「今度は二人揃ってきておくれ。美味しいクロワッサンを焼き上げて待ってるよ」
     袋を持ったほうの手を少し上げて帰ると意思表示すると、そう言って見送りしてくれたので踵を返した。すると背中に向かって今度はじいさんの方が声を掛けてくる。
    「おい、一本持っていけ!」
    「!」
    「土産は多い方がいいだろうが」
     食材が入った大きな紙袋に一輪の赤いバラを突き刺されては断ることも支払うこともできず。ぽん、と叩かれた手に、今度こそ別れを告げて帰路につく。この先、二人の行く道は短いものかもしれないが、きっとそれに見合わないくらいにしあわせに満ちているんだろうと思う。
     昔誰かが言っていた。人の生命は永遠でないからこそ、今、そのときを力一杯に輝いて生きられるのだと。なるほどそれは、悪魔の俺にはどう足掻いてもわからない感覚だ。だからきっと、あの老夫婦のようには俺たちはなることはできない。一方で、彼女といる時間を大切にする気持ちは、人間同士のそれとなんら変わらないと思いたい。
     もらった一輪のバラは真っ先に彼女に差し出してやろうと密やかに笑った。

    「ただいま」
     彼女の機嫌は直っただろうかと、期待しつつアパートの玄関扉を開きながら声を投げかける。片手ではどうも動きにくいなと鍵を閉めるのに手間取っていると、寝室の方からバタンと扉が開く音がして、次の瞬間には横腹にギュゥっと何かがしがみつく感触がした。咄嗟に抱えていた袋を持ち上げたので、視界が遮られてしまったが、その「何か」は彼女以外には考えられない。
    「……」
    「ただいま」
    「……帰ってこないかと思った……」
    「そんなわけないだろう」
    「だって、魔界で何かあったかもしれないし」
    「帰らないよ。約束した」
     抱きしめ返せないのがもどかしく、とりあえず荷物を置かせてくれないかと頼むも、押し付けられた顔がイヤイヤと駄々をこねた、つい笑が込み上げる。
    「笑い事じゃないよっ!」
    「すまない。どうしておまえはそんなに可愛いんだと思ってな」
    「話を逸らさないで」
    「逸らしてないさ。遅くなったのは謝る。おまえのブランチは何がいいかとふらついていたんだ。そうしたらおまえが好きだと言っていたペストリーショップのばあさんに引きとめられてな」
     理由を説明をすると、渋々と言った様子で鼻の上までが俺の方に向けられた。
    「俺とおまえのことを夫婦だと思っていたが、嬉しい誤解だったから特に訂正はしなかった」
    「っ!?」
    「それで、色々と説教されたんだ」
    「せっきょう……?」
    「相手の顔を曇らせたなら、一緒にいるおまえが悪い、とな。おまえ、今日朝から機嫌が悪かったろう」
    「あ……それはルシファーのせいじゃな」
    「いや、俺のせいだ。カレンダーに印までつけていて、そうじゃないとは言わせない」
    「!」
     腕が緩んだのを感じてやっとのことで彼女と向き合うように身体を回転させた。床に袋を雑に置き、今度はこちらから、逃がさないと彼女を引き寄せ胸に抱く。
    「魔術の習得の進捗はどの程度なんだ?」
    「……?なに、突然」
    「重要なことだ。いつごろ俺を喚び出せるようになる」
    「え……わ、かんない……でも、ソロモンには習得は早いとは言われて、今は転移魔術の練習中だよ……」
    「さすがだな。転移は魔術の中でもかなり上級向けだから、その分なら召喚も近いうちにできるようになる」
    「ほんと!?」
     バッと擡げられた顔に、ああ、と笑いかけると、先ほどまでの機嫌が嘘のようにパァッと明るくなった表情にひとまず安堵する。
    「そうなったらいつでも俺を喚んでくれるんだろう?」
    「えっでも魔力が足りないかも、」
    「俺を喚び出して消費した魔力は俺が補完してやれるんだ。なんの問題もない」
    「!?……っでもそんなことしたらルシファーの魔力が」
    「おまえにやった分おまえに癒してもらうから心配するな」
    「そ、れは……っ……は、ハイ……」
     耳が真っ赤なところを見るだけで何を考えているかが伝わってきて気分がよくなる。ずっと一緒だと、死んでも魂は俺のものだと言ったところでおまえの不安がなくなることはないだろうが、少しずつ軽減してやれればそれでいい。
    「さて、待たせた分の罰を俺に課せ」
    「へ?」
    「マスターを寂しがらせたんだ。そのくらいはして当然だ。なんでも言ってくれて構わないぞ」
    「え、あ、いや、そんな、だって、買い物してきてくれたんでしょ……?それで十分、」
    「いいや俺がそれでは足りないと思っているんだ」
    「あっそれにお土産も買ってくれて」
    「それはそれ、これはこれだ。ちなみにバラもおまえになんだが、ここには一輪挿しがなかったな。ああ失態だ。その分も求めてもらわないといけない」
    「は、はぇ!?そんな……ってルシファー!?揶揄ってるでしょ!!」
    「くくっ……!本当におまえは……!」
    「っ〜〜!!じゃ、じゃあ命令!するんだからね!本当にするよ!?」
    「ほぅ?言ってみろ」
    「いいの!?取り消しできないんだよ」
    「もとよりそのつもりだ。おまえのしたいことをしにここまで来た」
     その言葉に対してそれ以上は何も言い返せなくなったようで、彼女はむぅと唇を尖らせたが、俺が耳を寄せると、そこに小さく小さく願い事は放たれる。
    「なにもいらないから、残りの間ずっとそばにいて」
     予想通りの言葉に満足した俺は軽いリップノイズを贈ると、残された時間でどう彼女を甘やかそうかと考えを巡らせた。

    甘いクロワッサンダマンドが俺たちの胃に収まったのは、それからまた数時間後のことだった。



    ∞∞━━━━━━━━━∞∞━━━━━━━━━∞∞

    08.
     人間界入り八日目にして、始めて土砂降りの雨が降った。夜は明けたはずなのに光はほとんど差しておらず部屋の中は薄暗い。俺たちの生活にあまり天気は関係ないが、あの雲の向こうでは太陽が昇っているのかと考えると不思議だ。

     ……などと天気のせいにするわけじゃないのだが、二人してかなり遅い時間まで眠っていたようで、時計の針はもう昼近くを示している。今日は以前から頼まれていたがタイミングが合わずできていなかった、魔力放出の練習をすることになっていた。ブランチを腹に収めると、ベッドの上で胡坐をかいた俺は、その上に彼女を乗せて背中から抱きしめた。
    「えっ、あの、このまま練習するの?」
    「そうだ。何か問題でも?」
    「問題ありすぎだよ!こんな、距離近いっていうか……もっと普通にっ」
    「普通?それはいつ誰がどう決めたものだ」
    「!」
    「いいか、誰かが言う『普通』は、そいつの中にある常識だ。それは他人にとっては常識ではないことをよく覚えておけ」
    「は……っ……それは確かにそうだね」
    「だろう?なら練習再開だ」
    「う……ん??えっ?」
    「まずは集中しろ」
    「っできるわけないよーっっ!!」
     うまいことを言って言いくるめようとしたがそうもいかなかった。とはいえ、悪魔に天使に魔術までを身の回りに置いて、今更「普通」を求めるとは、俺の女はなかなかの大物だと改めて思う。
    「全く……仕方ない。わかった。ではこういうときのためのとっておきの魔術を教えてやろう」
    「っほんと!?助かっんぅ!?」
     まずはその口を黙らせるところからのようだと、こちらを向かせて深く口付けた。
    「んっ、ンン……は、ふぅ!」
    「ン、ふ、」
     そのまま彼女の身体を支えながらゆっくりとベッドに沈めていく。俺がその上に覆いかぶされば、きゅぅっとシャツを握りしめられて一気に気分が昂った。
     暫く思うままに咥内を荒らす。ぴちゃ、くちゅ、と脳に直接響いてくる音で気持ちよくなるも、握られたり緩んだりする力加減に、息が苦しくなっているのを悟りそこから舌を抜いてやったが、もちろん唇は触れたまま。それでも次第に呼吸が整ってくる。すると睫毛がゆるりと開き、生理的な快楽からくるものだろうが、濡れた睫毛の向こうの潤んだ瞳が俺をとらえた。
    「う、んぅ、ま、ンン」
    「っん、はぁ、」
    「れんしゅ、するって、ン、言っ、ん、ふ」
    「ッハ……そう言うなら本気になれ」
    「へ……?」
    「おまえが本気でそう思っていれば、俺をとめるなんてこと余裕なはずだ」
    「な!?っ、そんな、わたしがるしふぁーに敵うわけな」
    「おまえは俺のマスターだ。つまり俺に一言、やめろと言い放つだけでいい」
    「!」
    「マスターになったものとしては一番簡単な魔術だ。そうだろう?」
    「そ、それは、」
    「それができないとなると、魔術師としては致命的だ。魔力だってほとんどないのかもしれない。さぁやってみろ」
    「な、んで」
     うるりと、もう一度泣き出しそうに彼女の瞳が揺れる。俺は自分が今どんな顔をしているのかなんとなく分かっている。それはそれはいやらしい笑顔だろうな。でもこれは仕方のないことだ。本気かそうじゃないかが一目瞭然で読み取れるなんて、これ以上俺を悦ばせることがどこにあるというんだ。
    「るしふぁの、いじわるっ……!」
    「地獄の七大君主の中でも最強の俺に向かって『いじわる』とは随分かわいい物言いだな」
    「からかわないでっ!」
    「からかってなんていないさ。本当に可愛いよ」
    「ま、またそういうこと、言うっンッ」
    「んっ」
    「も、もう!わたしがっ!嫌なんて言えると思うの!?」
    「いや、思わない」
    「は……」
    「おまえは俺のことが大好きだからな。俺がすることに対して嫌だなんて言わないに決まっている」
     自信満々にそう返すと、ほんの一瞬ポカンとした彼女は、カァアアアッと音がするほど首から額までを赤く染め上げて口をぱくぱくと開閉している。そうして十秒ほど経ったろうか。無理、と一言呟いて、俺の首に腕を回した。
    「傲慢のルシファーに、契約の元命ずる……もっとキスして」
    「……!……ふ……それがマスターの望むことなら」
    「でもそのあとにちゃんと付き合ってね?魔術の練習も。ソロモンに、毎日の積み重ねって言われてるのに、ルシファーがいる間そっちのけにしちゃったの」
    「もちろんだ」
     全部叶えてやる。だから今は先に命の遂行をしようか。羞恥と歓喜で染まる頬をひと撫ですれば素直に閉じられた瞼には映らなかった俺は、笑顔を浮かべたまま彼女を快楽の淵まで案内したのだった。

     それからまた数時間後。もうすっかり暗くなった部屋に、明かりはまだついていなかった。
     雨は、まだ止んでいない。
     彼女はもはや俺の足の間から逃げることを諦めたどころか、俺に全体重を預けるような形ですっぽりと身体を埋めて空中に掌を差し出した。
     先ほどまでの色気を帯びた手つきは、今や面影すら残さない。
     それをくるくると回転させて、彼女は言う。
    「ルシファーが魔力を使うところが見たい」
    「俺が使ってどうする。おまえの練習だろう」
    「先にお手本を見せて」
     くるりと瞳を輝かせて首を擡げた彼女の期待を裏切れるわけもなく、はぁと態とらしい溜め息を吐いた俺を、くすくすと笑いながら見つめてくる彼女は確信犯だ。
    「ソロモンは魔力を使う時に大事なことはなんだと言った?」
    「イメージだって言ってた」
    「そうだな。間違いない。だが、それよりも強いのは想いだ」
    「おもい?」
    「さっきも言ったが、命じるという気持ち。それが強いイメージを生む。そういう意味では、煩悩まみれの人間が魔力を持たなくてよかったな」
    「たしかに。大変なことになっちゃうもんね」
     彼女は小難しい表情をして顎に手をやったが、果たしてどこまで理解しているのかは定かでない。
    「だから、こうしたい、という強い想いをまずは持てるようにしろ。そうすることでより鮮明なイメージができあがる。例えば」
     つい、と俺が空中で指を動かすと、指先からは煌めく星屑が溢れ出し、そのまま天井を満たしていく。それは瞬く間に部屋の中を照らした。
    「う、わぁ……っ!きれい……!」
    「簡単なところからいこうか。これは俺のある想いをもとに描かれたイメージが魔力によって具現化したものだ。なんだかわかるか?」
    「えっ……うーん、星……だから……天界の想い出の表現、とか?」
    「ハズレだ」
    「違う?うぅん……」
    「じゃあ星からどんなインスピレーションをうける」
    「星は……キラキラして、綺麗で」
    「なるほど。他には」
    「他?えぇ……?暗闇を照らす、見ていると胸が高鳴る」
    「近くなってきた」
    「本当!?」
    「だが別にそれを当てるのが主旨じゃないからな」
    「あっ、そうだね」
    「おまえが魔術を使いこなせるようにサポートするだけだ。この星たちの合間に何か入れ込んでみろ」
    「何かって?」
    「具体的なことを言ったら意味がないだろう。一からイメージして想いを強めて具現化する練習だ」
     教師みたいな口振りをしてしまったが、本心は俺が創ったものに対して彼女が何を感じて何を創り上げるのか楽しみなだけだ。俺は、彼女が喜びそうなものを創っただけだから。
     だが、俺の意に反して彼女は「そういうことなら!」と何一つ迷うことなくパッと指を動かした。途端、俺が出した星屑たちよりも少しだけ大きい丸いものが宙に浮かぶ。「できたぁっ!」という口調から、彼女が創りたかったものは正しく出せたらしいが、いまいちなんなのかよくわからなかった。
    「わかんないの?」
    「……わからないな」
    「こんなに上手くできたのに!もー明けの明星に決まってるでしょ。星空の中に探すのなんてルシファーのことだけだもん」
    「…………俺を喜ばせてどうしたいんだ……」
    「え?なにっ」
    「こっちを向くな」
    「わ!」
     咄嗟に視界を覆って前のめりに体重をかけたせいで、俺と彼女が創った星たちは全て消え去り再び暗い部屋に逆戻りしたが、かえって都合が良かった。想像の斜め上の行為に俺の表情筋は脆くも崩れたので取り繕うのに苦労する。
    「ん〜っ……!も!何するの!あーー消えちゃったじゃん!」
    「イメージの練習はもういい。おまえには簡単すぎたようだ。その様子だと初級は飛ばしても良いだろうから、今度は実際に存在するものを『今ここ』に取り出す魔術に移るぞ」
    「ええ!?それ高度魔術って言ってたよ!?」
    「どのみちそれができるようにならないと俺を喚ぶこともできないだろう。最終目標に近いところからやるべきだったんだ」
    「スパルタ!!」
    「基本は同じだ。イメージと、それから想い。いいか、次は」
    「待って!まずはランプか電気だよ!話はそれから!」
    「それもそうだな。いいぞ。やってみろ」
    「オーケー!……っんーーーーーー!?」
     あの調子で行けばできるだろうと踏んだのだが、彼女が念じた直後、ポトリとベッドの上に落ちてきたのは電球一つで、二人してぽかんとしてしまう。
    「……これは?」
    「で、んき、です」
    「俺が想像していたランプか電気、とは似ても似つかないが?」
    「な、なんでぇ!?さっきと同じようにしたよ!?」
     もう一回やるから待って!!と汚名を返上しようと目を閉じた彼女だが、焦っている時に成功する確率はほぼ0に等しい。これは成功するのに時間がかかりそうだ。どうやら成功したのは俺が対象だったからかもな、なんて苦笑が漏れたのに、彼女が気づくことはなかった。


    ∞∞━━━━━━━━━∞∞━━━━━━━━━∞∞

    09.
     「ごめん、最後にどうしても行きたいところがあるの」と、そう申し出されたのは今朝のことだった。そんなに遠い場所じゃないからと前置きされずとも二つ返事で了承し、今いるのは地下鉄の中だ。しかし久しぶりにこのtubeとやらに乗り込んだわけだが、俺ですら頭に注意しなければならないとは。なかなか生きづらい。
    「この国の乗り物は、住む人間の体格に比べて小さすぎやしないか」
    「それは私も思う。狭いよねぇ。鉄道はさほどなのにね」
    「バス路線が発達するのもわかるな」
    「ふふっ。まぁそういう理屈でいっぱい走ってるわけでもなさそうだけどね?っわ!」
    「おっと」
     ガタンガタンと大きく揺れる車内でバランスを取るのは難しいらしく、前に後ろにぐらぐらとする彼女が危なっかしくて見ていられないなと思っていたところで、がくんと俺の胸に飛び込んできた身体。最初からこうしていればよかったんだと、俺はそれを抱き留めた。
    「っ!?わぁ!?ご、ごめ、」
    「倒れるんじゃないかと思っていたからちょうどいい。このまま俺に掴まっていろ」
    「へ!?いやそれはっ」
    「こんな人目のある場所で転んで尻餅をつくほうがだいぶ恥ずかしいと思うが、どうだ?」
    「っぐぅ!」
    「くくっ……!おまえの話だとあと十分もせずにつくんだろう?大人しくしておけ」
     片手で彼女を引き寄せ、もう片方は天井に付ければ、もう揺れることはなくなった。負けを認めた彼女は大人しく俺に張り付いてくれて安心だ。それから少しして目的地に到着し、手を引かれて降りる間際に「perfect couple」と聞こえてきたのには面映ゆかった。
     地上に出るとただっぴろい芝生の向こうにいくつか建物が見えた。これは昔何かのガイドブックで見たことがあるなと記憶を遡っていると、ぽつりと彼女が声をあげる。
    「ここ、グリニッジっていうの」
    「グリニッジ……ああ、思い出した。昔ディアボロがこのあたりに八咫烏のリゾートホテルを建設したいとか言っていた。たしか経度0度線があると」
    「さすが。よく知ってるね。ここがこの人間界の時間を決めてるんだよ」
    「有名な場所と聞いていたんだが、あまり人がいないんだな」
    「広いからそう見えるだけだよ、きっとね。さ、いこ」
     一直線に伸びるコンクリート上を歩いていると、前触れもなくぽつりと雫の感触を頬に感じた。空を見上げれば太陽が出ている一方で、雨粒が落ちてくるではないか。降り出した雨は周囲の音を呑み込んで地面に濃いシミを作った。
    「えっ、雨?」
    「結構降ってきたな」
    「そんな悠長なこと言ってる場合!?濡れちゃうから早く!」
     のんびりとしているように見えた人々も、本降りになってきた雨脚に各々慌てて同じ方向を目指して走り出す。たしかに結構な人数の観光客がいたようで少し驚く。やっと辿り着いた博物館の入り口は、あっという間に人でいっぱいになった。
    「太陽出てるから降るとは思わなかったね。大丈夫?」
    「ああ、俺は問題ない。おまえは?」
    「私も大丈夫。ちょっと濡れちゃったけどこのくらいならすぐ乾くよ」
    「そうか。通り雨ならいいが」
    「ルシファー、こういうのはね、通り雨じゃなくって狐の嫁入りっていうんだよ」
    「きつね?」
    「そ。昔は日が照ってるのに雨が降るのは怪奇現象だって思われてて、だから狐に化かされているんじゃないか、ってことだったらしいよ」
    「ふむ。面白い考えだな」
    「ね。でもいいよね、怪奇現象なのに嫁入りってさ。可愛いっていうかポジティブっていうか。私は好き」
     そこまで言うと、たぶんすぐ止むから中見てよ、と歩き出した背中。咄嗟にそれを引き留めると、ゆるりと振り返った彼女の首元には、珍しく俺が買ったネックレスが揺れていた。腰を取って隣に立つと、ふわりと笑ってみせる。
    「嫁入り日は晴れるといいな」
    「?だから狐の嫁入りは雨で」
    「悪魔に嫁入りするときは晴れるさ」
    「は……はあっんぐぅ!」
    「博物館で大きな声を出すものじゃないぞ」
     大声を出そうとした口を覆ってやると、空気ごとそれを胃の中まで流し込んだ彼女は、そのせいも相まって顔を真っ赤にして唸った。

     それから一時間は経ったろうか。彼女が言った通り、中を見ているうちに雨は止んだようだ。最後の部屋にあった土産屋を出たところで、フォトスポットに突き当たった。そこまできて、そう言えばと思い出す。
    「おまえは何が見たくてここまで来たんだ?」
    「一緒に出掛けたかったっていう理由じゃだめかな」
    「いや、どうしても、と言っていただろう。何か別の理由があったんじゃないか?」
    「……ルシファー物覚えよすぎ」
    「?」
    「忘れてたらよかったのに」
     フォトスポットーーそれは、子午線上に一本引かれたラインを跨いで写真を撮るというありふれたものだったのだが、その列に並びながら言うので、これを俺に見せたかっただけなのか?と不思議に思いつつ続く言葉を待つ。
    「ここが子午線ってことは知ってると思うけど、この全く反対側に何があるか知ってる?」
    「反対側?」
    「地球の裏側ってことだよ」
     ちら、とこちらに視線をやって彼女は言う。
    「この裏側にはね、日付変更線っていうのがあるんだ」
    「……」
    「それを西から東に通過すると同じ日を繰り返せるの。おもしろいよね。……魔界はさ……この世の、どこにあるんだろう」
     彼女が何を言いたいのかわかってしまったがために、うまい言葉が紡げなかった。
     せっかく俺たちの撮影順番が回ってきたというのに、彼女はそのラインをひょいと跨いで、それから俺を呼び寄せる。手招きに従って俺もそれを跨ぐと、後ろから「写真はいいのか?」と声がかかったが、それを手で制して、俺たちはそのままフォトスポットを後にした。
     空からは陽の光が降り注ぎ、地はだんだんと乾き始めていた。雨の雫が葉の先っぽで光を反射して、悪魔の俺には久しぶりのその煌めきが少し眩しい。
    「……魔界はこの世のものではないからな、変更線を跨げたとしても日は、」
    「分かってるよ。ちょっと言ってみただけ!」
     にこ、と作られた笑顔にはいつものような気力はなかった。ただ、それを今指摘するのは無粋かもしれない。
    「魔界と天界は表裏一体だが、そのいずれもが人間界の裏側にあるものだ」
    「ふぅん?」
    「いつでもそこにある、と言っても正しいし、ここにない場所と言うのも正しいかもな。だいたい人間が魔界に来られることのほうが珍しいんだから、説明したところで誰もわからないだろう」
    「ん……と……どういうこと?わざと難しい言い回しするんだから」
    「それなら一番シンプルに言おう」
    「シンプルに言えることなら最初からそう言っ」
    「おまえは特別な人間だ。魔界にとっても天界にとっても、俺にとってもな。おまえならすぐにいつでも行き来できるようになるさ」
     一歩、大きく足を動かせば、すぐに彼女に並んだ。肩を取って、そろそろ帰るかと告げると、少し間があってからコクンと頭が揺れた。

     二人きりで人間界にいられる時間はもう残り二十四時間もない。
     時が過ぎることになど、もう長い間、微塵も興味がなかったはずなのにと、俺は人知れず自嘲した。
     彼女は、本当は泣き出したいのかもしれない。だがそれができるほど子どもでも素直でもない。些細なプライドでそれをどうにかやり過ごしているとしたなら、俺にできるのは黙って隣にいること、ただ、それだけ。



    ∞∞━━━━━━━━━∞∞━━━━━━━━━∞∞

    10.
     ついに迎えた最終日。
     起き抜けからもじもじしているなと思えば、朝食を食べながら、いかにも何でもないよといった雰囲気で口に出された言葉には苦笑した。
    「ルシファーは何時ごろにここを出る?」
    「正確に決めてはいないが、おまえの予定は?明日が早いなら」
    「ない!なにも予定ないから!ルシファーが居れるだけ居て!」
     ガタンと椅子が音を立てるくらい勢いよく立ち上がった彼女についに笑顔が隠せなくなる。
    「ふ……くくっ……わかった。できるだけ長く居ようか」
    「っあ、えと、む、無理はしないでね……?」
    「遠慮するな。何かやりたいことは?やってほしいことでもいい」
    「やりたいこと、」
    「ああ。まぁ、あと一日もないからあまり大きなことはできないが」
    「その……それならルシファーと、お酒、飲みたい」
    「酒?」
    「うん。悪魔ってデモナスじゃないお酒も飲むんでしょ?」
    「酔いはしないが、飲むは飲む」
    「じゃあちょっとだけ付き合って?私、パブに一人で行く勇気なくて、随分お酒から離れてるんだ。デモナスでは私は酔わないから」
     構わないがまたなんでこんな時間に、と思えど、こちらが何でもと言ったのだから付き合わない選択肢はない。酒は買ってあるのか、と聞くより先に彼女が手を伸ばした棚から、あれよあれよと小瓶が取り出されて机に並べられていくのにはさすがに驚いた。
    「おまえ、どれだけ酒飲みだったんだ」
    「勘違いしないでっ!?こういうボトルって大きいのしか見たことなかったんだけど、小さいのもあるんだなーって新しい発見で。飾りとして可愛いかなって買っただけ!」
    「ならなんであんなところにしまってあったんだ」
    「むぁ……!」
    「案外酒が好きなんだろう。俺たち悪魔がデモナスを好むのと同じだ。隠すことでもない。素直にそう言え」
     核心を突かれた顔を見るのはなかなかどうして面白い。ボトルを握った手を上から握り返すとブスッとしたままに少しだけ頬が染まる。クク、と喉で笑って話を続けた。
    「酒を飲むなら、そうだな。つまみもいるんじゃないか?何かあるか?」
    「えっ」
    「まさか酒だけ煽るつもりだったのか?」
    「あ〜……」
    「そのつもりだったのか。全く飛んだドリンカーだな。せっかくの機会だし今あるもので作るか……一緒に」
    「……っ、う、うんっ!」
     俺一人でやってもいいのだが、今はそれよりは二人三脚が妥当だろう。そうと決まればと朝食もそこそこに準備に取り掛かった。
     食材を眺めて粗方何を作るかのプランを共有。二人、キッチンに並んで作業を分担しながら簡単なつまみを増やしていく中でも雑談はつきない。時間の許す限りといった様子であらゆる話題が飛び交う。
    「ルシファーはさ、十日間こっちにいたわけだけど、何が一番頭に残ってる?」
    「そうだな……」
     ドライブに買い物、散歩に観光、魔術も教えた。たった十日とは思えないほどのことが頭の中をよぎっていく。どれもそれぞれ残るものがあって一番と言われると困るものだなと頭を擡げ、天井を見つめる。しかしその沈黙を悪い方に捕らえたのか、彼女はごめんごめんと呟いた。
    「ルシファー、生きてる時間が長いからあんまり目新しいものもこともなかったよね?」
    「ん?いや、そういうわけじゃ」
    「でも私は、全部楽しかったよ」
     へらりと笑うその顔に漂うのは、隠しきれない寂しいという気持ち。本人は笑えていると思い込んでいるのだろうが、目がそう訴えているのだから誤魔化せるはずはない。俺はそれに対して「大丈夫か」と言える立場にないのであえて触れはしなかった。
    「ありがとね、いっぱいわがままに付き合ってくれて」
    「わがまま?おまえのわがままはこの程度なのか。随分と良い子なんだな」
    「ええ?またまたぁ。大人風ふかす〜」
    「そうだな。もう数えるのも嫌になるくらいの年月を越えてきた俺からしてみれば、おまえの願い事なんて全部可愛いものだ。人間にこれほどの情を寄せてしまった俺が言えた話でもないが、おまえが愛おしすぎて何をされたって言われたって、可愛いと思うよ」
     スモークサーモンの上にレモンを添えながら答えると、ゔっと変な声が聞こえてきて俺は思わず屈託なく笑った。
    「ははっ!」
    「る、しふぁーは、私をどうしたいのっ……!」
    「どうしたいのかと言えば、全部俺のものにしたい、かな」
    「な……はぁ!?」
    「おまえが俺のものになるんだとは言ったが、ものでは嫌だというし……家族よりは昇格したが恋人と言うのでもまだまだ足りない」
    「っ……ぇ……ええ……こ、いびとで、足りないって、それは」
    「そうだな、どういう言葉で表しても満足いかないだろうな。だからこうして一緒にいる」
    「へ、」
    「思い出なんて言葉だけではなくて、今、共にいるこの時も大事にしろ」
     サーモンをテーブルに載せ、さぁ次は何を作るかと冷蔵庫に手を伸ばしたその時、「だって」と声が上がってそちらを見遣ると、グッと唇を噛み締めた彼女がこちらをじっと見つめていて困惑する。
    「どうかしたか」
    「……人間だから」
    「?」
    「私は人間だから、全部大切にとっておきたいよ。手に抱えられるものも経験できることも、すごくすごく少ないんだよ。全部お墓に抱えてくって言ったでしょ?だから全部とっておくんだよ。D.D.D.のカメラロールにもいっぱいいっぱい残ってるんだよ。本当は現像したかったんだけど、これって人間界のPCに繋げるのかなって思って結局やってなかったから……今度魔界に戻れる時があったらそっちでやろうと思ってるんだ。だから早く戻れる機会があると良いんだけど、でも留学終わっちゃったもんね。どうしたら遊びに行けるのかまた殿下に聞かなくっちゃ。あ、ねぇ、ルシファーからもお願いしといてもらえる?」
     話しているうちに気が逸れたのか、話初めのトーンとは違って明るい声になった。俺の思惑とはズレたが、まぁいい。少しでも元気になったならそれで。
    「そういえばルシファーと写真撮りたかったの!良い?」
    「写真か……誰にも見せないという前提ならいいぞ」
    「うん、別に誰に見せるものでもないからそれくらいなら守るよ。あ、でも壁紙にするくらいなら許してくれる?」
    「ロック画面以外なら」
    「徹底してるなぁ。いいよそれで!」
     机の上に置いてあったD.D.D.を早速手に取ると、「ルシファー、こっちに寄って」と手招きされたので、素直に彼女に寄って背丈が合う程度に屈んだ。撮るよーとの声かけの後、パシャ、パシャと久しぶりに聞く音。角度を変えたり微妙にポーズを変えて何度もシャッターボタンをタップする姿を見て、ふと悪戯心が芽生えた。
    「なぁ」
    「ん?な、にっ!?」
     俺の声に反応してこちらを向いた彼女の唇を攫ったその瞬間。勢い余ったのか、パシャ、とまた一つ音が響いた。唇が離れて三秒、まだ固まったままの彼女に微笑みながら言う。
    「いい写真が撮れたんじゃないのか?」
    「っひぁ!?」
    「写真は俺にもシェアしてくれ」
    「う、うそ、ダァ……こんな……っ」
    「ブレていないといいな。念の為もう一枚撮っておくか?」
     ワナワナしている肩をぽんと軽く叩いて、さぁ続きをやるぞとまた冷蔵庫に向き直る。すると背後で「良い事考えた」との呟きが聞こえ、俺が必要な材料を取り出して準備するその傍で、彼女は何やらD.D.D.に真剣な顔で対峙し始めた。一緒に作ろうと言った手前、一旦手を止めるべきか逡巡したが、すぐに彼女が「見てっ!」と示した画面を覗いて感心した。どうやら彼女は、先ほど撮った画像に落書きをしていたようだ。俺の頭に悪魔姿時のツノ、それに合わせて自分の頭にも小さなツノが描かれている。うまいじゃないかと褒めればへへへとはにかんだ。
    「画面の中ではおそろいにできるね。これをホームに設定しよっと!」
     手の中に残る思い出の品はあまり増やしたくないのだが、こういうものは悪くない。ルシファーにも送ったからルシファーも設定しておいてね、なんてセリフに従ってそこでそのまま設定を行なってから、残りの調理を済ませにかかったのだった。

     残り物で作ったとは思えないほど豪華なつまみを肴に、二人だけの飲み会ーーもとい、このタイミングではさよならパーティーでもあるのかもしれないが、それが始まって時が過ぎた。気づけば空の色は橙を帯びていて、この色を表現するにはいささか言葉が足りないなどと頭の片隅で思案する。目の前ではかなり酔いが回った彼女が机の上でぺしょんとへたっており、さて、この状態の彼女をどうすべきかとの悩みからの逃避でもあった。それでもさらに新しいボトルに手をかけようとするので、その手からボトルを奪い取り、代わりにミネラルウォーターを渡す。
    「もう酒はいいだろう」
    「うう〜……」
    「ほら、水だ。こっちにしろ」
    「なんでぇ……」
    「そんなに酔ってるんだ。これ以上飲んだら、」
    「るしふぁあはなんできょぉかえっちゃうのぉ」
    「、は」
    「やっぱりにんげんかいはきらい?」
     ダイニングテーブルでうだうだとしている、子どもにしては大きい身体をひょいと抱き上げると、素直にキュッと首に巻きついてくる腕。首筋に彼女の呼吸があたって熱い。これほど酔わないと本心を口にできないとは恐れ多い。
    「おまえがいるんだ嫌なわけはない」
    「じゃあなんで?」
    「おまえも魔術の勉強があるように俺にも仕事があるんだ」
     隣の部屋のベッドまではほんの数歩。そのまま寝かしつけようと彼女の身体をベッドに降ろしたが、俺も一緒に引っ張られたために慌てて腕を突っ張った。
    「こら、危な」
     お咎めを声に乗せるも、彼女の酷く歪んだ顔が視界に入るとそれ以上の言葉が紡げなくなる。
    「ッわかってるよっ……!」
    「おまえ、」
    「わたしががんばればいいんだもん!ぜったいすぐにるしふぁーのこと喚びつけてやるんだから!いきなり喚んでもことわれないんだからね!だってるしふぁーのますたーはわたしなんだからぁっ」
    「……ああ、楽しみにしている。だから泣くな」
    「っう~……!」
    「おまえが眠るまではここにいるから。楽しい思い出だけ取っておけ」
    「も、ゃだぁ……!こんな、こんなっ、駄々こねる予定じゃっ、なかったっ」
    「わかってる。大丈夫だ。ほら、目を閉じろ」
     胸に抱き寄せて視界を覆ってやると、徐々に呼吸が落ち着いて来て、いつの間にかスゥスゥと小さな音が聞こえる。なかなかどうして、彼女は大層気を張っていたらしい。
    「眠ったか……?」
     縋ってきていた手からも力が抜けたのを感じ、指を一本一本ゆっくりと服から離して少し距離を取る。泣き腫らして赤く染まった眼尻に唇を押し当てると、俺はベッドを抜け出た。起きてまた別れるのは酷だろう。
    「おまえに喚ばれるのを、待ってる」
     そっと呟いて、名残惜しくなって今度は額に口付けを。光の指輪が日の入り間際の夕日にキラリと反射したのをきっかけに、やっとのことでその部屋を後にした。振り返らなかった俺は知らない。扉を閉めた瞬間に、彼女が枕に顔を埋め、嗚咽を殺していたことを。

     テーブルを簡単に片付けた後、玄関の扉を二回ノックすれば、その先は魔界に繋がれた。
    「おやルシファー。早かったのですね」
    「長々居ても仕方ない」
    「そんなことを言って。あらかた彼女が寝ているところで勝手に出てきたのでしょう」
    「……」
    「図星ですか。全く。彼女の気持ちも少しは考えたらどうなのです?あなた本当に元天使なのですか」
    「俺はもう、身も心も悪魔だ」
     俺の返事に呆れたような溜め息を一つ返したバルバトスには、眉間に皺を寄せて渋い顔をお見舞いするが、奴は慣れっこなのでにこやかに笑っただけだった。
     俺が居なかった十日の間にきっと恐ろしい量の仕事が積み上げられているはずだが、ディアボロのところに顔を出す前に嘆きの館に戻って手荷物を置いてこようと魔王城の外に出る。
     外は、雨が降っていた。これがにわか雨なのか、通り雨なのか、はたまた狐の嫁入りなのか、太陽の登らない魔界では定かではない。まさかそれからすぐにまた人間界に行くことになるなんて思ってもいなかった俺は、彼女に一言、「もうおまえに会いたくなった」とメッセージを送ってD.D.D.の電源を落とした。ホーム画面では、俺と彼女が微笑んでいた。

     ベビーシッターだなんて言われてご対面した際に、呆然とし、しかし徐々に緩んでいく表情を見られる日は近かったが、今は誰もそんなことは知る由もない。記憶の中の彼女に想いを馳せる自分があまりにも悪魔とかけ離れていて、空を見上げて溜め息をつく。
     人間界であれば、あるいは薄明の空に明けの明星ルシファーが見えるかもしれなかったのに。
     今はただ、似て非なる世界に空が落とした涙を浴びて立ち尽くした。



    ∞∞━━━━━━━━━∞∞━━━━━━━━━∞∞
    ∞∞━━━━━━━━━∞∞━━━━━━━━━∞∞
    番外編:MC視点
    「ルシファー、いっちゃったな……」
     最後まで優しかったルシファーに、別れ間際に涙を見せたくなくて寝たふりをした私はズルい女、なんだろう。でもそうすることしかできなかった。許してほしい。
     ルシファーがいなくなってから、泣いても泣いても、ルシファーの面影を部屋の片隅に見つけてはまた涙が溢れてしまってどうしようもなく、バスルームでまた一頻り泣いて、瞼が腫れて一重になってしまったころ、漸くダイニングテーブルについてレモンウォーターを口にした。
     何も食べる気が起きないけど、このままいるとルシファーに怒られてしまいそうだと、少しだけ口角が上がったのに、瞳にはまた膜が張ってきたので、ゴシゴシと目を擦って立ち上がる。たしかヨーグルトを買っておいたはず。そのくらいから始めようと冷蔵庫に近寄ったところでD.D.D.が目に留まり、そういえば全然みてなかったと電源ボタンを押したところで座り込んでしまったのは仕方ないでしょう?
    「ずるいよっ……ッわたしのほうが、もっとあいたいっ……」

    【ルシファー】
     もうおまえに会いたくなった


     空が赤から紫の美しいグラデーションに染まる薄明の頃、一人でいるとどうしてもただ涙に明け暮れてしまうことに気づいた私は、その後は魔術の練習に没頭することに決めた。それからなんだかんだ生きていくために働く場所もほしくて、でも言語能力がそのレベルに達していないということで語学学校に通いつつ、そこの購買で少し働かせてもらったり、ソロモンのお手伝いで少しお小遣いをもらったりもした。
     忙しくすれば、悲しみは徐々に生活に溶け込み、そうして日常に紛れていく。それが良いことなのか悪いことなのかは私にはわからないけれど、ルシファーのことを忘れられる時間があるのは私の心の平穏のためには今は必要だったみたいだ。徐々に涙が出る日は少なくなって言った。
     そうして暫く忙しない日々を過ごした結果、ソロモンにまでそろそろ休みをとった方がいいと心配されたある日。
     家にいても仕方がないので一人、マーケットに足を運んだ際に、そういえばと例のパティスリーショップを覗いてみると、あのおばあちゃんがパッと目を輝かせ、しかし次の瞬間キッと目線が鋭くなった。
    「お嬢ちゃん、また一人かい!」
    「えっ」
    「あんの色男!あれだけ言ったのに!お嬢ちゃん、あんたいつから満足に寝てないんだい?可愛い顔が台無しだよ」
     私よりも一回りも背丈が低いおばあちゃんに頬を撫でられて、不覚にも視界が潤んでしまった。こんなにも気を張っていたのかと驚くと共に、こんな往来で泣くわけにもいかず、あははと力なく笑うに留める。
     おばあちゃんは、これはサービスだよ!、と大きな声で言い残して奥へと消えていったけれど、代わりに隣のお店のお花屋さんからおじいさんが出てきて無言で一輪の花を差し出された。咄嗟に受け取ってしまってから、お代、とポケットを漁ろうとすると、いいから、と遮られてしばしの沈黙。どうしたらよいかわからず、花を見つめて、なんとか落ち着いてきた口から疑問を投げかけた。
    「……これ……ガーベラ、ですか?」
    「いんや、ディモルフォセカさ」
    「ディモ……?」
    「花言葉だよ、元気を出しなってね!ほれ、クロワッサンダマンド!それから店に出せなかったあまり物、詰めといたよ!」
    「え……こ、こんなにいただけないです!お金っ、」
    「お嬢ちゃんが気に入ってくれただけで満足さ!それからね、うちはお一人様はお断り!今度こそ!二人で!来るんだよ!」
    「っ、」
     おばあちゃんはとてもにこやかに笑って、有無を言わさず私を送り出した。「向かいのとこのカフェ・オ・レでも買って、一緒に食べなぁね」なんて声が聞こえてきたけど、何か喋ったら涙が溢れてしまいそうだったから立ち寄ることはできなかった。
     ただ、それをトリガーにして、その夜、私はやっとのことでルシファーに連絡をする決意ができたのだった。
    「よし……かける、かけるぞ……っ……ん、もしかしたらこんな時間はまだ殿下とデモナスでも飲んでるかも……?も、もう少しあとにしようかな……いやでももっと遅くなると寝ちゃうかな……電話じゃなくてチャットのがいい……?そうだよね、チャットのがいいか!」
     言い訳は口から無限に溢れてきて、結局チャットだけにとどめた。それでも文章が長くなりすぎて、削除したり言い回しを変えたりウダウダしているうちに一時間ほどがすぎていた。やっと一つメッセージを送り終わったころには手が痺れてクタクタだ。へちょんとベッドにつんのめると、ミッションを果たしたように満たされる何かがあった。今日はスッキリ眠れそうだと、ころりと転がって天井を見つめて数秒。今ならもしかしたら、召喚もできるかもしれないと、何故だか、そう感じて、天井に向かって指を掲げた。
    「……我、汝を求めるーー魔術師の名において、光の指輪の契約の元ーーーー出でよ、ルシファー……」
     途端、指先から黒い光が天井に向かって飛び出す。いつもと違う光に驚く暇もなく、その光は天井に紫色の穴を開けーーそこから何かが落ちてきた。
    「へぶっ!?」
     顔面を直撃したものは全然重くもなかったが、突然のことに変な声を出してしまう。痛くもないのに鼻を擦りながら、落ちてきたものを手に取って確かめるとそれは。
    「……グローブ?」
     真っ黒なグローブ、だった。しかも片方だけ。
     指先部分を持ち上げ、ぷらん、と顔の前で揺らす。なんだろ?と無意識に顔を近づけて気づいた事実に目を見開く。
    「……!」
     香ったそれは紛れもなくルシファーの香水で。次いで震えたD.D.D.のメッセージは、今度こそ私を笑顔にさせた。

    【ルシファー】
     俺のグローブだけを連れていくんじゃない。喚ぶなら俺ごと喚べ。

    「っ……マジかぁっ……!」
     画面の向こうでルシファーが苦笑しているその様がありありと思い描けて、思わずガッツポーズを一つ。
     グローブを膝の上に乗せてカメラアプリでパシャリ。そのままルシファーに送ると、ムッとした顔のクログロのスタンプが送られてきて、それから、「早くそれを返しに来い」と、遠回しな応援メッセージが届いた。


     そんなことがあってすぐ、久しぶりに練習に付き合ってくれたソロモンにベビーシッターのバイトを紹介されることになったのは、誰も予想し得ない未来のことなんだけど。
     それはきっと別の場所で語られるお話だろうから。今はまだしまっておこう。
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