猫を追いかけて1「にゃあ」
微かに聞こえた声にスレッタは顔を上げた。
耳を澄ませて、その鳴き声の糸を手繰り寄せるように進んで行く。途中、飛び出た木の枝がおでこに当たった。それも気にせずに、ゆっくりと、でも確実に、音の鳴る方へ近付いていった。
目の前の茂みをかき分け進むと、その先でチラチラとした揺れる明かりが見えた。誰かいるのかとハッとし、太い木の幹を背にして、気付かれないように両手を口元に当てて耳を澄ませた。
「にゃーん、にゃ、にゃ」
「そうだな、にゃーだな」
猫の鳴き声に混ざって聞こえたその聞き覚えのある声に、スレッタは「ん?」と頭の中にハテナを浮かべた。まさか、と思いながら、恐る恐る頭を覗かせる。
「お前、どこから来たんだ? 飼い主はどうしたんだ?」
「にゃん……」
「迷子か?」
「にゃーん」
「なら、泊まっていくか?」
「にゃん!」
「ははは、そうかそうか」
そう言って、脱走した猫のミスティの頭を撫でているのは、あのグエル・ジェタークだった。
グエルは簡素なコンパクトチェアに座り、左手でタブレットを持ち、右手にはほのかに湯気の立つマグカップを持っていた。その膝の上に、スレッタの探すミスティは居た。ミスティは、グエルの膝の上でころんと寝転がって、マグカップを持つ腕に楽しそうにじゃれついたりしている。グエルが持っていたタブレットを小さな折りたたみのテーブルの上、ランタンの隣に置いた。マグカップの中身を溢さないように腕を高くあげミスティが届かないようにして、「なんだよ」と笑顔を見せて、小さな前足でイタズラしていたミスティのふわふわのお腹を撫でている。
スレッタが飼い主のボニーから飼い猫のミスティを預かったのが午後三時。そしてミスティが地球寮を飛び出していったのは午後五時。チュチュとマルタンと手分けして探し、スレッタは森の中での捜索を担当していた。木の穴の中や、木の上まで登ったがなんの手掛かりも見つけられず、気付けばフロントの天井は真っ暗になってしまっていた。よく見れば、身体のあちこちに葉や枝で切ってしまったのか、小さな切り傷ができていた。中には血が滲み固まっている場所もあった。
そんなやっとの思いで見つけたミスティを連れて今すぐにでも地球寮に戻らねばと思うのに、この場にずかずかと立ち入っていくのはとても憚られた。
グエルとは彼がエランとの決闘をした以降会っておらず、どうしてこんな場所にいるのか、スレッタには皆目見当もつかなかった。また出て行ったところで、過去を思い返せばまともな会話ができる気もせず、どう足掻いても彼をイラつかせてしまう。そうなった時のあの心臓をぎゅっと掴まれるような感覚を、スレッタはこの学園で何度も経験していた。しかし、何よりもスレッタを躊躇わせていたのは、グエルが穏やかな表情をしているこの時間を邪魔してはいけないのではないだろうか、という気持ちだった。
仕方が無いから、ミスティが飽きてここを去るまで待っていよう。追い掛けるのは、またその後で良い。そう思った時だった。
「おい、どこにいく」
グエルの焦ったような声が聞こえ、スレッタは身体を硬くする。そして木を背にしたまま四つん這いになり、どうにかこの場から少しでも離れられないかと考えた。しかし動こうとした瞬間、スレッタの足元の葉がガサガサと揺れて、ふわりとしたものが触れた。
「わ、わわ!」
びっくりして、顔面から転んでしまう。
芝生に擦れてヒリヒリとする顎を摩っていると、自分の上に大きな影が落ちた。
「スレッタ・マーキュリー……?」
嫌な予感にゆっくりと首を回して振り向くと、ミスティを抱いてこちらを見下ろしているグエルと目が合った。
訝しむ顔になんの言い訳もできないまま、スレッタは立ち上がることもできずに言った。
「こ、ここ、こんばんは……」
それに応えるようにミスティが鳴いた。
「どうしてお前がここに」
「その猫を、探していて……」
グエルがミスティを地面に下ろしたその流れで、片膝を突いてスレッタに手を差し出した。スレッタは理解が追いつかず、「え?」と言ってその手を見た。
数秒置いて、助けようとしてくれているのか、と気づいた時にはその手は離れて、グエルは膝を払いながら低い声で「余計なお世話だったな」と言った。その声にちくりと刺さったものを感じて、スレッタは立ち上がるのをやめてその場で膝を抱えた。
ミスティはグエルの足にそのしなやかな身体を擦り付けて、嬉しそうに鳴いている。
「ミスティさん、探しましたよ。一緒に帰りましょう」
グエルの肌には触れないように気をつけて手を伸ばす。指の背で撫でれば、尾が優雅な動きを見せた。
「この猫、お前のところで飼っているのか?」
スレッタの横にしゃがみこんで、覗き込むようにしたグエルが訊ねた。
「い、いえ。ミスティさんは、ボニーさんの家族で……」
「そうだったのか」
グエルが、家族がいるなら安心だ、と言った。間を開けずに、その意味が伝わったかのような鳴き声が聞こえた。
「仲良しですね」
恨み言のように言う。
「お前は違うのか?」
グエルが掌にミスティの顎を乗せる。
「そ、そうだと思っていたんですが、地球寮、嫌だったのか逃げられちゃって、やっと見つけたと思ったら、い、今もあなたの方ばかりで……」
ごろごろという気持ちの良さそうな鳴き声が、しんとした森に響いた。
「好きなんですか?」
「は?!」
グエルが急に大きな声を出す。それに驚いたミスティが、慌ててスレッタの腕の中に飛び込んできた。
「そそそ、そんなに大きな声、だ、出さないでください! この子もびっくりして……」
「それは! お前が変なこと言うから」
「へ、変なことって……だだ、だって、ミスティさんを撫でている時は、いつもの眉間の皺、無かったから……だから、猫、好きなのかと思って……」
スレッタは自分の眉間を精一杯寄せて、こんな風に、と見せる。
「お前には俺がそんなふうに見えているのか?」
グエルが不服そうな顔で訊ねる。
普段ならここで怯んで誰かの背中に隠れようとしていた。でも、自分も大きな声を出したからか体の強張りが解れ、ミスティがいてくれていることもあり、グエルの隣にいる居心地の悪さはだんだんと薄れていった。だから、スレッタはいつもよりもリラックスして会話ができた。
「そうですよ。それであなたは私を見て叫ぶんです。『水星女!』って」
眉間に力を入れたままグエルを睨む。けれどなんだかおかしくなってしまい、ふふ、と笑い声が漏れた。
そんな自分を見たグエルも、ふっと息をはいて笑った。
「あ! それ! それです!」
「何がだよ」
グエルがまた難しい顔をしてしまった。
「が、学園でも、そうやって笑っていたらいいのに……」
いつも機嫌が悪そうに腕を組んで、見るもの全てが敵、と言ったような、人を寄せ付けない鋭い視線。
「私、学校来れて、良かったです。やりたい事リストも、少しずつ埋まっています」
勉強して、友達もできて、猫も触れた。
グエルは黙ったまま、またミスティを撫でている。
その横顔は、悲しそうな寂しそうな、もしかしたら今にも泣いてしまいそうな、そんな風にも見えた。それも自分の思い過ごしかもしれないが、スレッタはなんと声を掛ければいいのか、わからなかった。
「お前、あれから泣いてないか?」
しばらくして聞こえた独り言のようなそれが自分に投げかけられたものだと気付くのに数秒かかった。
「な、泣いてないです」
「なら、良かった」
こちらは向かないまま、眉は下がって、でも少し上がった口元をスレッタは横目で見た。
胸が少しだけ切なくなり、弱音を吐けないかもしれない彼の代わりにスレッタは言った。
「あの、泣きたくなったら、またここにきてもいいですか?」
グエルがゆっくりと手を止めて、スレッタを見る。
「来ないことを祈るが」
一呼吸開けて、グエルが口を開く。
「もし来ることがあれば、甘いココアを作ってやる」
どうしてそんなに優しい声をしているのだろうか。彼の言動の裏の意味を推し量ることは、スレッタには難しい。
「はちみつをひと匙、入れてほしいです」
言った後で、図々しかっただろうか、と思う。でもグエルはこちらを見て微かに笑って「準備しておく」と静かに言った。
「……ありがとうございます」
「来いとは言ってないからな」
睨まれたけれど、その声音では全然迫力は無い。
「はい」
猫に優しくて、自分が泣いたかどうかをそんな風に気にして、スレッタはわけがわからないと思っていたグエルの心の内を、ほんの少しだけ垣間見た気がした。