木漏れ日の面影 ホームズが手を身幅ほどに広げたかと思うと、今度はゆらゆらと揺れてみせたので、亜双義は「そうではなくて」とため息混じりに軌道修正を試みる。
「だって、キミが聞いてきたんじゃないか。『父親になった瞬間、どんな感じでしたか』って」
「オレは心境を知りたいのであって、彼女と出会った瞬間を再現してほしいわけではありません」
辟易しつつも帰るそぶりを見せぬ亜双義に対し、ホームズは興味深そうに眉尻を上げている。亜双義はこの男がしばしば見せる、人を試すような態度をあまり快く思っていない。この苦手意識はかつて彼の手のひらで転がされた――結果として亜双義は彼に救われたとも言えるわけだが――苦い記憶に起因するのかもしれない。
どうにも落ち着かず、消し炭の溶き汁かと見紛う珈琲に視線を逃がしたものの、さすがに口をつける気にはなれなかった。ミス・ワトソンの留守を狙って押し掛けた代償だなと、頭の中で師がせせら笑った気がした。
「そんなことを聞いてどうするのさ」
至極もっともな疑問を投げ掛けた男は自身が淹れた珈琲には目もくれず、パイプを咥えた。また試されているのかと、亜双義の眉間の皺が深くなる。こうした態度がまた彼を面白がらせると分かってはいるが、どうにも顔に出てしまう。
「そう構えなくていいよ。とって食おうなんて考えてないし」
「……貴公が相手ならばオレも負けませんよ」
「あっそ。……ちなみにボク、純粋な殴り合いで一度キミの師匠に勝ったことがあるからね。あんまり舐めない方がいいと思うけど」
「まあ、そのあとすぐにやり返されたけどね! もっとひねってやればよかったよ!」とホームズは忌々しげに吐き捨てたが、心底恨んでいるというわけでもないらしい。じゃれ合いにしては野蛮、そしてあの師にしては直情的と亜双義は瞠目した。しかしこのままでは本題へ到達する前に日が暮れてしまうと我に返り、続々と湧く好奇心をどうにか押し込める。
「喧嘩の話も気になりますが、それはまた後日。……どうしてオレがこんなことを貴公に訊ねるのか、その理由が分かれば真面目に話してくださるのですか」
「ボクとしては真面目に向き合っているつもりだよ。……でも、ねえ。やっぱり意図の分からない質問には人間答えづらいものだよ」
確かに、この男の言うことも一理あろう。不躾でしたね、と亜双義は咳ばらいをしたのち、訥々と胸の内を語り始める。揶揄われるのではないかという亜双義の不安は杞憂に終わり、存外よく話を聞いている男の姿に瞠目するばかりであった。
ホームズがゆったりとまばたきを繰り返せばたちまち空気は変わる。ほどよく弛みを残した緊張感に、亜双義は思わず姿勢を正した。彼の言葉は時に捨象的で、理解の及ばぬところがある。そもそも、切り捨てられたかけらすら飲み下せぬ可能性もあったが、それでも亜双義は目を、耳を、意識を研ぎ澄ませる。
「……ボクは父親になったわけではなくて、時を重ねるうちに父親になっていたんだよ。父親にしてもらった、とも言うべきかな。……ほら、ナルホドーが極秘裁判で『自分は何者でもなかった』って言っただろ? アレと近い感覚だよ」
近代的だよねえ、とホームズは感心しながら煙をくゆらせた。かすんだ視界の向こうに郷愁を噛み締める唇が見える。かの留学生と法務助士が帰国してからもう一年は経ったか。書簡のやりとりこそしているが、彼らの顔を思い出すとやはり望郷の念に駆られてしまう。その様子を悟られぬよう、亜双義は石炭色の液体に口をつける。見た目通り、焦げた味がした。
「今のキミなら分かると思うけどね。自分は何者なのか、という問いに対する答えが鮮明になる感覚が」
もう一度、視界が烟る。立ちのぼる紫煙がゆらめき、ふうと消えた。男の訳知り顔をふたつの眼で捉えた瞬間、亜双義は無意識のうちにぎこちなくうなずいていた。
「もちろん、父親になろうと努力はしたさ。でもね、父親であるだけでなく、友人という方向へ解釈を拡げた方がボクらには合う気がしてね」
「不安は、なかったのですか」
「あったよ。今だから言うけど、不安しかなかった。ミルクの作り方どころか、そもそも粉ミルクがどこに売っているのかすら知らなかったしね。……探偵業で培った自信ともども打ちのめされたよ。自分は何でもできると思い込んでいただけで、本当は何にもできないんだ、ってね」
ホームズはパイプを指先で叩きながら苦笑した。やさしげな皺が目じりをなぞるさまに軽口のひとつも浮かばず、亜双義はざわつく心をなだめるべくマグカップの腹を数度さすった。
「ボクと同じぐらい、彼女も不安だったと思うよ。何にも分かってないヤツに戦々恐々と抱っこされてさ。首なんてもうガクガクで……でもボクが抱っこしてやるとさ、すごくほっとした顔をするんだよ。そのときに見えるピンクの歯ぐきが可愛くてね。その笑顔にボクは救われた。……当たり前のことだけど、ボクひとりでは父親になれなかった。ボクと向き合おうとしてくれる彼女のひたむきな努力があってはじめて、ボクは父親になれたんだと思うよ」
眩しい親子の情愛に、胃の腑が灼けつく。醜い嫉妬だった。わななく手を隠すようにマグカップをテーブルへと戻したが、ホームズの視線はすでに亜双義の手元へと注がれていた。
「キミの訊ねたいことはきっと、こんなことじゃないよね。いったいキミは何を知りたいんだい?」
ホームズは淡々した声で問いかける。それが悪事を咎めるような冷徹さを孕んでいるような気がしてならず、亜双義はますます顔をこわばらせた。
亜双義とて、後ろめたい振る舞いをしたいわけではない。この胸に深く突き刺さる問いをどのように言いあらわせばよいのかが分からず、結果として回りくどい、訝られても仕方のない訊ね方になってしまっただけで。
逡巡の末出てきたのは、「自分でもよく分かりません」という情けない言葉だった。
「分からない? それはウソだ」
「どうしてそう思うのです」
「キミは賢いから」
「……そんなの、答えになっていません」
「キミが言えないのならボクが言おうか? ただし、これは誰が口にしてもキミは傷付くことになる。断言する」
憐憫の情がにじむ声色に、心臓がぎゅうと締め付けられる。
「父は――オレを愛していたと思いますか」