泡にもなれない「なぁ遥、人魚姫って頭悪いと思わん?」
「は?」
「なんで恩人を他人と間違えるような男のために死ぬん?意味わからんわ」
随分と身も蓋もない言い方である。とはいえ、遥もその話をしっかりと覚えているわけではない。なんだか子どもの頃に絵本で読んだような、読まなかったような・・くらいの認識だ。いきなりそんな話を振られても、何か試されているのか。などと若干身構えたけれど。紫夕に視線をやれば、呆れて顔をしてなぜか人魚姫の絵本を読んでいるところだった。おそらく、本当にその物語に納得がいかず、偶然同じ空間にいる遥に話しかけた。それだけなのだろう。
「そもそもちゃんと知らねえよ。なんでお前はそんなの読んでんだ」
「唯臣がこの間興味あるから言うて、童話の本大量に買うてきてたから。一冊借りた」
「あー・・・あのひと好きそうだな」
この話はどんな意味なのか、どう言う感想を持つのが普通なのか、何を伝えたいものなのか。おおかたその辺が気になったのだろう。その行為に意味があるとは到底思えないが、鞍馬唯臣の考えていることは全くもって読めないため、いちいち突っ込むことをしていない。遥はスマホで人魚姫の単語を打ち込み、調べてみる。随分と簡素なあらすじがヒットし、軽く目を通してみると。なるほど確かに、随分くだらない話のように思える。少なくとも、このガキからすればそう見えるだろう。
(・・こういうの、アルゴナビスの奴らとかが見ればまた別なんだろうけどな)
見方によっては、おそらくこれは純愛に近い。相手の幸せを優先する自己犠牲の尊さを謳っている。けれど、紫夕や遥すれば、いやなんでお前が死んでんだよ、としか思えなかった。こんなにもどうでもいいことで意見があってしまうとは。全くもって、なんの感慨深さもない。
「・・まぁ確かに意味わかんねえな」
「せやろ?そもそも自分だけ死ぬ?僕なら最低でも婚約者の女刺してからやるわ」
「・・お前は女も王子も刺すだけ刺して自分は絶対死なねえだろ」
「はー、こんなのにみんな感動して泣いてんの?めでたいわぁ」
「・・お前は」
「なに?」
「・・なんでもねぇ」
「なぁ、遥さぁ。その言いかけてやめる癖どうにかならんの?構ってちゃんみたいやで」
「うるせぇな、本当にどうでもいいことだったんだよ」
そこで紫夕は会話に飽きたのか、本を投げ出し、ソファに寝そべる。スマホを取り出して、何やらゲームを起動させている。いや、お前から話しかけたんだろ。あとそれ、仮にも鞍馬先輩のモンだろ。どうせ小言を言ったところで響くことがないのはわかっているため、遥は口にはせず本を拾い上げるだけに留めてやった。ぱらりと適当にめくってみると、ずいぶん可愛らしい絵柄で、人魚姫が海の中で歌っているシーンが描かれている。この歌声と引き換えに、この女は足を手に入れたという。遥が先ほど飲み込んだ言葉は、本当の本当に、どうでもいい話だった。それでも。やはり考えずにはいられなかった。
(・・歌と引き換えにしてもいいようなモンが、こいつになくて良かった)
他人のために自己を犠牲にし、愛に生きる美しい精神の持ち主である人魚姫ならばまだしも。他人も愛もこの世のなにもかもを見下して生きているこのクソガキから、あの歌声まで奪ってしまっては。本当に何も残らないだろう。