紫夕が支度を終えるまで手持ち無沙汰になった遥は、部屋の中で一人待ちぼうけを食らっていた。いや、正確にいえば一人ではない。遥から少し距離を取ったところで、大きな白い犬が丸まって眠っている。別に動物が好きなわけではないが、やることもないため、遥はゆっくりとそれに近づいてみた。と、遥の気配に気がついたその犬・・確か、名前はモモと言ったろうか。モモはすんすんと遥の匂いを嗅ぎ、尻尾をゆるゆると振った。
「・・お前、デカイな」
遥の中で最も新しい犬の記憶は、以前アルゴナビスのシェアハウスへ訪れた時にであった子犬だ。そのせいもあってか、目の前の犬の大きさに僅かに驚く。
白い、犬。そういえば昔も、そんな犬に出会った気がする。なぜだがわからないけれど、遥は唐突にそれを思い出した。あれは確か、まだ遥が小学生の頃の話だ。
※
遥くん、すごいわ。本当に上達が早いのね。これなら次のコンクールも期待できるわ。先生の言葉に嘘はなかった。だから、遥はそれを言われた時に誇りに思ったけれど。それとは別に、弟の奏くんと連弾で出るのはどうかしら、と続いた言葉には胸が痛んだ。先生に悪意はない。仲良しな兄弟で、仲良くコンクールにでて、そして優勝すれば。きっと素敵な思い出になる。大方そういうことだろう。しかし、今の自分と比べれば、きっと奏の方が、上手だ。考えてみます、と告げて、遥はピアノ教室を後にした。奏とは別のクラスになったのは幸いだった。なんだか親の顔を見るのも嫌になり、遥は一人徒歩で家へ帰ることを選んだ。理由なんて、後でどうとでもなる。公園のベンチに座り、鞄から楽譜を出す。もしも奏くんと何か弾くならこの中からどれか選んでみて、と渡されたものだ。これを弾くとしたら、どうなるのだろう。また比べられるのだろうか。弾こうと声を掛ければきっと、奏は、喜ぶだろうけれど・・。そんなふうに考えていると、唐突に風が吹き、遥の手から一枚の楽譜を奪った。慌ててベンチから立ち上がり、それを拾い上げようとすれば。
「キャン!」
「うわ・・!な、なんだおまえ・・!」
いきなり楽譜に飛びついてきたのは、白い子犬だった。風で舞いあがる紙切れを、おもちゃだと思い込んでいるらしい。しがみついて、噛みついて、転がっている。
「お、おい、それは俺の・・!」
「××!見つけた!もう、一人でどっかいっちゃあかんよ!」
子犬の行動を止めようとすると、こんどは甲高い声が響く。振り向くと、ずいぶんと可愛らしい顔をした子が立っている。多分、遥よりも3歳くらいは下の・・女の子だろう。白い肌に、大きな目。そしてさらさらとした髪の毛は、クラスで一番可愛いと言われている女子生徒よりも可愛く見える。泣きそうな顔で、はぁはぁと息を切らしているその女の子は、きっとこの子犬を探して走っていたのだろう。飼い主を認識した子犬は、楽譜を離して、その女の子に駆け寄っていく。
「もう・・心配したんやで。よかった、ぶじで」
子犬を抱きしめて、女の子は何度もそう言った。一人で公園で黄昏ていたところに、いきなり二人・・いや、一人と一匹が増えて、この有様だ。いったい、何が何だか。わかるのは、遥の楽譜はぐちゃぐちゃにされたということだけだった。しかし、嬉しそうに笑う女の子を相手に怒る気にもなれず、ため息をついてひとりでそれを拾った。読めないこともないが、新しいものを貰うしかないだろう。と、そこでようやく女の子は遥の存在に気がついたようで、慌てて立ち上がった。
「ご、ごめんなさい、それ、だいじょうぶ?」
「あー・・いいよ、別に」
「・・うん」
「でも、危ないから犬離すなよ」
「うん、ごめんなさい・・」
「別に怒ってねぇよ・・あー、あれだな。かわいいな、そいつ」
「!そうやろ!すっごくかわええやろ!」
あまりにもしょんぼりとした顔をしてくるものだから、ばつが悪くなった遥は、誤魔化すように子犬を褒めてみた。そうすると、落ち込んでいたのが嘘のように、相手はパッと明るい笑顔を浮かべた。
「へへ、××、よかったな。このおにーちゃんが、××のこと、かわええって」
「キャン!」
「××も、ありがとうって!おにーちゃん、やさしいな」
「・・別に」
「なぁ、それ、がくふ?」
「あぁ。おまえも何かやってんのか?」
「うぅん、でも、パパが・・音楽がすき」
「へえ」
「おにーちゃん、音楽できるの、すごいなぁ」
おにーちゃん、という言葉が、なんだかむず痒かった。しかし、それを聞くと同時に弟のことを思い出す。そうだ、俺は、あいつのお兄ちゃんなんだから。こんなところで、うじうじと悩んでる場合じゃない。胸を張って、誘えばいいんだ。だって、あいつだって、頑張ってピアノを練習して、ここまできたんだから。俺が教えてあげた、ピアノを。ぐちゃぐちゃになった楽譜をぎゅ、と握る。
「・・あれ?おにーちゃん、だいじょうぶ?」
「あ、あぁ・・。ていうか、俺はもう行くけど。おまえ、一人か?ちゃんと帰れるのか?」
「えっと・・」
その時、××様、と大人の声が公園に響いた。入口あたりに一人の女性が立っていた。それをみた女の子は、慌てた様子で子犬を抱え上げて、もう行くねと口にした。あの雰囲気を見るに、親というわけではなさそうだった。それに、よく聞こえなかったけれど、名前の後に「様」とか言われていたような。着ている服もなんだか良さそうな生地だったし。もしかするとお金持ちの子どもだったのかもしれない。名前もろくに聞かなかったけれど、またこの辺りを歩いていれば会えるだろうか。
※
などということも、そういえば、あったのだ。どうして忘れていたのか。いや、そもそも。一度会っただけの女の子と子犬なんてわざわざ記憶しておく必要がない・・というのもあるけれど。この後に続くエピソードが苦いなんでものじゃなかったからに他ならないだろう。コンクールは結局奏が優勝したし、あのピアノ教室も、もっと奏の腕前に合うところに・・いう理由で、二人揃ってワンランク上のところに移動しさせられた。なんだか、やけに嫌なことまで思い出してしまった。遥はため息をついて、モモの頭に手を伸ばす。温かな感触は、ほんの少しだけその苛立ちを和らげた気がした。
「お前はおとなしいんだな、飼い主と違って」