宇宙の女神様 宇宙を眺めると、どこからでもそれが見える。
「今日も、美しいですね」
それに気が付いたのは3ヵ月ほど前だろうか。
巨大な赤い星雲である。
しかも、驚くなかれ、それは人の形をしていた。それは、いつも暗い宇宙に横たわって、瞳を閉じている。それが分かるほど、それの顔のつくりは、はっきりとしていた。やわらかな髪が、運河となり波打っている。身体のラインもなめらかで、実に優美だ。それは見るたびに少しづつ違うポーズをしているが、基本的には両手を揃えて枕にし、横たわっていることが多い。
私以外には見えていないのが残念だ。
「いい色だ」
宇宙の女神というものが存在するのであれば、まさしくあれのことではないだろうか。
そう、思い至った日から、私は心の中でひっそりと、あれを女神様と呼ぶことにした。
宇宙の女神は、今日も静かに宇宙に横たわっている。
今日は、任務地へ向かうためシャトルに搭乗していた。短時間の星間飛行だ。シャトルの窓からは、巨大な赤い星雲の、彼女が見える。変わらず赤く光り輝き、神々しい。
女神や彼女などと呼称しているが、実際のところ性別は分からない。身体のラインはなめらかだが、性別を判定できるような要素を観測したことはない。私の不躾な思考を察知してか、女神が不満げに、大きな猫のように身じろぎして、やがてうつ伏せになった。かわいらしいことだ。私はあれが、ただただ巨大で美しいものであるから、女神とした。私にしか見えないのだから、私だけの女神だ。それでいいではないか。
やがてシャトルは目的地へ到着する。今日のランデヴーはここまでのようだ。
手荷物をまとめ、乗務員の案内に従い降りる準備を整える。
惜しむように、恋人に別れを告げるように、シャトルの窓から彼女を見る。女神様は未だうつ伏せのままで、こちらに顔を向けてくれたりはしなかった。残念だ。
きっと帰りのシャトルでも会えるだろう。その時はどんな姿を見せてくれるのだろうか。次のランデヴーが楽しみだ。
女神様のご機嫌麗しゅう、本日は如何な一日になるだろうか。
数日前から、任務のため宇宙軽巡洋艦で航行中である。任務と言っても、とある場所で行われる会議に出席するだけだ。主要メンバーは他に居て、私はただのお目付け役であった。
宇宙に出るときには、まず彼女を見つけることが習慣になっていた。といっても、宇宙を視認する限りどこからでも見える、この世の法則をすべて無視したトンデモ星雲であったので、探さずとも必然的に目に入る。今日の女神は、膝を抱え、背中を丸めて横たわっていた。レアポーズだ。自分の口元に笑みが浮かぶのが分かる。今日は良いことがあるかもしれない。面倒な会議が早めに終わりますように。
彼女の顔を見つめる。宇宙塵や星団ガスでつくられているとは思えない、美しく整った顔。赤い光に吸い込まれるようだ。目を奪われる。
触れてみたい。天啓を得るように、急にそう思った。どう考えても不可能である。スケールが違いすぎる。そもそも、彼女はいかに美しく人の様であっても、星雲であったので、近づけば近づくほどに、その姿は朧になっていくだろう。
それでも、触れてみたいのだ。触れて、彼女の温度を感じ、慈しみ、許されたい。その美しい顔が、穏やかなものであるように、大切に、大切に。
私の女神。未だ、瞼を開いた姿を見たことはない。
瞼を開いた先に、瞳があるのだろうか。それもやはり、赤く美しく光るのだろうか。
「え。ヒゲマン、今、月まで来てるの?」
会議が行われた場所は、フォン・ブラウンだった。会議自体は恙なく終わり、宇宙の女神のレアポーズに心の中で感謝した。
せっかく地球の近くまで来たので、マチュくんが必要としている物資があれば、お送りして差しあげようかと思い連絡を取った。彼女は今でも時折、地球で起こる小さなトラブルを解決するため、力を貸してくれる心強い友人である。代わりに、彼女が必要とする物資や情報を提供している。ギブアンドテイクの関係というやつだ。
しかし、どうにも反応が変だ。通信先の声が、難解な数式に挑む学生のように、思考を走らせているのが分かる。
「ええ、ですので、物資の到着は比較的早いかと思いますが。なにかご入用ですか?」
「うーん……」
フォン・ブラウンは月面都市であるので、当然、宇宙がよく見える。通話を続けたまま宙を見上げると、やはりそこには巨大な赤い女神の姿がある。今は、両手を揃えてを枕にしていた。よく見かけるポーズだ。
「もっと言いましょう。私は残りのいくつかの小事を片づけた後、しばらく休暇を取るように仰せつかっています。もし貴女が本当にお困りなのであれば地球に降りて、内容によっては直接力をお貸ししてもよいと考えていますが、いかがですか?」
「…休暇、とれるの?地球に来られる?」
おや?声が明るくなった。私が直接地球に向かうことに、何か意義があるのだろうか。
「ええ、貴女が望むのであれば。ご要望を聞きましょう」
返ってきた言葉に、思わず端末を取り落としそうになった。
「シャ…、シロウズさんに会いに来てほしい。…もう3ヵ月以上、目を覚ましてない」
無意識に、宙を見上げる。私の女神。何故だ。
通信先の彼女には二つ返事で了承し、詳細は現地で合流してから聞くことになった。端末に送られてきたアドレス。この病院に、彼が入院しているのか?
私は予定通り、本当に些細な小事を手早く終わらせ、休暇を取り、2日後、フォン・ブラウンと地球を繋ぐ定期便に乗った。
はやる気持ちを抑えるように、シャトルの窓から見える、宇宙の女神に祈りを捧げていた。
送られたアドレスの病院に到着すると、マチュくんにメッセージを送った。すぐに返事が返ってくる。病室の番号と、彼が今使っている名前。フロントにいたスタッフに声を掛けると、マチュくんの顔なじみらしく、あっさりと案内された。彼女はもう、何度かお見舞いに来ているようだ。
「来たね、ヒゲマン」
病室の前では、マチュくんが待っていた。スタッフに礼を伝えると、感じよく去っていく。
「先に説明しておくと、シロウズさんは悪くないんだよ」
彼女の話を要約する。
事故だ。建設現場で使われていたモビルワーカーに、不明なシステムトラブルが起こり動かなくなった。現場スタッフたちは、システムのことなんて全く分からずお手上げだったが、その時現れたのが、エンジニアとして招集されていたシロウズだ。彼は問題のモビルワーカーに乗り込み、たちまちトラブルを解決してみせた。が、不幸なことにもう一台のモビルワーカーが暴走し、シロウズの乗り込んだモビルワーカーとスタッフ数人を巻き込んで大事故を起こした。シロウズはモビルワーカーの窓から投げ出された。目立った外傷はなかったが、打ちどころが悪かったのか、そのまま3ヵ月以上、目を覚まさない。
愕然とする。あの大佐が?
「そんなことが許されていいんですか…赤い彗星ですよ……?」
「いやいや、シャアさんだって人間だし…」
私の口ぶりに呆れたように、彼女が言う。そのまま、病室の扉に手を掛けた。
「ララァと私たちで、たまに様子を見に来てるんだけど、シロウズさんが目を覚ますための刺激が足りないのかなと思って、ヒゲマンを呼んだんだ」
ヒゲマンのためにもなるし、という小さな声を拾ったが、意味はよく分からなかった。
扉の先を、緊張の面持ちで見つめる。消毒液の匂い。
開けた先の病室は明るく清潔で、1人の青年が静かに眠っていた。マチュくんとベッドの横に立つ。大佐に会うのは、決別以来、2年振りだった。それも生身での対面ではなかったが。
「大佐…」
額が、いや、素顔が晒されていた。想定外ではない。入院患者が仮面をしていたり、前髪で顔を隠している方が不自然だ。当然である。こんなに心が乱れているのは、大佐の素顔を、まともに見るのが初めてだったからである。ゼクノヴァによって起こされた例の現象の中では、主に精神の交感が行われていたので直視していたわけではなかったのだ。
意外だ。強く、苛烈で、哀しいひとであるのに、こんなに、険のない、やわらかなかんばせであったのか。外傷はない、ただ眠っているように見える。やはり少しお痩せになっただろうか?
ああ、7年前のこの方の姿は…。
と、いうか、あれ?
「女神様では?」
「え?」
隣のマチュくんがサーっと引いている気配がする。いえ、あの、違うんです。彼の素顔を見て、勝手に興奮して女神呼ばわりをしているわけではなく、私が宇宙で出会った、巨大な赤い美しい星雲の話で…。私は彼女と星間ランデヴーをするのが最近の楽しみで…。その彼女に、大佐のお顔がそっくりだったというだけで…!!
弁明すればするほど怪しいかもしれない。嫌だ。引かないでください、マチュくん。こんなことで今まで地道に積み上げてきた信頼関係を壊したくなさすぎる。
その時、彼の睫が震えるのが見えた。
「ヒゲマン!ねえ!ヒゲマン!」
マチュくんが喜ぶ声がする。隣に居るはずなのだが、不思議と遠くから響いてくように聞こえた。代わりに至近距離から、ドンドンと煩い音が地鳴りのように鳴っている。なんの音だ?まさか私の鼓動か?
瞼が開かれる様をじっと祈るような気持ちで見つめた。
青だ。アルテイシア様と同じ。美しい青。そう、だったのか。赤では、ないのか。それはそうか。
「シャアさん!」
「アマテ…」
掠れて、ほとんど吐息のような声だ。記憶にある、凛とした大佐の声と合致せず動揺した。彼は、天井の照明が眩しかったためか、目を細める。そのまま一度、ぎゅっと音がしそうなほど強く目を閉じて、再びゆっくりと開いた。生きていたか、と呟いたのが分かった。記憶はしっかりしているようだ。
視線がうろっと彷徨い、マチュくんの隣で立ち尽くす男を捉えた。
「…シャリア・ブル?」
「………はい」
「久しいな…。私は、なにか、やらかしたかね?」
あなたに排されるようなことを、という音にならない声が聞こえた。
「………いえ」
マチュくんに背中をバシンと強打される。痛いです。おじさんをいじめないで。無意識に浅くなっていた呼吸に気が付いて、深呼吸する。大人になると、人間関係の再構築ほど難しいことはないのです。それが、9つも年下で、元上官で、あらゆる意味での問題児が相手であるのなら、なおのこと。しかし、人生の後輩に、情けない姿ばかりも見せられまい。
「…お顔を、拝見しにまいりました」
「…?顔……?」
マチュくんの心の叫びが聞こえる。いやいや、そこだ!いけ!差せーッ!じゃあないんですよ。私は馬ですか。しかし緊張が僅かに解れた気がしたので、彼女にはあとでお礼をしなければ。まずは、その前に。
「お元気になられたら、一緒にお食事でも、いかがですか」
大佐は私を見上げ、その美しい瞳を瞬かせた。赤くはない。美しい青。
そして不思議そうな顔で、僅かに頷いた。マチュくんには背中を、バシンバシンバシンとリズミカルに3回打たれた。
鼓舞ですね、分かりますとも。
奇異なことに、以降宇宙に戻ってみても、あの、どこからでも見えた、巨大な赤い美しい星雲は見えなくなってしまった。