となりのゆうれい(前) 一
あっついなあ。ニャアン、どこ行ったんだろ。うわあ、このあたり日陰ないじゃん。あ、黒猫だ。
ニャアンと一緒に、ララァが運営する孤児院の改装の手伝いに来た。しばらく滞在する予定だ。壁を塗りなおしたり、ガタガタになっていた椅子の脚を削って真っすぐにしたり。プチ大工みたいなことをして、意外と楽しい。楽しいんだけど、地球の夏はとにかく暑かった。作業に集中しすぎて汗だくになった。様子を見に来たララァが、バイト代としてお小遣いをくれたので、ニャアンと冷たいものを買いに出た。なんかはぐれちゃったけど、まあ、知ってる道だし大丈夫でしょ。あー、ラッシーとかマンゴージュースとか、飲みたい。
「あれ?」
対面から歩いてくる、知ってる姿が見えた。
「シローさーん」
太陽の光を受けて、金髪がきらきら輝いている。大きめのサングラスで今は顔の半分が見えないが、それが恐ろしく整ったものであるのをわたしは知っていた。長い脚でゆったりと歩いてくる。孤児院に行くのだろうか。
このひとの名前は、本当はもっと有名なものがあるけれど、今はシローさんと呼んでいる。本人がそう名乗ったからだ。色々と事情があるらしいが、わたしたちも人のことを言えないので深入りしないことにしている。
わたしに気が付いたシローさんは立ち止まって、軽く手を上げて応えた。他の通行人の邪魔にならないように連れ立って道の端によける。
「アマテ。院はもういいのか?」
やわらかい声だ。このひとは基本的に、年下に甘い。
「休憩中ー。ニャアン見なかった?」
「さっき向こうで会ったよ」
指をさす先は、思っていたとおりジューススタンドや市場がある方向だった。
「そっか。ちょっと行ってくる」
「気を付けてな」
「うん。…シローさん、今日も長袖長ズボンなの?暑くない?」
「いいや、案外快適だよ」
改めてじっくりその姿を見ると、なんだか違和感があった。いつものきらきらが、3割減といった感じだ。
「…どうかした?」
「何がだ?」
「なんか、悩んでるのかなって」
あまり、わたしたちの前では感情を表に出さないシローさんにしては珍しい。指摘されたシローさんは、ちょっと意外そうに口元が笑っている。
「そう見えるかい?」
「見えちゃうなあ。シローさんとも、もうナガイツキアイだし」
「2年そこそこだろう。面白いな、アマテは」
「褒めてんの?」
「褒めているとも」
いつもは落ち着いているけどよく通る声なのに、今日は通行人の声に負けそうな儚さすらある。
「聞こうか?」
なんとなく、気になる。こんなときは1人にしないほうがいい気がするんだけど。
「いや、いい。私の中で決着を着けるよ」
まあ、そうだよね。
「たまには周りを頼ることをおぼえなよ」
「アマテは賢いな」
「それだよ。なんか格好つけて、いい感じの言葉でうやむやにする。シローさんのオハコ」
「…」
「あと、図星だったら黙る」
腕を組んで静かになった。サングラスで目線は分からないが、雲の形とか眺めてそうだなあ。
「言い訳もしないんだ」
「…ふふ」
何笑ってるんだ。変なひと。こういうところも、ちょっとシュウジに似ている。
「いいよ。シローさんがそのつもりなら、わたしにも考えがあるしね」
「…考え?」
首をかしげる姿はなんだかかわいい。でも騙されてはいけない。この人は多分いま、屋根の上の鳥とかを見ている。
「楽しみにしておくといいよ。じゃあね!」
手を振りその場を離れる。私を見送るシローさんは、変わらずポカンとしていた。前から気になっていた。ああいう抱え込みやすくて他人の厚意に鈍い人には、一度荒療治が必要なのだ。ララァや私のような年下には死んでも吐かなさそうなので、適任者に任せる。我ながら良いアイディアだと思う。
ニャアンが待つ場所に向かいながら、手早くメッセージを送る。あの人は心配性で行動が早いから、きっとすぐに来てくれるだろう。
ああ、それにしても本当に暑い。ラッシーとかマンゴージュースとか、飲みたい。
二
「という訳で、シローさん、ヒゲ仮面マンだよ。ヒゲ仮面マン、こっちはシローさん。仲良くね」
「…」
「…なぜ?」
「私が聞きたいのですが…」
マチュくんから、「助けて!至急ララァの孤児院まで来られたし。来てくれなかったら、恨みでキケロガのコックピットに憑りついてメインモニターをプツプツさせる迷惑幽霊になるかも。あーあー。ヒゲマンのせいだよー」というメッセージが届いて数日。私は地球に来ていた。
彼女の独特な脅しに屈したわけではなく、単純にスケジュールの都合がついたこと、たまたま地球の近くのコロニーに居たこと、そしてマチュくんの身を案じたことが大きかった。彼女は普段、助けて!なんてメッセージを冗談でも送ってくるタイプではない。ララァ嬢の孤児院を指定されたことも気がかりだった。
いざ孤児院に着いてみると、そこには元気そうに子どもたちと庭先でボールを蹴って遊ぶ彼女と、ベンチに座って、その姿を眩しそうに眺めているシャア大佐の姿があった。およそ2年ぶりにその姿を目にする。地球の強い日差しを受けて、色素の薄い髪も肌も、身に着けた上下白い衣服も、全てが白飛びして発光しているように見えた。ララァ嬢の孤児院を指定された時点で、大佐と顔を合わせるかもしれないと覚悟はしていたが、しかし、こんなに早い邂逅になるとは。
マチュくんより先に私の姿に気が付いた大佐は、ささやかに目を見開いて、何かを小さく呟いた。
続いてマチュくんが嬉しそうに「やっぱ来るじゃん!」と笑う。私は嵌められたのかもしれない。このまま宇宙に帰ろうかとも思ったが、直ぐに院の客間に案内されたため、その試みは未遂に終わる。意外なことに、大佐もなにやら思案気な様子で、静かにマチュくんと私の後をついてきた。
そうして彼女から事のあらましを聞かされ、今に至る。
「シローさんが悩み事を1人で解決しようとするの、なんか良くない方向に進みそうだと思ったんだよね」
「慧眼ですよマチュくん」
「おい」
彼女に拍手を送る。聞き捨てならぬといった様子で大佐が鋭く声を上げたが、マチュくんはまったく気にしていない。
「ヒゲマンはお悩み相談とか得意でしょ。偉い人なんだし」
私はその元上官なのだが、という大佐の呟きもスルー。面倒な、しがらみや上下関係とは無縁の生活を送る彼女は、無敵なのかもしれない。
私が通された客間には、中心にローテーブルと、2人ほどがゆったり掛けられるソファが2台置かれていた。ソファにはそれぞれ、この地の伝統的な柄が織られたクロスが掛けられている。日頃から丁寧に管理されていることが分かった。促され腰を掛けると、私と向かい合うようにマチュくんと大佐が並ぶ。彼らの背後にある部屋の大きな窓は開け放たれ、庭先から元気に遊ぶ子どもたちの声が聞こえた。白いカーテンが、地球の風に揺れている。
「…マチュくんが私を呼んだ経緯は理解しました。貴女は優しいですね」
理解はした。膝の上で手を組み考える。問題はその後だ。視線を送ると、青い瞳も私を捉えた。
「しかし悩み事…ですか?」
水を向けられた彼は、なんてことなさそうに脚を組み、ソファに背を預けた。今更ながら、2年越しに素顔を晒した彼と相対していることに奇妙な感慨を覚える。こうしていると、本当にただの青年のように見える。ただし、普通と呼ぶには逸脱したオーラと美しさがあった。
「そんなに警戒してくれるなよ。本当にただの個人的なことなのだ、企みなどない。アマテが早まってしまっただけだ。お帰りいただいて結構」
軽く捲し立てるような口調。しかし、彼の言葉に嘘はないように感じた。ふむ、…個人的なこと。一体それはなんであろうか。この男が大仰な使命感やはかりごと以外で頭を悩ませる様は、あまり想像がつかなかった。
「ええー?それでいいの?本当にヒゲマン帰っちゃうよ」
「本当に帰ってほしいのだが」
マチュくんと大佐の間に流れる空気はずいぶんと気安い。私が関知していない2年間を感じさせた。大佐は私が把握している限り、地球の様々な地を飛び回っては、この地に物資や技術を持ち帰っていたはずだ。あまり一所に落ち着いている印象は無かったが、きっとララァ嬢やニャアンくんも交えて、穏やかに過ごした日々もあったのだろう。…それを守りたいと願うのは、思い上がりだろうか。
「本当に貴方のお悩みは私がお聞きするに値しないものなのですか?」
「そうだ」
彼の返答には迷いがない。しかし、私には言外に抱える不安や、行き場のない感情を彼が隠しているような気がしてならない。
何時しか、先ほどまで庭先から聞こえていた子どもたちの声が止んでいた。窓から差し込んでいた日差しも陰ってきたように感じる。雨が降るのかもしれない。
「…私にはあの日と変わらず、貴方を生かすことで発生する損害があるのであれば、未然に防ぐ覚悟があります」
「貴様に出来るか?傲慢だな」
「本当に、貴方や周りの人々を危険に晒すようなことはないんですね?」
「周りの…」
問いかけられた彼は、ゆっくりと目を伏せた。長い睫で頬に影が落ちる。頭の中で、私の言葉を繰り返し咀嚼しているようにも見える。
隣のマチュくんは、不穏さが滲んだ私の言葉を聞いても取り乱す様子はない。あの日起きた出来事に、察しがついていたのか。今はただ、大佐の様子を固唾をのんで見守っている。
しばし待つが、返答はない。
「大佐?」
「いや、どうなのだろう。分からない」
「大佐!」
思わず声を荒げてしまう。貴方ほどのひとが、分からないとはなんなのだ。それは、かなり深刻な事態なのではないか?
「わたしたちも関係ある話なの?じゃあなおさらちゃんと話してよ!」
私を援護するようにマチュくんも説得にかかるが、大佐は再び口を噤んでいる。伏せられた目には、拒絶の感情が見える。
…このままでは埒が明かないか。仕方あるまい。
「…………―――幽霊?」
「え?」
私の唐突な一言に、マチュくんが疑問を浮かべた。私は衝動のまま立ち上がり、大佐に詰め寄る。ローテーブルに足が当たり、ガコンと大きな音をたてた。
掴みかかるように彼のシャツを勢いのまま捲り上げる。私の動きに不意を突かれた大佐は、子どものように目を丸くしていた。
「ヒゲマン!?何してんの!?」
マチュくんが驚き声を上げるが耳に入らない。ただただ、視界に広がる衝撃に支配されていた。
「シャリア…覗いたな、貴様」
我に返った彼が、心を覗き見る無礼者を罰するように私を睨んだ。後で、いくらでも謗りは受けよう。しかしプライバシーだのハラスメントだの、今は、それどころではなかった。
「…どういうことですか?」
これはなんだ?
彼のシャツを掴む手に思わず力が入る。皴になってしまうな、と逃避するように遠くの私が呟いた。
私の動揺に動かされたのか、マチュくんも横から恐る恐る覗き込む。
「シローさん、な、なに、その…」
シャツに隠された象牙色の肌。目立った傷はない。元軍人らしく、細かな白く乾いた古傷が散見される。しかし問題はそれではない。
「………はじめは足首だけだった」
腰、腹から胸まで、夥しい数残された、青黒い痣。脚まで続いているのか?身体をぐるりと覆うようなそれに、執拗なまでの執着を感じる。上から下に引きずったような細い痕もある。一言で表すなら、異様だった。
―――手形に見える。
言葉にならない我々の様子を見て、渋々といった様子で彼はぽつりと話しだした。
「…今思い返せば、事の始まりは先月のことだったのだが」
三
「つまり…この地のあらゆる復興事業に出資している貴方は、過去に古い貴族の屋敷があったと噂される土地に、新しく出来たリゾートホテルに賓客として招待された」
「そうだな」
「しかし、宿泊した翌日から、貴方の体に覚えのない痣が現れるようになったと?真夜中に気が付けば、記憶のない場所に移動していることがあると?」
「そう、だな」
「シローさん…やばくない?」
歯を食いしばる。これは、もしや、木星船団での長い時間を過ごすため持ち込んだ、娯楽小説で読んだ、アレなのだろうか?喉から絞り出すような嘆きが出た。
「きちんと地鎮祭をしないから…ッ!」
「ジチンサイ?」
大佐とマチュくんが顔を見合わせる。知ってる?知らないな。そんな会話が聞こえてくるようだ。こんな時に、微笑ましいコミュニケーションを見せないでほしい。頭が痛い。
幽霊?にわかには信じられなかった。しかし、先ほど目の当たりにした大佐の身体を覆う痣。あれを人間が残せるとは思えなかった。そもそも、この戦闘において勘が鋭く、腕が立ち、逃げ足の早い男が、人間相手にそれを許すとは到底思えない。遠く宇宙に赤く輝く、妙な信頼があった。
「そういえば、あなたは“灰色の幽霊”ではなかったか?」
ふと思いついた風に、大佐が軽く声を掛けてくる。先ほどの一連の流れから、隣で突っ立ったままの私を見上げる。私が乱暴に捲り上げたせいで乱れた首元から、胸の痣が覗いていた。ぞっとする。
「何が言いたいんです…?」
彼は事情を洗いざらい吐いて、吹っ切れたようにも見える。人はそれを、やけくそとも言う。
「幽霊同士、心を通わせたりできないのか?」
なんだこの男。
「ナチュラル悪口やめてください。修正しますよ」
「おお、軍人さんは怖いな」
「やめなよおじさんたち~」
こんな時、どうすればいいのだ。全く分からない。元上官で、元MAVで、この宇宙の要注意人物が幽霊?に憑りつかれている。対処方法は軍の教本にも書かれていないだろう。放っておくと正気を失ってしまったり、するのだろうか。マズ過ぎる。先ほど思い出した娯楽小説では…オハライ?をしていたのだったか。駄目だ、あの小説のオチは確か一族全滅だった。
と、とりあえずコロニーに連れ帰って閉じ込めておくか…?宇宙までは幽霊とやらもついてこられないのでは?
思考が錯綜しはじめたとき、ふと、扉の向こうに、何か大きな存在を感じた。
「あまりシローを責めないで。彼は、私たちを巻き込むまいと耐えていたんですから」
扉を静かに開き、しなやかに現れた姿に驚く。薔薇の少女…ではない。涼しげな浅葱色のワンピースが揺れる。
この孤児院の主。ララァ嬢だ。
「ララァ…気づいていたのか」
「はい」
呟くような大佐の声に答えてから、彼女はマチュくんを手招く。
「マチュ、ニャアンと一緒にお買い物をお願いできる?ここは私がお話してみるわ」
雨が降りそうだから傘を持って行ってね、リストはニャアンに渡してあるわと付け足す彼女の背後をよく見ると、怯えるように背を丸めたニャアンくんの姿があった。
「マチュ…?なに、この状況…」
それを見て、不意を突かれたように少し笑ったマチュくんは、ララァ嬢と視線を交わし納得した様子で頷いた。
「分かった。ララァ、よろしくね」
行こ!ニャアン、とマチュくんが彼女の手を引いて出て行った。去り際に私と大佐を見て、軽やかに手を振る。ニャアンくんは最後まで訳が分からないといった表情を隠さないまま、逃げるようにマチュくんを追いかけた。
2人の足音が遠ざかる。ララァ嬢に視線を向けられて、大佐は少し気まずそうに脚を組みなおした。秘め事を暴かれた負い目からだろう。
その様子を見て淡く微笑んだ彼女は、そのまま私と向き合った。言葉を交わすのはこれが初めてだ。
「初めまして。シャリア・ブルさんですね」
「ええ。マチュくんからお噂はかねがね。お会いできて光栄です、ララァ・スン嬢」
分かる。きわめて強力なニュータイプだ。彼女は、違う。背筋に緊張が走った。
構えた私を察してか、宥めるように微笑む。美しい、エメラルドのような大きな瞳が光を映して煌めいた。
「あなたにお願いがあります」
「なん、でしょう?」
「暫く、シローと一緒に寝てくださいませんか?」
「え!」
声を上げたのは大佐だった。信じられないものを見る目で、ララァ嬢を凝視している。
私はというと、驚きすぎて声が出ない。衝撃で心臓が跳ねる。彼女は何を言っているのだ?
「きっとご覧になられたでしょう。シローは変わった方々に好かれてしまったようなんです」
シローはほら、こんなひとですから、と口元に手を当てて鈴のように笑う。笑い事ではないのではないか?大佐も言葉を失ったまま固まっている。こんな大佐の姿は初めて見る。
「あまり眠れていないようだし、このままでは体をこわしてしまうわ」
「それで…なぜ私と、その、寝るというのは」
突拍子もない話だが、彼女の語り口には不思議と言葉を聴かせる力があった。
「彼が眠っている間に手を伸ばされたり、連れていかれそうになったら止めていただきたいんです」
「止める、ですか?」
どうやって。私の疑問を彼女は当然のように察する。
「単純なことですよ。異変を感じたら、ゆすって起こしていただいたり、ベットに押さえつけていただいたり、なんでもいいの」
私では力がたりないから、と彼女は自らの両手を見た。確かに、彼女の細腕では成人男性の身体を押さえつけるなんて芸当は到底無理そうだ。
「このひとは守られているんだって分かったら、彼らもあきらめるでしょう」
守る。不思議なほど心に落ちる言葉だ。
一方で、当然のように複雑な心境である。
過去、私は彼の部下として共に戦ったが、道を違え、彼を裏切った。彼が軍事から身を引いて2年。現在でも警戒のもと監視を続けているのは、過剰な対応ではないと思っている。彼の思想、能力、経歴、出自。その全てが、彼をこの宇宙で無視できない存在にしている。いつ天秤が傾いてもおかしくない、危うい存在なのだ。そう、思っている。その彼を、私が守るのか。守ってよいというのか。
彼女は私をまっすぐに見つめている。私には整理のつかないこの複雑怪奇な心も、全て理解しているような深い眼差しだった。
「待て、ララァ。本当に私に、この男を拠点に連れ帰れというのか?共に眠るために?」
大佐も漸く我々の会話に混ざる決心がついたようだ。心からララァ嬢に訴えかけるような、真摯な声音。頼むから冗談であってくれと、裏側に隠した声が聞こえてくる。
「だって、シロー。きっとそのままではいけないわ。シャリア・ブルさんはあなたのことをよくご存じじゃありませんか。他にお任せできる方がいらっしゃいますか?」
「………」
心当たりはないようだった。非常に不本意そうに眉を顰めている。7年前であれば、ドレン艦長あたりに任せていたかもしれないが、今、彼の隣にその姿はない。
「シャリア・ブルさんも」
「は、はい」
「彼が、連れていかれてしまってもよろしいの?」
―――感嘆すら感じる心地で、彼女を見る。本当になにもかもお見通しなのだろうか。本物のニュータイプ。これほどのものか。
隣で、貴様に何か問題があるか?と言いたげな男は一旦置いておこう。
「それに、シローの拠点にお連れになる必要もありませんよ。件のホテルにお泊りになるといいわ」
「え?」
いや、それでは状況が悪化しないだろうか?たまらず大佐を見るが、彼も困惑している。また彼の首元から胸の痣がちらりと見えて、臓腑に冷たい棘が刺さったように感じた。
あまり考えないようにしていたが、はじめは足首だけだった、と彼は言っていた。あの不気味な痣が、このまま上に侵食が進んで首まで覆われてしまったら、彼はどうなるのだ?
「ついてきてしまったのなら、お送りしてあげないと」
彼らにも帰りたい場所があるのでしょう、と囁く彼女の瞳は、ここではないどこかを見つめているようだった。神秘的な輝きに気圧される。
しかし、なるほど。ついてきてしまったものを、送り返す。その上で、彼の身体は連れていけないのだと教えるために、守る。シンプルな考え方に思えた。間違いなく状況に麻痺してきているが、オハライをしたり、エクソシストを呼ぶよりは現実的ではないだろうか。
すると切り替えるように彼女は笑顔になって、ぱんっと両手を合わせた。状況が状況でなければ、非常に可憐で心安らいだことだろう。
「あのホテルのお食事はお口に合っていたみたいじゃないですか」
「しかし…」
ララァ嬢は、もう完全に我々を笑顔で送り出すつもりらしい。対して、大佐にはまだ惑いがあるように見える。当然だろう。過去に袂を分かち、命を獲りあった元部下と、しばらくホテルの同室で寝ろなどと。正気の沙汰ではない。
尤も、私の心は決まってしまったが。なんとでも言うがいい、正気ではないのだ。
「大丈夫」
彼女は私の横を風のようにすり抜け、ソファに腰かける大佐の手をそっと静かに取った。小さな子どもに言い聞かせるような、やさしげな声だ。
「大丈夫ですよ、大佐。きっとうまくいきます」
その言葉がとどめだった。彼女にそう呼ばれると、彼は素直に頷かざるを得ないようだ。
私の知らない宇宙がそこにはある。昔、心の奥に沈めた感情が顔を出しそうになったが、捨て置いた。
いつの間にか、窓の外では雨が降り出していた。今夜は嵐かもしれない。