命の話 昼休みに賑わう教室で、朋花はひとり、青白い顔を憂鬱そうにさせていた。ぼうっと窓の外を眺めては、昼食を食べる気にもなれなくて、込み上げてくる吐き気のようなものに必死に耐えている。けれど、この「漆黒のマリア」が体調不良で保健室に行くだなんて、そんなことプライドが許すだろうか?
それにしても……と、机上のノートと教科書を一瞥しては溜息、生物の授業は決して嫌いではなかったのにな、と思う。
「ご傷心ですの?」
突如降ってきた声に一瞬肩が跳ねて、すぐ見上げた。いつの間にかすぐそばには見知った女が立っていた。紅の餓狼、だなんて呼ばれる彼女の姿を見た何人かの生徒が教室の端で怯えたようにひそひそ話を始めたが、朋花には関係無かったし、
「なんの用ですか〜……」
と、覇気の無い声を発するにとどまってしまった。
紅の餓狼は……実の名を二階堂千鶴という……「あら」と上品に首を傾げる。
「まさかほんとうになにかありまして?」
空席だった隣の机に優雅に腰かけては、楽しそうに問う千鶴。朋花は
「別になにも〜」
と視線を背けるが、胃の中で沸き立つ吐き気に抗えるほど強くはなかった。
千鶴は物知りげにふぅんと鼻の中で相槌を打ち、まだ板書内容の残る黒板を見る。
「ここのクラスは先ほど、生物の授業を受けたようですわね?」
つい見上げてしまい、目があった。千鶴の目は愉快そうに細められており、なんて性格の悪い女だ、と舌打ちしたくなる。
「……確信犯ですか〜」
「なんのことでしょう」
千鶴が長い脚を組んで、凛と言う。
「残酷だ、と思いまして?」
「……話が見えないのですが~」
「マウスの解剖ですわ」
つい顔をしかめる朋花。そう、先程の授業で朋花のクラスは、マウス解剖の映像を見せられた。生々しい内臓や命の喪失を画面越しとはいえまざまざと見せられて、気分を悪くした者は勿論、泣き出す者もいた。朋花は泣きこそしなかったが、ひっそりと前者のひとりであった。
千鶴は微塵も思っていなさそうに「あら、ごめんなさい」と耳に髪をかける。
「そう嫌な顔をしないでくださいまし」
「私が嫌がると分かってて言っているんでしょう~?」
千鶴はそういう女だ、と朋花はわかっていた。愉快犯をそのまま形にしたような……それも朋花に対しては一層その気配が強い……性格をしていることを、よくよく知っていた。
「マウスの解剖は残酷? それとも科学の発展に必要な代償?」
「倫理の話ですか~」
「あなたは、すべての命は平等だと思いまして?」
平等、という言葉が嫌に馴染み深く聞こえる。朋花は、あくまで平静と、答える。
「……そうですね~。すべての命は、等しく愛されるべきだと思いますが~」
「愛!」
ぱきっと千鶴の目が開かれて、意外そうに笑ったのだとわかった。まるで朋花のことを嘲るようにも見えた。
「あなた、普段からそんなことを考えていたんですの?」
「悪いですか~」
千鶴はまつ毛を立ち上らせるようにゆっくり瞬きをする。
「……いえ、上々ですわ。楽しい話が出来そうですわね」
「私にばかり喋らせて、不公平ではないですか~?」
「あら、わたくしの話が聞きたいんですの?」
「そういうわけではありませんが~」
朋花は、机に突っ伏しがちな格好のまま、千鶴を見上げている。千鶴の方は相変わらず、名も知らぬ生徒の机に腰掛けたまま、品格を保って、演説を始めた。
「世界は不平等である……というのが、わたくしの意見ですわ」
不平等? 朋花は眉根をぐぅと寄せて千鶴を見る。
「不平等、ですか~」
「……マウスから少し話はずれますが……わたくしたちは日々、家畜をはじめとしたたくさんの命を食べて生活している。殺されるための命というものはこの世に事実として存在していましてよ」
「嫌な言い方をするんですね~」
「牛や豚、鶏たちに人間のような意思はあるかしら? 意思の有無は、命を奪っていい理由になり得るかしら? どんな命であれ平等に愛されるべき朋花にとってはそのものの意思の有無は関係なさそうですが、食べられるための命というのはどう思いまして?」
饒舌な女だと思う。それは認める。けれど、朋花にもそれなりの持論ならあった。
「……ひとは、見たいものしか見えませんから~」
千鶴は怪訝そうに眉の形を変えた。
「どういう意味ですの?」
「そのままですよ~。自分にとって都合のいい側面しか、誰だって見ないものです~。お肉が美味しいことと、家畜の命をいただいていることを、同じ解像度で見ようとなんて誰もしませんから~」
「……つまり?」
「私は今日、自分が見ないようにしてきた世界について見てしまい、あなたとそれについて話した。けれど、私はそれでも……すべての命が平等であるべきだと思っています、それは見たいものだけ視界に映しているからです~」
どうだ、と言わんばかりに千鶴を緩やかに見上げて、気持ちだけ睨んでやった。千鶴はそれに臆するような女でないことはわかっていたが、千鶴はぱちくりと目を瞬かせてから、ふっと笑う。
「随分と、開き直りましたのね」
「いけませんか〜?」
「まさか。あなたのそういうところ、嫌いではなくてよ」
千鶴はひらりと机から降り、さっさと踵を返して教室を出て行ってしまった、去り際にふらふら手を振りながら。朋花は、吐き気が治まったのを決して千鶴のおかげだとは思ってやらない。
このままでは昼休みの時間も無くなってしまうだろう。なので今日も、命をいただくことにする。