年始恒例、尻習字 セクハラやコンプライアンスの概念がまだほとんど存在しないソリスティア聖堂機関。女性職員はクリックのような誠実で紳士的な騎士たちの厳格な規律に守られ、聖堂騎士達は男女の差はほぼなく、各々が聖堂機関の一員として日々研鑽を積んでいた。
──ただ……まともな組織として存在しているのは機関の中層部までで……その上ともなると話は別だった──
「オルト、オルトはいるか!」
「はっ!」
年の瀬も近づき、いよいよ忙しくなってきた頃、オルトが機関長のカルディナから渡されたのは『毎年恒例のあれセット』だった。オルトは眉間の皺をいつもの倍は深くしながら、不承不承でカルディナの手から『あれ』の一式を受け取った。オルトは両手で受け止めたそれを見て、今年も『あれ』をやらされることを悟り、黒いため息が出そうになるのをぐっと飲み込むと冷静を装い、カルディナに訊ねた。
「カルディナ様……これは……」
「オルト、わかるな?今年も頼むぞ」
「……は、、、」
「なんだその顔は。不服か?オルトよ、私も昔は機関長命令で『熱々の焼き餅に絵を描け』と言われたものだ。おかげで今でも餅を見ただけで胃が痛む。……だが、今こうして上にいるのはそれを耐え抜いたからだ。上を目指すとはそういうことだ」
「はっ!!」
普段険しい顔でクスリとも笑わないカルディナがニヤニヤしながらオルトに手渡したのは──赤紫色に金の刺繍が施された、聖堂機関特製のジョックストラップ(通称ゲイパンツ)と筆だった。『毎年恒例のあれ』の象徴…。オルトはそれを抱えると一礼し、無言でカルディナの執務室を後にした。
無理に冷静を装う自分に苛立ちながら、心の中で何度も舌打ちをし『あれ』の道具のそれを直で持ち歩かざるを得ない現実にぐっと耐える。廊下ですれ違う先輩騎士からの哀れみか嘲笑かわからない視線が突き刺さるたび、オルトは胸の中で暴言をはいた。
(クソ!!どいつもこいつも!!バカにしやがって!!カルディナ様もカルディナ様だ!!こんなの!!せめて袋に入れて渡してくれ!!)
これ以上誰の目にも触れたくなかったオルトは、サーコートの中に『あれセット』を隠しながら宿舎の自室へと急ぐ。戻るなりオルトはドアを勢いよく開けた。その音が派手に廊下に響いたが、そんなことはどうでも良かった。
「クッッッッッッソ!!」
咄嗟の理性で声量を絞って怒りをぶつけるように呟きながら、オルトは手にしていた『あれセット』を力任せにベッドの上に投げつけた。転がり落ちた太い筆が、カランと乾いた音を立てる。同室のクリックはそれを拾い、まじまじと見つめた。
(今年は、去年よりも太い筆になってる……)
クリックは眉をひそめた。これを使う自分の姿を想像するだけで背筋が寒くなる。
「オルト……」
「……取り乱してすまない、クリック」
どさっとベッドサイドに腰掛け、赤紫色で金の刺繍が入ったゲイパンツを、オルトはため息混じりにくしゃっと握り込んだ。その手には、機関長カルディナの理不尽な命令に抗う術を持たない無力感と、絶対的に組織に服従しないといけない屈辱が滲んでいる。
(上層部に行くというのは……こういうことなのか……。ぼくはまだ、出世したくない。いや、ほんと、絶対にしたくない……!!)
オルトを心配して気遣うクリックは、彼に哀れみの目を向けながら、組織の黒い部分を垣間見て、本部から離れた大聖堂辺りに転勤願いを出そうと決めた。
諦めたようにベッドに身を預け、ゲイパンツを天井に向かって拡げるオルトの目は虚ろだった。
「ねぇオルト、いつもありがとう」
「……どうした、突然」
クリックはベッドに横になる虚ろなオルトの顔を覗き込み、申し訳無さそうに眉を下げながら言葉を続けた。
「上層部でオルトが頑張ってくれるから、ぼくたち下々の騎士が機関長カルディナ様の気まぐれに駆り出されないで済んでいるの、ちゃんと知ってるから。あの理不尽に耐えてるオルトは本当にすごいや」
オルトはしばらく天井を見つめていたが、やがて何かを決意したようにゲイパンツを手に立ち上がった。
「クリック……俺は負けんぞ。練習、するか」
「オルト……ぼくも手伝うよ。半紙と墨汁買ってくるね」
「頼む……あと、新聞紙も忘れるな。床が汚れると、後が怖い」
2人は宿舎の一角を新聞紙で埋め尽くし、静かな夜の中で今年も『尻習字』の猛特訓を始めた。大真面目に真剣な顔で尻を突き出し筆を動かすその様子は、神聖な騎士の訓練とは到底結びつかないものだった。
こうして迎えた1月2日の仕事初めの宴会。余興『尻習字』は大盛況となり、カルディナの爆笑は宴会場の外にまで響き渡った。
「オルトよ!!去年より上手くなってるじゃないか!!それでこそ勤勉な聖堂騎士よ!」
無理やり笑顔を作るオルトの背に容赦なく叩きつけられる称賛の声。会場の入り口で警備を任されたクリックは、扉越しに漏れ聞こえる笑い声を聞いて小さく呟いた。
「……やっぱり、出世したくない。大聖堂勤務にしてもらおう……」
宴会後、肩を落としながら宿舎に戻るオルトに、クリックがそっと声をかける。
「ねぇオルト、来年も手伝うよ」
「……やめてくれ、今はそっとしといてくれ」
オルトはそう言いつつも、手に握りしめた太い筆をじっと見つめ、これ以上太くならないことを聖火神へと祈った。