月が変わり、一年最後の師走がやって来た。
月初めこそ、政府より、出陣奨励である催事があったが、それが落ち着いてしまえば、年末と年越しに向けての準備が、一気に加速する。
所謂、大掃除である。
厨や、各部屋の掃除、倉庫にある備品の手入れなど、皆がそれぞれ手分けをして、事に当たる。
それは事務関係も同じこと。
例年は部屋に缶詰で、屍累々たる有様ではあったが、事務仕事を担える松井の加入や、作業補助として、政府所属刀達が手伝ってくれることもあり、今年は多少残業しようとも、徹夜で缶詰になることは無かった。
その分、例年なら手伝えない、他の買い出しや清掃、手伝いを頼んでいた、物品在庫の棚卸しなどに、手を回すことが出来た。
慌ただしい中、充実の師走だった。
――くしゅん。
そんな、ちいさな音を聞いた。
「――山姥切?」
「ああ、偽物君、か。」
脱衣所に入った瞬間の事だった。
既にそこには、夜着に着替えた長義が立っていたが、他には誰もおらず、そのくしゃみが、彼から漏れた物だと分かる。
「写しは偽物では無い、が…大丈夫か?」
歩み寄った国広は、そう言ってするりと頬に触れるが、良く温まってきたのだろう、湯上がりの肌は温かく、しっとりとしている。
「大丈夫だよ、しっかり温まってきたところだからね。お前が扉を開けた拍子に、くしゃみが出ただけだよ。」
「なら、良いんだが」
そう言って、長義は緩く、国広の手を退けさせる。
「お先に失礼するよ、今日は少し疲れた」
「お休み、山姥切」
するりと、自分の側をすり抜けていくその背を、少しの寂しさを感じながら、国広は見送った。
この数日、大掃除が本格化してから、余り長義とゆっくり話せていない。
元から、そんなに日がな一日一緒に居るわけでもないし、遠征によっては数日に渡って会えないこともあるのだが、その姿を見かけていながらも、その忙しさから、碌に言葉を交わせずに居るのは、少々こたえていた。
自分は力仕事と、外回り。
長義は、事務仕事と、屋内関係。
得意とする物が違うのだから、仕方が無いと言えばそうなのだが。そろそろ、二振りだけの時間が欲しい、と思ってしまうのは、欲目なのだろうか。
少し疲れた、そう言った横顔に、微かに疲れが滲んでいた事が気になったが。
今、その背を追えば。
きっと、ただ話すだけでは、満足できないだろうから。
国広は、一つ溜息をついて、脱いだ服を脱衣籠に放り込み、何やら賑やかな喧噪が漏れ聞こえてくる、浴場へと向かった。
その翌日、朝餉の席に、長義の姿が無かった。
疲れの滲んだ横顔と、小さなくしゃみが脳裏を過ぎり、国広は、長義の部屋を訪れた。
「山姥切、起きているか?」
障子戸のところで声をかけるが、返事は返らない。
「山姥切」
もう一度呼んでみるが、反応は無い。
疲れて、眠っているだけか?
様子を伺うように耳を澄ませば、小さく、こん、と咳き込むような音。
「…失礼する。」
それに、一声掛けてから障子戸を開けると、部屋は暗いまま、布団で就寝している長義の姿がある。
静かに歩み寄り、枕元に膝をついた国広は、ひたりと優しく、その額と、頬に触れる。
「……山姥切、聞こえるか?」
少しばかり、熱っぽい感じがして、国広は静かに呼びかける。
「山姥切」
「……ん……ぅ…っけほっ」
小さく咳を漏らして、それにつられたように、長義が目を開く。
「偽物…くん…あれ……今、何時?」
「具合はどうだ?」
「……少し…だるい…喉…痛い……」
寝起きもあってのことか、返事の声が、何時ものそれより、かさついているのに加え、朝に弱いのは知っているが、何時にもまして、反応が鈍い。
「わかった。薬研から薬を貰って、食事を持ってくる。もう少し、寝てても良いぞ。」
それに長義が頷いたのを見届けて、国広は立ち上がると、長義の部屋から厨に向かい、事情を話して雑炊を準備して貰い、薬研から風邪薬を受け取る。
大掃除の陣頭指揮を執っている長谷部に、今日は長義を休ませたい旨を伝えると、分かったと返事が返された。
厨に戻ってくると、ふわりと出汁の香りが香る。
「ああ、もう少しで出来るから、待っていてくれるかな。」
戻って来た国広に気付いた歌仙が、そう声をかける。
くつくつと煮立つ土鍋に、溶き卵をさっと回しかけ、熱の入り具合を見守っていた歌仙は、程良いと見極めたところで火を止めて、土鍋に蓋をすると、直ぐ側のテーブルに用意していたお盆に載せる。
「出来たよ。」
「済まない、助かる。」
「もし、夕餉も雑炊か粥が良ければ、早めに教えてくれれば用意するよ」
「ああ、有難う。」
手にした盆には、出来たての雑炊が入った土鍋と、水とお茶が用意されており、それらを零さぬよう、国広は静かに運ぶ。
「山姥切、開けるぞ。」
「ああ、うん」
やっと聞こえてきたその返事に、国広は少しほっとする。
障子戸を開けて中に入れば、夜着から内番ジャージに着替えた長義が、そこにいた。
「起きていて大丈夫なのか?」
「軽い風邪だよ。重病じゃ無いし……寝坊してしまったけど、この程度なら…」
「今日のあんたは休みだ、山姥切」
「は?」
「長谷部に休みを貰ってきた。勝手は重々承知だが、風邪は軽い内に治すに限る。軽いとあんたは言うが、今無理をすれば、拗らせるだけだ。」
「拗らせなければ良いだけだ。それにお前、長谷部君に無理を言ったんじゃないのか。」
「全体の進捗は順調だそうだ。快く、休ませてやれと言われた。」
「…」
それに、長義は、それ以上何も言えなくなり、不満げな顔だけが残る。
「そんな顔をしないでくれ。喉も痛いのだろう?何時ものあんたの声と、少し違う。」
持ってきた盆を卓袱台の上に置き、国広は言った。
「兎に角、朝餉を食べよう。温まるぞ。」
そう言って、土鍋の蓋を開ければ、立ち上った湯気と共に、雑炊の香りが広がった。
「態々作って貰ったのか」
「事情を話したら、作ってくれた。温かい内に食べてくれ。」
ふわふわの溶き卵に、蟹の解した身が入っている。
蟹雑炊のようだ。
「…美味しそうだな」
「そうだな」
土鍋を覗き込んだ長義の言葉に、食欲はあるらしいと、安堵する。
取り皿に、雑炊を盛り付けた国広は、そのまま長義の前に置こうとして、ふと、その動きを止める。
「偽物君?」
怪訝そうな声。
ああ、その呼び名だって、聞くのは酷く久し振りな気がする。
「どうかしたのかな」
「……いや。」
そのまま、国広は器を渡すことはせず、自分の手元で、雑炊を冷まし始める。
その様子を、ああ冷ましてくれてるのかと、ぼんやり眺めていた長義は、そこでふと脳裏に過ぎった物に、まさかなと思う。
が。
うっすらと、湯気を纏う程度に冷まされた雑炊を盛ったレンゲが、ずいと差し出されて。
「そら、あーん、だ。」
「…」
「冷ましてあるから、大丈夫だぞ。」
「そんなことは心配してない、自分で食べられる。」
「あーん」
「偽物君」
「あーん」
「…」
「腹、空いてないのか?」
「空いてるよ」
「なら、口を開けろ」
「だから、そのレンゲを寄越せと言ってるんだよ」
「何故」
「だから、一人で――」
「冷め切ってしまうぞ?」
この状況に、何の疑問も抱いていない、その様子。
寧ろ、口を開けない長義の方がおかしいとでも言いたげだ。
全く聞こえていないわけでもあるまいに。
「山姥切?」
口を開けない自分に、遂に困ったような顔をする国広に、長義は一つ溜息をついた。
なるほど、わかった。
これは、国広なりの甘えなのだろう。
素直に甘えられないというか、甘え方を知らないというか。
暫く、ゆっくり二人の時間を持てていなかっただけに、構い、構われたい気分なのだろう。
こういうときの国広は頑固で、退くことを知らない。
「え」
レンゲを差し出すその手を、唐突に長義の手が掴むと、その手を引き寄せ、長義は身を乗り出すと、レンゲの雑炊を一口で収める。
そのまま、雑炊を暫し噛んで飲み込んだ長義は、国広を見据えて言った。
「…何て顔してる。」
「え、あ」
「その手から食べろと言ったのは、お前だろうに。」
どこか、驚いたような、呆気にとられたような、顔でじっと見詰めるその顔を見返して、長義は言った。
「次。」
「次?」
「気は済んだのか?なら、レンゲを寄越せ。お腹が空いてるんだよ、俺は。」
「わ、わかった。待ってくれ!」
次とは、引き続き食べさせろ、という意味だと理解した国広は、慌てて次の一掬いを装って差し出す。
今度は、何か不満を口にすること無く、差し出されたレンゲから、雑炊を口に運ぶ。
そしてそれを咀嚼して、飲み込むまでをじっと見遣りながら、国広は神妙な面持ちで、次の一口をレンゲによそう。
そうして、取り皿一杯分を食べ終えたところで、長義は、国広の手からレンゲを絡め取った。
「満足したかな。」
「…少し。」
「少し?俺にこれだけ譲歩させておきながら、贅沢だな、偽物君」
少し呆れたような物言いで、長義はそう言いながら、取り分け皿に雑炊を取り分ける。
ふわふわの卵と、優しい出汁の味が染みたご飯、そこに蟹の解した身と、蟹の味が合わさり、優しい味わいながら、少し贅沢な雑炊だった。
風邪と聞いて、作ってくれた歌仙に、長義は少しばかり申し訳なくなる。
理由は、この風邪の原因にある。
昨日、大浴場の掃除を手伝っていたのだが、掃除に飽きてきた鯰尾の悪ふざけから、全身ずぶ濡れになり、掃除が終わる頃には、少し躰が冷えてくしゃみが出てきていたのだ。掃除上がりの一番風呂で、よくよく躰を温めたつもりだったが、見事に風邪を患うことになり、なんともばつの悪い気持ちだった。
「…余り、好きな味では無かったか?」
「まさか。贅沢な雑炊で、申し訳なくなってるよ。」
「何故だ。」
「こんな時期に、風邪など引いて…情けない。」
「だがそれは、きちんと風呂掃除をしていたからだろう。」
「…は?」
「昨日、大浴場で会っただろう。あの後、鯰尾から聞いた」
くしゃみしていたから少し心配だと、湯船に浸かった国広の側にやって来て、それとなく鯰尾が言ったのだ。
「年末の風呂掃除は、結構大変だからな。途中でどうしても道が逸れ易いんだ。去年、俺が当番だったら時も、そうだったからな。そうしたら、今朝、朝餉にあんたの姿が無かったから、もしかしてと思ったんだ。そこまで酷くはなさそうだから、良かったが」
ということは、去年も同じことになったが、そう言う覚えは無いから、国広は風邪を引かなかったと言うことか。
つまらない違いに、面白くないものを感じた長義だが、鯰尾から、何があったかを国広が知っていたことに、はたと気付く。
「お前まさか…長谷部君に」
「言ってはいないから、安心しろ。ただ風邪気味だと言った。歌仙にもだ」
「そう…」
「それを食べて、薬を飲んで、温かくしていてくれ。風邪は、ひき始めが肝心だからな。」
「…」
国広の言うことは、至極もっともだ。
もっともだが。
長義にも、予定があったのだ。
勿論それは、大掃除の一貫ではあったけれど、正直それを、少しばかり楽しみにしていた。
暫く、二人で過ごす時間が少なかったと感じているのは、自分もそうだった。
それとなく、予定を組めた。
そう、思っていたのに。
昨日、うっかり鯰尾の挑発に乗って、羽目を外した代償がこれか。
因果応報とは、笑えない。
きっと長谷部は、今日の自分の予定を、他の誰かに割り振るだろう。
残っている何かで、同じような予定が組めるだろうか。いやもういっそ、さっさとありとあらゆる物を終わらせる方が早いか?
「……どうしたんだ?」
不意に、そんな声をかけられて、長義は国広を見遣る。
「どう?」
「さっきから、ずっと不満そうだ」
そう言われて、長義は、口に運んだレンゲに、それと悟られないように歯を立てる。
「…別に。」
「今日、何かあったのか?」
「ないよ」
「ない、という顔では無いな。」
全く、こんな時ばかり、察しが良い。
素直になりきれず、内心で、への字に口元が歪む。
「何か気掛かりなことがあるのか?」
「…もういいから、お前は仕事に行きなよ」
「あんたのことが気掛かりで、仕事にならない。」
「それはお前の勝手だよ。食べ終えたら、薬も飲むし…」
「その上で、何故あんたがそんな顔をするのかが、気掛かりなんだ。」
「…」
「俺では、役に立てないか?」
「そんなことは言ってない」
「それなら」
食い下がってくる国広に、長義は溜息を一つ落とすと、その顔を暫し見遣って。
「………今日、お前と仕事をする予定だったんだ。」
「え?」
「資材置き場の棚卸し。力仕事を手伝わせようと思ってたんだよ、お前に。」
少しばかり、投げやりな言葉は、彼の不機嫌の素がそこにある事を示していた。
「折角…………お前と二振りで仕事が出来ると………思ってたのに。」
二振りの時間が足りないと。
そう感じていたのは、自分だけでは無く、彼もまたそうなのだと分かって、国広は、ぐ、と胸が苦しくなる。
その苦しさは、不快な物ではなく、込み上げてきた嬉しさが胸一杯に広がって、行き場を無くしても膨らんでいく、溢れる喜びだ。
「それなら、長谷部に言う。明日、山姥切とやらせて欲しいと。」
「作業の進捗を送らせるのは、本意じゃ無い」
「でも」
「余計なことをして、勘ぐられるのは嫌だ。」
「…」
「……片付けは自分でする、薬もちゃんと飲む、大人しくしてる。だから、もう行けよ」
ここで、国広がこうしていることからも、余計な好奇を持たれたくないのだ。
「…わかった。」
そう言って、国広は立ち上がったのに、長義は内心、安堵の息を付くが。
「一先ず持ち場に行く。何かあれば、呼んでくれ。」
「はいはい」
「それで、夜、泊まりに来る。」
「…は?」
その言葉に、長義は、国広を仰ぎ見る。
「俺も、あんたと一緒の時間が欲しい。だから、夜…泊まりに来る。」
「俺、病人なんだけど?」
「だから、看病に来る」
「病人だけど、そこまで重病ってわけじゃ…」
「病人でも、重病で無くても良い。少し、あんたと話して、一緒に過ごす時間が欲しい。」
「……」
「…いいだろう?本科」
何も、二人の時間は、掃除の合間で無くても良いし、機会が合わないなら、作れば良い。
現に、長義はそうしようとしていたのだ。
それなら今度は自分の番だと、甘えるように、許可を求める国広に、少し沈黙を落として。
「……誰にも気付かれないように来られるなら、良いよ」
そう言って、何でも無いことのように、雑炊を口に運んだ。
「じゃあ、夕餉と風呂を済ませたら来る。」
「好きにしなよ」
「ああ、そうする。では、行ってくる!」
そう言って、足早に出て行った国広の気配は、どこか弾んでいるようで。
「……」
静かになった部屋で一振り、長義はレンゲから手を離すと、もう押さえ込めないとばかりに、朱が昇った顔を両手で覆った。
仕事を間に挟んで、共に時間を過ごすより。
何でも無い、他愛のない話をしながら、共に過ごす時間の方が良いに決まっている。
真っ直ぐに、素直に求められて、甘えられるのは、悪い気はしないし、同じ気持ちだと分かれば嬉しくなるし、自分の中に、少しくらい、甘えたい気持ちだってある。
ただ、それを素直に見せるには、まだ自分には時間が必要で、もう少し、年上としての矜持を守っていたい、つまらない意地を張っているだけだ。
喜ばせられた自分を、素直に見せるには、まだ気恥ずかしくて。
「…」
感情の高まりをやり過ごして、一つ息を付いた長義は、気を取り直して、残りの雑炊を平らげ、風邪薬を飲んだ。
食べ終えた膳を手に厨に向かうと、長義はそのまま食器を洗い始める。
「あれ、大丈夫なのかい?長義君」
そんな声が掛かって長義が振り返ると、光忠が戻って来たところだった。
「騒がせて、済みません。少し熱っぽいだけで、他は元気なので。」
気遣われるほど酷くは無いのだと、少しばかりの申し訳なさを感じながらそう言うと、やって来た光忠が、長義の顔をまじまじと見やると。
「もういいから、部屋に戻って休んでおいで。」
「え?」
「何だか、少し顔が紅いよ。熱が上がってきてないと良いけど。」
「え、あ」
「薬は?」
「飲み、ました…」
「そう。じゃあ後はやっておくから、ゆっくりお休み。」
「はい…有り難う…ございます」
素直に、濡れた手を拭いて、長義は礼を述べると、ぎこちない顔付きで、厨を後にした。
数歩廊下を歩いて、そこから早足で自分の部屋に飛び込むと、長義は布団を被って丸まった。