ぎゅう。と抱きしめると冬のお日さまの匂いがした。
「ただいま、アルバーン」
ファルガーのまだ細い腕の中で、ふなりと押しつぶされる、チョコレート色の体。
アルバーンは肩に顎を乗せると『おかえり』と答えるように、鼻先を天井に向けた。
ランドセルを置くより先に、おやつを食べる手を洗うより前に、ファルガーはアルバーンにただいまのハグをする。
ファルガーの部屋の窓際でファルガーを待っていたアルバーンは、いつものように両手を広げたポーズのまま抱きしめられた。
ぎゅむっと抱きしめたままベッドに腰掛けると、しっぽがペタリ、とファルガーの膝を叩く。
「ああ、はやく行かなきゃヴォックスがおこるな」
ファルガーはアルバーンをまくらの側に下ろし、それからぱちくりと大きな瞳を瞬かせた。
「アルバーン、けがしてる」
いつのまにやらアルバーンの腕はぶらんと揺れてちぎれそうになっている。
ちょこんと生えた小さな耳もちょっとだけ痛そうだ。
「あとでなおしてやるからな」
ファルガーは茶色の頭をなでるとランドセルを下ろしてドアを開け、アルバーンに手を振ってから部屋を出た。
あとにはぽつん、と、まくらの横にうつむいて座る、アルバーンだけが残された。
別にうつむきたいわけではなかっただろうが、頭が重いのだから仕方が無い。
褪せたチョコレート色のしっぽをぺいっと投げ出して座っている。
アルバーンは三毛ねこだ。
ファルガーが腕と言ったのは前脚のことで、ぶらんと危なっかしく肩に繋がっている。
ファルガーの面倒を見ているヴォックスが、雑菌がどうのこうのと言ってアルバーンを洗濯機に入れたからだ。
褪せた三色の短い毛並みは三角の耳の先っぽや鼻の頭だけ磨り減っている。
窓際にいればお日さまの匂いになるし、ファルガーがお風呂に入れてくれれば同じシャンプーの匂いになる。
アルバーンは三毛ねこだった。
三毛ねこのぬいぐるみだった。
その耳が破けて白い綿が飛び出したのを、ファルガーは繕ってやったものだ。
「ただいま…」
誰にともなく声をかける。
答えはなく掠れた響きだけが、部屋に染み渡った。
ファルガーは学ランを脱ぐと、ハンガーにかけてクローゼットを開く。
ちらりと見ると、クローゼットのすみには、三毛ねこが、ちょこんと座っている。
ファルガーはしゃがみこんで、擦り切れた鼻先をツンと突いた。
もう中学三年にもなるのだから、クローゼットの整理をするべきだ。と、ヴォックスが言っていた。
しかし左右で色の違うガラスとボタンの円い眼を見ていると、世間一般の常識、風習、慣習――何と呼んでも構わないだろう、どうせ全部関係ないと切り捨てる気にしかならない。
クローゼットの中にいるのはうっかりヴォックスに捨てられないための用心だ。ファルガーの部屋の掃除など始めると、まくらの横のアルバーンを無意識のうちにポリ袋に放り込む恐ろしい男である。ファルガーはこの兄をその点でのみ恐れていた。
ファルガー以外の人間はヴォックスのその美しすぎるかんばせと存在しているだけで立ちのぼる威圧感を怖がる傾向にあったがそれはさておき。
隠していたわけではないが、クローゼットに避難させていた事はばれていたらしい。
中学に上がる前からだからもう二年ほど経つだろう。
「黴なんて生えてないよな…?」
嫌な想像をして抱き上げた。
チョコレート色の軽い体。
アルバーンは『大丈夫だよ』と言いたげないつもの笑顔で、両手を広げている。
初めてファルガーが見た時から、アルバーンは色褪せて片目の色が違ったぬいぐるみだった。
ファルガーの両目から流れる大粒の涙が、全部染み込んで消えた、柔らかい綿の体。
『きみに預けるよファルガー』
大きな手が、ぬいぐるみを抱きしめる子どもの小さな頭を撫でた。
『ファルガーが望めば、アルバーンはずっと、一緒に居てくれるよ』
白髪の子どもはこくりと頷いた。
その時は、ただ素直に頷いた。
意思の無い布と綿のぬいぐるみは、確かにファルガーが望めばずっとそばにあるだろう。
そう気づいたのはずっと後の事で。
けれどファルガーがそれを望み続ける事に良い顔をしない人間は、きっとたくさんいる。
それでも、とファルガーは思う。
ずうっと一緒だ。
ずうっと一緒で、何が悪い。
「大丈夫、問題ない……けど流石に虫干ししてやるか」
幸いな事にヴォックスは明日あさってと仕事で出かけるらしい。
いたら布団やまくらと並べてベランダで干されているアルバーンに、布団叩きをくらわせるところだ。
ファルガーはアルバーンをまくらの横に座らせて、カーテンを開けた。
階下からファルガーを呼ぶ低い声が届く。
「今行く」
答えて踵を返すファルガーの後ろ、窓の向こう。
――空の高いところで、星が流れた。
あくる朝、ヴォックスが朝早く出かけたのを見届けて、ファルガーはアルバーンをベランダに出してやった。
ベランダにガーデンチェアを持ち出して、日差しが暖かい間はそこで本を読んだ。
昼には一緒に部屋に入って、それでも陽だまりの出来るまくら元がアルバーンの定位置である。
日が暮れる頃にはすっかりお日さまの匂いになっている。
夏の強い太陽ではなく、冬のお日さまの匂いだ。
ファルガーは満足げに笑ってチョコレート色の頭を撫で、そのまままくらに頭を乗せた。
「おやすみ……」
アルバーン、と小さく呼びかけると、ねこはこてんと布団に入れてくれとばかりに転がった。
笑って引き寄せる。
アルバーンは体温が無いから、ファルガーの熱がすぐにうつる。
否。アルバーンの体温は布団の温度だ。
冬の陽だまりの温度だ。
そのままファルガーを眠りに引き込む、優しい温度なのだった。
ぎゅう。と抱きしめると冬のお日さまの匂いがした。
ファルガーのまだまだ伸びやかに細い腕の中で、ふなりと押しつぶされる、チョコレート色の――。
(ん?)
ふなりとしない。
ふかふかでない。
妙な感触に、目を開けた。
多分、眠っていたのだろう。
ファルガーはうつらうつらとそちらに引き戻されながら、もう一度腕にぐっと力を込めた。
(…かたい)
木の幹とまではいかないが、例えとしては一番近い。
ぐぐっと力を入れれば、折れてしまいそうだ。
「ぐぇ」
頭の上で、誰かの声がした。
男の声だがヴォックスではない。
(なに…?)
寝ぼける頭を覚醒させるように、ぐいぐいと腕の中の幹を締め上げる。
どうしていつまでたってもふにっとならないんだ。
「…!…ッちょ、やめて折れる!アバラっぽいものが折れる!ファルガー!」
――アルバーンのくせに。
パッと瞳を開き、腕を解いた。
ほっと、息をつく気配がして、けれどその体は、逃げようとはしない。
ファルガーはゆっくりと体を起こした。
まだ、夜の最中だ。
ベッドに座ると、布団から出たパジャマの肩がひやりとした。
見つめる先で、先刻折ろうとしていた何者かが
(違う、折ろうとしたんじゃなくて、アルバーンが…)
外を車が通った。
ライトが一瞬部屋の中を過ぎた。
そこにいたのは、茶色の髪に三角の耳を生やした、裸の男だった。
「……」
「……」
「……あ、」
「…………ッ!」
叫ぼうとしたファルガーの口を一瞬はやく、男の手がふさぐ。
「――!ムー!!」
「大声出さないで!呼んでもヴォックスさんいないだろ!!誰も助けに来ないんだから――!」
吐息のような声で叫ばれる言葉に、ファルガーはブンブンと首を振ろうとした。
「んんんーーー!!!」
「いや違くて!無駄に近所迷惑だからやめて!!俺確実に捕まるし!!」
気がつけばどちらも涙目だ。
「ああもう…!」
痺れを切らした様子で男の手がファルガーの手をつかみ、ぐい、と茶色の髪に押し当てた。
ファルガーの手の中で、茶色はさらりと流れて、指はその中に生えた、橙より褪せた色に触れる。
ふに、という感触にファルガーは言葉を飲み込んだ。
「俺だよ…ファルガー…」
低い声。近くなった顔。右と左で色の違った瞳。
「おまえの、アルバーンだよ」
自分が繕った跡の残る、橙色の布の耳に、ファルガーは次の瞬間。
「よくもアルバーンの耳ちぎりやがったなこの変質者ーーー!!!」
やっぱり、叫んでいた。