「…で」
「あ~…俺も最初は明らかに変質者だと思ったんだが、どうにもなあ」
頭を掻くファルガーから、その横に座る胡散臭い猫耳に保護者たる鬼は、ジロリ、と視線を移す。
ビクリと茶頭の男が身をすくませた。
今はファルガーが勝手に着せたらしいヴォックスのジーンズとシャツを纏っているが、肩幅が少し狭くジーンズの裾が踵にかぶる程度で済んでいる。まあまあの体格だ。
これが、この不審者が、弟のベッドに。
「耳の根元を見ても繋がってるようにしか見えないし尻尾の方も…明らかにアルバーンの尻尾なのに尻から生えてるようにしか見えないんだよ」
困ったような顔をしているとまだまだ幼い、成長盛りの少年に、ヴォックスは安心させるようににこりと微笑んで見せた。
「大丈夫だ、ファルガー」
「ヴォクシー…」
「通報しよう」
「えええええ!?」
叫んだのは茶頭だ。
「やめてよヴォックスさん!俺ここ以外行く場所ないんだから!」
「留置所なら空きがあれば入れるが?」
ファルガーに向けるのとは正反対の鬼の形相から庇うように、少年が割って入る。
「いやだからなヴォクシー、こいつ、アルバーンなんだって」
「跡形もなく処理してやるから安心するんだ」
「通報より酷くなってないか?」
ファルガーにはいつも通りの微笑を浮かべてみせるのが余計に恐ろしいらしく、「わあ、この人本気だよ」と呟いて暫定、不審者は少年の後ろに隠れた。
「まあすぐには信じられないのも無理はないんだけどなヴォクシー、この傷を見てみろ」
クイ、とファルガーが親指で指示すると、作り物の耳を頭に生やした男はおもむろに首元をくつろげる。
弟にナニ見せる気だ、と目をいからせたヴォックスだったが、その首筋を見て流石に押しとどまった。
引き裂かれたような大きな傷。医者の縫合にしてはあまりに雑な縫い目の痕。
もしも首の付け根にこんな傷を負って、生きていたのならそれは人間では、ない。
「覚えてるか?ヴォクシー……小四の時、俺が友達連れて学校から帰ってきたら、アルバーンの首が取れかけてたことがあっただろ」
覚えている。ことファルガーに関しては水も漏らぬ記憶力を誇るヴォックスである。
ファルガーは状況証拠からその傷害事件の犯人を、普段からアルバーンを粗雑に扱っているヴォックスだと思ったのだ。
ヴォックスには覚えがなかった。
と言うのも、普段からあの古臭いもらい物のぬいぐるみを自分がどう扱っているかなど、頓着していなかったのである。
力は弱くはないので、ひょっとしたらうっかり首くらいもいでいたかも知れないが、流石にそれは覚えているだろうと首をひねったものだ。
ファルガーはヴォックスを責め、首の取れかけたアルバーンを抱えて家出した。
と言うより、遊びに来た友人の一人の家にそのまま転がり込んだのである。
アルバーンの首はその子の、ユーゴの家で、ニナというお姉さんに縫ってもらった。
――問題は、あの犯人が誰だったのか、という下りだ。
茶頭に猫のぬいぐるみの耳を生やした男は、語り始めた。
いつものように、ただいま!と元気な声が階下でして、アルバーンは枕の横で耳をそばだてた。
彼の小さなご主人様のお帰りだ。
トタトタと、軽い足音が、今日は三つ重なって聞こえる。
「お友達かい、ファルガー」
「ああ!同じクラスだ。お前ら、あそこが俺の部屋だ、先入ってろよ」
おれはユーゴを連れてくるから。
という可愛い声に、残りの二人は返事をしたようだった。
アルバーンは少し緊張した。
ファルガーより先にそのオトモダチが入ってくると、ひょっとしたらアルバーンを見て尻尾を引っ張ったりボールにしたりするかもしれない。
シュウが小さかった頃など、来る子来る子に遊んでもらっていたものである。
(俺ももう結構な年なんだけど…)
そろそろほつれてきた縫い目とか、薄くなった毛並みとか、布地も体につまったウレタン綿も疲れてきている。
と色々と考えてみたところで、アルバーンは動くことはできないのだから仕方ない。
悟りを開いて待ち受けていると、がちゃりとドアが開いた。
お盆にジュースを乗せたヴォックスと、後から二人、たんぽぽのような金髪の少年とグラデーションのかかった紫の髪の少年が入ってくる。
「ファルガーが戻るまで待っていてくれ」
「はい!あ、と。ありがとうございます」
「どうも」
ヴォックスが部屋を出ると、その紫の髪の、少し大人びた声の方が、くるりと部屋を見回しアルバーンに目を留めた。
ブリザードのような冷たい視線。
「…これ?」
「あ!その子がアルバーン!!」
小さな手にむんずと掴まれてアルバーンは内心冷や汗をかいた。汗をかくなど心の中でしかできないのだが。
(でも、ファルガーってば俺のこと、学校の子にも話してるんだなあ)
人見知りをするファルガーの事だ、本当に仲のいい友達なのだろうと思えばアルバーンも嬉しい。
(どんな顔をして話してくれたんだろうね)
などとは考えるまでもなく、きっと、いつものはにかんだ笑顔で。
――お日さまの匂いのする、アルバーン。
それはちょっと、面映い。
「へー。これがふーふーちゃんの一番の友達のぬいぐるみ?」
「なーに浮奇、悔しいの?」
はははっと笑う金髪の方に紫の髪は顔を向けた。
アルバーンからは見えないが、氷河期のような目をしているのだろう。
笑いを呑んだ金髪から目を手の中に戻し、浮奇と呼ばれた少年は、整った能面のような顔でアルバーンを見つめた。
汗をかけるものならアルバーンは盛大に脂汗を掻いただろう。
その限界に達した緊張感は、時間にすれば僅かに三秒。
そして。
「どーせ中身は綿なんでしょ?」
メリ。
「やっぱり綿じゃん」
「その後浮奇くんはサニーくんに口止めして、帰ってきたファルガーに『初めからこうだった』と吹き込んだってわけ…」
「浮奇とサニーに聞いて裏も取った。誰に聞いたんだって二人とも驚いてたぜ?」
誰にも何も、被害者本人ってことになるわけだが。
「それは…だが…」
ヴォックスさえも言葉を淀ませた。
浮奇が件の犯人であるならば、そしてそれを多少なりとも罪のある行為だと思っているならば、自分から秘密を漏らすはずはないしサニーへの口止めは熾烈を極めたであろう。
と、ヴォックスにすらそう思わせる浮奇の静かに苛烈な性質が、アルバーンの首を引き裂きもし繋ぎもするらしい。
しかし。
「その犯人を――推測するのはそう難しくはないはずだ」
「え?」
まだ難しい顔をするヴォックスにファルガーが疑問符を投げかければ、その物腰は弟に対するものとなる。
「私ではないという確信さえあれば、残る容疑者はあの時先に部屋に入った二人だけになる、それは誰にでも分かる事だ」
ファルガーは友人を疑わずに――ヴォックスのうっかりミスだろうと思うことにしていただけだ。
事情を知る者は少ないが、犯人を口外する筈の無い浮奇にサニー、何も知らなかったファルガーを除いても、そのあらましを知る者は自慢の、目に入れても痛くないほど可愛がる弟についてならいくらでも話ができるるヴォックスに、人の良いユーゴやニナ。
いつ誰から聞き出せてもおかしくは無い。
と、ヴォックスは滔々と語った。
「いや、ちょっと待てヴォックス」
一通り聞き終わったファルガーは、ぴたりと手のひらで自分の兄を制した。
「その仮定で行くと、こいつは俺たちの過去話から浮奇とサニーの性格から力関係から全部を調べ上げた上で猫の耳をつけてここにいるわけか?」
どこの世界にそんなことをする大の大人がいるのだ。
と、少年は真直ぐな眼をしてヴォックスを見る。
「あるいは、浮奇やサニー以外の友達についても調べているかもしれん」
その真直ぐさがかえって眩しくてならない――とばかりにヴォックスは目を細めた。
「ファルガー、ふーふー、私の大切な弟。それを世間では、ストーカーと呼ぶんだ」
「おぉ…!」
「いや、おぉってちょっと」
困ったような緩い笑顔で頬を掻いたのは、猫耳どころか尻尾まで装備した、茶髪の男。
その顔の片方ずつ色の違った瞳を、ファルガーはマジマジと見る。
男は――しばらくその視線を受けて、それから観念したように溜め息をついた。
「…確かに、信じられない話だよね。普通」
ヴォックスさんの話のがまだありそう。
へにゃりと眉を下げ困ったように――困っているのではない、泣きそうな顔で、笑う。
「良いよ?俺、どうしてもっていうなら橋の下で生活しても良いし。そうだ、シュウのとこなら信じてもらえなくても、変な奴一人くらい転がり込んで問題ないだろうから…」
「ストップ」
ぴしり、と少年の言葉に男が黙る。
ヴォックスは話の筋が通ったことに吐息を漏らし、ソファの隣に座るその男を排除しようと腰を上げた。
しかし、ヴォックスの弟はすい、と視線を男から逸らした。
逸らしたグレーの双眸がそのままヴォックスの上に移った。
「なあ、ヴォックス」
声変わりも終盤に差し掛かった、それでもまだ稚い真直ぐさのこもった声。
「確かにこいつの言った事は全部嘘で、傷も特殊メイクで、耳も尻尾も俺のアルバーンから引きちぎったって可能性は0じゃないんだろうけど…」
ただ幼いがゆえだけの柔らかな真直ぐさはもう無くて、今ここにあるそれは、鍛え上げた刀の線に似ている。
「俺はこいつの言うことを信じた。だから、こいつは俺のアルバーンだ。どこかにやる気はない」
はっきりと宣言する言葉は、まだ幼いながらもヴォックスと対等であろうとする、弟の声だ。
ヴォックスは、ファルガーの隣に腰を下ろすと、その形の良い頭を抱え込んだ。
「ファルガー…」
「ん」
「お前に何かあったら、と思うと私は心配でならないんだよ、だから…」
「ああ」
ファルガーは頷いた。
突然現れた自分以外に身寄りのない小さな子供。
家族になったその日から、何があっても守ってやろうと誓った大切な弟。
ヴォックスは真剣な表情で――ファルガーには頼もしく、他の人間には殺意しか感じられない顔で、ずいと膝を進めた。
「そうと決まったらお前が何者であろうが関係ない。この家に留まる事を許可しよう。しかし――」
ヴォックスはその殺気を一層濃くして茶頭に顔を近づける。
金色の瞳が鈍く瞬く。
「ファルガーに害為す者を私は許さない。そのふざけた頭に叩き込んでおくんだな」
ふざけた、と評される、綿の詰まった猫耳とミルクチョレート色の頭の男はしかし、色の違う両目を軽く見開いただけで――ヴォックスの形相に怯えるどころかホッと胸をなでおろしたようだった。
「良かった。一週間だけって言っても流石に野ざらしにされると黴ちゃうからさ」
一安心!とばかりにへらりと笑う。
「一週間?」
その言葉に訝しげに瞬いたのはヴォックスだけで、ファルガーには驚いた様子はない。
「えーと、よくわからないんだが、一週間経ったら元のアルバーンに戻るんだってよ。本当に魔法みたいなな話だよな」
「…そうか。そうか」
それがどんな魔法でどんな理由なのかヴォックスは問いただす気にもならなかった。
とにかく一週間経てば、この男は消えるらしい。
――つまり、八日目にはこの男を排除しても何ら問題ないらしい。
ヴォックスはシャツを整え、居住まいを正した。
それをどう受け取ったのか茶頭も両手を膝にそろえて。
「お世話になります、って言うか前からお世話になってたけど――名前はアルバーン。よろしく」
「仕方がない」
「あはは」
そして、ファルガーにこてんと寄りかかった。
「よろしくね、ファルガー」
「あぁ、…っておい、こら、ちょっ」
寄りかかったと見る間に――男の体重を支えきれなかったのだろう、ファルガーの細い体がそのまま痩躯に押し倒されて、ソファの上。
「重い!」
「あ、ごめん」
ついいつものつもりで…。
と呟きながらアルバーンが身を起こした時には。
「おい、クソ猫…」
覚悟はできているか。
「え」
額に青筋を浮かべにこりと微笑む、鬼が、そこにいた。
こうしてファルガーの家の、騒がしい冬の一週間が、幕を開けたのだった。