高諸04 高坂が心惹かれる相手というのは、いつも恋の外側にいた。その相手といえば、雑渡昆奈門であったり、山本陣内であったり。命を懸けてでも側にいたいと思う相手と恋心は、いつも結びつかなかった。
高坂はよくもてると言われるし、その自覚もある。ただ、忍ぶ事を生業とする忍者として必ずしも得という訳ではなかったし、相応に面倒事にも巻き込まれてきた。
様々な出来事が積み重なった結果、高坂は色恋沙汰に興味が湧かなくなっていた。自分の事も、他人の事も。
そんな心に不意に乗り込んで来たのが、弟分である尊奈門の噂話だ。
その対応について動いているうちに、薄々と、少しずつ。否応なしに。高坂の心の奥から、滲み出るものがあった。
目を逸らし続けるのは、限界がある。錯覚だと誤魔化す事は、周りが許してくれなかった。例えば雑渡の、山本の、困ったものだという視線。それから、何も知らずに「好きな人」への気持ちを漏らす尊奈門。
尊奈門の「好きな人」について考える時、腹の奥から湧く感情が紛れもない嫉妬だと、高坂は渋々認めた。
認めたからには、向き合わなければならない。
と思ったのが、尊奈門と共に雑渡に呼び出されるより少し前の話だった。
高坂は、雑渡昆奈門という男に絶対の信頼を置いている。であるから、咄嗟に承服し難い言葉でも、一旦は不満を飲み込んで受け入れる。後々になれば、納得できる言葉がほとんどであるからだ。
尊奈門が噂に困っていた件も、最終的には雑渡が解決したようなものだ。高坂の対応は新たな噂を生んで、結局、尊奈門を振り回しただけだった。
タソガレドキ忍軍は、同じ忍村で育った者が多い。血縁や地縁による信頼感は強いが、同時に、どうしても空気が緩む時がある。雑渡は時折、そこを厳しく締め直す。
今回も同じような対応で、忍軍内の空気は引き締まった。尊奈門と高坂に対して、余計な首を突っ込む者はいなくなった。
尊奈門は「さすが組頭」と言っていたし、高坂も同じ気持ちだ。
ただ、一つだけ。
尊奈門と揃って雑渡の所へ向かった時、雑渡の言った言葉。
「陣左は今、誤解されて困る人もいないからな」
あれは明らかに嘘だった。しかも、理由のわからない嘘だ。
雑渡は、高坂に想う相手がいるのを知っているはずだ。相手も。気付かれないはずがない。高坂はその点を疑わない。
どうして雑渡があんな事を言ったのか、高坂がわからないのはそこだった。
そして雑渡の言葉以上にわからないのは、どうして自分は、その嘘に乗らなかったのかという事だ。
せっかく尊奈門が都合の良い誤解をしたのに、つい、本心を漏らしてしまった。
高坂に好きな相手がいると聞いた尊奈門は、かなり驚いていた。だが、
「そ、そうなんですか……」
と返したきり、それ以上は聞いてこなかった。挙句、用事を思い出したと、さっさと行ってしまった。
別に何を期待していた訳ではない。が、尊奈門のあまりのそっけない反応は、少なからずショックではあった。
尊奈門は、高坂の色恋沙汰に興味がない。それは知っていたはずの事であり、そこに助けられてもいた。
しかし、いざ尊奈門への気持ちを自覚すると、やはり楽しくはなかった。勝手なものだ。が、恋をして勝手でない者など見た事がない。自分も例外ではなかったという訳だ。
その日から、高坂はもやもやした気持ちを抱えたままだ。
そして何故だか、尊奈門もその日から元気がなかった。高坂は自分が口を滑らせた事ばかり考えていた。だから尊奈門の様子がおかしい事はわかっても、理由までは察せられない。
周りからの余計な口出しはなくなったのに、高坂と尊奈門の間には、微妙な気まずさが残ってしまった。
仕事に支障はない。ただ高坂は尊奈門に対して少しだけそっけなくなったし、尊奈門はそれに対して文句を言うでもなく、ただ大人しく引き下がる。
何となく空気が固くなり、ますます普段通りにできなくなる。
良くない事だった。いくら普段通りの様子を装っても、バレる相手にはバレる。
そんな訳で、高坂は捕まった。
「で、何があった?」
お茶を挟んで、高坂と山本は向かい合って座っていた。
1日がそろそろ終わるという頃、高坂が山本に捕まったのだ。
「浮かない顔をしているな」
と声を掛けられ、気付いたら山本の部屋におり、差し向かいで茶を飲んでいる。
こんな話に付き合わせるのは申し訳ないと思うと同時に、話を聞いてもらえて助かるという気持ちもある。高坂が素直に相談事をできる相手は、多くはない。
腹を決めて、高坂はまず雑渡の事を話した。尊奈門と三人で会話をした時の事だ。
「組頭に、揶揄われたな」
仕方のない方だ、と言いたげに山本はため息をつく。
「揶揄われた、ですか」
「ああ。組頭は若い者にちょっかいを出すのがお好きだからな……悪い癖だ」
「そうなのでしょうか」
山本の言葉に、異論がある訳ではない。が、それだけではない気がしていた。
「他に何かあるか?」
「組頭は、私に釘を刺されたのかと思いました」
「ほお。なぜそう思う?」
「それは……」
高坂は少し躊躇った後、
「組頭は、知っておられるからです。私が、尊奈門を好いていると」
高坂は、初めてそれを口に出した。相手が他ならぬ山本であったから、言う事ができた。
尊奈門の想い人に嫉妬した。
噂の中で、相手が自分となった。嘘だとわかっているのに妙な満足感を覚えた。
つまりは、高坂の心が今、尊奈門に向かっているという事。これだけの単純な言葉にたどり着くのに、随分と長い時間がかかった。
「とうとう認めたか」
「…………」
山本は笑い、高坂は渋い顔をする。
認めたくはなかった。しかし、感情に蓋をするのは苦手だ。
それが任務であればいくらでも耐えるが、今回はそうではない。尊奈門との距離は近すぎて、冷静に処理できる自信がなかった。ならば認めて、なるべく制御したかったのだ。
できない事はないだろう。
そう思っていたが、もう既に、高坂の目算は崩れている。
「組頭なら、私を……私の気持ちを、止めて下さる思いました」
高坂はそこを期待していた。しかし、それを聞いた山本の反応は鈍かった。
「組頭が? 何故?」
「尊奈門に悪い虫がつくのを、組頭が見逃されるとは思えないのです」
「ああ……」
よくわかっているな、と山本が呟くように言う。本人にはどこまで伝わっているか分からないが、雑渡が尊奈門を大事にしている事は、忍軍に所属する誰でも知っている。
「ですから、私にも何か言われるのではと思っていたのですが……」
「おまえは悪い虫ではないし、素性の知れない馬の骨でもない。だから、組頭は何も言われないのだろう」
「それで良いのでしょうか」
「どういう意味だ?」
「……良い事だとは思えません」
山本にも、それから何より雑渡にも、良くは思われないだろう。そう思っていた。何よりも、自分自身が良いとは思えなかった。
できれば、自分一人の心の中にしまっておきたかった。が、これまでを振り返ると、どう考えても二人は高坂の想いを知っている。高坂自身が気付くよりも前に。
さすがだと感服すると同時に、知っているならばどうして止めてくれなかったのか、という気持ちもあった。止めない理由が知りたかった。
山本は顎を撫でながら、高坂を見る。
「さすがに、手放しで良い事とは言わんがな」
「では」
「だが、おまえは、自分の感情を抑え込めないたちだろう」
「……はい」
「ま、そこは尊奈門も同じだがな」
「そうですね」
肯定するしかない。高坂も尊奈門も、こうと決めたら、止まれない。二人とも前科があるのだ。
「なら、おまえの気持ちがもっと厄介な相手に向かうよりはマシだ」
そう言われると、納得できないでもない。尊奈門が相手ならば、例え何があろうと、問題は忍軍の中で完結するのだ。最悪の相手ではない。
ただそれは、高坂についての話だ。尊奈門はどうなのか。尊奈門の相手も、やはり忍軍に、タソガレドキにいるのか。自然と、そんな疑問が湧いてくる。
「小頭は、尊奈門の相手を知っておられるのですよね?」
「ああ。おまえに言う訳にはいかんがな」
「駄目ですか」
「尊奈門が良いと言うなら構わないが」
「……言わないでしょうね」
尊奈門は、相手を漏らす事を嫌がっていた。恐れていたと言ってもいい。そんなに良くない相手なのかと思っていた。
が、山本の様子を見ると、そうでもないのかと思う。雑渡も山本も尊奈門に甘くはあるが、線引きはちゃんとある。
「尊奈門を放っておいて、よろしいのですか?」
「今の所、尊奈門は相手に何もする気がない。ならば、口を出した方がややこしくなる」
山本が言うのなら、高坂は信用するしかない。
「……そうですね。あいつは変な所で口が硬い」
どこまでも隠し通そうとする尊奈門を思い出す。
高坂は、尊奈門とは違う。望みはないと知りつつも、尊奈門へ想いの片鱗を見せてしまった。
「私は、あそこまで隠せません」
高坂が続けて呟くと、山本は耳聡くその言葉をを拾った。
「ん?」
「…………」
「おい……まさか、もう尊奈門に言ったのか?」
「いえ、違います」
驚く顔に、慌てて首を振る。そして高坂は、気まずそうな顔で、「ただ」と言葉を続けた。
「ただ、私にも好きな相手がいるという、それだけは言ってしまいました」
「ああ……」
山本は眉間を押さえた。そんなにまずい事だろうか。
「尊奈門は、どんな様子だった?」
「驚いていました」
「それだけか?」
「はい。あとは、別に。相手を聞かれもしませんでした。興味がないのでしょう」
山本の眉間の皺が、深くなった。
「そうか……」
「何か、まずかったでしょうか」
「いや……この所、おまえたちの空気がおかしいのは、それが原因か」
「申し訳ありません」
高坂は頭を下げる。やはり気付かれていたし、心配もかけていたのだ。
「いや。おまえ一人が悪いという訳でもない。あまり気に病むな」
そう言いつつ、山本の顔はどう見ても「気にするな」というものではない。
少し考えた後、山本は口を開いた。
「ひとまず、組頭には私から余計な事はするなと言い聞かせておく」
「え、いえ、そこまでは」
「いいから」
強く言われれば、高坂も反論を引っ込める。
山本は改めて高坂を見た。その目線の強さに、高坂も姿勢を正す。
「ひとつ確認しておく。おまえはこれから、どうするつもりだ?」
たちまち高坂の眉が下がった。
「……実は、それを相談したかったのです」
素直に白状する。
もう良い大人になった高坂は、大抵の事は自力で解決できる。私的な事で上司に頼る事などない。だから素直に恋愛相談をするなど、つい先日までは考えてもいなかった。
あまりにも困り果てた高坂からは、もう見栄など吹き飛んでいた。
山本はそんな高坂を見て、表情を緩める。
「なるほどな。しかし、私から言える事は特にないぞ」
「ないのですか」
「ああ」
高坂は少なからず落胆した。
応援されたかった訳ではない。どちらかといえば、止めて欲しかった。
「おまえの思うようにするといい。周りの……組頭や私たちのことは気にしすぎるな。それでどうにかなるほど、我々もやわではない」
好きにしろ。
それが一番困るのだ。
正直なところ、高坂は自分を恋愛上手だとは思っていない。むしろ下手な気がしている。これまで誰と共にいても、関係が長く続いた試しがないのだ。
そんな自分が感情のまま行動すれば、尊奈門を傷付けるかもしれない。そうならないように当てにしていたのが、雑渡であり山本だったというのに。
「私が思った通りにして、それが尊奈門を傷付けるとは思われないのですか?」
それは高坂への信頼なのか。それとも、高坂が何をしようと尊奈門は傷つかないという事なのか。
そんな事を考える高坂の目を見て、山本は、
「おまえはそんな男ではない」
きっぱりと言った。あまりにも真っ直ぐに言い切られて、高坂は言葉を無くす。
ふ、と山本は相好を崩した。
「それに尊奈門も、おまえの気持ち一つで崩れるほど弱くはない。もっと信じてやれ」
「は……はい」
思わず、頷いてしまう。「良い子だ」と、何年振りかの子供扱いをされた。
苦い笑いが浮かびかけたが、ふと気付いた。腹の奥にある、薄暗い気持ちが消えている。
「少しは気が晴れたか?」
結論は出ていない。何かが進んだ訳ではない。しかし、気持ちが軽くなった。
「はい。ありがとうございます」
高坂は頭を下げた。無性に尊奈門に会いたくなった。
会いたいとは思ったが、こういう事ではない。
高坂は尊奈門と並んで歩きながら、高坂は思った。
山本に話をした翌日。雑渡に呼ばれた。
昨日の今日だから少し緊張しつつ、高坂が出向く。雑渡は、簡潔に用件を伝えた。
「尊奈門と一緒に、団子を買ってきてくれ」
「え」
「頼んだぞ」
「は、はい……」
聞けば、小頭たちと会議をするから、お茶請けの菓子を買ってきてくれという事だ。
完全な雑用であるが、それはいい。しかし、どう考えても、高坂と尊奈門が二人で行くような用事ではない。
戸惑う高坂に、雑渡の隻眼が向けられる。特に厳しい視線ではなかったが、高坂は何故だかぎくりとした。
「おまえたち、最近空気がおかしいだろう」
「……はい」
気付かれていて当然なのに、いざ口に出されると、返す言葉がなかった。
雑渡は頰に手を寄せる。
「まあ私の対応も良くないと、陣内に言われたが」
「いえ、そのような事はありません!」
全力で否定する。雑渡が悪いなど、あるはずがない。ひとえに自分の、そして尊奈門の未熟さだ。
雑渡は目を細めて、高坂の肩を、ぽんと叩いた。
「宿題だ。団子を買って来る間で、仲直りをしておけ」
「え…………」
「いいな?」
「……はい」
雑渡に逆らえるはずもなく、頷く。
高坂も尊奈門も雑渡の近くに仕えているのだから、空気がおかしいままでは雑渡に不便をかける。
覚悟を決めた高坂は、尊奈門の元へと向かった。
高坂に呼ばれた尊奈門は、いつも通りの顔で現れた。その顔を見ていると、悩んでいるのは自分だけに思えてくる。そうでない事は知っているのに。
「組頭からの命だ」
「はい」
雑渡の名に居住まいを正した尊奈門は、
「私とおまえで団子を買って来いと言われた」
続く高坂の言葉に、首を傾げた。
「団子?……高坂さんと私の二人で、ですか?」
「そうだ」
「ええと……どこまで行くのです?」
「いつもの団子屋だ」
「近所じゃないですか」
さすがの尊奈門も、何で?という顔を隠さない。が、
「いいから行くぞ」
と高坂が立ち上がれば、
「待って下さいよ」
と言いながら、尊奈門も後に続く。
尊奈門はいつまで、こうやって疑問もなく自分の後をついてくるのだろう。高坂の気持ちを知れば、何かが変わるのは間違いない。
では、どういう風に変わるのだろう。
その答えは見つけられず、高坂はただ早足で歩いた。いつも通り、尊奈門は遅れる事なく付いてくる。
その気配に、少し安堵した。
団子屋まで歩きながら、二人は無言だった。普段ならば尊奈門はあれこれうるさいし、高坂も普通に応じる。なのにここ最近は微妙な気まずさが消えず、何かのきっかけで始まった会話も、すぐに終わってしまう。
今日もそうだった。
団子屋までのおつかいなど、たいして時間はかからない。このままでは雑渡の心遣いを無駄にしてしまうと思い、高坂が声をかけようとした時。尊奈門の方から、話しかけてきた。
「……また、組頭にご心配をかけてしまいましたね」
「そうだな」
当然ながら、尊奈門は雑渡の計らいに気付いている。
「私と居るのは、気詰まりか?」
どうにか平静を装って、尋ねる。尊奈門は、首を振った。
「そういう訳じゃないです」
「そうか」
高坂は少しだけほっとして、そのまま尋ねた。
「まだおまえに何か言う奴はいるか?」
尊奈門は少し困った顔をした。
「少しだけ。もう吹っ切れたかとか、いい奴を紹介してやるとか」
「……会ったのか?」
「会いませんよ!」
尊奈門は慌てて首を振る。
安心した。というのに、それと裏腹な事を口にしてしまう。
「会うだけ会ってみればいいだろう」
「嫌ですよ。また変な噂が流れたら、どうするんですか」
「会えば気に入るかもしれないぞ」
「別の人など、考えた事はありません」
束の間、高坂は言葉に詰まる。しかしすぐに、
「一途な事だな」
皮肉っぽく返す。尊奈門が「う」と声を漏らして、肩を落とす。
「すみません……」
「別に……私に謝る必要はない」
高坂が言っても、尊奈門の表情は晴れなかった。この間、高坂が言った事を気にしているのかもしれない。
密かに想われるだけで、迷惑だと。
あれはあれで、本心だ。ただ、尊奈門に早いところ相手を思い切らせたいと、そういう気持ちもあった。
妙な空気で、二人とも口を閉じる。
これでは前と同じだと思いながらも、高坂はやはり前と同じ質問をした。
「お前の好きな相手というのは、どんなやつだ」
「なっ……ま、またその話ですか!?」
尊奈門は動揺を隠しもしない。
「そろそろ口を割れ」
「嫌ですよ。何でそんなに聞くんですか」
「おまえの事だから、面倒な相手に決まっている。知っていた方が良い……気がする」
「何ですかソレ!」
尊奈門が声を上げる。うるさいな、と思って、うるさい声に安心する。しおらしい尊奈門など、落ち着かないだけだ。
話をしていれば、少しずつ壁が解けていく。高坂は安堵した。
だが尊奈門は、安心とは程遠い表情をしていた。その困り顔が、ふと、何か思い付いたというものに変わる。
「では、高坂さんの好きな人を教えて下さい」
「は?」
「高坂さんが教えてくれるなら、教えてもいいですよ」
尊奈門は、やけに偉そうに言う。なるほど、情報としては釣り合っている。納得はしたが、それはそれとして腹は立った。
「言う必要はない」
「私だってないですよ!」
「お前の方は、確認がいる相手な気がする」
「変な勘繰りをしないで下さい!」
「では、どんな人物かだけでも教えろ。名前以外は言えるだろう」
「い、言いたくないです……」
高坂は、尊奈門の先輩である。そして忍軍は、完全なる縦社会だ。尊奈門は多少、例外要素を持ってはいるが、その中に組み込まれている。
無言の圧を隣で受け続ければ、少しだけ尊奈門の壁が壊れた。
不意に、尊奈門が立ち止まる。高坂も遅れて止まり、尊奈門を振り返る。
「その方は……きれいな方で」
尊奈門はこちらを見なかった。少しだけ頰を赤くして、ぽそぽそと呟くように言葉を続ける。
「少々乱暴ですけど、優しくて。私には遠い方で、でも、とても好きなひとです」
「どこの誰だ」
「言いません」
「尊……」
「絶対、言いません」
高坂を見返す目は、強く光っている。この目をした時の尊奈門は、誰が何を言っても聞かない。高坂も幾度となく向けられてきたから、わかる。
「そんなに好きか」
「はい」
尊奈門は、思い切る気などないのだ。尊奈門をよく知る高坂は、その目を見て、察した。
高坂と尊奈門は、長い付き合いだ。
だから、知っていると思っていた。良い所も、悪い所も。考えている事も。
実際は、彼をそれほど想う「好きな人」の見当さえつかない。雑渡も山本も、当然の様にわかっている顔をしているのに。高坂には、相手の輪郭さえつかめない。
「なら、もういい」
素っ気なくならない程度に、高坂が言う。尊奈門は、ほっとした様子だ。
「不甲斐ないな」
ぼそりと呟いた言葉は、幸い、尊奈門の耳には届かなかった。
「え、何か言いました?」
「何でもない」
無愛想に答えて、高坂はさっさと歩き出した。尊奈門が慌てて着いてくる気配に、少し安心する。
それもまた、情けなく思えた。
勝ちたい。
勝ち負けの問題ではないかもしれないが、高坂の頭に浮かんだのは、その言葉だった。
高坂は最初、尊奈門を自分のものにしたいとまでは思っていなかった。そこまで気持ちが育つ前に、誰かがこの気持ちを折るだろうと思っていた。忍軍のために、尊奈門のために。
だが、誰も高坂と止めてくれなかった。
雑渡も、山本も。頑なに相手を言わない尊奈門も。
今はもう、何もせず諦めようとは思わない。思えない。
尊奈門を傷付けるかもしれない。
それでも、もう止められる気はしなかった。
「あ、高坂さん。団子屋、混んでますよ。売り切れてないといいけど……って、どうかしたんですか?」
黙って尊奈門の顔を見ていた高坂に、尊奈門は不思議そうな顔をする。
「尊奈門」
「はい?」
「おまえも大変だな」
「へ? 何がですか?」
「これからの事だ」
高坂は薄く笑い、尊奈門の頭に、ぽんと手を乗せる。
そして団子屋へ向かって歩き出した。
あっけに取られた尊奈門が、はっとして追いかける。
「今日の高坂さん、何だかおかしいですよ」
追いついて来た尊奈門の言葉は、聞こえないふりをした。