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    nonono__2323

    @nonono__2323

    燐ニキ、五夏と夏五と羂五と羂夏の文章を置いておく場所

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    nonono__2323

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    過去に書いたりにちゃん 死体埋めあり DVあり R-18あり STARSあり

    過去りにまとめ【噛み癖】
    「じゃあ……よろしくっす」
    「お、おう」
     いつになく真剣に見えるニキに、燐音も思わず身構えた。これから始まることは単に戯れの一種で、なにもそんなに緊張することではないのだが。

    「僕、すきなひとのこと噛みたいタイプかもしれないっす」
     ニキがなんとなくそう言ったのは数日前のいつだったか、たまたまふたりだったから良かったものの、なんでいきなりそんな話をするんだと燐音もさすがに困惑した……困惑の理由としてその「すきなひと」が燐音のことだとわかっているからというのもあるのだが……。
    「噛みたいィ? 食う気満々じゃねえか」
    「いやいや、そういうんじゃないっすよ! ただ、こう、がぶっとしたいだけなんすよね……最近、燐音くんを見てると噛みたくて噛みたくてしょうがないんすよ」
     そんな目で見てたのか……と燐音は、しかし満更でもなかった。小動物の戯れみたいで可愛らしいじゃないか。それが恋人たっての希望とくれば、燐音としてはこれから是を寄越す以外の選択肢は無い。
    「別にいいぜ」
    「え、いいんすか」
    「食われるんじゃねえならな」
    「だから食べませんって! どんだけ僕は信用が無いんすか」
    「無いだろ」
    「ひどいっす〜」
     さて、早速オフの日に試すことになって、あれやこれや、あっという間に約束の日取りになった。今、燐音はニキと対峙しており、じり、と空気が些か張り詰めている。
    「どこなら噛んでいいすか? 万が一痕になっても目立たないところがいいっすよね」
    「どんだけ強い力で噛む気なんだよ……」
    「う、うで? にのうでとか?」
    「んじゃそこ」
     燐音は惜し気も無く着ていたシャツを脱ぎ捨てて、ん、とニキに二の腕を捧げる。ニキはその腕を恐る恐る取った。そして
    「そんじゃ」
     んあ、と口を開けた。口内が見えてちょっと気まずかった。
    「いただきます……」
     がぶ。
    「……ニキ」
     がむがむ、と歯を肉に柔らかく食い込ませるニキの、瞳は満足そうにてらてら光っている。ちらりとその視線が上がり
    「んぅ?」
     と曖昧な声を出す。ちょっと可愛いな、と胸をときめかせるも束の間、地味な痛みに徐々に襲われてきた。いや、これは、意外と痛い。
    「楽しいか?」
     ぷは、と口を一度離したニキが
    「楽しいっす!」
     ときらきらした笑顔で言うので、あァもうなにもかもどうでもいーや……、という自暴自棄な気持ちに若干なる。
     もう一度ニキが、今度は少しずらした場所をがむりと噛んだ。はぐはぐ甘噛みを繰り返して、んん、とか、うぅ、とか呻き声みたいな音を漏らしている。燐音はその間特にやることもなく、視線をぐるっと彷徨わせてから、もう一度ニキを見た。ほんとうに楽しいのかよ、こんなこと?
    「はぁ〜……」
     ニキがご満悦といった息と共に口を離して、にこ、と笑う。
    「ごちそうさまっす、燐音くん。こんな変なことなのに聞いてくれて嬉しかったっす」
     ……こいつのこういう素直なところは嫌いじゃない、し。
    「別に……俺っちとしても、悪くなかった、し?」
     視線をふらっと逸らすと、ニキが食い気味に
    「ほんとっすか!」
     と視界に入ってきた。
    「じゃあ、またやってもいいっすか?」
    「それとこれたァ話が別」
    「えぇ〜」
     露骨にしょぼくれるニキに、罪悪感を抱かないわけでは無い。燐音は大概ニキに甘い。
    「……たまにならいい」
     やったぁ、とニキは万歳のポーズ。ほんとうに小さな……否、大きな動物みたいな所作。
     二の腕をちらと見た。薄らついた噛み痕が、ニキから与えられたものなら悪くないなと思った。要は一種のキスマークみたいなものだし、それって愛の証だし? ちょっとだけ得意げになりながら、まぁ、すきなようにやらせてやろう……と思うのであった。



    【心配、儚い祈り】
    「燐音くんは器用に見えて、意外とドジっすよね」
     ニキが持ってきた救急箱をちらと見ながら燐音は、うっせ、とそっぽを向いた。目の前で持て余している手、人差し指からはじわり血が滲んでいる。
    「あ、結構血出てるっすね……痛くないっすか?」
    「ヘーキ」
     痛くないわけではない。痛みが堪えないというだけだ。痛みにはとうに慣れているが、ニキとしてはそうではないらしい。
    「消毒するっすよ」
    「は? いーよ別に……」
    「だめっすよ! 燐音くんはアイドルっすよ? 当主さまでもあるんすよ? そんなひとの手に傷痕が残ったらどうするんすか?」
     ニキはてきぱきと消毒液をコットンに染み込ませて、燐音の手をとって優しく押し当てた。滲みる。ちょっとだけ顔を顰めたのを目敏くニキが察知して
    「痛いっすよね、でも我慢してくださいね」
     なんで言いながら、ぽんぽんと傷と周りを消毒している。その度にちりちりとした痛みが身体まで走った。
     一緒に料理をしていたはず良いものの、うっかり指を包丁で切るなんてこと、こんな歳にもなって少し恥ずかしかった。きっと料理人のニキはそんなことしない。自分のことじゃないのにニキは顔をさっと青くして、わあわあ騒ぎながら心配をして、沸騰しかけている鍋の火元はしかしきちんと消しながら、消毒に至る。まったく、切り傷ひとつで大袈裟だな……と思わなくはないが、こうやって心配されるのは悪い気はしない。
    「絆創膏貼るっすよ」
    「いいって」
    「だめっす」
     もう絆創膏を取り出してしまったニキが、指にぐるっと絆創膏を貼る。そして、その指を慈しむように柔く握った。
    「燐音くん」
     祈るように顔に近づけ、指にニキの息がかかる。
    「こんなことしかできないっすけど、僕、ちゃんと燐音くんのこと心配なんすからね」
     目を伏せがちのニキ、表情は読めない。燐音はしかし、その声色に真剣さが含まれていることを理解して、茶化すのをやめた。素直なニキの気持ちは良い気すらする。
    「さ、とにかくこれで、今できることはぜんぶしたっす。また血とか出るかもしれないし、後の作業は僕がするっすから、燐音くんは待っててね」
    「まァ、衛生面的に手伝えねェわな……悪いな、ニキ」
    「なんすか、突然しおらしくなって。別に悪いことなんてないっすよ、気にしない気にしない」
     ニキは再びエプロンを巻いてキッチンに戻る。その姿を横目に追ってから、ニキが貼ってくれた絆創膏を見た。なんの変哲も無いただの絆創膏なのに、妙に愛おしく見えた。
    「燐音くん、待ってる間、なんか飲むっすか?」
    「ココアが飲みたい」
    「ココアね。燐音くん、ココアすきでしたっけ?」
    「ニキがいれるココアはすき」
    「急に素直になってなんすかも〜、痛みでおとなしくなっちゃったんすか? 燐音くんらしくないっすよ。まぁなんでもいいっすけど」
     ニキがキッチンで手際良く動いている。燐音はゆるりと座り込んだまま、つくつく痛む指とくつくつ煮えたつ愛おしさを、ゆっくり噛み締めていた。



    【晩年】
    「昔の数学者にさァ、すげえ疑心暗鬼なのがいて」
    「なんすかなんすか、難しい話っすか?」
    「晩年、自分の料理に毒が盛られんじゃねえかって疑って、自分の妻の飯しか食わなかったって逸話があんのよ」
    「えぇ……それはたいへんそうっすね……」
    「でさァ、俺っちがもしそいつと同じようになったら、ニキの飯だけ食うわけじゃん?」
    「うん?」
    「そしたら、けど、めちゃくちゃ幸せだよなァ……」
    「……うん?」



    【煙に巻かない】喫煙
    「りんねくん……」
     寝言で自分の名前を呼ばれることに、悪い気はしなかった。相手がニキだからだろうな、と燐音は窓をゆっくり開けて、ベランダに出た。ちらと見やったニキはまだすやすやと眠っているので、安堵。やはり起こすのは忍びない。
     手にしていた箱から一本煙草を出し、ライターで火をつける。すぅ、と軽く吸ってから、ふぅ、と細く吐き出す。肺を満たす煙の色など知らぬ。
    「ったく……」
     燐音は肩をぐるりと回しながら
    「悪役ってのは、肩が凝っていけねェよなァ……」
     なんて、独りごちた。
     煙草を吸うようになったのはここ数ヶ月のことだ。アイドルにまつわる日頃のどたばたでどうも、少なからずストレスが溜まっていたらしい。それを紛らわす手段として煙草を選んだのはたまたまだったが、これがなかなか燐音に合ったらしい。今では一日に数本ふかすようになった。
     とはいえ、燐音はニキの前では決して吸おうとはしなかった。いや、まぁ堂々と箱やライターは机上に置いてしまっているし、そもそも鼻のいいニキには臭いでバレてしまっているとは思うのだが。それでも、なんとなく、ニキの前で吸うことは憚られた。お小言を言われるのは別に良いのだが、一応ニキは未成年だし受動喫煙をさせるのもな、なんて適当な大人意識が、あったりなかったりした……そもそもニキの家で勝手に煙草を吸っている時点で申し訳なさを感じるべきなのだが……。
     はぁ、と息を上に向けて吐いて、夜空が目に入った。皆の上に平等にある空のうち、夜空は嫌いでなかった。星の輝きは都会なので故郷に劣るが、それでもちらちら見えるわけだし。
    「んん……りんねくん……?」
     ニキの声に振り返ると、むにゃむにゃと目をこすりながらニキが上体を起こしていた。そのぼんやりとした瞳に燐音のことを映したらしい瞬間に、ふにゃ、と表情を和らげた。
    「おうニキ、夢でも見てたのか?」
    「夢ぇ? んぁ、よくわかったっすね……りんねくんの夢っす……」
     だろうな、と言うと、なんで知ってんすか、と尋ねてくる。燐音はくっくと笑いながら、手元の煙草をどうしてくれようかと考えていた。
    「あ、やっぱり燐音くんだったんすね、煙草」
     ニキが外用のスリッパを履きつつ隣に立つ。手首に引っかけてあるヘアゴムでさらっと髪をいつも通りに結んでは、こてんと微笑んだ。
    「いやあ、上の階のひとに言われたんすよ。お宅蛍族? って」
    「蛍族?」
    「アパートのベランダで煙草吸うひとのことそういう風に言うらしいっす」
    「へェ」
    「僕は当たり前だけど吸わないんで、勘違いじゃないっすかね、って返したんすけど、もしかして燐音くんが僕の知らない間に吸ってるのかなって思ってたんすよ」
     意外とバレてなかったのかも、と燐音は、安心のような落胆のような心地を覚えながら、一服。ニキは副流煙にあまり嫌な顔をしなかった。てっきり「資本の身体が傷むのでやめてほしいっす」とか言うかと思ったのに。
    「燐音くん、煙草なんかに頼んなくたって、僕で良ければ話聞くのに」
     些か眠そうにニキが優しい表情を向けてくる。
    「なにがだよ」
    「はぐらかしてもだめっすよ。燐音くんがなんか、こう、ストレス溜めてるっていうか……そんなの見てたらわかるっす」
    「わかって堪るかよ」
    「僕にはわかるんすよ」
     まるで燐音のことならなんでもわかる、とでも言いたげな口調。ニキのくせに生意気だ、と鼻をつまんでやる。ふぎゃ、とふざけた声を上げたので、笑ってやった。
    「笑った」
     ニキが鼻をさすりながら嬉しそうに言う。
    「燐音くんは、そうやって笑ってる方がいいっす。なんか思い詰めてるんでしょうけど、あんま溜め込んじゃだめっすよ」
     煙草もほどほどに、と言い残し、ニキはいそいそと寝床に戻ろうとしている。
    「……やめるよ」
     ニキが部屋の中で振り返る。暗がりの中で星より煌めいて見える、ニキの瞳。
    「煙草」
    「うん、それがいいっす」
     ニキはベッドに潜り、おやすみなさあい、と言った。静かに眠ろうとしているので起こすのも野暮だ。燐音はとりあえず、適当に買った灰皿に煙草を押しつけて捻り潰しては、さて、それならニキに責任とってもらわなきゃな……なんて、部屋に戻った。素直に話なんてしてやる気はないけれど、そうだ、飯くらいしこたまつくってもらうか。



    【寂】
     今日も、月が落ちる。
     ニキはぎゅうとベッドの中で自分の身体を抱き締めて、まだ耐えていた。待っていた、燐音が来るのを。
     おかしな話である。ここはニキの家で、燐音は本来ならば来るはずない。なのに、いつも燐音は気まぐれに顔を出したりするものだから、ニキは少しだけ、期待してしまう。特に寂しい夜には。
     寂しさを紛らわせるために燐音の存在を要するなんて、自分でも笑っちゃうくらいおかしな話だ。けれど、燐音といると実際、不安なことも多いがなんでか安心するし、嬉しい。もうそのくらい、ニキは燐音に入れ込んでしまっているのだ。ひとの心に漬け込むのが上手いのか、ニキが絆されやすいだけなのか、なんなのかはわからない。
    「燐音くん……」
     届かない声をぽつりと放つ。空虚に向かって消えていって、寂しさが増した。眠れない夜に恋人でもない男の名前を呼ぶなんてどうかしている。どうかしていてもいいから、このどうにかなりそうな気持ちを、燐音に埋めてほしかった。それだけだった。



    【懺悔】
     天城燐音は頭がおかしい、とされるのも、無理ない話だったのかもしれない。奇行とも呼べる行いを散々しているのだ。だからって、こんな狭苦しいところに閉じ込めて表社会から排除……なんて。都会の人間は残酷だなァ、と燐音は遠く思った。
     それにしても、と、燐音はここ最近を共にした仲間のことを思い出す。その中でひと際輝きを増して記憶に迫る、ニキのことを思い出す。あぁ、ニキ、椎名ニキ、お前にももう、会うことはできない。
     ニキのことがずっとすきだった。アイドルになりたいと打ち明けた日からずっと、今まで寄り添ってくれた存在。誰よりも燐音を支えてくれた存在。なにもかも通り越して、ニキのことがすきだったのに。
    「まだ、なんにも謝れてねェのにさ……」
     ベッドの中で祈るように手を組んだ燐音は、虚ろに天井を見上げながら、こめん、ごめんな、と、届かない懺悔を繰り返す。



    【幻影でなくて、ずっと】
    「おぉ、海っすねー!」
     たったと駆け出したニキがご機嫌なのは、ついさっき昼食を済ませて満腹だからだろう。つまり、長く続かないのはわかっていた。それでも海ではしゃぐニキを見るのは嬉しかったし、なにより、ほんとうに可愛いと思った。
     燐音は声を飛ばす。
    「こらこら。怪我すんなよ?」
    「だいじょうぶっすよ、だいじょうぶ!」
     ぱしゃぱしゃ、とニキの素足が浅瀬を叩いた。水飛沫が眩く舞った。燐音は目を細める。ニキがさっき放り投げた荷物を柄にも無く回収してやって、脱ぎ捨てたサンダルはちょっと蹴っぽって。ニキは弱い波と戯れて、ひとりできゃっきゃとはしゃいでいた。まだ十代の子どもだもんな、と微笑ましくなった。
     出会った時からニキは無邪気で、人懐こくて、優しくて柔らかかった。燐音にとってニキが心を許し続けている相手であることは、ニキ自身にも秘密なのだが。だからこうしてふたりで出かけるし、それが心地良かった。
    「いつまでたっても変わんねェな」
    「ん、なんか言ったっすか?」
    「なんでもねェよ」
     くるん、とニキが振り向いた拍子に、しっぽ髪がくるんと軌道を描いて、それすら夏らしかった。愛おしい、と心の底から思った。
    「燐音くんも遊ぶっすよ」
    「俺っちはいーよ」
    「えー、一緒に来てほしいっす」
     眉を下げるニキ。これが計算でないから、ずるいと思う。燐音はサンダルを脱ぎ捨てて、熱々の砂浜を渡る。やっとたどり着いた海は冷ややかで、初めて砂の感触を味わった。ちくちくざらざらと、不快に快適だった。
    「燐音くん」
     ぎゅ、と手を取られる。不意の行動についびっくりして顔を向けた。そこにはにこにこした顔のニキがいて、かわいくて、
    「すきっすよ」
     ちょっとだけ、時が止まった。
    「……おう」
    「あーっ、なんすかその反応! 一世一代の告白だったのに!」
     両手を握ったままぷんすかするニキ。涼しい顔の燐音は裏腹に、鼓動がどっどと高まるのを止められなかった。だって、だって、こんなの夏の幻影としか思えない!
    「いつも燐音くんに先に言われちゃうんで、今日くらいは僕がーって先回りしたつもりだったんすけど……」
     握るニキの手がじわりと汗ばむ。掌の脈、どくどく。
    「……嫌だったっすか?」
     失敗だったすかね、と独りごちるニキに、掻き立てられる罪悪感。
    「そうじゃね、けど」
    「けど?」
    「……心臓に悪い」
     ニキはきょと、と瞳を見開いてから「なはは」といつもみたいに笑う。それが愛しくて堪らない、
    「余命減っちゃったっすか?」
     可愛くて堪らない、
    「減った。責任とれ、ニキ」
     もし叶うなら、
    「どうやって?」
     願わくば、
    「ニキ、この先も、」
     ずっと一緒にいてくれよ。



    【いつかの】死体埋め
    「つ……かれたっす……」
    「口動かさずに手ェ動かせ」
     燐音は手の甲で額の汗を拭いながら淡々と返した。ニキは、ぐぅ、とお腹が鳴る音を響かせながら、というかほぼ半泣きで、ざっくざっくと作業を進める。
     ふたりの目の前には、大きな穴。ひとがひとり入るくらいの穴に、実際ひとをひとり埋めるのだ、これから。別にふたりが殺したわけではない。ニキの嗅覚が察知した謎のにおいの元にきたら、この死体があったというだけ。その見ず知らずの死体について、ニキは通報だと言ったが、燐音はそれに反対した。何故か、埋めてやろうと言った。近くのホームセンターでシャベルを買って、今ふたりで、埋めている。
    「なんで僕らが埋めてやんなきゃなんないんすか〜」
     ニキがへにょへにょの声で言うので燐音は、ぴた、と動きを止めた。下半身だけ土がかぶさった他人の、その閉じられた顔を見る。
    「このままは、可哀想だろ」
     そう言ってまた続ける。今度はニキが手を止めた。きょとんと目を丸くしているので「なんだよ」と燐音は視線も寄越さず言う。
    「なんすか、燐音くんって、生きてるひとより死んだひとに情が湧くタイプ?」
    「ニキ、それは悪口か?」
    「あれ、そう聞こえたっすか?」
    「もういい」
     溜息混じりに燐音は、躊躇無く顔に土をかけた。ニキはそれに安堵したように呼吸を乱して、追随する。やはり最初に顔に向かって土をかけるのは憚られたらしかった。
    「もし」
     更けた夜はじめじめと暑さでふたりの肌を蝕む。
    「俺がニキより先に死んだら、誰も知らない場所にこうやって埋めてくれ」
     いつかの自分が辿っていたかもしれない運命をちくちくと心に携えながら燐音はどんどん作業を進めていく。ニキは
    「縁起でも無いこと言わないでほしいっす」
     と言うので「ひとはいつか死ぬだろうが」とぴしゃり、のつもりだったのだが。ニキはなにやらもごもご言い淀んでから、小さく言った。
    「……同じ墓に入るんじゃなかったんすか」
     燐音が顔を上げる。ニキはそっぽを向きつつ手を止めていない。むに、と頬が緩むのを感じながら、燐音はシャベルを放ってニキの肩を抱いた。
    「ニキきゅ〜ん」
    「うわっなんすか」
    「ん〜ん、俺っち、お前のそゆとこすきよ」
    「えーっなんでそうなるんすか!」
     燐音は笑った、ひとしきり笑った後、またシャベルを持った。その後はふたりとも無言だった。その知らぬひとを埋め終えて、そこが地面とまっすぐになるまで。
     ニキの腹がひと際大きく鳴る。こんな時なのに、否、こんな時だから腹が減る。
    「……ラーメン食いたくねェ?」
    「あ、食べたいっす! 盛り盛りのマシマシで!」
    「はは、結構結構」
     行くか、と燐音はシャベルと共にすごすご来た道を戻る。ニキが追ってきた。すっかりラーメンのことで頭がいっぱいらしかった。燐音は肩越しにさっきまでいたところをちらと振り返り、なにか過去を葬れたような勝手な心地を抱いていた。いつかの自分を、いつかの自分のように。
    「……なんてな、悪い」
     されど、死人に口無し。



    【クリーム】
    「燐音くん、唇切れてる」
     キスの狭間、ニキがふと言った。んぁ、と自分の唇に触れてみるが、よくわからない。わからないというのも考えものでは無いか、怪我をしているというのに。ニキの方が先に気がつくなんてどういうことだ。
    「だめっすよぉ、アイドルたるもの、唇まで気を使うものなんっすよね?」
    「それ、誰の受け売りだよ」
    「燐音くんっすけど」
     俺かよ……と惑うような嬉しいような。ニキが立ち上がって、棚の上に置いてあったなにかを持ってまた、前にどかりと座った。
    「いーってして」
    「いー?」
     言われた通りにすると、ニキの指が唇に触れた。
    「ニキ、」
    「うごかなーい」
     ぬるり、指の這う感触にしては滑りが良い。と、ここまできて、なにかクリームのようなものを塗られているのだと気がついた。リップクリーム? だろうか。
    「燐音くん、せっかく唇綺麗なんすから、大事にしてほしいっす」
     おしまい! と楽しそうなニキの声。唇がしっとり濡れているみたいだ。それだけならまだいいが、ニキに塗ってもらった、という事実に、落ち着かなくなる。
    「せっかくだし僕も塗ろっと」
     ニキの手を燐音はぱっと取り、
    「なんすか」
     きょとんとしたニキの瞳を覗き込む。
    「俺っちが塗ってやるよ」
    「え、いいっすよ」
    「遠慮すんなって」
     と、ぐぅと顔を近づけたところ、むぎゅうと顔に手が押しつけられた。
    「なにすんだ!」
    「こっちの台詞っす! 塗ってくれるんじゃないんすか?」
    「だから、塗ってやるよ」
     燐音は自分の唇を指差して言う。ニキはぽかんとしたが、数瞬遅れてかっと顔を赤くした。
    「なっ、に、言ってるんすか燐音くんのえっち!」
    「俺っちたちそもそもキスの途中だったっしょ? ニキも物足りないんじゃねェの?」
    「ぅ……」
     痛いところを突かれた、みたいなニキの顔。感情が素直に出てよろしい。
    「……キスしたら、ぜんぶとれちゃうっすよ」
    「そしたらニキがまた塗ってくれるだろ?」
    「しょうがないっすねぇ……」
     にま、と笑うとニキがむぅと唇を尖らせた。そこ目がけて距離を縮めて、ふわ、互いが香る。



    【だいすき】死体埋め
     深夜、ニキに珍しく外へ呼び出された。なにかあったのだろうな、滅多に無いことだしな、と燐音がその場所に駆けつけると、そこには座り込んだニキと、
    「りんねくん……」
     その前に倒れ込んだ、見知らぬ人間がいた。
    「どうした……」
     聞きながら燐音は状況を把握していく。倒れている人間はうつ伏せ、状況はわからないが、ぴくりとも動かない。一方のニキ、ぺたんと足を崩して、まるで脱力したかのような座り姿。ぼうっとした顔、その口元には
    「あー……」
     血が、ついていた。
    「どうしよ、燐音くん、僕」
    「なにも言うな、ニキ」
     その人間の首元にも同じく血がついている……正確には流していたのだが……を確認して、燐音は一瞬頭を回した。そしてすぐその人間を俵のように担ぎ上げる。ニキは困ったように見上げてきた。
    「どこ行くんすか」
    「山」
    「山?」
    「埋める」
     ニキはなにも言わなかった。言えなかったのかもしれない。とにかくゆっくり立ち上がって、袖で口元を拭った。びぃと血が伸びたので、燐音が反対の手で軽く拭い直してやった。ニキは、ありがと、と小さく言う。明らかに覇気が無かった。
     ひとの通りが少ないとはいえ、警戒しながら道を進む。ニキは黙って三歩ほど後ろをついてきていた。燐音もずっと無言だった。でも時々ニキが「あの」とか「えっと」とか言いそうになったから「なんも言うな」と燐音が制した。なにも言わなくても状況くらいわかった。
     それにしてもまさか、ほんとうにひとを食うとは。
     空腹になるとなにをするかわからないニキとはいえ、そこまでの禁忌に踏み込むことはないと思っていたのだが……思い違いだったのか、今回の空腹がよほどだったのか。燐音にはわからない。
     鬱蒼とした森を抱く山道に入る。ひと気の無さそうな脇道にそれて、燐音はそこにどさりと死体を放った。
    「ほんとに、埋めるんすか」
     ニキの怯えたような声。無理もない。
    「そうすりゃ、共犯だろ」
     ニキが、く、と息を呑む音がする。共犯というワードに震えたらしい。日常では馴染みの無い言葉に違いなかった。
     ふたりでホームセンターに大きなシャベルを買いに行き……庭仕事の話を適当に振ったので怪しまれることは無かった、と思う……またさっきの場所に戻った。そこには相変わらず死体があった。道中、起きてくれと何度か思ったような、思わなかったような気がした。いまになってもやはり目が覚めてはいないようだったし、確認したらちゃんと脈も無かった。
     片方のシャベルをニキに渡し、ふたりで黙々と穴を掘った。ニキが鼻を啜る音が何度か聞こえたので、泣いているのだと思った。怖くて堪らないのかもしれなかった。燐音とて怖くないわけではなかったが、ニキがそばからいなくなるかもしれないことの方がずっと怖かった。
    「燐音くん」
     燐音が今一度死体を抱えて穴の中に置いた時、ニキがぽつりと口を開く。
    「……なんでもないっす」
     燐音は容赦無くまず顔に土をかけた。ニキがひゅっと息を止めた気がした。ニキも重ねて土をかけたので、着々と作業は進んでいった。あっという間に元の姿と見紛うこともなさそうな……最も暗闇なのでよくわからないのだが……姿になった。
     は、と燐音が息を吐く。
    「これで、ほんとに共犯っすね」
     ニキの言葉に、そうだな、と返した。ニキはよろよろと燐音に近づいて、倒れ込むように抱きついてきた。燐音はそれを受け止めて、優しく背中を撫でてやった。ニキは息を引き攣らせながら、背中に腕を回してきた。
    「だいじょうぶ、共犯だからな、ニキ」
     燐音の言葉に、ニキはそっと頷いて、笑った。

    「ありがと、燐音くん」



     ほんとは、食べてなんてないっすけど。でも、そのひとの首元と僕の口元に血がついてたら、燐音くんは絶対そうだって思ってくれるってわかってたから。

     僕、試したかったんすよ。燐音くんのこと。ごめんなさい。でも、燐音くんは、僕がほしかった以上のものをくれたんで。僕としては満足っす。

     それに、僕らはもう共犯なんで、もし捕まったとしても燐音くんと一緒なら嬉しいっす。独房、近くだと良いっすね。

     だいすき。



    【見つけて、見つけないで】死体発掘
    「桜の樹の下には死体が埋まってるらしいっすよ」
     夜、相変わらずニキの家に居座ってくつろいでいたら、ニキが突然そんなことを言い出した。燐音はちょっとだけ顔を起こして
    「なんだそれ」
     と顔を見てみる。ニキはなんてことない表情でいる。
    「なんかー、こはくちゃんの読んでた本に出てきたらしいっす」
    「えらく物騒なモン読んでるのな」
    「ほんとっすよねー、どうせなら食べ物が埋まってたら良いのに!」
    「ニキはいっつもそれだよなァ……」
     呆れがちに起き上がると、ニキがずいっと身を乗り出して燐音に顔を近づける。
    「なんでも、桜が綺麗なピンクなのは、死体の血を吸ってるかららしいんすよ」
    「随分とオカルトじみてんなァ」
     そんなことを素直に信じているのかニキは、怖いっすよねぇ、と自分の身体を抱えるようにして。少し愛らしい。
    「よーし、確かめに行くっす」
     ニキが飯のこと以外では珍しく意気揚々と立ち上がった。
    「死体を?」
    「そうっすよ」
    「なんでだよ」
    「だって、僕らが普段のほほんと見てる桜の樹の下に死体があったらなんか、気味悪いじゃないっすか〜」
     今はもう夏だから次に桜を拝むのは半年以上後のことだが、そういえばこの敷地内には桜の樹があったっけ。
    「シャベルとかあんの?」
    「冬に雪かき参加させられた時のが一個だけ」
    「んじゃそれ使うか」
     靴箱の中に立てられていた大型のシャベルをニキは持って、燐音もそれについていく。外はむしっと暑かったし、ニキが暑いっすねぇと言うから尚更だった。エレベーターで下まで降りて、樹のある方に向かっても、誰ともすれ違わなかった。こんな暑い夜には誰も出かけないのだろう。それだけの話なはずなのに、今日だけはなんだか不気味だった。
     樹の下まで来て、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。死体なんてあるはずないのに。ニキの戯れに付き合うのは良いが、肉体労働はごめんだ。
    「よしニキ、任せた」
    「わかったっす!」
     ニキの頼りになるガッツポーズ。そこから遅れて、こて、と首を傾げた。
    「え、燐音くんはやんないんすか?」
    「俺っちひ弱だから〜」
    「なに言ってんすか……」
     本気で呆れたようなニキの声。燐音は小石を蹴る。ざく、と土を刺す小気味良い音がした。ニキが一生懸命に根元を掘っているらしかった。燐音は、別についてくることなかったな、と今更思った。わざわざこんな暑い中、外に出ることなんてなかった。まぁ今から戻るのも変だし、適当に花壇でも眺めているか……、と、
    「うぉっ」
     ぐい、肩を掴まれた。
    「燐音くん」
    「んだよびっくりしただろ」
    「あったっす」
    「なにが」
    「あったんすよ」
    「なにがだよ」
     これ、と指差したニキ、その先に視線を向ける。ぎょ、と顔が強張った。
    「……マジ?」
     土色の顔面が埋まっているそこを、ふたりで黙って凝視した。しばらくして同時に顔を見合わせて、ニキが先に、えぇ、と惑いげな声を出した。
    「ま、まじっすか……」
    「人形、かもしんねェし……」
    「そっすかねぇ……え、でも、どうやって確かめます?」
    「それでつつきゃいいだろ」
    「え、触るんすか」
    「んじゃ他にどーすんだよ」
    「そうっすけどぉ」
     しん、と謎の沈黙。燐音も同調した身として罪悪感は多少ある。まさかほんとうにこんなものが見つかるとは思っていなかったわけで。
    「つ、つっつくっすよ」
     ニキが柄の端を持って、なるだけ離れたところから、つん、と触れた。がらんと音がしたと思ったら
    「うわあ〜〜ん」
     燐音に泣きつくよろしく縋ってきた。
    「んだよいきなり!」
    「なんかぶにゅってしたっす〜〜」
    「うげェ……」
     マジもんかよ、と燐音もさすがに顔を顰める。ニキはえぐえぐ泣いているみたいにしながら、無理ぃ、とめそついている。
    「じゃあ、じゃあ僕たちあれっすか、今年の春とか、あのひとの血の色をした桜を見て綺麗だって言ってたんすか? 嘘でしょ?」
     その話を掘り返すか、今? 燐音は肩を竦める。
    「その話は文学の比喩表現だろうよ……なァニキ、とりあえず」
    「そ、そうっすね、落ち着きましょ」
     まだなにも言ってないが。
    「すー、はー……ふぅ、ちょっと落ち着いたっす」
    「だいじょうぶか?」
    「燐音くんも僕の心配とかするんすね」
    「さりげなくディスんな」
    「とにかく、埋め直しましょ」
    「は?」
    「え?」
     顔を見合わせる。
    「いや、死体を見つけたら警察に通報だろ、普通」
    「燐音くんが普通とか語んないでほしいっす。いや見なかったことにすれば良いじゃないすか、見つからなかったのなら無いと同義っす!」
    「無茶苦茶言うなァ……」
     じり、と視線をかち合わせる。ニキは目先の面倒を避けたいらしい。ふむ、と燐音は考えた。
    「ま、埋め直して秘密にしとく方が、スリルあるよな」
    「スリルなんていらないっす〜」
    「んじゃ通報だ。謎の死体を見つけて事情聴取を受けるアイドル〜ってな」
     けたけた笑うと、笑ってる場合じゃないっすよ〜、とニキがわたわた暴れている。暴れている場合でもない。しかし実際どうするか。
    「ニキ、真面目な話そんな様子じゃ、秘密にできないんじゃねェの?」
    「う……」
     ニキが眉を下げる。
    「いや、ちゃんと秘密にするし、怪しくないようにするっすよ……」
    「マジでできる?」
    「できるっす、するっす」
    「じゃ、これは俺っちとニキだけの秘密にすっか」
    「するっす、できるっす」
     ふん、と鼻息荒くニキが両手を胸の前でぎゅっと握る。燐音は、よし、と小さく言ってからシャベルを手にして、土を丁重にかけた。できるだけ丁寧に作業をした。痕跡がなるだけ残らないように……といっても限界があるので、他の場所を無意味に掘っては埋め直すとか、隠蔽っぽいことをしてみる。その間ニキはずっと「はわ……」「うぅ……」とか弱気な声を漏らしていた。歳上として、ニキのことを守ってやらなければいけない気がした。
     守りたいなら、法に従うべきだったのか?
     我々は、今後なんの罪で裁かれ得るのか?
     否、世の中賭けだ。
    「帰るぞ、ニキ」
    「も、だいじょうぶなんすかぁ?」
    「たぶんな。明るくなったらまた見にくる」
    「わかったっすぅ……」
     ぐぎゅるる、とこんな時でもニキの腹は鳴る。消耗したのだろう。ニキがふらふらと「なんかつくるっす……」と建屋に吸い込まれていくのについて行きながら、ちら、と先ほどの場所を見た。
    「見つからないなら無いと同義、ねェ……」
     ぽつりとした呟き。さっきのニキの言葉が妙に心に残る。
    「アイドルだって、そんなもんかもなァ」
     なーんてな! 燐音は心の中で笑い飛ばしてからニキを追う。この賭けがどう出るかなんてわからなかったが、ニキのためにも、上手くいくと信じるしかない。



    【情】
     燐音にはたまに、ニキのことがわからない。
    「猫がしんだんすよ」
     さっき出て行ったばかりのニキがそう言いながら家に上がった。
    「猫ォ?」
     と燐音が怪訝な顔をする。ニキの手にはプラスチックの皿、その上に盛られた茶色っぽいが美味そうな飯……話の流れ的に猫用なのだろうが……。野良猫っすよ、とニキが靴をぽいぽい脱いでキッチンに直行する。
    「よくそのへんにいたから、たまにエサやってたんすけど。今日見たらしんでました。ありゃ車に轢かれたんすね」
    「可愛がってたんじゃねェのかよ」
    「まぁ、そうっすけど」
     ニキの背中ばかりが見える、表情は読めないが、こういう時は大概泣きたいものだと燐音も察せるし、そこは茶化すところでないと思っている。
    「……別に、泣けばいいだろ」
     ニキはきょとん、とした顔で振り向いて、にへらと笑った。
    「いやぜんぜん、涙なんて出ないっすよ。涙腺はインクの切れたペンみたいにすかすかっす」
    「じゃあなんでそんな、寂しそうなんだよ」
     ニキの瞳が少し切なげに細められた。美しい水色だった。
    「寂しいことと涙が出ることは別っすよ」
     どうもエサを処分するらしかった。さすがにそれは食わねェのな、と軽口を叩ける雰囲気では無かった。だから代わりに、尋ねてみる。
    「なァニキ、俺が死んだら、寂しいか?」
    「そうっすね、きっと寂しいっす」
    「どうせ泣いてはくれないんだろ」
    「いやぁ、燐音くんは猫じゃないんで」
     燐音にはたまに、ニキのことがわからない。



    【かまって】
    「ま〜た観てるんすか」
     ニキが帰宅して開口一番そう言った。燐音は、おう、と顔を一瞬本物のニキに向けてから、画面上のニキに戻す。
     燐音が観ているのは、ニキが出演した料理番組だった。陽気な語り口でワンポイントを紹介しつつ雑談に花を咲かせる、お茶の間の人気者……らしい。ネットでそんな風に見た気がする。
    「ほんとすきっすよねぇ、その番組」
    「番組じゃねェよ、ニキがすきなの、わかる?」
    「へーへー、そっすね」
     ニキはそっけなく、洗面所で手洗いうがいを済ませてから
    「つか、なんでいつも当たり前のように、うちで観てるんすか?」
    「いいだろが、別に」
    「良し悪しの話じゃなくて、なんでか聞きたいんすけど」
    「ニキの家が快適だから?」
    「あーはいはい」
     つれねェの、と燐音は、食材の片付けをするニキを横目に、また画面に目を向ける。画面の中ではニキが、手際良くにんじんをカットしながら「にんじんって切るのむずいっすよね〜僕も最初は苦労したっす」なんて言っている。コメンテーターのような誰かに「椎名さんにもそんな時代があったんですね」なんて問われると、なははと笑って「当たり前っすよ〜」とあっという間に丸々一本のにんじんがナントカ切りになっている。まったく、実際に見たことなかったら魔法かなにかと見紛うほどの手つきだ。
    「燐音くん、どうせなんか食べていくんでしょ、なに食べたいっすか?」
    「ん、ハンバーグ」
    「いいっすよ。ちょうどお肉安かったんで」
     まったく、優しいんだかつれないんだかわかったもんじゃない。燐音は番組の中で調理されているピラフを眺めながら……というか正確にはニキを眺めているのだが……肩をすくめた。
    「燐音くん」
     ん、と燐音は半分テレビに意識をもっていかれながら返事をする。
    「……なんでもないっす」
     画面上のニキがフライパンで勢い良く米を炒め上げているところで、止まった。燐音が一時停止をしたのだが、リモコンを置いて立ち上がる。
    「ニキ」
     キッチンにいたニキの手を捕まえて
    「なんすか、」
     ぎゅ、と抱き締めた。
    「え、なんすか、マジで」
    「いやァ……」
     燐音はニキのふわふわの髪の中に鼻を埋めながら嬉しそうに言った。
    「俺っちのお嫁さんは可愛いなァと思って?」
    「はぁ〜〜?」
     抱き留められたニキはなすすべなくといった様子でそこにいる。まぁ、抱き締め返してくれることは期待していなかったが。
    「意味わかんないっす、ほら、ご飯つくるんでどいてください」
    「ニキさァ、俺っちが現実のニキより録画の方に夢中だから、妬いたんだろ?」
     上から顔を覗けば、か、と高いところが赤らんだのがわかった。なんてわかりやすいんだろう。ニキはぱっと顔を上げて、わなわなと唇を震わせながら見つめてくる。
    「な、え、いや」
    「ごめんなァ、お嫁さんほったらかしてテレビなんか観て。寂しかったろ?」
    「んぃ……」
     ニキは鳴き声みたいな音を漏らして燐音の胸に顔を突っ伏す。耳まで真っ赤で愛らしかった。燐音はぽんぽんと背中を叩いてやり、かわいいなァ、ともう一度言った。
    「これからはちゃ〜んと現実のニキに構ってやるから、な? 機嫌直してくれよ」
     ニキは返事の代わりにかぎゅうと燐音を抱き締めた。それがあんまり可愛くて燐音の方がどうにかなりそうだ。これからは、ニキが帰ってくる前に録画は観終えておこう……なんてことを考えて、ニキのことを今一度抱き締める。



    【重荷】DV
     想像以上に、旦那というのは重荷だった。ニキと結婚してから、そればかり考えていた。
     たぶん、刷り込みなのだと思う。旦那様はこうあるべきだ、に囚われすぎているのだ。そもそもニキに言わせれば「僕たち対等なパートナーなんすから、旦那とか嫁とかそういうのやめません?」ということらしいが、どうも、この観念は抜けない。
    「りんねくん……」
     ぐったりしたニキの声で我にかえった。見下ろしたニキは目を伏せてそこに仰向けでいた。その上に燐音は馬乗りになっていた。燐音は、何故かじんじん痛む自分の拳を、見る。
     なにを、していた?
    「なに、かんがえてるんすか」
     唇の端が切れているらしいニキの、か弱い声。血がじゅぐと溜まっているところに、唾液が泡立っていた。
    「ニキ……」
     ニキは裸で、ぼろぼろだった。手を顔横に放って脱力した形、それを繋ぐ腕は青紫の痕にまみれていた。否、腕だけでない。腹も、脚も、頬にさえ、ニキはその不気味な色を携えていた。
     虚ろな瞳が燐音を捉えた。ちち、と焦点の合う音がして、ニキが右頬だけで笑う。
    「僕のこと?」
    「……ニキ」
    「ん、なぁに」
     燐音は握っていた拳を開く、掌に食い込んだ爪の先、滲んでいる血。手の甲を見れば、第二関節のあたりはひりひりと皮が剥けている。
    「痛そう」
     ニキの手がそろそろと伸ばされて、燐音の手の甲につんと当たる。ひどく冷たい指先だった。
    「りんねくん、だいじょうぶ?」
     ニキの方こそ……と言おうとして、鼻からなにかが垂れたので慌てて拭った。血だった。ニキが息だけでちょっと笑う。
    「興奮しすぎっすよ……」
     それが性的な意味でないことは燐音にもよくわかった。アッパーになりすぎた故の鼻血だと、ニキは教えてくれている。それにしたって、そんなにアッパーになるほど、なにをしたんだ?
     この状況から察せられることはひとつだけ。
    「……俺が、ニキを殴ったのか」
     ニキは是も否も寄越さずに、非対称に微笑んでいる。青痣を携えた左頬が上手く動かないらしい。
    「また記憶、飛ばしちゃったんすね」
     また? 燐音は微動だにできない。
    「りんねくん、僕を殴ってる時のこと、いつも覚えてないっすから……」
     ど、ど、と鼓動が速る。冷や汗が全身から噴き出る。どうして、そんなことを、してしまっているんだ?
    「りんねくん」
     ニキの手が燐音の頬に伸びる。やはり冷たくて、ついその手を取った。ニキがびぐりと身体を震わせたが、すぐ弛緩した。
    「すきっすよ」
    「……ニキ、どうして」
    「どうしてもこうしても、りんねくんがすきなんすよ」
     こんなことをしたのに?
    「僕、いいお嫁さんになりますから……」
     ニキの言葉はそこで止まる。燐音が身体を倒してニキを抱き締めたからだ。ニキの呼吸がひゅっと止まったのは、身体を圧迫されて痣が痛むからだろう。燐音はそれを気にするべきなのだろうが、気にできなかった。ただ、ニキを抱き締めなければいけない気がした。
    「……ごめんな、ニキ、ごめん」
    「ん、謝らない」
     ニキの手が不器用に燐音の頭に添えられる。涙が出そうになる。きっと泣きたいのは、ニキの方なのに。
     こんな結婚生活、望んでいなかった。どうして殴っているのかも燐音自身にはもうわからない。こんなのって、あんまりひどい。
     なのにニキと一緒にいられることだけはひどく嬉しくて、自分勝手だと思った。



    【泡になる青】心中
     ニキの瞳の色みたいだ、と燐音は思った。青を帯びた美しい光に射された肌が、水のゆらめきを利用してぬらぬらと波打つ。
    「燐音くん」
     ニキが口を開くとそこからあぶくがごぽりと溢れた。音がまっすぐ聞こえるのも、呼吸が苦しくないのも、なにも不思議に感じなかった。当然のように享受していた。だってここは、夢みたいな海の中、海みたいな夢の中。そのことを燐音はわかっていたし、ニキもきっとわかっていた。
    「燐音くん、なに、その顔」
     ニキがぷくぷく泡を出しながら笑って、燐音の頬に手を触れさせた。あったかい手だった。燐音はそれを強く握り返した。ニキが、痛いっすよぉ、とけらけら言った。嫌そうではなかった。
    「ニキのこと考えてた」
    「そう?」
     ニキの瞳は、しかしこの水底に射している光より美しかった。空とも海とも違うまっすぐな淡い青。何度も見てきたはずなのに、こう改まって対峙して見つめると、緊張する。こんなに綺麗なものが眼窩に嵌っていたなんて、それを今まで見逃していたなんて。
    「……もったいねェよなァ」
    「んぃ? なにがっすか?」
    「こっちの話。んで、ニキ……」
     うん、とニキはいつかのように優しく言う。ニキの相槌は優しく、温かい。燐音は、自分すら包み込んでくれる慈悲深さを感じて、少し泣きそうになった。
    「俺でいいのか」
     ニキは、なはは、と快活に笑って、両頬に手を添えてきた。
    「何度言わせるんすか、燐音くん。僕は燐音くんがいいんすよ」
     じわ、と鼻の奥が研ぎ澄まされる。ニキにどれだけ甘えてきたかもわからないのに、まだ甘えようとしているのに、ニキはただそこで微笑んでいる。
    「もう、離れたくない」
    「ぐずらないで、燐音くん」
    「ぐずってねェし」
    「よしよし」
     ニキが抱き締めてくれたので、抱き締め返した。手で掻いた水は生温かかった。ニキが、燐音くん、と耳元で小さく言うのに、うん、と子どもみたいに返した。
    「来世でも、僕のこと見つけてくださいね」

     ふたり、泡になって、水に消える。



    【愚かに、きちんと】DV
     ふわ、と視界が明らんだ。見えたのは天井だった。燐音は、寝ていたんだな、とくぁとあくびを噛み殺して、起き上がる。身体が妙にぎしぎししていた。
    「あ、起きました?」
     ベットの横から飛んできた声に目を向けると、ニキがいた。半裸のニキは、二の腕にぐるぐると包帯を巻いている。よく見れば、腹や胸にも包帯が巻かれていたり、絆創膏が貼られていたり、ニキの肌が見えないほどだった。
    「……なに、してるんだ」
     ニキは、なはは、と少し困ったように笑う。
    「すみません、でも跡が目立つといろいろ厄介なので」
    「跡?」
    「……うん、いいんすよ、思い出さなくて」
     ニキが器用に包帯を巻き終えてから、ベッドに上がって燐音に近づく。
    「燐音くんもそこ、消毒しときましょ」
     そこ、と指差されたのは、手の甲だった。厳密には指の関節、皮がずる剥けたようにひりひりと赤らんでいた。燐音は、ぱち、と目を瞬かせる。
    「なんだ、これ」
    「いいからいいから」
     ニキがコットンに消毒液を染み込ませているのをぼうっと見ながら、記憶が蘇るのを感じた。
     この手は、ニキの腹に食い込んだ。
     この手は、ニキの胸を殴打した。
     この手は、ニキの腕に悲鳴を上げさせた。
    「ニキ、」
    「ん?」
     殴ったのだ、と自覚してから合わせる視線は気まずくて、申し訳なくて、燐音はすぐ目を逸らした。ニキは気にした様子もなく、燐音の手を取って、柔らかく言い始める。
    「燐音くんは、だめな僕をきちんとさせようとしてくれてるんすよね」
     燐音の傷にじゅうと消毒液が滲みて、ちりりと痛かった。けれど、先にニキへ与えた痛みは、きっとこんなものじゃない。それなのに、ニキはなにを言っているんだ?
    「わかるっす。僕ってダメダメだから……燐音くんから見たら僕なんてなにしたってダメっすから……」
     ニキは絆創膏を器用に指に貼ってくれては、
    「燐音くん、優しいね。僕のこと見捨てないでくれて、ありがと」
     にこ、と笑った。燐音には、それが理解できなくて、なにも言えなかった。
    「よし、お腹空きましたよね? なんかつくるっすよ」
    「ニキ……」
    「なんすか?」
     立ち上がったニキが振り返る拍子に、下ろした髪がふらっと揺れる。
    「……ごめんな」
    「謝らないで」
     ニキは再びベッドに上がって、燐音を抱き締める。ぎゅう、と力を込められて、包帯の匂いとニキの汗の匂いが混ざり合った。
    「燐音くんは、なにも間違ってないっすよ」
     ニキのそれはそれは優しい声色。どうしてこんな慈悲を受け取っているのだろうか?
    「むしろ、僕の方がごめんなさい。燐音くんにばかり重荷に思わせちゃってるっすよね」
    「俺は……」
     重荷なのは、そうだ。けれど、それは燐音が勝手に感じている負担で、ニキが謝るようなことではない。そう、ニキが悪いなんてこと、ひとつも無いのに。それなのにニキに暴力を振るう自分の愚かしさで、涙が出そうになる。
    「燐音くん」
     ニキの声に顔を上げた。ニキがふわりと、目を細めた。
    「だいじょうぶ、すき、すきっすよ」
     身体を離したニキはそのまま立ち上がり、そこに放ってあったTシャツを着た。そしてきっとキッチンへ去って行った。追うことも呼び止めることも、だからといって他になにも、できない燐音がただそこにいた。



    【好きな男の名前腕にコンパスの針で書いた】
     ただいま、と言っても、返事が無かった。声が届かなかったのだろうか、いつもなら「おかえりっす!」と玄関まで出迎えてくれるのに。キッチンでよほど集中しているのか、それとも寝ているのか。まぁいいか、と部屋に上がり、リビングに向かう。
     ニキが、ローテーブルに突っ伏して、寝ているのだろうか。ぐったりと身体を横たえてしまっている。体調でも悪いのか、はたまた腹が減ったのか。
    「どした、ニキ……」
     ふ、と鼻をついた香りに燐音はぞっとした。これは、血だ。おい、と肩を掴んで揺するとニキがふらりと顔を上げて、青痣残る頬で力無く微笑む。
    「おかえりなさい、りんねくん」
     そこから燐音が少し焦点を向こうに、伸ばしたニキの右腕が、真っ赤に染まっている。その腕を取るとニキが痛そうに呻いたので、すぐ離した。掌にニキの血がついた。
    「……なにがあった」
    「ん、いや、なんも?」
    「んなわけねェだろ! この怪我……」
    「怪我じゃないっすよ」
     ニキが身体を起こしたところに、カッターナイフが置いてあった。刃が出っ放しのそれは、腕と同じ赤に塗れている。ぞ、と悪い予感が過ぎる。
    「ニキ、まさか」
     自分でやったのか? それが聞けなくて口籠った一瞬で、ニキがふらりとそこに視線を移した。
    「これは、キメイっす」
    「キメイ?」
    「名前を書いたんすよ」
     記名か、とよく見れば……名前が記してあった。確かに「天城燐音」と、腕に、血塗れで、傷で、書いてある。何故そんなことを、何故燐音の名前を、と問いたいことは様々あったが、燐音の口からは
    「馬鹿じゃねェの……」
     と、息みたいな言葉だけが漏れた。ニキの腕の上で、天城燐音、という傷跡と、それを覆うように血が、きらきらと輝いている。
     ニキは、なはは……と儚げに笑う。
    「燐音くんはよく言うじゃないっすか……お前は俺のものなんだからって……あ、殴ってる時なんで覚えてないっすよね……」
     つ、と背中に冷や汗が伝う。俺のせいなのかと心音が加速する、嫌な風に。
     そもそもニキは、燐音の「もの」ではないのに。
     ニキはなんてことないように、しかしいつもより少し枯れた声で、続ける。
    「それで、僕が燐音くんのものだってわかるように、名前を書いたんすよ。ちょっと、痛かったっすけど……」
     手をむすんでひらいて、力が入っていないらしいニキの右手。それなのにニキ
    燐音を見て、ふらり、目を細めた。その瞳には光が決して射し込まない虚ろさがあった。
    「僕のことちゃんと管理してほしいっす、ね、旦那様……」
     痛々しい声を掻き消すようにニキを抱き締めた。なんすかもう、とニキはけらけら笑った。
     自分が壊れてしまったことにも、ニキはもう、気が付けないらしかった。



    【平行線、またはやっとのカミングアウト】アセク
    「燐音くん、僕、ずっと言いそびれてたことがあるんすけど」
     食後、ニキが改まって燐音に向かい合うので、燐音もきょとんとしてしまった。
    「んだよ、ニキらしくねェの」
     実は、とニキの前置き、少しの間。
    「僕、性欲無いんですよね」
    「は?」
    「たぶん、食欲に欲求全振りしちゃったのかも。性欲が無いんす。ってか、性欲がなんなのか、わかんないんすよ」
     どういうことだ? そう思ったのでそれをそのまま口に出した。ニキは首を傾げる。
    「どういうもなにも……ただこう、セックスに必要性を感じないっていうか」
     つまり……いわゆるノンセクシャルとか、アセクシャルとか、その類だなと燐音は最近つけたばかりの知識を総動員する。恋愛感情はあるが性欲が無いもしくは著しく少ないのがノンセクシャル、恋愛感情も性欲も無いもしくは著しく少ないのがアセクシャル。
    「あ、燐音くんのことはちゃんとすきっすよ? でもだからってキスしたいなーとか、セックスしたいなーとか、ぜんぜん思えなくて……」
     ノンセクシャルか、と燐音はひとりで納得する。この単語をニキが知っているとは思えないのであえて口にはしない。燐音は整理のためにとりあえず既存の定義に当てはめることにしたが、別にニキのセクシャリィがなにか言葉に定義されなくても構わないと思ってはいる。
     ニキは困ったように眉を下げている。
    「これっておかしいんすかね?」
     なるほど、ニキ自身も現状に困っていたのか。燐音はとりあえず
    「おかしくはねェけど……」
     と返しておく。するとニキはほっとしたように顔を明るくした。
    「ほんとっすか? それなら良かったっす。安心」
     安堵の色の強い表情。燐音は恐る恐る、尋ねてみた。
    「……ニキ、セックスしたくねェの?」
    「まぁ、そうっすね……だってセックスしてなんになるんすか?」
    「なんになるわけでもねェけどさァ……んー、ま、ここはたぶん平行線だな」
    「燐音くんはわかるんすか、性欲」
     わかるというか、普通にある。肯定を寄越すと、ニキはずいっと身を乗り出して顔を近づけてきた。
    「どんな感じなんすか? 人間相手にムラムラするーみたいなのって」
    「そう聞かれてもわかんねェよ」
    「そっかぁ。なんか僕ら、ぜんぜん違う人間なんすね」
     そんなの当たり前の話だと思うが。まぁ、確かにそうだなとも感じる。こんな近くにそういう存在が……いわゆるセクシャルマイノリティが……いるとは思っていなかったわけだし。
     ……つまり、この先ニキとセックスすることは無いんだな、と燐音はふと理解した。ニキに無理強いはさせたくはない。けれど、付き合っているわけだしてっきりいつかするんじゃないかと思っていた。肩透かしを食らったようだ。
     ニキは腕を上にのびのびとしながら、
    「あー、言えて良かった。他にこんな話できるひといなかったから、嬉しいっす。聞いてくれてありがと、燐音くん」
     にこっと笑った。燐音は、とりあえずこいつのこの笑顔を守らなきゃなァ……なんてことを考えた。同時に、これから抱く性欲の行き場を少し考えては、小さく途方に暮れもした。いや、ニキは決して悪くないのだが。



    【星になる】
     出動前はいつも、気が張った。これから命を賭した戦いをするのだから、燐音としては気乗りして堪らないのではないかと思われがちだが、思いの外ナーバスだった。自分が賭けをするのはまだしも、仲間を同じ危険に晒すのが、徐々に本意でなくなってきたのだ。
     特にニキを……無理やりアイドルに引き込んで、こんな戦争ごっこに巻き込んでしまったニキを、命懸けで戦わせることが。
     と、と床を蹴る音がして、コクピットの中の燐音は顔を上げる。
    「燐音くん、緊張してるんすか?」
     ふわ、としっぽ髪を揺らしたニキが、すぐそこに浮いていた。ニキは出動前に決まって燐音のコクピットに来て、ひと言ふた言交わしてくれた。それは燐音の迷いを断ち切らせるためでもあったかもしれないが、なによりニキも、緊張しているのかもしれなかった。
     燐音はつい
    「っ、馬鹿、ンなわけ……」
     と噛み付くが、ニキはなははと気にしてないように笑う。
    「そうっすよね。あの燐音くんが緊張なんかするわけないか」
     けらけら言うニキを見てると、虚勢を張るのも馬鹿馬鹿しい。燐音は俯いて、ちょっと言う。
    「……ほんとはしてる」
     ニキは、すんと表情を澄まして、少しだけ目を細める。
    「ん、そっか」
     あぁ、ニキ、お前のことを、俺は守れるのだろうか? 燐音はそればかり考えている。そもそも、そんなことを考えなければならないようなこの状況は、いかがなものなのだろう。どうして暴力ですべてを解決しなければならないのだろう。それが本能だから? 人間はもっと理知的な生き物ではないのか?
    「なァ、ニキ、俺達……」
    「今日も勝ったらライブっすよ」
     わくわくした様子のニキに、そうだな、とそっと返す。
    「楽しみっすねぇ。僕、戦うのもライブも、お腹空くけど、すきなんすよね。ぜんぶ、燐音くんのおかげっすよ」
     と、そこで出動準備のアナウンスが鳴る。ニキは「おっと」と頭上に一瞬目をやってから、
    「それじゃ燐音くん、また後で! 頑張りましょうね」
     と綺麗に笑った。
    「……おう」
     燐音の歯切れ悪い返事にもニキはにこっと微笑み、そして舞うように去っていった。美しい後ろ姿が、いつまでも焼き付いていた。

    「……俺のせい、で、お前は」

     今となっては、もっとちゃんとすべてを話しておけば良かった、と、後悔ばかりしている。



    【くちにだしてね】
    「くちにだしてね」
     ニキにそう言われた時、いったいどうしてくれようと思った。
    「遠慮しないでいいんすよ。燐音くんの思い、ぜんぶ僕が受け止めてあげるんで」
     ニキは上目にこちらを伺い、ね、と言った。燐音は、もうどう言い逃れることもできなくて、すっかりその気になってしまって、諦めたようにニキを見ていた。
    「燐音くん、ひとりでなんでも溜め込みすぎなんすよ。僕、なんでもするっすよ」
     なんでもか。燐音は、くちにだしてやろう、と意気込むけれど、なかなか上手くいかない。あまりこういうことには慣れていないのだ。ニキもそれは同じのようで
    「ゆっくりでいいんすよ」
     と目を細める。
    「燐音くんのぜんぶ、曝けだして」
     ニキの頭に触れた。ニキは嬉しそうに瞬きをした。燐音は、目の奥がつんとしそうになるのを感じながら、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ……。

    「たくさんくちにだせて、えらいね、燐音くん」



    【ひどく甘い】
     天城さん椎名さんスタジオ入りお願いします、と小慣れたスタッフがノックと共にドアの向こうで言った。燐音は適当に返事を寄越してから立ち上がる。おいニキ、と言おうとして
    「んー!」
     と、ニキの籠った叫びを聞いた。
    「どした?」
     ニキはまだ座ったまま。困惑ほとほとの顔で、べぇ、と舌を見せてくる。
    「飴、舐めちゃった……」
     厳密にはその上の、イエローの飴玉。随分でかいのいったな、燐音は溜息そこそこ。
    「なんで本番前に飴舐めんだよ」
    「うぅ……空腹を紛らわそうと思ってぇ」
    「時間がねェのに」
    「わかってるっすぅ」
    「噛めよ」
    「いやっすよ!」
     おっかないこと言わないでほしいっす〜とニキは飴を舐めながらもごもごと言う。まったく、食のこととなるとニキはびっくりするほど意固地だ。
    「りんねくん、どうしよ〜」
     ニキがうるうると燐音を見つめるので、燐音は今度こそ溜息をついて、ずんずんとニキに近づいた。ニキのそばのテーブルに手をついて、
    「ん、」
     唇に唇を押し付ける。抗議の意味で名前を呼ばれそうになったがすぐ舌で歯の間を押し開けた。ニキは、んあ、と間抜けな音を漏らしてなすがままになっている。
     ねじ込んだ舌で探し当てたのは飴玉、そのまま絡め取って、口内へ掠めた。甘い、レモン味だろうか。
    「な、にするんすか」
     ニキの顔がぽぽぽと火照っている。それを横目に見ながら、がり、と飴を噛んだ。ぽかんとするニキが可笑しかった。燐音は息で笑い
    「腹減ってんのは我慢しろよ?」
     ニキを残して楽屋を出る。その頃には飴をすっかり噛み終わって、ほの甘さだけが口の中に残った。ニキの残り香が介在している気がして、浮かれちまうねェ、とひとりくくっと笑った。

     まだじんじん熱くなる唇を押さえて、
    「ひぇ〜……」
     ひどい甘さを、噛み締める。



    【真ん中バースデー】
     机上に置かれた箱がケーキ屋のものであることはニキにとって一目瞭然だった。きらきらと真白い箱を見つめながら
    「珍しいっすね、ケーキ!」
     と、それを買ってきてくれた燐音の方に顔を上げる。燐音はさっきからどこが罰が悪そうで、もごもごと切り出し始めた。
    「今日は……あれだよ」
    「あれ?」
     なんか記念日でしたっけ、と聞くあたり、ニキもそこそこ意識はしている。あの燐音が自分のためにものを買ってくれるなんてこと早々無い。なにか理由があってのことだろうし、それがケーキとなると、なにかおめでたい日だったかな、と思ってしまう。
     燐音は慣れない様子で言った。
    「真ん中バースデー」
    「真ん中バースデー?」
    「俺っちとニキの誕生日があンだろ、そのちょうど中間の日付」
    「へえぇ、そんなのがあるんすねぇ」
     早くケーキと対面したい気持ちと、燐音がそんな日を見つけてくれた喜びとで身体がぴょんぴょこ跳ねる。燐音はふいっとそっぽを向いた。
    「別に? なにがめでてェってわけでもねェけど? ただ、その、あれだよ……」
    「あれってなんすか」
     束の間の沈黙。燐音はニキの方を向かないまま
    「……なんでもねェ」
     と小さく漏らした。
    「えーっ、そこまで振っといて言わないってのは無しっすよ!」
     身を乗り出したニキに、うっせ、なんて燐音は刺々しく言う。
    「教えてくださいよぉ。あ、ケーキ買ってきたら僕が喜ぶと思ったとか? 別に、理由がなくてもケーキは買ってくれていいんすよ〜」
    「んじゃそれで」
    「照れ屋さんっすね〜」
     建前が下手だなぁと思いながらニキはテープを剥がして箱を開ける。いちごのショートケーキがふたつ並んでいて、はわぁ、と声が出てしまった。ニキは燐音を刺激しないように、あくまでケーキを見つめながら
    「ねぇ燐音くん」
    「んだよ」
    「ケーキがなくても、燐音くんのその気持ちだけで僕は嬉しいっすよ」
     と、立ち上がってフォークを取りに行った。今頃燐音はぱちくりと目を瞬かせているだろう。食器棚からフォークを出していると、燐音の深々とした溜息が聞こえた。
    「え、なんで溜息つくんすか?」
    「別に……」
    「えぇ〜〜っ」
     結局、燐音は溜息のわけを教えてくれなかった。でも一緒に食べたケーキは美味しかったし、燐音が隣にいるので、ニキは幸せだった。



    【まだ恋でない】1714
     実質、同棲である。
     困っていそうだったから「拾った」は良いものの、この男をどうしてくれようかとニキは若干困っていた。とはいえ見捨てるわけにもいかないし。事情はよくわからないが「故郷には帰らない」「ここにいる」と意固地になるし。とりあえず、一緒にご飯を食べる相手がいるのは悪いことじゃないしなぁ、とニキは、中学生なりに己の心に決着をつけた。
     のだが。
    「な、ニキ……」
     問題はこの男……天城燐音……妙に距離が近いのである。
     料理している時に背中にぴったりくっついてくるし、歯磨きの時も、その他諸々日常の生活において……一応は風呂とトイレ以外……物理的に距離が近い。パーソナルスペースというものが無いのだろう、とニキは、自分より大きな生き物に覆いかぶさるようにされるのは意外と窮屈だなと思った。でもまぁ、それくらいだった。
    「聞いているか?」
     は、とニキは目の前の燐音に意識を戻した。燐音は布団の上に行儀良く座って、ニキの顔を見ているらしかった。ニキは、うん、と返事をしてから、掛け布団の中に足をわさわさと差し入れた。そして少しだけ俯いて、現状について考えている。
     一緒に寝るんじゃないのか、というのは、燐音を連れてきて最初の夜に言われたことである。ニキはもう親とも一緒に寝ないのに、どうして「拾った」男と同じ布団で寝なければならないのか、というか「寝るんじゃないのか」ってことは、この男にとってそれが常識なのか? ニキはぐるぐる考えているうちにぐぅぐぅお腹が空いてしまったので、押し負けて結局一緒の布団にくるまって眠った。
     正直ちょっと暑かった。けど、それも含めてなんだか、心地良さもあった。騙されてるのかなぁと思いながら眠りについた記憶がある。
     それ以来、ニキと燐音は寝床を共にしている。ニキが抱き枕よろしく抱き締められていることもあったが、その度に燐音は詫びた。ニキとしては別に構わなかったのだが。
    「明日もあるんだろう、早く寝たほうが良い」
    「そうっすね、そうっす」
     今夜も? ニキは聞けないままでいる。ちょっとだけ気まずくて指の腹をむにむに押しつけあった。燐音はそれに気がついたのか、ちょっと首を傾げる。
    「ニキ、ほら」
     ふ、と気配がして顔を上げると、目の前に手が差し伸ばされていた。この手を取れ、と言わんばかりの形をした、美しい手。ニキは、あ、と言いながらその手をつい取ってしまい、そのままずいと引かれたのでなすがままに身体を燐音の方に寄せた。ぽす、と胸板に顔が直撃して、お互いちょっと呻いた。
    「……ふふ」
     むんずと顔を向けると、燐音の顔があった。
    「ニキは、愛らしいな」
     その笑顔が今までに見たことのない、屈託ないものだったから、ニキはちょっとだけ呼吸が止まった。く、と身体の底の温度が上がる心地がした。
    「愛らしい、なんて、初めて言われたっす」
    「そうか? 都会の人間は感情表現が豊かだと思っていたのだが」
     どんなイメージすか、とニキは先に布団に転がる。燐音もそれに続いた。さっきと同じ距離で発露される燐音の顔はもういつもの通りすんと整っているだけで、見てもあの謎のどきどきに襲われることはなかった。なんだったのかな、と思いながら、燐音とおやすみを交わす。
     恋かもしれない、と気がつくのは、きっともっと後のこと。



    【最後の夜】
    「今日で、最後にしたいんすけど」
    「は?」
     燐音は自分の喉からこんなに低い声が出るのかと心の隅っこの方でだけ驚嘆したが、そんなことはどうでも良かった。それよりこいつは、ニキは。
    「今なんつった?」
     布団の上で対峙しているニキは、だからぁ、と恥じらうように顔をそむける。
    「今日で、するの、最後にしたいんすけど」
    「は?」
    「うぅ……燐音くん怖いっす……」
     ニキはぺそぺそ泣きそうな声だ。燐音は若干イライラしていた。ニキに怒れば良いのかももはやよくわからなかった。なにがどうして、自分のパートナーからそんなことを言われなければならないのか? ……この場合に「する」ことといったら、もちろんセックス一択である……。
     燐音は腕を組んでじりじりとニキを見据える。
    「なんで」
    「はい?」
    「なんでだよ」
    「だって……燐音くんとすると、その……」
     ニキがそこで口籠るので、なんだよ、と発破をかけてみる。もぞもぞと動かしていた唇をやっと開いたニキは、
    「……馬鹿になりそうで」
     と呟いた。
    「はァ〜〜〜?」
     ぐっと眉間に皺が寄る。ついでにニキと距離を詰めると、ひっ、と悲鳴のような声を上げられた。
    「意味がわかんねェ。なんで馬鹿になンだよ、あァ?」
    「いや……その……」
    「つか、それ以上馬鹿になる頭がどこにあンだよ」
    「ひどい!」
     細やかに取っ組み合いながらそんな会話をしていたが、燐音が不意に組んでいた手を離した。ニキはきょとんと目を丸くして燐音を見ている。燐音は、致し方無し、みたいな表情で、漏らした。
    「……ほんとうに嫌ならやめる」
    「う……」
     ニキの顔が少し曇るので、罪悪感を抱いたのだとさすがにわかる。そこにつけいるように上目に見上げれば、うぅ、とニキが目をぎゅっと閉じた。
    「嫌、っていうか、その」
     ニキが燐音を見下げるようにしながらも、居た堪れないような赤面から、声を発した。
    「きもちよすぎて、馬鹿になる……」
     そのままニキは勢い良く俯く。耳まで真っ赤だった。ぷしゅう、なんていいながら煙が出そうだった。
    「っは」
     燐音はつい漏れた笑い声を堪えられなくて、口元に手を当てる。ニキが、あーっ、と眉を吊り上げつつ顔を起こした。
    「笑ったっすね!」
    「だって、お前、なにそれ」
     そのまま顔を押さえて、笑みが止まらない、だって、だって!
    「すっげェ可愛い!」
     ニキがむぎゃあみたいな音を上げてじたばた暴れる。
    「だから嫌だったんすよ! 言うの!」
     ニキの顔はまだ真っ赤である。あぁ可愛い、そんなにきもちよくなってくれていたなんて……知っていたけれど……いざ本人の口から出てくると愉悦極まりない。
     燐音はにまにまと調子に乗って
    「で? 俺っちとのセックスは気持ち良すぎて頭が馬鹿になりそうだから、今日で最後にしたいってのがニキの意見なわけだな?」
     とニキの顔を覗き込む。
    「そう、っす」
     意外と話を聞いてくれていたんだな、とでも思っていそうなニキの顔、なんて可愛い! 燐音はにこっと笑った。
    「もちろん却下♡」
    「なんでっすかぁ!」
    「当たり前だろ! だってきもちいいなら良いよなァ、ニキ♡」
    「ああっもう抱きつかないで!」
     振り解こうと暴れるのにも臆さず燐音はニキをぎゅうぎゅう抱き締める。身体が服越しにも熱くて、そんなに動揺したのか、俺のせいか、とどんどん楽しい気持ちになる。
    「いやァ……お前のそういうとこ、マジすき」
    「うぅ〜……」
     身体を少し離すと、目があった。沈黙が張って、呼吸のタイミングがふと揃った、そのまま、唇との距離が、縮まる。



    【窓際】R-18
     ひた、と手をついた窓が冷たくて、ニキはぞぞと背筋に寒気が走った。燐音はそれを緊張と受け取ったのか「平気か?」と聞いてくる。だいじょうぶ、はやく、とニキが腰を突き出して煽る。
    「悪い子だなァ、ニキ」
     燐音は興奮気味の笑みと共にニキの背中に重なり、腰を進めた。ぐに、と異物が秘孔に寄せられて、緩やかに解されたそこは容易に燐音の動きを受け入れる。
    「ぁ……」
    「っ、う」
     ふたりの呻き声が静かな部屋に響いた。ニキが窓の外のぼうっと目をやるが、ここは上層階だし人間の姿は目に入らない。それでも、底知れぬ背徳感があった。
     ニキは、はー、と息を吐いて、燐音に振り返る。
    「はいった、っすか」
    「はいっ……た」
     燐音の熱っぽい声。いつもは聞けない色についどきりとしてしまう。それより、自分の中に埋められた燐音自身の、圧迫感にニキは気を取られた。
    「相変わらず、おっきいっすね……」
    「は、煽ってんのかよォ」
     燐音は少し腰を引いて……なんとも言えない快感が身体をよぎった……また打ち付けてくる。く、く、と内壁を抉られる心地が、どうして快楽に変わったのか、いつから、なんて、いろんなことを考えながら
    「ちがうっすよぉ……」
     と、燐音の言葉には否定を寄越しておく。燐音は腰をゆっくり振りながら、耳元で笑った。
    「かわいいなァ、ニキ」
     ぞぞぞ、と内腿まで震える。がくがくと波打って上手く立てなくなるのを、燐音に腰を掴まれなんとか堪えた。
    「かわいく、ないっ」
    「かわいいよ、ニキは。会った時からずぅっと」
     ちゅ、と耳たぶに口付けられ「うぅ」と声が漏れた。その間もずっと腰は止まらないで、ニキにコンスタントに快感を与え続けていた。は、ふぅ、と息を吐き出す。そっと目を開けると平然と外の世界が広がっており、セックスなんかに興じている自分のことを急に意識してしまう。
     それを察知したように、燐音が「なァ……」と息で言う。
    「窓際ですんの、興奮する?」
     いざ言葉にされると恥ずかしくて、喉から高い声がはみ出た。燐音が心地良さそうにくくっと笑った。
    「は、締まった……」
    「言わないで、っあ」
    「きもちい?」
     追い打ちをかけるな、とニキはゆるゆる肩越しに燐音を振り返る。
    「ぅ、きらいっす、りんねくんなんてぇ」
    「ふゥん……」
     燐音の手がぐぅと腰を強く掴み、とん、とん、と一定のリズムで快楽を押し付けてくる。きっとこの行為で気持ちいいのは燐音も同じだけど、ニキはそれにしても割に合わないくらい、気持ちよさを享受していた。
    「嫌いな奴にこんな、身体ぐずぐずにされて、ニキ、情けねェなァ……」
     いじわる、いじわる。なんでそんなこと言うの。ニキは反論したいことがたくさんあったけど、頭がぐるぐるして上手く言葉を紡げない。
    「きらいぃ……」
     とだけ、頭を窓にこつんと当てながら押し出した。
    「ニキ」
     燐音の声がちょっと優しくなる。ゆっくり視線を向けると、むんずと顎を掴まれて、振り向く形にさせられた。
    「んぅ……」
     唇を押し付けられて、反射で目を閉じた。つい舌を出してしまうのは、すっかり燐音に教育されてしまったからと言ってもいい。ねろりと舌を絡ませては、
    「かわいー……」
     と燐音が嬉しそうに言うのを聞いて、ニキは身体の奥がぞくぞくと駆け出すのがわかった。あ、やばい、くる。
    「イきそ?」
     生温かくなったローションが腿裏を伝っていく。ぐぢゅぐぢゅと音が激しくなり、ニキはこくこく頷いた。
    「ん、いーぜ、俺も……」
     ちゅ、とうなじに口付けられて、甲高く声が漏れた。くんっと上を向いたのを皮切りに、全身にじわぁと絶頂が広がった。窓についた手がきゅうと丸まり、かくかくと腰が砕けていく。同時に燐音が苦しそうに息を吐いて、ひと突きしてから動きを止めた。ゴム越しに射精しているのがなんとなくわかった。
    「りんねくっ……」
     まだ快楽の波から戻ってこれないニキが縋るように名前を呼ぶと、燐音がずるりと自身を引き抜いた。急に内側が寂しくなった気がして、ついそこに目をやった。
    「ニキ」
     ん、と顔を上げて目を合わせる、汗をかいて艶っぽい燐音が、そこにいた。
    「んー……」
     ニキを後ろからホールドして
    「やっぱ、顔見えた方がいーけど」
    「けど?」
     すり、と肩に頬を擦り付けてくる。
    「たまには、悪くない」
    「燐音くんのえっち」
    「ニキだってノリノリだったろ」
     次はベッドな、と頬にキスしてくる燐音に、まだするんすか、とニキは息で笑う。するする上半身をなぞる手つきから、まだするつもりなのはわかりきっていたけれど。仕方ないなぁ、なんて、思ってもないことを言いながらニキは、手汗やらなにやらでべたべたになった窓を、後で拭こうと思った。今は、燐音と愛し合う方が先だ。



    【おかえり、ただいま】
     明朝にして四時。くぁ、とあくびを噛み殺した燐音は、とりあえずニキの家に行こうと思った。理由は特に無い。強いて言うなら、まだ眠っているだろうニキをちょっと驚かしてやりたい、くらいだ。
     無理やりつくらせた合鍵で家に入る。お邪魔しまァす、と言うあたり、一応他人の家である意識はある。これはニキから教えられたこと。そっと家に入り、ニキがやたらとうるさいので手洗いうがいも済ませてやる。最近なにかと文句が多いが、こちらは侵入している身なのでそれくらい聞いてやろうと思う。
     ニキは布団の上でくぅくぅ息を鳴らして眠っていた。いつもは結いている髪がはさりと枕の上に広がっていて、この姿を見たことがある人物はそう多くないだろうなと勝手に思った。
     それにしても、と、燐音はニキの寝顔を見つめる。あんまり、愛らしいな、と主観極まりないが真実にも近い判定を下した。幼さの残る寝顔は無防備で、無理やり襲ってやりたい欲求に駆られないでもないが、さすがにそこまで鬼畜では無い。
     横に肘をついて転がると、枕元に寝る前に食べたであろう軽食のゴミが詰められた袋があった。ほんとうによく食べる。なにを食べたのかゴミを漁ってみては、早く起きないものか、とちらちらニキを見たが、起きなかった。
    「ニキ」
     息みたいな声で呼んでみる。ニキの呼吸は一糸も乱れない。それはそれで面白くないので、むぎゅと鼻を摘んでみる。しばらくなんてことなさそうにしていたが、やがて、ふぎゅ、とおかしな声を出しては、ぱちぱちっと瞬きして手を振り払った。
     燐音がくつくつ笑う。
    「ただいまァ、ニキ」
    「んん、おかえりなさい……?」
     眠そうな声で言ったニキが燐音の姿を認めるなり、そのとろんとした水色の目をはっと見開いて
    「え、なんで燐音くんがいるんすか」
     と至極真っ当なことを言った。俺っち、正論嫌い。燐音はステージ上のように妖艶にウインクをしてみせる。
    「かわいい寝顔、ご馳走様」
     ニキはぱっと顔を隠して、うにゃにゃ、みたいな声を漏らした。恥ずかしいらしかったが、なにがそんなに……と思った。でもまぁ、確かに逆の立場だったら、燐音も恥ずかしいのかもしれない。そんな日はたぶん来ないが。
    「もおぉ、朝からなんの用っすか……こんな半端な時間に起こさないでほしいっす……」
    「ニキが勝手に起きたんだろ」
    「いやなんか僕の鼻摘んでましたよね?」
    「さァ、なんのことだか」
    「うわ、いつもよりぜんぜん早い……でもお腹空いた……」
    「マジ? 寝る前にあんだけ食ってんのに?」
    「燐音くん知ってます? 寝てる間にもカロリーは消費するんすよ」
    「誰もニキほどは消費しねェよ」
     ニキは起き上がって伸びをする。はぁ、と溜息混じりに背中を丸めた。
    「どうせご飯たかりにきたんでしょ? なんかつくりますから、大人しくしててください」
    「お、ラッキー。ありがとなニキ、愛してるぜ」
    「はいはい、そうっすね」
     ニキはあくび混じりに立ち上がって洗面所の方に去っていく。その背中を見ながら、やっぱり可愛い、とにまにまと笑いを浮かべていた。



    【しんでも】DV
     どうして、こんなことに。
     燐音はぐぅと体重を手に乗せながら、そんなことを考えていた。手の先にあるのは細い首、圧迫されて苦しげな声を漏らす喉が、見えた。
     ニキ、愛しいニキ、お前の首を今、絞めている。
    「り、ね、くん」
     絞り出された音が自分の名前だと気がつくのに数瞬かかった。燐音は、ぜ、は、と荒い息を漏らしている。だいじょうぶか、ごめん、ニキ、と言いたいのに、口から出てくるのは
    「お前、が、悪いんだからな」
     なんて、呪いのような言葉。
     ニキは目尻をきゅうとすぼませる。
    「ん、そぉ、すね」
     その言葉に呼応するように更に絞めた。ニキの熱い肌に掌が、指の腹が、食い込んで、このまま食ってしまえそうだった。いったいなにをしているんだ、と、燐音の頭にふと冷たい風が過ぎった。
    「ニキ……」
     あぁ、なにを、なにを……。
     燐音の手がふと緩む。まだ首にかかったままのその手に、放られていたニキの手が這った。弱々しい力がこもっていた。
    「いいから……」
     無理やりに絞めさせられて、燐音は頭がおかしくなりそうだった……とっくにおかしいのかもしれなかったが……。手の力を緩めようとする度にニキに止められて、絞め続けることを余儀無くされる。その緩急があるおかげか、ニキは意識を手放さずにずっと、燐音を見つめていた。
    「りんねくん……」
     か細い声と共にニキの手が、ふと頬に伸びた。ふるふると震えていた。つい首から手を離しかけたところで、
    「僕、しんでもいいっす……」
     ニキが、笑った。
     ぷち、となにかが切れる音がした。
    「ぐ、ぁ」
     ニキの潰れた声が耳につく。体重を乗せて思い切り絞めた。喉仏を親指の付け根で、く、と押すと、ニキの口がくぁと開く。なんて苦しそう。なんてつらそう。燐音の瞳からニキの顔に涙が垂れた。でも、ニキも泣いていた。なのに慈しむように燐音を見ていた。ぜんぶ、ぜんぶ、おかしかった。
     このまま、終わりにできたなら。



    【ほだされる】
    「燐音くん、蚊に刺されるなんて珍しいっすね」
    「は?」
    「首」
    「あァ……は?」
    「なんすか」
    「マジで言ってる?」
    「僕はいつだって本気っすけど……」
    「これつけたの、お前」
    「えっ」
    「燐音くんすきすき〜♡ つって吸い付いてきたの覚えてねェの?」
    「お〜〜ぼえてな……いっすね」
    「信じらンね〜〜あの愛の営みはなんだったんだよあァ?」
    「ガラ悪ぅ……し、仕方ないじゃないっすか」
    「なにが仕方ねェんだよ」
    「……気持ち良すぎて記憶トぶんすから……」
    「ふゥ〜〜〜〜ん♡」
    「あっ今なんか悪いこと考えましたね?」
    「べ〜つにィ〜〜?」
    「あーもう言うんじゃなかった!」
    「今日も記憶トんじゃうまでしような♡ ニキ♡」
    「もぉ〜……」
    「そこで絆されちゃうニキきゅんマジすき」
    「んぃ……」



    【責任】
     がり、と噛まれた時には、もう遅かった。
    「ニキ」
     こちらの指を深く噛んだまま、燐音はぎらぎらした瞳で、見上げてくる。
    「結婚しよう」

    「……ってことがあったんすけど、ほんとに覚えてないんすか?」
     ニキは薬指の、確かにちょうど指輪が通るあたりへ絆創膏を巻きながら、燐音に言った。燐音は、首を深く傾げて、心底不思議だという顔で。
    「……覚えてねェ」
     と言う。ニキは呆れを通り越して感心した。あの燐音でも情事の最中に記憶を飛ばすことがあるなんて。もはや可愛いところを見て得した気分だ。
    「傷つけたことはまず謝る」
     燐音が座し直しては深々と頭を下げた。ニキはわたわた手を振りながら、いやいや、と口早に言う。
    「そんな、いいんすよ別に、僕もよくキスマークとかつけちゃうのに記憶飛ばしてますし……」
    「……それは、この件と釣り合うようなことか?」
    「どう、なんすかね? わかんないっすけど」
     なんだそれ、と燐音がこの件で初めて少し笑う。安堵が心を過ぎる。
    「とにかく、僕は怒ってるわけでも悲しんでるわけでもないっすから、気にしないでください」
    「笑ってもいいんだぜ、記憶飛ばした俺のこと」
    「笑わないっすよ、別に」
    「……笑えよ、寧ろ」
    「なんですか?」
     燐音はぎりぎり奥歯を噛み締めるようにしながら、ふいと目を背けた。
    「……一世一代のプロポーズ、したことも返事も覚えてねェなんて、もはや笑い話でしかねェだろ」
     ニキはぱちくり、と目を瞬かせた。絆創膏の上から傷痕をすりすりと撫でながら、あー、と声を漏らす。
    「返事なら、その時はしてないっす」
    「してねェの?」
    「してないっす」
     そっか、と安堵と落ち込みが混ざったような声。ニキはずいっと身を乗り出して絆創膏を見せつけながら
    「責任とってもらいますからね」
    「責任?」
    「こんな指輪を僕に贈った責任」
     燐音はぱちぱち瞬きをしながら、それって、とゆるりと頬を緩ませた。可愛い、と思った。ニキは微笑む。
    「いいっすよ。結婚しましょ、燐音くん」



    【天城燐音は眠れない】STARS
     それは、幻覚だった。
    「燐音くん」
     優しく名前を呼ぶのは本物のニキではない、そんなことは燐音にもわかりきっていた。しかし、それに縋らずにはいられなかった。それほど、精神が擦り切れていた。
    「燐音くん」
     ニキの幻覚が見えるようになったのは数日前のことだった。眠ろうとすると枕元に不意に現れて、燐音の名前をそっと呼んだ。話しかければ応えてくれるし、黙っていればそこで微笑んでいる。それだけの存在だった。
    「燐音くん」
     なのに、燐音の心はひどく救われた。これが幻覚だと自覚もしていた。自分がつくり出しただけの、空想に過ぎないと。それでも、死んだはずのニキに再び会えたのは、嬉しくて堪らなかった。
    「燐音くん」
     そう、ニキは死んだのだ。跡形も無く、宇宙の塵となって。遺体は愚か遺品すらろくにありはしなかった。燐音はニキを喪っても、なにか物に縋ることができなかった。
    「燐音くん」
     そんな燐音の精神が生み出したのがニキの幻覚だった。ただそこにいるだけの、無害な幻覚。燐音は幻覚のニキを見つめ、ニキに話しかけ、ニキと笑い合った。
    「燐音くん」
     幸せだった。ニキといられることがこんなに幸福だと、本物のニキがいなくなってから気がつくなんて、おかしな話だった。それでも、燐音が今享受している幸福は紛れもなくニキがもたらしてくれたものだと思っていた。
    「燐音くん」
     すべて幻覚だ、わかっている。この幸福感さえも燐音が自分自身を誤魔化すためのものに過ぎない。この際、それでも良かった。燐音の心の空白を少しでも満たすには、これしか無かった。
     今日もニキは、燐音のそばで微笑んでいる。



     幻覚のニキと自室で暮らしている。燐音にとってそれだけが救いだった。燐音が部屋で休もうとする時ニキはふらりと現れ、部屋を去ろうとする時さらりと姿を消す。まるで幽霊のようだった。もちろんそれは幻覚なので、燐音の都合の良い時にしか目の前に現れないというそれだけの話なのだが、そんな理屈はどうでも良かった。
    「燐音くん、おかえりなさい」
     ニキはベッドに座って燐音にそう笑いかける。燐音は、あぁ、とその横に座り、ニキの顔を見つめた。ニキはぱちぱち瞬きをして
    「どうしたんすか? 僕の顔になんかついてます?」
     と無邪気に言った。燐音はそんなニキの頬に手を伸ばした。あったかいことはまぼろしだったが、まぼろしだとはその時は思えなかった。ニキに体温があることがこんなに嬉しいなんて知らなかった。
    「すきだ、ニキ」
     燐音の言葉にニキは呼応して微笑む。
    「僕も」
     なんとも言えない幸福感が心の底からふわふわと込み上げてきた。ニキの一言一句が燐音にしあわせをもたらしてくれる。ニキの存在が燐音のことを底無しに癒してくれる。今更気がついたなんて、遅すぎるけど。
    「……なぁ、ニキ」
     さて、しかし、今の燐音には困ったことがあった。
    「なんすか?」
     燐音はばつが悪そうに呟く。
    「……眠らせてくれないか」
     ニキはきょとんと燐音を見た。そしてけらっと軽快に笑った。
    「なんだ、そんなことっすか」
     燐音は、変な話だと思った。自分が生み出した幻覚にこんな風に頼みごとをするなんて、変だ。それでもニキがなんと返事をするか緊張していたし、今みたいに言ってくれたことに安堵していた。
    「眠るといいっすよ。僕のことは、気にしないで……」
     ニキが少し切なげに目尻をすぼませたのが、燐音にはわかった。ずきりと心が痛んだ。燐音は、あ、と声を漏らした。
    「そんな顔、するなよ」
     ニキの目元に指を添えると、濡れた気がした。ニキは儚く表情を和らげる。
    「寂しくなんてないっすよ」
    「そんなこと、まだ聞いてない」
    「でも、これから聞きたかったんでしょ?」
     ずきずき、胸が嫌な音で鳴る。こんな話がしたかったんじゃない。燐音は、震える歯をぐっと抑えて息を吸って、止めた。ニキがそっと「息止めちゃだめ」と口の動きだけで言う。
     ぜんぶ、幻覚なのに。
    「おやすみなさい、燐音くん」
     ニキに押し倒された、気がした。ベッドは硬く冷たかった。燐音はニキの名前を思い切り呼んだが、ニキは覆いかぶさるようにして微笑んでいるだけだった。天井からの照明が逆光になって、顔横の毛がさらりと下りた。
    「ニキ……」
     絞り出した声は泣きそうで情けなかった。自分とこんな問答をしているに過ぎないのに、ニキのことをひどく傷つけたような気がした。
    「じゃあ、最後にひとつだけ」
     ニキが毛を耳にかけて、小さく言う。
    「時間がないんすよね」
     ニキは不意に顔を近づけて、呼吸が交わる、鼻が触れる、唇が、
     唇が、あったかかった。

     幻覚を抱き締めようとして空を切った燐音の手が、虚しく力む。美しい瞳から流星のように涙が溢れた。
    「眠らせてくれ……」
     枯れた声が、ひとりの部屋に響く。



    【許嫁問答】許嫁捏造
     アパートの部屋に戻ると、どうもちょうど燐音がビデオ通話をしているらしかった。燐音の弟である一彩の案で故郷とはこういう形に落ち着いた燐音は、一度直接顔こそ出したらしいが、その後はオンラインで君主にまつわることを……ニキもそのあたりはよく知らない……しているらしかった。
     それなら気軽に里帰りもできるっすね、というニキの言葉に、そうかと燐音は思い立ったらしかった。だからって、いちばんひとが来ないであろうニキのアパートをビデオ通話の場所に使うのは少しやめてほしかったけれど。
     そろそろとなるだけカメラに映らないように部屋に入り、燐音の邪魔にならぬように振る舞う。まったくなぜ家主がこんな目に遭うのか。まぁ、燐音になにを言っても仕方がないのだが。
     小さく話し声が聞こえる。燐音のとんと真面目な声色と、慣れないイントネーションで話す機械越しの声。
     その中に、一等明るい音があった。
    「りんねさま!」
     ニキはつい少し顔を上げてしまう。今の、女の子? 燐音の顔をふと見ると、懐かしそうに顔を綻ばせながら話に花を咲かせているらしかった。そんな顔もするんだな、と不思議な気持ちになった。
     ふぅ、としばらくしてから燐音の息を吐く音。どうも通話が終わったらしい。
    「肩が凝って仕方ねェや」
     なんて燐音が言ってからニキに目を向けて、おかえり、と言った。渋々ただいまっすと帰すが、ここはそもそも燐音の家ではない。
    「聞いてもいいすか?」
    「なんだよ」
    「最後に話してたの、誰だったんすか? あの、女の子」
    「あー……」
     燐音はふらっと視線を彷徨わせる。少し言いづらそうにしながらも
    「イイナズケ」
     と呟く。
    「なんすかそれ、漬物っすか?」
    「ニキお前、馬鹿なのか?」
    「ひどいっす」
    「イイナズケっつーのは、あれだよ」
     燐音は腕を組んで、少し気怠そうにしている。
    「……将来結婚することを約束したひとのことだよ」
    「結婚?」
     そう、とトーンの落ちた燐音の声。
    「燐音くん、結婚するんすか?」
    「んん、ま、そういう道筋なんだが」
    「僕以外のひとと?」
    「は?」
    「え?」
     沈黙。きょとんとしたふたりの顔が見合わせられる。先に口火を切ったのはニキだった。
    「え、だって燐音くん、いつも言ってるじゃないすか、僕に、結婚しようって」
    「そうだよ、だから、あの」
    「なのに僕じゃないひとと結婚しちゃうんすか?」
    「だからニキ、」
    「僕のこと置いてくんすか?」
    「違うって」
    「今まさに違わないって言ってるじゃないすかそれくらいわかりますよ」
    「ニキ!」
     燐音の張った声にニキはびくっと肩を縮ませて、不服そうに「なんすか」と返す。
    「確かに、俺には許嫁がいる、けど」
    「けど?」
    「許嫁の存在は俺の意思とは関係ないところにある。だから、つまり」
    「つまり?」
    「……ほんとうに結婚したいのはニキだよ。故郷のなにもかもぜんぶ捨てることになっても」
    「捨てちゃだめっすよ。せっかく弟さんが繋いでくれたんですから」
     もののたとえだよ、と燐音はぶすくれる。
    「そっか」
     ニキが溜息みたいに吐き出した。
    「燐音くん、僕と結婚したいんだ」
    「……そうだよ」
    「そっかぁ」
     自分でも情けないくらい簡単に頬が緩んだ。燐音はまだきょとんとしているが、ニキはらしくもなく浮かれかけていることを、どうにも隠せなかった。



    【シーサイドスーサイド】
     どんよりした曇り空が立ち込め始めて、降るな、と燐音は思った。ざりと砂浜を踏み締める。視線の先には浅瀬ではしゃぐニキがいて、悪天候に転じそうなことなど微塵も気がついていないようだった。
    「帰るぞ、ニキ」
    「えー」
     ニキは視線も寄越さず、足の甲で波をなぞって遊んでいる。
    「えー、じゃない。雨降りそうだろ」
    「あ、ほんとっすね」
     ニキが空を見上げて、結んだ髪が頭と肩の間でわしゃと潰れた。胸の奥の方をむんずと掴まれた心地がして、
    「ニキ」
     と、つい名前を呼ぶ。ニキは、うん、なんて言って、まだ空を見ている。
    「上がれ」
    「うん……」
     後ろ手に組んだ手と、ぱしゃりと水を蹴り上げる足。ごろごろ、遠くで雷が鳴る。心に焦燥が走る。
    「マジで危ねェから」
    「これじゃ、あれっすね」
     ニキはなにが可笑しいのかふらっと笑った。
    「自殺行為?」
     ぞ、悪寒が駆け抜けて、燐音の心がじめじめと暗がってする。
    「馬鹿じゃねェの」
    「なはは、馬鹿っすよ、僕は」
     冷たそうな海に足首まで浸けたニキが、ふらりと立ち直した。そして、
    「燐音くん」
     名前を、呼んだ。
    「……なんだよ」
     ニキはしばらくそうしたままでいた。先に痺れを切らした燐音がおいと急かしても、ニキは微笑みを携えたままだった。
    「……、あのね」
     ぽつ、と鼻筋に雫が垂れる。顔を上げた。目のそばに水滴が落ちて、雨が降り始めたことに気がついた。ニキがきゃっきゃと声を立てて笑う、ただの十八歳にしては幼いその振る舞い。
    「急ぐっすよー!」
     ニキはぱしゃぱしゃと、ぼふぼふと、駆けながらそこに置いていた靴を拾った。そのまま燐音の横をすり抜けるようにして走っていく。呆気に取られた燐音がしばらくそこに立っていた。燐音くん、濡れちゃいますよ、と後ろから声をかけられて、やっと振り返った。
     なにか言いかけのままのニキが、無邪気に雨に濡れ始めている。



    【空中戦】STARS
     何度も、夢を見る。

     聞いたはずの無い衝突音がいつまでも耳に残っている。燐音は、おいニキ、と通信を促した。画面に映されたニキの、ひび割れたヘルメット、中で流れている血。
     ふら、と向けられた目線が不意に笑う。
    「なはは……燐音くん、なんで泣いてんすか」
     機械越しのざらざらした声がひどく掠れて聞こえた。そんなことはどうでも良かった。びぎりと線が入ったような画面に映るニキの姿を目に映して、あぁ、と焦燥に駆られて、どうしようもなく不安になる。泣いていることなんて知らなかった。
    「泣かないでよ。僕、こんなだけど、へいきっすよ……」
     ぶづ、と通信はそこで途絶えた。ニキ、ニキ、と何度も名前を呼ぶが、返事はそれっきり無かった。



     目を開ける。嫌な覚醒、冷や汗で身体がぐしょ濡れだ。またあの夢か、と起きあがろうとして、自分の顔を覗き込む存在に気がつく。
     警戒より先に、驚嘆が来た。
    「……ニキ?」
     跳ね起きると、おっと、人影が退いた。その姿をまじまじ見つめて、どこからどう見ても、ニキだった。
    「や、燐音くん」
     あの時死んだ、ニキだった。
    「ほんとに、ニキなのか?」
     ニキは、先の戦いで負傷して、そのまま帰らぬひととなったはずなのに。どうして今こうして目の前にいるのか、燐音には見当がつかなかった。とうとう頭がおかしくなったのかと思って、それも良いなとふと息を吐いた。
    「ほんとうに?」
    「そうっす」
     思うより先に手を伸ばした、触れたかった。しかし手は宙を掻くばかりで、ニキの身体をすり抜けてしまう。よく見ればパイロットスーツに包んだ身体は少しだけ透けていた。首を傾げる前にニキが言う。
    「僕、いわゆる幽霊なんっすよ」
     幽霊、と燐音が復唱して、やはりニキは死んだのだと再確認させられた気持ちになった。それは残念なことだったが、たとえ幽霊だったとしてもニキと再び会えたのは嬉しかった……幽霊なんてものを信じていたかどうか燐音にはもうどうでも良いことだった……。
    「科学がすべてを支配するこの時代に、幽霊なんてもの存在するんすねぇ。非科学万歳! なーんて」
    「元気そうだな」
    「幽霊に元気とかあるのかわかんないっすけど、まぁ、元気っすよ」
     ニキは生前と変わらぬ笑顔でそこにいた。それだけで涙が出そうだった。燐音はすんと鼻をすする。
    「燐音くん」
     ニキのこれまでに無いほど真剣で、優しい声が燐音を包む。
    「お別れにきました」
     お別れ、という言葉が理解できなくて、目を瞬かせた。ニキが、無理もないとでも言いたげに目を細める。
    「それが、僕がこうして来た理由です。だって、化けて出るほどしたいことなんて、燐音くんにお別れ言うことくらいっすよ」
     ずぐ、と心の奥が痛んだ。やっぱり、ニキは死んだんだ。その受け止めきれない現実がのしかかってきたようで、呼吸が浅くなる。ニキがちょっと慌てて
    「ほら、息して」
     と、触れられないのに背中に手を添えてくる。燐音はゆっくり深呼吸して、は、と息を吐いたのを皮切りに、ニキに向き直る。
    「ニキ、俺は」
    「うん」
    「俺は、お前を守れなかった……」
     涙の代わりに絞り出された声は情けないものだった。目を合わせていられない、自分の膝を見つめる。
    「別に僕、燐音くんに守られなきゃいけない存在じゃなかったっすよ。それに、この前のことは少し、運が悪かっただけっす」
    「お前はいつも」
     燐音は掴みかかるように声をかぶせる。
    「いつもそうやって、運が悪かったからってなんでも許してきた。けど、今回のことは……違うだろ……」
    「うーん、でも怒ったところで僕はもう死んでますし。僕、結構あっさり自分が死んだことを受け入れちゃってるんすよね」
     燐音くんはそうじゃないみたいっすけど。ニキの声のトーンが落ちる。俯かせた顔を覗くようにしたニキと目が合った。
    「ご飯、食べてる?」
    「……なンも喉通んねェよ」
    「そっか。あれ以来、出動はしてないんすよね」
     事実だった。放心状態に近い燐音を出すべきでないと、他のメンバーが判断したのだ。燐音はほぼ一日中自室にこもってぼうっと、ニキのことを考えて、ニキが死んだ時の夢を見て、涙に暮れた。
    「僕がいないライブ構成とか、考え直しですもんね」
    「そういう問題じゃ……」
    「うん、ごめん、わかってる」
     ニキは、燐音くん、と優しく呼んだ。それは、初めて声をかけてくれた時のように恐る恐る、しかし柔らかい呼び声だった。
    「もう戦えないなら、僕が燐音くんのこと守りますから」
     ニキは、儚い顔で微笑んでいた。その微笑みすら、薄らと透き通って、部屋の床が見えてしまっている。
    「燐音くんを怖がらせるものからも、悲しくさせるものからも、僕が守ってあげる。それで、燐音くんがもう泣いたり怒ったり、僕のためにしないように」
     違う、違うだろ、ニキ。それをしてやらないと、お前があんまり報われないだろ。燐音はそう言いたかったが、なにも口にできなかった。ただ、涙に耐えていた。ぎゅうと拳を握り締めて、震えていた。
    「燐音くん」
     守って、ほしかった。
    「僕は、燐音くんに笑ってほしい」
     つう、と頬を伝った生温かさを自覚した瞬間、限界だった。溢れるように涙が溢れてきて、さすがのニキも少し慌てたらしかった。涙を掬う動作を何度もしてくれるのに、すべて報われなかった。
    「お前がいなきゃ」
     燐音は癇癪を起こしたように声を荒げた。
    「お前がいなきゃ、笑えるかよ……」
    「うん、ごめんね、死んじゃって」
     謝るなよ、とまた泣いた。スーツにいくつも雫が落ちた。声を上げて泣いている間、ニキはずっと寄り添ってくれていた。温度も感触も無いのに、そばにいることがわかった。
    「燐音くんは、だいじょうぶだよ」
     なんの根拠があってそんなこと言うんだよ、鼻をすすって抗議する。ニキは、なはは、と力無く笑う。
    「僕が言うんすから、そう。燐音くんはだいじょうぶ。僕なんかが守らなくっても、だいじょうぶ」
     ニキの瞳にきらりと光る水滴が見えた。でも、ニキは笑っていた。努めて笑っていた。燐音も、少しだけ強がって、笑ってやる。
    「ニキのくせに生意気」
    「最後くらい生意気させてもらうっすよ」
     ニキの手が頬に添えられたような気がした。そして、近づいた唇が重なった気がした。そんな戦のような空中のせめぎ合い、わからないけど、わかった。
    「ばいばい、燐音くん。またいつか会おうね」
     その言葉と共に、ニキの姿はすっかり消えた。燐音は、自分の唇に触れながら涙をぐいと拭って、少しだけ前を向ける気がした。



    【the secret of sunflowers】
     背の高い向日葵に囲まれていると、段々不安になってくる。それなのにニキがどんどん前を歩いて行くから、燐音はそれに必死について行った。
    「止まれ、ニキ」
     声が届いていないのか、それとも敢えて無視したのか、ニキはどんどん前に進む。向日葵をかき分けて、道なき道を行く。どこに向かっているのか。なにをそんなにがむしゃらに進むことがあるのか。燐音はおいと呼ぶが、ニキは応じない。
    「ニキ、ニキってば」
     手を握ろうとして、ふい、と掠めた。ニキが手を退けたみたいに、燐音の手は宙を切った。なんなんだよ、と舌打ちしたくもなった。
     太陽の下で向日葵が踊っている。燐音の心の揺らぎを笑うようにふらふら左右に重心をもたげている。気味が悪かった。暑さで身体がやられているのかもしれなかったが、それ以上に不安だった。太陽の象徴のようなこの花が、怖かった。
    「ねぇ!」
     ニキが急に声を上げるのでつい立ち止まりそうになったが、食らいつくように早歩きをする。
    「秘密っすよ、ぜんぶ、ぜんぶ!」
     ニキは叫ぶように言っている。それが燐音に向けた言葉なのか、もしかして向日葵に向かって言っているのか、判断ができなかった。頭がぼうっとしていた。暑かった。汗が首をだらりと這う。焼け付くような太陽が肌を刺す。
     ふ、とぶつかった、ニキの背中だった。おい、とまた言った、ニキが振り返った。涼しい顔で燐音を見つめてくるので、ぞっとした。
    「燐音くん、だいじょうぶ?」
     無邪気な呼び声にくらくらした。もう、だめだと思った。



    【Lessons】
    「燐音くん」
     優しく気遣うように押し倒されて、静かに気が動転した。冷たい床に背をつけた燐音は、ぱち、と瞬きをする。自分に覆いかぶさるようにしているニキが、耳に髪をかけるのが、見えた。
     こちらを見つめる瞳にじっとり熱がこもっているのが嫌でもわかる。
    「なんだよ、退け」
    「ううん」
    「ニキ」
    「色気の無いこと言うんすね」
     すぅと近づいた顔、熱を帯びたニキの肌が見えて、どきりとした。
    「……近い」
    「そりゃ、近づいてるんで」
    「なんのつもりだ」
    「わかるでしょ?」
     更に距離を詰めようとしてくるので、顔を掴んで制する。
    「そういうのは、」
    「結婚してから?」
     手の隙間から、ニキが笑うように言った。燐音はそっと手を離す。ニキは相変わらず密やかにそこにいた。
    「ラブソングからなにも学ばなかったんすね。あれだけ熱心に歌ってるのに……」
    「なに言って、」
     つぃ、なぞられた唇、伸びているニキの指。そのくすぐったい感触にぞわりと身を震わせた。そのままつつつと輪郭をたどられて、こそばゆい、燐音はちょっと眉をひそめる。
    「ひとをすきになったら、なにをしたくなるのかとか」
     ニキの目が細まる。愛しそうに歪められた表情は、暑さにうなされているようにも見えた。
    「こんな時の、キスの仕方とか」
     なにを言ってるんだ、と噛みつく前に、触れた、柔らかい、唇と唇。ニキの胸を押した、突き飛ばすように離した。
    「お前……」
     呪うような燐音の声に臆さないニキが、燐音に跨ったまま、
    「かわいい燐音くん……」
     くすり、妖艶に笑った。



    【夜行バスで海へゆく】心中
    食べてたらぜんぶ忘れる あの夜にセックスしながら泣いてたことも

    結ばれて結ばれなくて法律は守ってくれないのならばいっそ

    もうずっと一緒になれるため死ぬか/永遠の生を得るか まばたき

    かなしみの欠片で埋め尽くされたのが海 しあわせを侵してくれる

    金曜の晩の便だと高いからどうせ暇だし週の半ばに

    「寝れねェよ、寝れねェんだよ」「だめですよ」「なにが?」「いまくらい起きていないと」

    青春だ! いま向かいつつある海はとても冷たくあったかいから

    塩分が多すぎるから浸してく おやすみなさい良い終末を

    「一緒ならどこまでだっていきますよ」「なら来世まで離れるなよな」
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    💘🙏❤💖
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