春の約束◆◆◆◆
街を行き交う人々の表情は、何時もと変わらず人其々悲喜交々と言った様子で。
しかしそれが「当たり前」では無い事を理解しているからこそ、自分が確かにこの世界を守る事が出来たのだと実感出来る。
あれ程までに、終末を待ち望むかの様な薄暗い歓喜か、或いは無気力に支配され生きる事すら投げ出しているかの様なそればかりであったと言うのに。そんな過去などまるで無かったかの様に彼らはそれを忘れているみたいだ。
影時間が消えた事が人々の心に良い方向に働いているのだろうか?
……僕が出来た事は、人々の心その物を変える事では無かったから、何時かまた同じ様に人々は「死」への想いに憑り付かれ生きる事を投げ出す様になってしまうのかもしれないけれど。……願わくば、それが少しでも遠い未来の出来事である事を願うばかりだ。
『奇跡』を起こした結果、僕はもう自分自身を使い果たしたも同然で。今の僕は、「約束」を果たす為に抜け殻が僅かに残された欠片で動いているだけの様なものだ。
……「約束」。そう、僕には果たしたい「約束」がある。
その為に、どんなに辛くても僕は卒業式の日まではどうにか生きていたい。
ただ……。
「……こっちの『約束』は、果たせないか……」
きっと、僕以外の誰も覚えていない『約束』を……。
交わした相手すらそれを知らない……知る筈の無いそれを、果たしたくても果たせない事に、残念さを感じてしまう。
彼が今何処で何をしているのかなんて僕は知らないし、探し出そうにもその『約束』を思い出したのはつい最近の事で探し出す時間が絶対的に足りない。何より、『約束』を交わしたのは今の彼では無くて、二年後の「彼」なのだ。
……僕の命はどんなに頑張ったとしても二年後までは持たないだろう。そもそも卒業式の日まで持たせる事自体ずっと「食いしばり」を続けている様なものなのだから。
それでも、果たせないのは分かっていても、果たしたいと思ってしまうのは。
「……もう一度、会いたいなぁ……」
閉ざされた迷宮の中で出逢った、僕とよく似た……それでも全く異なる宿命を征くもう一人のワイルドの姿を、脳裏に思い描く。
共に過ごした時間がとても長かった訳では無いけれど、その時間の中で得たものはとても大切なもので。
思い出す事は出来なくても、確かに僕は……僕たちは変わっていた。その変化は、『無かった事』には決してならなかった。
彼との出逢いで僕の旅路やその結末に何か変化が起きた訳では無い……起こす訳にはいかなかったからこそ僕が思い出したのが『奇跡』を起こした瞬間であったからなのかもしれないけれど。
それでも、彼との出会いによって変わったものは確かにあったのだと、そして僕は確かに彼が……この先の未来で彼が大切な仲間達と出逢い彼自身の旅路を征くその世界を守る事が出来たのだと、そう実感したくて。
僕は、彼に会いたかった。『また、何時か』を、果たしたかったのだ。
……それを叶える事が難しいのは分かっていても。
彼の事を考えていたからか、その時ふと視界の端にあの銀灰色が揺れた様な気がして。
咄嗟に、鉛の枷を付けられている様に感じる重い身体を引き摺る様に、人の波の中に揺れたそれを追い掛ける。
一歩、二歩と、人の波を掻き分ける様に進んだその先には。
見間違える筈なんて無い、僕の記憶の中に在るそれよりも幾分か低い……それでも二歳程歳は離れているのに僕よりも高い背丈が。とても見覚えのある銀灰色の髪を吹き行く風に微かに揺らしながら歩いていた。
その身を包む制服は、見慣れていた「八十神高校」のそれでは無くて、月光館学園の中等部の制服で。
僕が息を呑んでその後ろ姿を見詰めている事になど気付きもせず、駅の方向に向かって歩いていた。
確かに月光館学園は小中高と揃っている上に各学年の人数も膨大であるからこそ、部活やらでの繋がりでも無ければ高等部や中等部や初等部がそれぞれに交流を持つ事は無いけれど。
それでも、同じ学校に通いながら彼の姿を一度も見掛けた事も無かったと言うそれは、何かの作為すら感じてしまう程のものだった。
「……悠」
今目の前に居る彼は、『約束』を交わした二年後の彼そのものでは無いと分かっていても。感動の様な、言葉にし難い感情の波が奥底から湧き上がってしまう事は止められず、吐息の様に彼の名前が唇から零れてしまう。
雑踏の中、何処にも届かず消えてしまう様な囁き声の様なそれに。
しかし、随分と前方を歩いていた筈の彼は、やおら振り返る。
そして、僕の姿を認めて、少しばかり目を丸くして首を傾げた。
「……あなたは、確か……。高等部の、結城先輩ですよね」
僕は彼の事を知らなかったのだが、彼は僕を知っていたのだろうか?
どうやらそうだった様で、部活で好成績を残している先輩として中等部でも話題になっていたのだと言う。
……ひっそりと観察してみたが、彼には『約束』やあの迷宮での記憶は無い様だ。まあ、彼にとっては未来の出来事であるのだから当然だが。
「……こうして会うのは初めてですが、何でしょう……何となく結城先輩には不思議なものを感じます」
同学年として出逢った彼の敬語はどうにも新鮮だ。
だがそれも悪くは無い。
今はまだ彼の旅路は始まっていないが、それでも彼にはこの時既にワイルドの素養があるのだろう。だから、ワイルド同士何か感じるものがあるのかもしれない。
「そうだね、僕も君には何か不思議なものを……ある種の運命的なものを感じる。……『わいるどぱわー』、ってやつかな」
『ワイルドパワー』? と、効き馴染みの無いその言葉を反芻する様に彼は首を傾げる。まあ、その言葉は二年後の彼自身が口にするのだが。
「君は……中等部の三年か。来年は高等部に?」
なら高等部で後輩になるのかな、と。それは決して叶わない事であるとは知りながらそう尋ねると。
彼はゆるゆるとその首を横に振る。
「いえ、俺は高校は別の所に通います。親の仕事の都合で、この春で引っ越す事になっているので。
そもそも月光館学園自体も一年程度通っただけですし……」
最近は色々と世間が騒がしくなっていたが、彼自身は高校受験で忙しかった様だ。
親戚中を盥回しにされていた僕とはまた違うが、彼もまた色々と大人の事情に振り回される側ではあるのだろう。
淡々と、別の場所に移動しなければならない事を口にする彼の目の奥には、何処か「居場所」を求める様な光があった。
……二年後、彼が何にも代え難い絆と、そして「居場所」を得る事は知っているけれど。それはまだ未来の話で。だから。
「……そっか、それは少し寂しいな。
先輩として君には色々と話したりしたかったのに。
まあでも、君はこれから先の高校生活で本当に沢山の大切なものを手に入れるよ」
「まるで断定する様に言うんですね」
「う~ん、勘の様なもの……ではあるけれど、でもきっと確実な未来だ」
彼は、よく分からない様な顔をしている。きっと今は分からないし、そしてその時になったらきっと僕の事は忘れているのだろう。それでも、構わなかった。
「だから、頑張ってね。
先輩として、君の事を応援しているから」
交わした言葉はそう多くは無いけれど、それでも何かは彼の中に残るかも知れない、思い出す事は無くてもきっと「無かった事」にはならないから。
「困った時は、『わいるどぱわー』を信じて」
再び首を傾げた彼にそれ以上は何も言わず、駅へと去る彼を見送る。
心は随分と晴れやかで。蕾が綻び始めた桜の枝を見上げて、春の訪れを待つのであった。
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