「気分でも優れないのか」
窓を打つ雨音に紛れ、背後から意外な台詞がトーランドの耳に飛びこんできた。
トーランドは食器を洗っていた手をぴたりと止め、目を丸くして後ろを振り返った。見れば、声の主──ムリナールは少し離れた位置にあるベッドの縁に座り、広げていた新聞を下ろしてトーランドの表情をじっと窺っている。
言葉が出てこないトーランドとそのまま数秒見つめ合ったあと、ムリナールは小さく息を吐き、すいとトーランドから視線を逸らした。
「……余計な世話だったようだな」
流れるような長い尾が、不服そうにシーツをぱしぱしと何度か叩く。トーランドはそれでようやく我に返った。
「悪い悪い! 俺みたいな相手までわざわざ気遣うたぁ、あの暴れ馬も随分大人になったもんだと思ってよ……」
トーランドは苦笑して、それから自分の側頭部を拳でこつんと軽く叩いた。
「ま、ちっとばかし角が痛ぇだけだよ」
角。正確には、削ぎ落とした角の跡のことだ。
ムリナールは逸らしていた視線を再びトーランドに戻した。
「大事無いのか」
「ああ、雨の日は頭痛がどうの古傷がどうの~みたいな類の話だ。晴れりゃ治まる」
トーランドは特に気にかける様子もなく再びシンクに向かい、中断していた食器洗いを再開させた。
会話を終えた部屋の中に残った音は、食器が触れる音と、蛇口の水音と、それから──窓の外でずっと降り続けている、雨の音だ。
ムリナールは新聞を置いてベッドから腰を上げ、静かにトーランドの元へ歩み寄った。そして隣に並ぶとさっと横から食器を奪い取り、呆気に取られるトーランドを余所に、代わって食器を洗い始めた。
「……今日は休め」
「待てそんな、人を病人みてぇに。別に大した話じゃ──」
「休めと言っている」
普段より幾分低めのムリナールの声には、有無を言わさぬ圧がたっぷりと込められている。こうなるとムリナールは絶対に意見を曲げないのだ。トーランドは諦めて〝お手上げ〟のポーズをとった。
「そこまで仰るならまあ、ご指示に従わせていただきますかね……どっかの騎士様もこれくらい素直に休んでくれりゃいいんだがなぁ?」
「……」
言い返されることまで想定していなかったのか、ムリナールはぐっと言葉を詰まらせた。それを見て軽く笑いながら、トーランドは手を洗って、大人しくベッドの方へ向かっていった。
しばらくして食器を洗い終えたムリナールが振り返ると、トーランドは脚を下ろしたまま上半身を仰向けにベッドに投げ出し、じっと目を瞑っていた。普段弛んでいることの方が多い眉間には、軽く皺が寄っている。
ムリナールは努めて静かにベッドに戻り、トーランドの隣にそっと腰を下ろした。すると意外にもトーランドはぱっと瞼を開け、そして妙な笑みを浮かべてムリナールの顔をじっと見上げてきた。
「なあ。膝貸してくれ」
「……その方が寝心地が悪いだろう」
「たまに会った日ぐらい俺だっていちゃつきてぇんだよ。それに膝枕なんて、それこそ角があったらやりづらいことの代表格だし?」
期待のこもった笑顔に負け、ムリナールは小さく溜め息をついてから自分の膝をぽんと軽く叩いた。
トーランドは嬉々としてベッドに這い上がり、ムリナールの膝に勢いよく倒れ込んで、それから比較的寝心地の良さそうなポジションをもぞもぞと探り始めた。ムリナールが黙って見ていると、トーランドは結局ムリナールに背を向けて横向きになることにしたらしい。次第にトーランドの体からは力が抜け、同時にムリナールの膝に徐々に頭の重みがのしかかってくる。
ふう、と息を吐いて落ち着いたトーランドの肩から癖のある黒髪が滑り落ち、ムリナールの膝の上にぱさりと広がった。
少しの間ムリナールはトーランドの頭を眺めていたが、何となく手持ち無沙汰になり、毛先を一房つまみ上げて指先でくるくると弄び始めた。
膝枕のセオリー通りの行動をするムリナールが可笑しくて、トーランドはつい小さく肩を揺らしてくつくつと笑った。笑いの意図をムリナールも察したが、今は特にそれに噛みつく気は起きなかった。
「……角には、触れない方がいいか?」
「いや、むしろ今は助かるかも」
控えめな問いにトーランドは簡潔に答え、そして緩く瞼を閉じた。
ムリナールの指先が、角の跡にそっと触れる。
髪の間でそこだけ硬く盛り上がった断面を、指の腹がゆっくりと撫でていく。鈍いとはいえ、付近には神経が通っているのだ。少し擽ったいような、それでいて心地良いような独特の感覚に、トーランドは小さく身を捩った。
「……不快だったか」
ぽつりと呟いて、ムリナールは角からすっと手を引いた。満喫していたトーランドは一瞬何のことか分からず、顔を傾けてムリナールを見上げた。
ムリナールは相も変わらず仏頂面だったが、その表情からはわずかに申し訳なさのようなものが感じられた。それでやっと、トーランドは先程の身じろぎをムリナールが悪い意味に取ったことに気付いた。
「や、逆だ逆。気持ちよくってよ」
「ならいい」
「ん」
そしてまた、ムリナールは同じことを続けた。
少しずつ、指先が触れる面積が増えていく。ムリナールの手の温度が、じわりじわりとトーランドの頭蓋に染み込んでいく。
本来なら角の中を血が巡っているのだから、ここにこの温度があって然るべきなのだ。久々に感じる据わりの良さが心地よく、トーランドはついうとうとと微睡み始めた。
「……寝ろ。いつも私ばかりが寝てしまうだろう。たまにはお前がゆっくり寝ればいい」
低く静かな声が、トーランドの頭上から降ってくる。トーランドはムリナールに背を向けたまま、呆れたように小さく笑った。
「それはまた別の話だろ。俺はちゃんと交代制で定期的に熟睡してるからいいんだよ。……お前、俺と居る時ぐらいしかまともに寝れてねぇだろ。人間、何も考えずに寝る日は必要だぜ?」
「……今くらいはそういう気を回さずに、大人しく寝ろと言っている。何度も言わせるな」
ムリナールの声の圧がまた強くなる。トーランドは苦笑して、それから少々面映ゆそうにぽそりと呟いた。
「ありがとな、ムリナール」
「……礼を言われるような事でもない」
ぶっきらぼうな答えだったが、ムリナールの声は柔らかかった。
トーランドは口元にじわりと笑みを浮かべ、そして控えめで温かな心遣いに身を預けて、ゆっくりと眠りに落ちていった。
了