「……それ以上ちかづくな」
ふーっ、ふーっ、と荒く息を吐く少年を眺めてモラクスは腕を組み、少しの間考えるそぶりを見せた。
ぼろ布を纏い、手入れされていない前髪の隙間から鋭い眼光でこちらを睨みつけてくる少年は、手負いの獣…いや野良犬のようなものだった。汚れの1つないオーダーメイドのスーツに身を包み、威圧するように立ちふさがるモラクスとは対照的に、地に尻を付け動くことのできない状態であってもその紫紺の瞳から諦めの色は見えない。
「俺はお前たちを殺しはしない」
「だまれ」
モラクスのことばを歯牙にもかけず切り捨てる。しかしその腕の中に抱えた、同じ体格の少年を庇う腕に力が入るのが見えた。
今しがた、モラクスが回収しにきたのは彼が健気にも必死に守っている腕の中の少年だ。数分前、彼らの住処であると思われる路地裏の先にある小さな空き地でぼんやりとしているところを見つけ連れ出そうとした。しかし、モラクスが目標の腕をつかむより先に後ろから少年が殴りかかってきたのだった。
「タルタリヤに手を出すな……か。俺は興味がないんだが、うちの弟がそれに用があるらしい」
「渡すわけがないだろ!」
高圧的にモラクスが言い放ち、後ろにも数人の黒服を着た男たちが控えていた。ただの子どもであればそれだけで泣き喚く程の威圧感だった。
それでも少年は気丈に振る舞い、ただひとりでその腕の中の存在を護っているらしい。しかし、抱えられたタルタリヤはぴくりとも動かない。されるがまま、抱き寄せられているだけだ。
モラクスが見つけたときもそうだった。近寄っても、何か反応を返す様子がないのだ。
「……先ほどから懸命に守っているのは結構、だが一向に動く様子が無いな。病でも患っているのか」
問いかけてもぎゅっと結ばれた口は何も語ることなど無いと言わんばかり。あぁ。だからあいつ本人に出向かせたかったのだ、こういうのは性に合わん。そう判断して、後ろに控えた部下に後を任せるとモラクスは背中を向ける。
「面倒だ、野良犬が1匹増えたところで文句は言わないだろう。そいつも連れていけ……あぁ、喚かれてはかなわん、少し黙らせてやってくれ」
そうして指示をだしてすぐ、未だ青年になりきらない幼い悲鳴と、鈍い暴力の音とともにモラクスは薄汚れた路地裏を抜け出した。
◇ ◇ ◇
「ぅ、ん……」
ひどい空腹で目が覚める。しかし、その慣れ親しんだ感覚に加えて頭からも痛みを感じた。そうして体を起こそうとして、じゃらりと耳障りな音がした。
首にある違和感、そうして意識が途切れる直前のことが頭の中にフラッシュバックした。
体の不調のことなど忘れ、飛び起きてあたりを見回す。見たこともない部屋、己が飛びあがったのは白いシーツといくつものクッションにあふれた大きなベッドの上。そうして、右手につたわるあたたかな温度に気がつき、そちらを見ればすぅすぅと穏やかな寝息を立てる片割れ、タルタリヤがいた。
しかし、そのからだは清潔に洗われているようで、髪は整い、着せられた服も上等なものであると一目でわかる。だがそんなことよりも目を引くのは装着された首輪。細身でシンプルながら中央に金色の宝石が埋め込まれた首輪には鎖がつながれており、ベッドの下へと続いている。
向かい合うように眠らされていた、そんな体制で眠り続ける片割れを見て心の底から安堵して、次に首輪を掴み深い絶望を感じた。
一体何がどうなっているのか。これから自分たちはどうなってしまうのだろうか。
状況に混乱しながらも、とにかく逃げなければならないとタルタリヤの首輪に手を掛ける。そうしてじゃらじゃらとなる耳障りな音が自分自身の首からなっていると気がつく。自分自身も目の前の片割れとそっくりそのまま同じように着替えされられ、首輪をつけられているようだった。
思い出すのは、タルタリヤを連れ去りに来た男のこと。今までに出会ったどんな大人よりも恐ろしく、敵わないと本能で感じた。
それでもタルタリヤを守らねばならなかったのだ、だが彼が指示した黒服たちに襲われた瞬間意識を失ってしまって。
「俺がまもらなきゃ」
自分に言い聞かせるように繰り返しながらタルタリヤの首輪を外そうとする。しかし鍵穴さえ見つからないそれは人の、それも子供の手で壊すには丈夫すぎる。ならばと繋がる鎖の先を追いかけ、ベッドしたを覗き込もうとすれば反対側につながった己の鎖が喉を絞めた。
「ぅっ」
はやくここからにげださなきゃ、何されるかわからない。あんな路地裏で暮らすこどもなど人攫いの格好の餌食なのだ。売りさばかれ、二度と戻ってこなかったこどもたちを何人も知っている。自分はいい、せめてタルタリヤだけでも、そう思いはすれ首からつながる鎖が行く手を阻む。
「目が覚めたか」
「っ、!」
がちゃり、ドアが開くとあの男が立っていた。咄嗟に、眠りにつくタルタリヤをかばう様に前に出てアヤックスは腕を広げる。
「来るな!」
精一杯の虚勢を張って叫んだ言葉に男は柔らかく苦笑した。敵意は無いとでも言いたげに両手をひろげベッドに近寄ってくる。
「少し落ち着け。手荒な真似をしてここまで連れてきてしまったことを謝罪しよう」
「俺たちをどうする気だ」
男はアヤックスの言葉を無視して近寄り、そしてアヤックスと目線を合わせるようにベッドに腰を掛けた。タルタリヤの傍から動くことのできないアヤックスは殴りかかるでもなくその顔を睨みつける。
「落ち着けと言っているだろう。俺の名前は鍾離という――お前たちを連れて来たのは俺の兄だ。ずいぶんと怖がらせてしまったらしい」
兄。その言葉にアヤックスは耳を疑う、それほどまでに目の前の男と記憶のなかにあるあの男はそっくりだった。しかし柔和に笑う表情は、先ほどの様子とまるで違う。兄といったが、双子なのかもしれないと後ろで眠り続けるタルタリヤをちらりと見る。
そんなアヤックスに鍾離が口を開く。
「端的に言うと、お前たちが欲しい。だから連れて来た」
だから危害を加える気はない、落ち着け、と。鍾離のことばは柔らかく、アヤックスは眉をしかめる。――そんな話、信じられるわけがなかった。
「俺たちをもとの場所に返してくれ」
「それはできないな」
「……どうせ売り捌いて金にでもするんだろ」
「俺はお前たちが欲しいんだ。どうしてそんなことをする必要がある?」
人好きのする笑みをうかべて鍾離が首を傾げる。だがこの異様な状況にその顔はいびつに思えた。
しかし、鍾離がアヤックスやタルタリヤに今すぐ手を上げる気はないらしい。どうやってここから抜け出せばいい。そう考えるアヤックスの後ろで、「う、ぅ、」と小さなうめき声が聞こえた。
「っ、タルタリヤ!」
ゆっくりと深海のひとみが姿を現す。ぼんやりとゆれる視線はやがてアヤックスを映し、そうしてまた瞼を閉じた。
「おや、起きたのか」
「タルタリヤ、タルタリヤ、おきて、ねぇ」
「ぅ、や、ぁ……」
アヤックスが肩をつかみ揺らしてもタルタリヤが目覚める様子はない。それ自体はいつものことだ。朝、タルタリヤが目覚めるまでには数時間単位で時間がかかる。だが今はその覚醒を待っている状態ではないのだ。
「タルタリヤ、ねえってば」
「寝かせてやったままで構わない」
「うるさい!」
「おや」
男の手がタルタリヤに伸びる。瞬間、首輪につながれた不自由な体のままアヤックスはその腕を蹴り上げる。足は空を切り、反応した男が蹴り上げられた足をつかむ。なればと体を捻り拳で顔を狙う。
持ち上げられた足を軸に小さな体を器用に使う姿に、ベッドに座り込んだ体制の男は「ふむ」と声を漏らした。そのままこともなくアヤックスの攻撃全てを躱し、そうして一人納得したように「やはり」と頷いた。
そうして、にこり、と誰が見てもわかる喜色を浮かべて言い放つ。
「うん、連れてきて正解だった。お前たちのことを飼ってやろう」
「は、」
「今日からお前たちは俺の飼い犬だ。可愛がってやる」