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パン、と小気味よい音が辺りに響く。
音とは裏腹に、周囲にいた仲間達は目を丸くした。
その音源──差し出されたムワイの手を、ルックが容赦なく掌で弾いたからだった。
「どういうつもり?」
静まり返った空気を動かしたのは、その原因でもあるルックだった。
帝国軍の刺客が襲いかかってきたのは、数刻前のことだった。まさか、既存の地図に載っている村全体を城塞に擬態しているとは露にも思わず、既にもぬけの殻となっていた村に閉じ込められる形で待ち構えていた多数の兵士達と乱闘することとなった。
ビクトールやフリック、経験を積んでいる仲間を引き連れていたのが幸いし、敵を薙ぎ倒しながら村から抜け出すことができたが、詠唱もままならず半ば無作為にテレポートで戦線離脱することとなった。
帝国軍を振り切れたのは良かったが、降り立った場所が獣達の縄張りだと予想だにしなかった。
環境に適応した獣たちとは裏腹に踏み込む足を砂地に取られて俊敏さに欠ける一行は、動きの読みにくい徒党を組んだ獣の群れにいつになく苦戦していた。
「ぐ……ッ!」
そんな、全員が目の前の敵に手一杯になっているところを狙われた。
接近戦に弱いルックが敵の突進を喰らい、後方へと跳ね飛ばされた。受け身を取る隙すらなく転がる姿に追い打ちをかけようと、周囲の獣がルックに一斉に飛びかかった。
「ルック!」
ムワイは己に向かっていた獣を足蹴にし、ルックの元へと弾け飛んだ。宙を舞う獣を長棍で薙ぎ払い、そのまま武器から手を離すと、棍の死角から牙を見せた獣の口内へ己の拳を突き入れた。革手袋をしていたとはいえ、獣が持つ鋭利な牙と強靱な顎の前では無傷で済まない。鮮血が腕を伝うのをそのままに、ムワイは獣の頭部を己の拳ごと地面へと叩き付けた。
力の抜けた獣を脇へと放り投げてから、血濡れたままの右腕を掲げた。途端、周囲を渦巻く黒い影が獣の足や胴を捉え、容赦なく襲いかかる。流れる汗を拭うことなく紋章が完全に喰らうまでムワイは見続けた。
闇が引くのと同時に糸の切れた人形のようにバタバタと地に伏せる獣達を見回してから、ムワイは倒れていたルックへと汚れていないほうの手を差し出して──今に至る。
「僕はただ、ルックに怪我をしてほしくなくて────」
「それがありがた迷惑だって分かってて言ってる?」
「…………でも」
「軍主の自覚が足りないんじゃないの?」
ルックの言葉にムワイの顔が歪む。それでも尚、言葉は流れるように紡がれる。
「おい、ルック。いくら何でもそんな言い方はねーんじゃねーの?」
肩に付着した砂埃を叩きながら口を挟んだのはシーナだった。有無を言わせずにムワイの手袋を取り去ると、獣の牙で切れた包帯と血に塗れた右手、普段は隠している死神を模した紋章が見えた。
どこから取り出したのか、手にしていた包帯とハンカチをムワイの手に巻き付ける。
「仲間を助けるなんて、当たり前のことだろうが」
「仲間はね。でも、ムワイは軍のリーダーだよ。頭首を失った軍隊がどうなるか、あんただって簡単に予想できるでしょ?」
「そりゃあ、大袈裟な」
肩を竦ませてみせるシーナに、ルックは盛大にため息をついた。
「今はいい。ただの獣だから怪我だけで済んだ。これが戦争ならどうなる?味方を庇っていたら、命が幾つあっても足りないよ」
「ほら、そんなところで痴話喧嘩してないで、さっさと城に戻るぞ」
声に顔を上げると、フリックが呆れ顔を浮かべていた。状況を見てか、既に剣は鞘に収められている。
「あ、ああ、そうだね。ごめん」
「……本当に大丈夫か?」
顔を覗き込んできたシーナの額を手のひらで押さえて、ムワイは笑って見せた。
血濡れた手で緩く拳を作ってみるが、布地から血が滲む様子はない。
「ムワイ、傷を見せて」
「大丈夫だよ。それより、ここから早く移動したほうがいい。瞬きの手鏡を使うから、皆も近くに寄って」
伸ばしてきたルックの手を避けるようにムワイは腕を引っ込めていた。ルックの手を己の血で穢すのは躊躇われたからだった。
それに、軽傷とはいえ血を臭いを辿り、更にモンスターを誘き寄せる羽目になっては適わない。既にパーティの疲労は溜まってしまっている。すぐにでも帰投したほうがいいだろう。
「……分かった」
手鏡を煌めかせた瞬間に見えたルックは、眉間に深い皺を刻んでいた。
本拠地まで戻るや否や、ムワイはルックに手を引かれて否応なしに部屋へと押し込まれた。
然程広くはないが、星見の道具や書籍に囲まれた部屋は、ムワイの部屋とは趣が違う。思わず背筋が伸びる中軽く肩を押され、促されるがままムワイがベッドに腰掛けると、ルックが太腿に乗り上げてきた。その体温に一度鼓動が高鳴ったが、目の前に迫るルックの瞳がいつになく真剣な色を帯びていて、ムワイは息を呑むことしかできなかった。
「……傷」
「えっ?」
二の腕に触れたルックが言う。
「傷、見せて」
「でも」
「お願い」
その言葉を皮切りに、ルックはムワイの右手に触れた。
痛みはあるが、悶え苦しむほどのものでもない。なのに目の前のルックは未だに顔を歪めてムワイを見詰めている。
「痛かった?」
「大した傷じゃないから……然程」
「そう」
言いながら、施された応急処置を解こうとするルックの手を止める。
「あまり、見ても気分の良いものじゃない」
ルックに対して口にした言葉に嘘はない。実際、手を使うのに支障があるほどの痛みは生じていなかった。予測していたよりも血が流れてしまったから、痛々しく見えてしまったのだろう。
とはいえ、患部を見せるのは抵抗がある。ルックの手を離そうと伸ばした左手を、軽く叩かれた。
「傷を増やしたくないなら、動かないで」
言うと、ルックは器用に風の刃で傷を押さえていた布地を裂いた。乱雑に巻かれていたハンカチと包帯を取り除いてはテーブルへと置いていく。
真の紋章を宿してからと言うもの、怪我の治りが周囲よりも早くなっていると自覚していた。まるで生と死を司る紋章が宿主を生かそうとしているように。
現れたムワイの手は血がこびり付いていたが、やはり既に出血は止まっている様子だった。問題ないところを見せるために手を動かそうとして、ルックに手首を押さえつけられる。
「ルック!」
そのまま右手を口許へと掲げたルックの意図を察して、ムワイは思わず声が荒げた。
「血は止まってても、傷はある」
「でも、こんな……駄目だ。やめてくれ」
「ムワイにこんな傷、残したくない……」
以降に続くはずだった言葉は、ルックが手の甲に唇を付けたことで有耶無耶に掻き消えていった。
撫でるように、労るように、癒やすように。頭や手を動かしながら舐られる。
ルックが舌を這わせる度に、静かな空間に水音が響く。触れた先から魔術が編まれているのだろう、施しを受け、皮膚が吐息を感じると共に徐々に痛みが和らいでいく。
口許を、頬を、手指を血で穢しながら、献身的に手の甲を、指を、肌を丁寧に舐めしゃぶっていくルックの様子に、ムワイは唇を噛んだ。
こんなこと、決してしてほしくはない。なのに言葉を飲み込んでしまったのは、ルックの瞳があまりにも切実な色を孕んでいたからだった。
「ルック……」
傷が消え、付着していた血液がある程度落ちると、ルックはようやく顔を上げた。
「もう僕を庇うなんて絶対にしないで」
「ごめん。それは約束できない」
「どうして?」
「僕はルックが傷つくと分かっていて、見過ごすことなんてできない」
「それは僕も同じ……でも、常に君の傍にいることもできないんだよ」
こんな戦乱の最中じゃ、と続けられた言葉に、ムワイは頭を殴られる心地がした。
考えないようにしていた。知らぬ場、知らぬ時にルックが害されることもあるということを。
少人数でパーティを組んでいるときはいい。それが大規模な戦争なら。
大群を率いる道標としてムワイは先陣を切る。戦場で、一ではなく全を見る。隊を生かすためならば、個を見過ごすこともある。戦争とはそういうものだと習ってきたし、勝利を掴み取るためにらそれが何より大切なのだと実感している。
そんな、ムワイの知らぬところで、ルックが深手を負ってしまったら。
「だから……怪我するなんて許さない」
ひとたび戦争が始まれば、重症にはならずとも少なからず怪我はする。それを知っているだろうルックから放たれた暴論に、ムワイが反論する前にゆるりと腕が背に回った。痛みが伴うほどに力が込められる。
「君に傷を付けるのは、僕だけだ。僕に傷を付けるのも、君だけだ……ムワイ……」
顔を寄せられ、ルックが唇を合わせた。愛おしむように何度も唇を食む。ムワイもそれに促されるがままに舌を絡ませた。
日頃甘さすら感じているはずのルックの口内は、苦い、鉄の味がした。