100日後にくっつくいちじろ28日目
「二郎、起きてっか?」
トレーを両手に、肘でドアノブを押して二郎の部屋に入ると、部屋の主は布団の隙間から手をにゅっと出し、力なくひらひら振った。
「おきてるー……」
「おー、お粥食えそうか?」
「え、もう昼……?」
「おう、寝込んでると時間感覚狂うよな」
「まじか……あ、お粥、食う。食える」
のっそりと起き上がる二郎の顔は赤い。びっしょりと汗をかいたようでパジャマがぺたりと肌に張り付いている。
「気持ち悪い……」
「えっ、吐きそうか?」
「あ、ごめん違う。汗だくで気持ち悪い」
「ああ、食い終わったら着替えような」
ある程度食べやすいように冷ましてきたお粥を持ってベッドの横に座るとスプーンでひと口すくって二郎の口元に添えた一郎。そんな兄の行動に二郎は思わず声を上げて笑った。
「あはは、さすがに自分で食えるよ」
「あ……そうか?」
「ガキんちょじゃないんだから」
でもありがとう。そう言って一郎からお粥とスプーンを受け取り、膝をテーブルにして口に運ぶ二郎。
「んー、うまい。鼻が詰まっててあんまわからないのが残念だけど」
「そりゃそうだよなあ」
「あ……てか、ごめん。せっかく作ってくれたのに、昨日の弁当食い切れなかった」
「ああ、気にすんな」
よりによっておかずが唐揚げだとかコッテリ系だったのだ。無理して完食していたら余計に気持ち悪くなっていたかもしれない。しょんもり、と肩を落としている二郎に笑いながら、部屋の窓を開けた。
「今日はちょっと寒かったんだよ。少し換気で開けるけど寒くねえか?」
「うん、ちょうど気持ちいい……てか、兄貴、仕事は?」
「今日は家仕事だけなんだ。明日は昼間ちょっと出ちまうが、午前中と三時以降は家出できる依頼に切り替えたから」
「え、まじで……!?ごめん、ひとりで大丈夫だよ!?」
「俺が心配なんだよ」
ぽん、わしゃわしゃ。頭を撫でると「汗かいてるから!」と熱い手で止められた。
昨日受診した病院でも季節の変わり目で引いた普通の風邪、と診断を受けていた。薬を飲んで寝ていれば治ると。吐き気もないし、食事も摂れているので恐らく二郎の言う通り大人しくひとりで寝ていれば大丈夫なのだろう。しかし自分が心配で落ち着かないのだと一郎は苦笑いして弟を諭した。
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薬を飲ませ、氷枕を交換して、蒸しタオルで汗を拭かせ、新しいパジャマを着せて。風呂はまだキツいので完璧にはすっきりしないがだいぶ気持ちが良くなった二郎。再び仰向けに寝転ぶと、兄は優しい表情で掛け布団をふわりとかけ直してくれた。もう戻るだろう。ここにいてもやることはないし。そう思っていた二郎だったが、その予想とは裏腹に兄はまたベッド横の椅子に腰を落ち着けた。
「兄貴?」
「ん?」
「もう大丈夫だよ」
「おう」
「……えと、ここにいてくれなくても大丈夫って意味なんだけど」
「なんだよ、俺がいたら嫌なのか?」
「そうじゃないけど……」
「じゃあいいだろ、今度行く依頼の資料読み込んどかなきゃなんねえんだけど、事務所で読んでもここで読んでも一緒だしな」
いつの間にか持ってきていたらしい書類を手の甲でバシバシ叩く一郎。ここで仕事をするらしい。
「ええ……でも俺、咳するし、うつるよ」
「大丈夫だよ。いいから寝てろ」
「強情だなー……」
「サンキュー」
「褒めてない……」
二郎は鼻の上まで掛け布団を持ち上げて兄を見上げる。一郎は書類に目を落とし、その緑と赤の瞳を左右に動かす。チ、チ、チ、といつもは全く気にならない時計の秒針の音。外から僅かに聞こえる車のエンジン音、兄が書類をめくる音。二郎はいつの間にか重くなってきた瞼に抵抗せず、そのまま微睡んだ。
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「……寝たか」
書類を半分、頭に入れ終えた一郎はふと顔を上げて弟を見た。瞼は伏せられ、すうすうと掛け布団が一定感覚で上下に動いている。汗は引いているようだが、今度は眉間に皺を寄せて少し寒そうに見える。僅かに開けていた窓を閉め、用意してあった毛布をもう一枚、上からかけてやる。そっと頭を持ち上げて、氷枕からバスタオルを巻いた普通の枕に変える。するとどこか先程までより苦しそうな表情が和らいだ気がしてホッとする。
「過保護なんだろうな、俺は」
何度も二郎本人に甘やかしすぎだと言われているが、体調が悪い時くらい何も考えず甘やかしてやりたいのだ。これが弟としてなのか、それ以外のものなのか、まだ煮詰まったまま明確な回答は出ていないが。そばにいたい。ずっと、どんな形でも。二郎の寝顔を眺めながら、山田一郎はそう思ったのだった。
2024.11.20