100日後にくっつくいちじろ30日目
「にいちゃん、おやつどーぞ」
また小さい頃の夢だ。
一郎は夢の中でそう自覚していた。昔のまだ両親と一緒に暮らしていた頃の風景。さすがに細かな部分までは鮮明には覚えていないからか、印象派の画家が描いたようにぼかされた優しい色合いの空間であった。そこで一郎は横になって、それでもって布団で寝ている。自分もまだ小さな子供であるとなんとなく自覚はあったが、小さな足音を立てて近づいてきた二郎が漸くお喋りを覚えたくらい小さい。二郎は「どーぞ」のブームだ。少し前までは自分の好きなお菓子やオモチャはテコでも離さなかったのに最近はこうして人に何かを分けてやって、それでお礼を言われるの二郎のブームなのだ。その要領で幼い二郎はその小さな手で握った好物のソフトせんべいを一郎に差し出している。風邪をひいている人間にソフトせんべいはどうなんだ、と思うが二郎は小さくて分からない。それどころか寝ている一郎の腹に上半身をべたりと乗せてくるものだから少し苦しくて一郎は身を捩りながら二郎の頭を撫でた。
「じろー……」
「はーい」
「風邪になっちゃうから、お母さんのとこ行って……」
「どーぞ」
「う、うん。ありがとう」
一郎のお話はフル無視で、あくまでソフトせんべいを押し付けてくる。
一郎は幼いながらも風邪は人にうつるものだと理解していて、二郎をどうにか遠ざけようとするがべったり張り付いて離れない。二郎は年中『兄ちゃん』ブームなのだ。
引き剥がす体力は出ず、仕方なしに兄は弟の頭をよしよしと撫で続けた。
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近頃、よく幼い頃の夢を見る。
夢に出てくる二郎は純粋無垢で兄ちゃん兄ちゃんと自分の後をついてきて、良く笑い、よく泣いた。それが可愛くて弟がまさに宝物であった。
しかし目が覚めて、最近その弟に抱いている別の感情が少しでも頭を掠める度に、夢に見たあんなに純粋無垢で大事な弟に自分はどんな感情を抱いているのだと反吐が出そうになる。夢で兄ちゃんと呼ばれる度に土下座して謝りたくなる。弟を自分が汚している気がしてならないのだ。
「二郎……は、寝てるな」
夜、三郎とリビングで食事をして風呂に入って、ちょくちょく二人交代で二郎の様子を見に行きつつテレビを見て。すっかり夜だ。そろそろ寝ようと就寝前に二郎の部屋を覗くと部屋はすっかり真っ暗で、布団の塊が静かに寝息で僅かに上下している。寒くないだろうか、少し前は氷枕にしていたが。静かにベッドを覗き込むと二郎は仰向けで比較的落ち着いた表情をして静かに寝ている。冷却シート越しに額に触れるとまだじんわり熱い。寒そうでもないし、このまま氷枕で良さそうだ。枕元に散らばった冷却シートのゴミやらティッシュやらをゴミ箱に突っ込んで夜中に目が覚めてもいいように近くに開封済みのスポーツドリンクを置く。
「……お前が元気ねえと調子狂うな」
早く元気になれよ。ごく僅かな声でそう呟くが当然返答はない。深く寝ている。小さな頃は風邪をひくと大量のカエルに追いかけられる夢を見てわんわんと泣いていたけれど、今でもその夢は見るのだろうか。そう思っていると二郎の眉間にぐっと皺が寄って少し寝苦しそうに唸った。一郎はそっと額から頭にかけて優しく撫でてやった。そうすると昔からすっと落ち着くのだ。……変わってないんだな、と笑えてくる。
そうしているうちに一郎は無性に泣きたくなった。弟の穏やかな寝顔を見て、今すぐ全てを吐露して謝って、それで泣いてしまいたかった。ぐうっと拳を握る。いつからこんなことになってしまったのだろうか。こんな大事な実の弟に手を出す兄着がいるか。そう思っていたのに。それを思えば思うほど自分が抱えている感情を裏付けることになる気がしてならない。
「………好きだ、二郎」
叫ぶでも泣くでもなく、一郎は静かに呟いて、それから二郎に顔を近づけ少しだけその落ち着いた表情を眺めてからカサついた唇に口をつけたのだった。
2024.11.22