100日後にくっつくいちじろ94日目
「はあー……」
風呂上がり、二郎は洗面所で髪を乾かしていた。普段はまだ濡れていても面倒になってチャチャっと生乾きで終わらせることもあるのだが、最近は風邪が流行っているのでしっかりと時間をかけている。ブワー、と風が二郎の髪を持ち上げる音が響く中でも分かるくらい、二郎のクソデカため息が洗面所に響いた。
「おー、二郎。洗濯物入れたか?」
「あ、うん。入れた」
そこへやってきた洗濯当番の一郎。洗濯機の蓋を開けて洗剤を投入していく。その横で二郎は、またも無意識にため息を吐いた。柔軟剤を投入しようとしていた一郎が手を止めて振り返る。
「どうした、デカいため息」
「え?なんて?」
ドライヤーの音で兄の声が聞き取れず、スイッチを一度切る。すると一郎は再び「いや、ため息ついてたから。どうした?って」と疑問を口にした。ああ、と影を落として再びドライヤーのスイッチを入れる二郎。
「やっぱ、寂しくて」
大きめの声で言えば、聞き取れたらしい一郎が「ああ、ハチか」と呟いた。
まあ、それはそうだろうな。一郎はそう思いながら柔軟剤を適量、投下する。消臭用の粉末をカップに入れながら、ハチとじゃれる二郎をぼんやり思い出す。うちで何度か動物を預かったことはあるが、これだけ長い期間、一緒にいた奴はいなかった。ハチはよく二郎に懐いていたし、二郎もハチのことをほぼ家族のように接していた。一緒にコタツに入ったり、一緒に居眠りしたり。
ちらりと二郎を横目で見ると、あからさまにしょげた表情。髪がようやく乾いたのか、はあ、と小さくため息をつつスイッチを切った。くるくるとコードを巻く二郎。しょぼくれて丸まったその背中に、一郎はどうにか励まそうと言葉を選んで口を開いた。
「俺で我慢しろよ。なっ?」
しーん……静まり返る洗面所。
二郎はドライヤーを引き出しにしまおうとした体制のまま固まった。ピッ、と一郎が押した洗濯機のスイッチの電子音だけが響く。
「え?」
……真顔で聞き返すな。
一郎は内心で後悔していた。いや、普通に冗談じゃん。元気を出してもらうための軽口というか、そういうのだろ。弟の反応に居た堪れなくなってきた一郎。ジャーっと洗濯機に水が溜まる音。
「え、もう一回言って」
「もう一度は言わない」
「俺で我慢しろって言った?」
「聞こえてんじゃねえか」
「聞き間違いかと」
引っ込みがつかなくなってしまった。くそ、言わなきゃ良かった。普通に「元気出せよ」とかそういう無難な兄貴っぽい慰めの言葉をスマートにかけてやればよかった。どうして茶目っけを出してしまったのだろうか。じわじわと羞恥心が足のつま先から上がってくるのを感じる。
「………いちろー」
ふと、二郎が普段と違う呼び方で兄を呼んだ。ハ?と振り向くと、二郎は、じっと一郎を見つめて、ちちち、と猫を呼ぶように舌を鳴らした。……こ、こいつ!
「おいで、いちろー」
「………」
「ハチはこうすると来てくれたのに」
元カレと比較する面倒くさい彼女のようなことを言い出す二郎。俺をおちょくるとはいい度胸だ。しかし、強く突っぱねられないのが惚れた弱みというやつだろう。一郎は、ぐっと眉間に皺を寄せ、ずいっと一歩踏み出し二郎に近寄った。すると二郎は少し嬉しそうにして、一郎の顎の下を、こちょこちょと首でくすぐった。
「ウワッ!くすぐってえよ!やめろ!」
「ハハッ、喜ばないなあ、この猫は」
楽しそうに、やっと二郎が笑った。調子に乗るな、と頭を小突くと、尚も笑いながら二郎が言ったのだった。
「仕方ないな、兄貴で我慢するか」
少しは元気が出たようで、良かった。一郎は胸を撫で下ろした。
2025.1.30