C 流川楓に恋人がいるらしい。
そんな噂が立ったのは、彼がNBAでようやく二期目を迎えたころだった。高校卒業と同時にアメリカにバスケ留学を叶えたころには、彼はすでに有名になりつつあった。
並外れた身体能力と努力によって培われた華のあるプレイもさることながら、どうしても世間が注目するのはその美貌だ。一九〇センチを超える長身、筋肉をまとってもなお細長い手足、そして濃い睫毛に縁取られた切れ長の瞳。留学中の様子をとある番組が数分取り上げただけで、瞬く間に世間での認知度が上昇した。
雑誌やテレビの取材や出演依頼も殺到したが、本人はバスケ以外で有名になることに微塵も興味がなく、寡黙な性格も相まってほとんど露出してこなかった。
需要に対してあまりに供給の少ない現状をなんとかすべく、各メディアは流川のいるポートランドにパパラッチを送りこんだ。有名人も多く住むオシャレな街で、彼の恋人の影でも捉えられたら大スクープだ。実際にいなくたって構わない。噂レベルでも十分ニュースになるのだから。
しかし流川ときたら、毎日毎日本当にバスケしかしていなかった。外に出るのは朝のランニングかチームの練習、トレーニング、そして試合や遠征に行くときがほとんど。訪ねてくる者といえば同じアメリカでバスケをしている仲間か、日本でバスケをしている仲間たちばかり。つまり、バスケ以外の要素がまったくないのだ。
しかし、そんな彼でも買物やらの用事でショッピングモールに出かけるときがある。恋人の噂は、そんな日の様子を写した一枚の写真から始まった。
そこはポートランドの中でも比較的裕福な住民が行くモールで、少し高めのチョコレート屋やファッションブランドが入っている。その中で人気のインテリアショップに入っていったところを捉えたものだ。流川がシンプルなデザインのマグカップを二つ手に持っている。
それだけのことだ。だが、そこに添えられた文章を読むと、ぐっとそれっぽく見えてくる。
──珍しくショッピングを楽しむ流川選手。吟味して選んだ二人分のコップは日本からやってくる恋人のためか?いつもポーカーフェイスを崩さない彼が、ほほえんでいるようにも見える。このあとも、寝具コーナーでベッドカバーやシーツなどを見ていたようだ。普段ファッションなどに無頓着と言われているが、恋人のためにインテリアを整えている様子がうかがえる。それほど真剣な交際をするお相手ということだろうか……?
この写真と文章は、「NBA流川選手、熱愛恋人発覚か」という見出しとともに週刊誌の特集ページを飾った。望遠レンズで撮った流川の写真を載せたその号は、ファンの女性たちがこぞって購入したため、かつてない売上部数を叩き出した。相手が誰なのかはさまざまな憶測が流れたものの、結局はどれも可能性が薄かった。
ちなみにこのとき、NBAの先輩である沢北がSNSで「幸せいっぱいだな、流川」とつぶやいたせいで、やはり恋人がいるのだろうという信憑性が高まった。あとで彼は、宮城や桜木といった在米のバスケ仲間から「余計なこと言うんじゃねーよ」「オメーは黙ってろ」と責め立てられたらしい。
チームがオフシーズンに突入してすぐのころ、ようやく流川の家を訪ねてきた者がいた。高校のときの先輩だという三井寿だ。彼自身もプロのバスケ選手で、Bリーグではかなり人気がある。
せっかくカメラを構えたので、パパラッチたちは流川と歩く三井の様子も写真に収めた。二人は仲がいいようで、再会を喜んでいる様子がレンズ越しにも伝わってきた。三井もくっきり二重の爽やかイケメンだから、流川と並ぶといい絵が撮れる。しかしスクープにはならなそうだった。
その後も、連れ立って出かけるところがよく目撃された。ポートランドには広大な公園もあるし、ダウンタウンに行けばオーガニックレストランやハンドドリップのコーヒー屋もある。
そんなポートランドをこれまで一切楽しむそぶりのなかった流川だが、三井とはあちこち出かけていった。三井はいろいろと楽しむタイプなのだろう。先輩とはいえ、流川はよくつき合っていた。
だがパパラッチたちも気づいてはいた。ケールたっぷりのサラダを微妙な顔でつついたり、シングルオリジンコーヒーを品評したり、そうしながらあれこれしゃべる三井に(話すのはいつも三井だ)、流川が柔らかい視線を向けていることに。それは、もしかしたらあのマグカップを選んだときの表情と似ていたかもしれない。だとしたら、あれは三井のために買ったということになる。
やはりスクープは幻だったのだ。そのことに彼らは少し失望したが、それでもあの流川がうれしそうにしているのだから、それでいいかとも思った。なにしろ、どんな美女にアプローチされても、テレビ番組でどれほど褒め称えられても、微塵もうれしくも楽しくもなさそうな彼なのだ。バスケに人生を捧げているとはいえ、私生活は幸せなのかと心配になる。
だから、こんなに長い間一緒に過ごして笑い合える相手がいて、安心すらするというものだ。有名人の孤独な日常すらもゴシップに仕立て上げる彼らだが、あまりに若くあまりにピュアな流川のことは、さすがにそうできなかった。
おそらく、彼らがそう感じるようになったもう一つの理由は三井だ。
「今日もお疲れさま!」
三井はよく彼らに声をかけてくる。カメラ嫌いの流川がいないときは特にそうだ。
「ネタにならなくてすんませんね」
そんなふうに笑っている。それが本当に屈託がなくて、つい彼らも挨拶を返すようになったというわけだ。「男性に人気のBリーガーランキング」「Bリーガーが選ぶ好きな選手ランキング」でしばしば一位を取ってしまうのもうなずける。相手を選ばずに極上の笑顔を向けてくれるのだ。
「今日はどちらに?」
パパラッチが声をかければ、「天気がいいんでバスケをしに」「渓谷の方まで」と教えてくれることもある。しかし、そのたびに流川が険しい目をして彼らをにらむので、みな彼のいないときに話しかけるようになった。
ある雨の降った肌寒い日、流川は早朝からチームの用事で出かけていた。三井は午前も早いうちに傘を差して外へ出てくる。
「今日は一人ですか」
さっそくパパラッチの一人が道の反対側から尋ねる。すると三井は軽く会釈をした。
「コーヒー買いに行こうと思って」
そして長い足でスタスタと歩いて行った。ニ、三ブロック先には有名なロースタリーがある。焙煎した豆の香りが漂うその店で、三井はよくコーヒーを買っていた。
ポートランドはアメリカの都市にしてはブロックが小さめに設計されており、徒歩でも移動がしやすい。あいにくの雨だが、三井は気にしていないようだった。
しかし早朝から張っていたパパラッチたちには冷たい雨だった。流川のことをいつまでも待っていても仕方がないし、今日は切り上げようかと考え始める。
すると、しばらくしてまた三井の姿が道の向こうに見えた。この数週間で顔見知りになった近所の住民となにやら笑い合っている。観察している限りたいして英語はできないようだが、彼のコミュニケーション力はなかなかのものだ。やはり笑顔と、物おじしないところがいいのだろう。
話が終わると、三井はパパラッチたちのいる方へ道を渡ってきた。手には大きな紙袋を持っている。
「仕事お疲れさまっす。よかったらこれ」
そう言って、袋からホットコーヒーがなみなみ入ったカップを渡す。パパラッチたちは戸惑いつつ、礼を言ってそれを受け取った。基本的にセレブに嫌がられる仕事をして、ものを投げつけられることはあっても、こんなふうにコーヒーを差し出されたような経験はない。
驚いている彼らに、三井は照れたように笑い、家に向かってまた道を渡っていった。
その背中に、一人が声をかけた。
「流川選手って恋人とかいるんですか?」
三井は一瞬歩みを止めた。そして、ゆっくりと振り返ってこう言った。
「内緒、です」
どこかいたずらっぽい、くすぐったいような顔をしていた。
そんなこともあってパパラッチたちの三井への好感度が高まり、彼らが日本のメディアに送る写真は流川と三井のツーショットが増えた。
「こういうのじゃなくて、女との写真がほしいんだよ」
メディア側はそう言ったが、撮れないものは仕方がない。三井の滞在中、流川は彼とばかり過ごしていたのだから。
ある晴れた日の夕方。昼間どこかへ出かけていた彼らは、帰ってきて休む間もなく近くの公園でバスケをしていた。高校時代から数えきれないほどやってきたのだろう。相手の手の内は知り尽くした様子で、しかし初めてのようにひたむきに、楽しそうに繰り返す。
やがて疲れてコートのはしに座りこんだ三井の横に、流川が腰を下ろす。パパラッチからは二人の背中しか見えないし、なにを話しているのかも聞こえないが、ずいぶんと親密な様子だ。いくら仲がいいとはいえ、ここまでずっと一緒にいて飽きないものだろうか。実際、飽きるどころか二人は熱心に互いの目を見て話している。
流川が三井の耳元に顔を寄せてなにか囁いた。三井は驚いたようにあとずさって、少し強い口調で言葉を返す。
ちらり、と流川が背後に視線を向けた。すっと目を細め、恐ろしく冷たい眼差しでパパラッチたちを見る。
それから、自分のタオルを三井の頭にかけた。なにするんだ、と三井は言っているのだろう。抗議している様子だがそれに構わず、流川が彼にまた顔を近づけた。
しん、と不意に辺りが静かになった。
タオルの陰になって、パパラッチたちからは彼らがなにをしているか見えない。大切な話をしているのかもしれない。単にふざけあっているのかもしれない。だが、ほんのわずかな間、身じろぎもせず顔を寄せあった二人はまるで。
夕方の少し冷たい風が通り抜けた。ポートランドの豊かな森林の間を通り抜け、シダの葉を揺らし、海岸へと抜けていく。
きっといい写真になる。スクープとして取り上げてもらえるかはわからないが、喜ぶファンは大勢いるだろう。だが、パパラッチたちは膝の上で抱えていたカメラを持ち上げることができずにいた。
流川の凍るような視線のせいかもしれない。あるいは三井のくすぐったいような笑顔のせいだったかもしれない。いずれにせよ、あの二人は同じものを大切に心の中に抱えていたのだ。
だからこれは、誰にも知られることがなかった。誰の秘密だろうと金に代えてきた彼らだが、この二人のことは、秘密というにはあまりに静かで、深くて。
ただ、ようやく沈んでいく夕日が、あたりのものをすべて黄金色に塗り替えていった。
その後も、パパラッチたちは流川のことを追いかけていた。ようやく女性の影が見えたときは、はりきって仕事をした。
流川と三井を訪ねてきたのは、二人の高校時代のバスケ部マネージャーだった女性だ。流川とは中学からの知り合いらしく、なかなかいいネタになりそうだ。
しかし、流川と二人きりになるシーンは一切なく、観光も食事も常に三人で行動していた。仕方がないので、三井が買物で支払いをしている隙を狙い、流川と彼女が二人で並んでいるところをようやくカメラに収めた。
これを雇い主のメディアに送ったところ、大喜びでスクープに仕立て上げてくれた。元マネージャーという女性はなかなか美人だったし、流川とも距離が近いのがよかった。
その後、同じNBA選手の宮城から流川に涙の抗議が入ったらしい。彼女は宮城と二人で歩いているところを目撃されていたから、こちらの方が可能性は高そうだ。
そうして一ヶ月半ほどの滞在ののち、三井は日本に帰っていった。帰る前の日、わざわざアパートメントから出てきて、三井は彼らに挨拶をした。
「日本に帰るんで、お世話になりました……ってのも変だけど」
そう笑ってから、少しだけ真面目な顔になった。
「流川のこと、恋人でっちあげとかは構わないんすけど、変なスキャンダルには巻きこまないでやってください。不器用なやつなんで」
それが仕事なのだが、とパパラッチたちは少し言葉に詰まった。
じゃ、とまた道を渡っていこうとする三井に、一人がもう一度質問した。
「流川さんの恋人って誰なんですか?」
恋人がいるか、ではない。三井は足を止めずに、肩越しにちらりと視線を流した。
「内緒」
そうしてすぐに前を向き、歩み去っていく。
ただ、彼の柔らかくて優しい声の余韻だけが、風とともにそこに舞っていた。